喫茶ファカン(前編)
ーーハラル認証カフェ、ファカン
企業のオフィスが立ち並ぶビル街の片隅。入江に面したかわいらしい建物に、小さな看板が出ていた。
「ここか?」
「ここだな」
体育祭の打ち上げに、薫風学園特別学年の面々はカフェを訪れていた。
先頭を切ってドアを開けたのは、ザウ=アル=マカン。イスラム教徒であり、彼のためにこの店が打ち上げの場所に選ばれたと言ってもいい。
「いらっしゃいませ。予約していただいてる薫風学園特別学年の皆様ね?」
たおやかな声が響いて、女主人が現れる。彼女と顔を合わせて、ザウは思わず扉を閉めた。
ここは梔子島。忘れ人と呼ばれる、前世の記憶を残す人々が、通う薫風学園のある孤島である。前世の願いを忘れられない存在が、新しい人生を歩む道を見つける場所として、設立された。
5/25、そんな学園のある梔子島に、特別試験エリア(SEA)がオープンする。忘れ人ではない、一般市民たちが暮らすエリアだ。商業施設や企業が立ち並ぶ経済区、一般住民が住む住居区、そしてそれらを管理しつつ、様々な研究が行われるらしい管理区。
体育祭が終わった薫風学園の掲示板には、様々な商業施設のビラが貼られるようになった。そんな中、ザウは気になるビラを見つけた。
ハラル認証カフェ、ファカンーー5/25営業開始。美味しい紅茶とコーヒー、イスラムのスイーツで、あなたに安らぎのひと時を。
イスラム教徒のザウ=アル=マカンにとって、ハラルーー神に許された食事は、生活に欠かせない。学園の食堂は日本式であり、ハラル化されていないため、ザウは弁当を毎食食べている。内容に不満はないが、たまには他のものも食べたくなるのが人情というものだ。ましてや、日本では滅多に見かけない故郷の甘味を食べられるとなれば、尚更気になる。たまに、クルミのパイとデーツの蜂蜜揚げを山ほど食べたくなるのだ。
だからザウは、体育祭の打ち上げと称して、特別学年の同級生たちとそのカフェに行くのを心待ちにしていたのだ。
ーーそれなのに。
「ya 'iilhi...」
思わず母語が出てくる。
ばっちり思い出した。薄ぼんやりと、そんな事もあったなぁと聞いた話のような気がしていた記憶が、実態を伴った。
「どうしまシタ?」
後ろにいた同級生の哀川が話しかけてくる。
「いや……」
「前世絡みデスか?」
哀川のカンの良さに反吐が出そうだ。
「まぁ、な。大丈夫だ」
ザウはもう一度、扉を開いた。
すぐそばまで来ていた女主人が微笑む。
「ごめんなさい、ドアが硬かったかしら?」
ーーああ。やはり。
「いえ、問題ありませんよ」
ザウは微笑みの形に顔を取り繕って、同級生たちを店内に通した。
「おおーすげー!めっちゃ海見える!」
「オレ窓際!」
「まさに異文化って感じね」
盛り上がる同級生たちをよそに、女主人の顔を盗み見る。あの赤と青の瞳。そんなオッドアイがそう何人もいるだろうか。
ーー彼女は、前世で、俺が愛した。
ーー妻であり、異母妹。
イスラム教徒は、日常生活であらゆる行為が創造主アッラーの望まれる行いかどうかを意識しながら生活する。アラーに対する信仰の証しとして行うべき行動はワージブ(義務)と呼ばれ、行わないことによって信仰の表明をする行動がハラーム(禁止)となる。ワージブほど強くはないが、許されたものはハラルと呼ばれる。
兄妹での姦通はハラームだ。自業自得で地獄行きが確定する。知らなかった事とはいえ、知ってすぐ離婚したとはいえ、罪は罪だ。
ザウは、忘れ人として前世の記憶がある。本来イスラム教の考えではあり得ないことだ。死んだら最期の審判で天国か地獄に振り分けられる。それがイスラムの世界観だ。だからこそザウは、この転生こそが、前世の償いなのだろうと考えていた。
