海の罠
廊下を歩いていた志帆は、ふと足を止めた。
何やら騒がしい。
隣を見上げると、雄哉が渋い顔になっていた。
「……何かあったのかしら」
「PCのクズ野郎だ」
「PC?知り合いにゃ?」
由愛が首を傾げる。志帆と雄哉は嫌々ながら頷いた。
「高階の家のイギリスの親族なんだが、金と権力にモノを言わせてやりたい放題やってる、カネを稼ぐことしか考えてないバカだよ」
「お金を稼ぐことが悪いことにゃ?」
由愛の言葉に、志帆と雄哉は顔を見合わせた。
「……お金を稼ぐこと自体は悪いことじゃないけど」
「PCの場合、方法がな。周りの人を傷つけてでも、自分が儲かりゃいいって思ってやがる」
「……にゃー。困ったさんだにゃー」
雄哉は騒ぎの輪に入っていった。
しばらくして、金髪に眼鏡の少年の襟元を引っ掴んで、雄哉は戻ってきた。
「からまれてたの、一年の桐山ちゃんだったぞ。お嬢様、知り合いじゃないのか」
「嘘っ」
志帆は人混みに入り込んだ。
「琴葉ちゃん!」
「志帆ちゃん!?」
桐山琴葉。志帆と同じクラス、同じくお嬢様でもある。和装がよく似合う快活な少女で、今度志帆と一緒に呉服屋に行く約束をしている。
「大丈夫だった?ピーターに悪いことされなかった?」
「悪いことされたのはこっちだ!」
金髪の少年ーーピーター・カーライル、PCが叫ぶ。
「こっちは桐山家に融資をいただけないか交渉していただけなのに、そいつは殴りかかってきたんだぞ!?謝罪と賠償を要求する!」
「私はそんな話してないし、あなたの言うことに応じるつもりもないから!もちろん嘘の慰謝料もね!」
PCに飛びかかりそうになった琴葉を志帆が抑える。
「桐山家のお嬢さんにまで巻き込むんじゃねぇよ」
雄哉はPCの襟元を引っ張った。シャツで首が締まって、PCは呻き声を出した。
「大した忠犬ぶりだなぁ明光院ン!学生生活返納してまで主人に仕える、そういうところ嫌いじゃないぜぇ……!」
「お前に好かれたかねぇよ」
雄哉はPCを床に突き飛ばした。
ぐぇ、とPCがカエルが潰れたような声を上げる。
「琴葉ちゃん、ピーターには構わないで。行きましょ」
志帆は琴葉の手を引いてその場を離れた。由愛もそれに付いていく。
雄哉はしゃがみ込んで、PCを見下ろした。
「うちのお嬢様に手ェ出したらタダじゃ済まさねぇからな。覚えておけよPC」
ふひひ、とPCは笑った。
「明光院、お前こそこの僕にこんなことしてタダで済むと思ってるのかい?大切なお嬢様と愛しい彼女、どっちを守るか考えておきなよ」
「あ゛?」
雄哉はもう一度PCの襟元をつかもうとしたが、PCは素早く逃げ出した。
「……チッ」
雄哉は舌打ちだけして、その場を離れた。
高階 志帆は、ここ薫風学園の一年生だ。同じく一年の雉羽 由愛と出会い、前世を思い出した。
ここ薫風学園は、忘れ人と呼ばれる、前世の記憶を残す人々が、通う学校。前世の願いを忘れられない存在が、新しい人生を歩む道を見つける場所。
志帆は遊女として生きた苦しい前世を思い出したが、飼っていた猫である由愛の存在も思い出した。志帆と共に生きるために生まれ変わってくれた由愛のお陰で、志帆は前に進む勇気を持てた。
明光院 雄哉は、高階家に仕える執事の家系だ。幼い頃から手品が得意で、志帆を喜ばせてきたが、それも前世の影響らしい。学園に入学した頃から白い烏を連れているようになったが、それも前世の因縁らしい。もっとも本人は、前世の影響を受けるつもりはないらしいが。
「お嬢さん、ケガはないかな?」
雄哉が差し出した手を、琴葉は払った。
「あたし、キザな男は嫌いなの。……でも、ありがと」
そっぽを向いて言われた台詞に、雄哉は破顔した。
「どういたしまして」
志帆は琴葉に頭を下げた。
「ごめんなさい。親戚として謝らせて」
「いいの!」
琴葉は慌てて志帆の手を取った。
「確かに話しかけてきたのはアイツだけど、あたしが途中で殴ったのは事実だし!助けてくれてありがと、ね」
「……うん」
「……にしても、PCのヤツ、最後に妙な捨て台詞吐いていきやがったんだよな」
雄哉はPCの最後の台詞を3人に伝えた。
「志帆ちゃんと彼女のどっちを守るか考えておけ?……妙なこと言うわね」
「にゃー!しほはゆあが守るにゃー!」
「ふふ、ありがと」
抱きしめ合う志帆と由愛にため息をついてみせて、雄哉は言った。
「なんて事はないと思うが、一応、気をつけておいてくれよ」
「はぁい」
もはや由愛しか見えていない志帆に、雄哉はもう一度ため息を吐いた。
ーーーピピピピピッ!
