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喫茶ファカン(後編)

「マカンくん、ベース片付けてきてもらえるかい?」

「はい、御影先生」

 その日ザウは、体育教師の御影紫緒を手伝って、男子体育の授業の補助をしていた。

 人数の少ない薫風学園では体育は学年合同で行う。今日の種目は野球だった。土埃を払って、ザウは体育倉庫に向かった。

 生徒数の割に設備が整っている薫風学園の体育倉庫は広い。

 ーーベース置き場はどこだったか。

 ザウはてきとうな扉を開いた。

 そして、持っていたベースを落とした。

「うわっ!?」

 倉庫の一室に、人がいたのだ。

 しかも、女の子がーー下着姿で。

 彼女の足にザウが落としたベースが当たり、彼女はザウの方に倒れ込んだ。ザウはとっさに彼女を支えた。彼女の長い髪がザウの手の甲に触れる。

 着替えていたらしい彼女は見事にフリーズしている。ザウは慌ててベースを拾い集めて、扉を閉じた。

 そのまま近くの壁に体を預ける。

 ーーやってしまった。女性の素肌を見てしまった上に、触れてしまうなんて。

 しかも、彼女の肌には、無数の傷痕があった。一体どんな過去を背負っているだろうか。

 ザウは瞳を閉じた。

 ーーなんにせよ、仕方がない。

 しばらくして、彼女が扉を開けた。彼女の服装はまるで男のようだった。

「なんだ。まだいたのか」

 ザウはその少女ーー人種の違うザウの目からすれば、彼女の性別ははっきりいって不明だがーーに頭を下げた。

「すまなかった。結婚しよう」

「はぁ!?」

 名前も知らない少女は、すっとんきょうな声を上げた。




 ここは梔子島。忘れ人と呼ばれる、前世の記憶を残す人々が、通う薫風学園のある孤島である。前世の願いを忘れられない存在が、新しい人生を歩む道を見つける場所として、設立された。

 ザウ=アル=マカンは薫風学園特別学年に在籍する生徒である。特別学年とは、高校3年間の間に前世の願いを思い出せなかった生徒たちが在籍する学年である。大抵の生徒は教師や下級生のサポートをしつつ数年在籍した後に「願い」を思い出す。もっともザウの場合、祖国で高校を卒業した後に忘れ人であることが判明し、特別学年に転入した例外であるが。

「だから俺は女子更衣室が狭かったからここで着替えてただけだっつーの!触られたくらいで結婚なんかしねぇよ!」

 彼女ーー2-B所属の、百目鬼(どうめき) 龍月(るる)というらしいーーは、長い髪を揺らして抗議した。

「しかし、私はイスラム教徒として責任を取らなければならない」

 そう。ザウはイスラム教徒だ。親族以外の女性の髪や身体に触れてはならない。うっかり触れてしまったらどうするか。ーー親族になればいい、のである。

「俺はイスラム教徒じゃねぇよ!」

「だが」

「俺がいいっつってんだろ!?」

「一体どうしたんだい?」

 ザウの戻りが遅いことを心配したのだろう、御影が現れる。事のあらましを聞いて、御影は苦笑した。

「……なるほど。それは困ったね」

「困るも何もあるか!ただの迷惑だ!」

「私はイスラム教徒として女性の誇りを守らなければならない」

「まぁまぁ、2人とも。お互いに理解し合うしかないよ。言いたいことは沢山あるだろうから、2人で1つ1つ話していくといい。2人とも、自己中心的になっちゃいけないよ。相手の話をよく聞くんだ」