当然、いずれ罰が下るのだろう、と覚悟して生きている。妹も、会うことはないだろうが同じだ、と思っていた。
だが。
これはどういうことだ。
このカフェの女主人ーー妹に、似ているだけなのだろうか。
「へぇ、名前ヌザート=アル=ザマンって言うの?時の輝きって意味?すごいね」
特別学年の一人、太晴が女主人と話している。
ザウは頭を抱えた。
名前まで同じだ。
「ヌザートさん、メニュー全部頼むぜ!」
「2個ずつで〜」
「あらあら、お飲み物はどうします?」
同級生たちは楽しそうに注文を始めている。
ヌザートはザウの事を気にしている様子はない。
「顔色が悪いデスね?」
哀川が話しかけてくる。ザウはうなずいた。
「……ああ」
「寮に戻ってから聞きまショウ。今は、この場を楽しむことデス」
それができたら苦労しない、と内心で反論したが、ザウはただうなずいた。
「乾杯!!」
参加者は、哀川、えにし、長田、ザウ、九石、揃目、太晴、妬々原、帆影、ゆかり、宵、六花先生の12人。小さなカフェはほぼ満席だ。
カフェだけあって軽食と甘いもの、ソフトドリンクのみだが、打ち上げは十分盛り上がった。
「仮装レースのりっかちゃん面白かったよな!いきなりずっこけるしw」
「咲幸が頑張って作った衣装が土まみれになったんです!!」
「それはごめん。ほんとごめん……だけどあたし運動できないの!」
「ホーンテッドマンションの制服と花嫁合わせる案は良かったやろ?」
「作った方が凄いネ」
体育祭の話で盛り上がるグループ。
「へぇ、全部手作りなの?すごいね」
「この……バクラヴァってパイ?すごく美味しい」
「レシピ教えてもらえないかな?」
「紅茶も色々あるんだね」
「酒はないのか?」
ヌザートを囲んで、口説いているのか喋っているだけなのかよくわからないグループ。
そして。
黙ってコーヒーを口に運ぶ、ザウと哀川。
ザウはバクラヴァーークルミのパイを口に運んだ。
懐かしい味だ。
故郷の味、という意味ではない。昔、今の生が始まるより前に、食べ慣れた味。かつての、妻の味。
それは甘い甘い、罪の味。
「わかりまセンね」
その晩、ザウの話ーーというより懺悔ーーを、哀川は一蹴した。
「愛しい人ならば連れ添えばいいのデス。宗教?捨てればいいのデス。周りの目?知った事ではありまセン。ワタクシならそうしマス」
聞いてほしい、というより吐き出したかっただけのザウは、静かに反論した。
「……良きイスラム教徒であることは私の誇りだ」
「ワタクシは無神論者なのでわかりまセン」
哀川はひたすらに愛情深かった。
「アッラーフ・アクバル……」
「日本語でお願いしマス」
「おお神よ……」
「アナタ、真面目デスね」
哀川はザウの肩を叩いた。
「日本史上では異母兄妹の婚姻は別に悪いことではありまセン。……古代エジプトなどでは、同じ両親から生まれたきょうだいで結婚することも珍しくなカッタとか。全ては価値観デス」
「……私はイスラム教徒だ」
「マァ、忘れ人は皆なにがしかの過去があるものデス」
そう言い残して、哀川は去っていった。
「この苦しみが、アラーのご意志ならば」
ザウは呟いた。
「なぜヌザートには与えられない……?」
アッラーフ・アクバル。ザウは祈りを捧げた。これこそが試練なのだ。信仰だけは、揺らがせてはならない。
ヌザートは忘れ人保護委員会の一員だ。経済区でのカフェの女主人は、梔子島に住む口実でしかない。
とはいえヌザートの序列は末席に近く、保護委員会に入ったのも父の口添えがあってだ。もちろん忘れ人に対して偏見はない。
同じ人だ、と思う。
今日来た特別学年の先生と生徒たちも、普通の学生たちと何ら変わらないように思えた。
だが、仕事は仕事だ。
ヌザートは店の監視カメラの映像を抜き、保護委員会の上司に送付した。
……end?