「……」

「……」

「わかったね?」

 笑顔の御影の圧力に、2人は屈した。

「……ハイハイ」

「……わかりました」

「じゃ、とりあえず百目鬼さんは教室に戻ろうか。次の授業が始まるよ」

「はぁい」

「マカンくんはこっち。とんぼかけ手伝ってね」

「……はい」

 それが、ザウと龍月の出会いだった。




 授業が終わって、龍月は教室の窓を開けた。5月の梔子島には爽やかな風が吹いている。

 校庭で、ザウが花壇の世話をしている。美化委員なのだろう。身長が高い外国人だ、よく目立つ。褐色の肌が日に当たって輝いて見えた。

 ーー真面目なヤツ。

 ふと、ザウがこちらを見上げてきた。視線が合う。

 ひらり、と。

 ザウが手を振ってきた。

 なぜだか心臓が跳ね上がって、龍月は慌てて窓を閉めた。

「……ってな感じでよ。なんかよくわかんねーから、とりあえず先生の言う通り話でもしてみようと思ったわけ」

 喫茶ファカンのカウンターに座って、龍月は女主人ヌザートにザウとの関わりの全てを話した。ちょうど食事時でもおやつ時でもない時間帯、他に客はいなかった。

「あらあら」

 龍月の話を聞いて、ヌザートは朗らかに微笑んだ。

「それで、どうしてうちへ?お話しするだけなら、普通に声をかければいいじゃない?」

 龍月は頭をかいた。

「いや……その、なんだ。アンタもイスラム教徒なんだろ?ちょっと位、情報仕入れてからにしようかと思って」

「そうなの」

 ヌザートは微笑んだ。恋愛話が嫌いな女はいない。

「そうねぇ。同じイスラム教徒同士なら結婚は正しい道だと思うけど、日本人には急すぎる話よね。混乱するのも当然だと思うわ」

「だろ!?迷惑な話だぜ」

「でも、あなたは彼とお話しする気になったんでしょ??」

 突然の来客が、2人の会話に混ざってきた。背は高く、声も低い。が、口調と服装は女性のものだ。

「あら、朱璃(しゅり)ちゃん」

「こんにっちは〜ヌザート先輩♪」

 ヌザートはごく普通に朱璃を受け入れた。どうやら知り合いらしい。

「聞いたわよ!結婚申し込まれるなんてステキね!」

 朱璃が興奮した様子で龍月の手を取る。

「だからそれはアイツが妙にマジメなだけで!お互いのことなんも知らねーのに結婚とか頭おかしいだろ!?」

「あら、お互いのことなんて永遠に分からないものよ。夫婦だろうとお友達だろうと、相手に合わせてお互いに調整していくものよ?」

 龍月は顔を赤くして叫んだ。

「……っけど!俺のことなんて知ったら幻滅するに決まってる!」

 ヌザートと朱璃は視線を交わした。

「あらあら」

「うふふ」

「な、なんだよ……?」

 2人を見上げる龍月に、朱璃は薔薇のヘアピンを差し出した。

「これ。売り物のつもりだったけど、あなたにあげるわ」

「な、こんな、カワイイの!俺には……似合わねえよ」

 朱璃は微笑んだ。

「そんなことないわ?恋する乙女のお守りよ」

「なっ!恋する、乙女ぇ!?」

「じゃあ私からはこれ」

 ヌザートはバクラヴァを2つ、ラッピングした。

「日本の文化とイスラムの文化の違いにびっくりするでしょうけど、同じ人間よ。ちゃんと向き合えば、分かり合えるわ」

「その通りよ」

 2人の大人に背を押されて、龍月は渋々店を出た。




 寮監に呼び出されたザウは、男子寮に来た龍月を見下ろした。青みを帯びた白銀色の髪に、赤い薔薇のヘアピンが光っている。

「……女性が男子寮に来るなんて、あまり褒められたことではないな」

「だから寮監通して呼んだんだろうが。共用スペース行くぞ」

 今日のカフェテリアで、2人は向かい合って座った。

「何か用か?」

 ザウの問いかけに、龍月は顔をしかめた。

「先生が話せ、って言ってただろ。だから、話に来た」

「そうか」

 素直な子だ、とザウは思った。

 龍月はバクラヴァを取り出した。

「ーーそれは」

 龍月は視線を逸らしていたので、ザウの動揺に気付かなかった。

「経済区の、ほら、何とかってイスラム教徒のカフェがあるだろ。行ってきた。あんたらイスラム教徒は、食いもんとか色々決まりがあんだろ?」

「……ああ。ありがとう」

 ザウはなんとか微笑んだ。そのカフェの女主人は、ザウの前世の妹で、妻だった。そのことに、龍月は気付いていない。

「なぁ、あんたらイスラム教徒の考えは俺には分からない。俺の考えることだって、あんたにはわかんねーことの方が多いと思う。……けど、なんだ」

「何だ?」

「なんだ、その……分かろうと、努力することはできると思うんだ」

「ああ」

「だからっ!」

「だから?」

「と、友達から始めようぜ……」

「トモダチ?」

 ともだち。友達。ザウは混乱した。

「な、なんだよ」

「……いや、その。女性の……友達というものが、想像できなくて」

 龍月は吐き出した。

「なんだそりゃ。童貞かよ」

「ああ。そうだが?」

 ザウはためらいなく返答した。婚前交渉は禁止されている。

 今度は龍月が目を白黒させた。

「そ、そうかよ」

「ああ。いや、前世を含めるとそうでもないが」

「それはノーカンでいい」

「そうか」

「……なんか、面白いな、アンタ。LINEぐらい交換しようぜ」

「いいのか?」

「ああ。話すにもちょうどいいだろ」

「……そうだな。君がそれを望むなら」

 2人は連絡先を交換した。

「食おうぜ」

 龍月はバクラヴァに口を付けた。

「甘いな」

「イスラムの菓子は甘い」

 ザウも、バクラヴァに口を付けた。それは間違いなく、かつての妹であり妻である人の味だった。

 ……だが。

 ……だが、不思議と。

 以前店で食べた時ほどの、悔恨は襲ってこなかった。

 それは、新たに直面した問題が大きかったからかもしれないし、龍月の存在がザウを変えつつあったのかもしれない。

 いずれにせよ、人は過去に捕われては生きていけない。未来に向かって、進んでいかなければならないのだ。

 ザウとて、まだ未来ある青年なのだから。




 ……end.

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