その日の深夜、というか翌日の朝方、スマホの呼び出し音が響いて雄哉は起こされた。
「……もしもし?」
不機嫌な声が出たが、時間が時間だ。多少は許されるだろう。
『オハヨウ、明光院』
聞こえてきた声に、雄哉の意識は一気に覚醒した。
「PC!」
『ハハ、目が覚めたみたいだねぇ。朝の散歩ついでに、時計台まで来てくれよぉ?』
電話は切れた。
パジャマ代わりのTシャツとジャージ姿のまま、雄哉は寮を飛び出した。
並ぶ学園の棟々を通り過ぎ、校舎裏の丘を駆け上る。島の中で最も高いところ建てられた時計台の中を、さらに上る。大時計の上の展望台にたどり着くと、そこにPCはいた。
「早かったねぇ、明光院。兵は拙速を尊ぶ。行動が速いことはいいことだ」
「何を仕掛けた!」
「そう騒ぐなよぉ。ま、見てみろ」
PCが双眼鏡を投げる。受け取った雄哉は、PCが指す海辺の方を見た。海岸、何もない。岩礁……波打ち際に、黒髪の少女が倒れている!
「お嬢様!」
飛び出しかけた雄哉を、PCが止めた。
「落ち着けよ、明光院ン。反対側も、見てみな?」
島の反対側の海岸を見る。同じように、今度は金髪の少女が倒れていた。
「沙羅!!」
「さぁ、もうすぐ満潮の時間だ。早く助けにいかないと、2人とも溺れてしまうねぇ?大切なお嬢様と愛しい彼女、どっちを助けるのかなぁ?」
雄哉はPCに双眼鏡を叩きつけて、走り出した。
時計台から降りながら、雄哉はスマホを開き、千世のアドレスを開いた。電話をかけるが、コール音が鳴るばかりで応答はない。
「クソッ!」
雄哉は時計台を降りた道を、北へ向かった。
北海岸には、金髪の少女ーー雅樂代 沙羅、雄哉の恋人が倒れていた。
睡眠薬でも盛られているのだろう、海水に飲まれていながらぴくりとも動かない。
雄哉はためらいなく海に飛び込んだ。
沙羅の長い髪が岩に挟まれ、沙羅が動けないようにされている。
雄哉は岩に体当たりして倒し、沙羅を引き上げた。
「沙羅!沙羅!!」
頬を叩いても沙羅は目を覚さない。
「クソッ」
保健の授業で習ったばかりの人工呼吸を試すと、沙羅は水を吐いた。
「よし!」
呼吸が戻った沙羅をそこに寝かせて、雄哉はまた走り出した。
南海岸で、由愛は海を見つめていた。
由愛の前世は猫だ。いまでも由愛は自分が猫だと思っている。
だから、水が怖い。
シャワーだって嫌々浴びている。
ましてや、海。
広く深く、そして波がある。
怖い。
でも。
岩礁で、志帆が倒れている。
潮は満ちてきていて、志帆を飲み込んでいる。口元にもう少しで着きそうだ。
志帆がぴくりと動く。
起き上がろうとするが、髪が岩に挟まっていて体が起こせない。
茫洋としたまま、志帆はまた倒れてしまう。その口元は、海水の中だ。ごぼり、と空気が漏れる。
「にゃああああああ!!」
由愛は海に飛び込んだ。
冷たい。絡みつく海水が、ひどく不快だ。
志帆を引き起こし、揺さぶる。
「しほ!しほ!起きるにゃ!」
「……由、愛……?」
志帆がぼんやりと目を開く。
「う、ごほっ、ごほっ!」
志帆は海水を吐いた。
「しほ!」
由愛は志帆に抱きついた。
「痛っ……」
髪を岩に引っ張られて、志帆は顔をしかめた。
ざざぁ、と波が寄せて、2人は思い切り水を被った。
「岩をどけるにゃ!」
由愛が志帆の髪を挟んでいる岩を押す。
「うん!」
志帆も力の入らない腕に無理やり力を込めて、岩を押した。
「……っ!!」
2人の力で押されて、岩はバランスを崩した。ばしゃ、と音を立てて水中を転がった。
数本髪の毛が抜けたが、志帆は立ち上がることができた。
「上がるわよ、由愛!」
「うん!」
2人は防波堤の側まで行ったが、上れそうな場所がない。
「お嬢様!」
と、防波堤の上から雄哉の顔が覗いた。
「雄哉くん!」
「ゆーや!遅いにゃ!」
「悪かった。ほら、上がれ」
雄哉の手に引き上げられて、志帆と由愛は島に上がった。
「はぁ……」
3人は息を吐いた。
3人とも全身がびしょ濡れだ。
ーーーピピピッ!
雄哉のスマホが鳴る。
「もしもーし?」
『明光院センパイッ!なんで置いてくんだよ!ご主人起きないよー!』
「あー、保健室連れてってくれ。俺も行く」
電話をかけてきたのさ、猫屋敷 千世。沙羅の前世の飼い猫だ。
雄哉が沙羅を任せた相手だ。
「ほら、お嬢様。保健室行くぞ」
「大丈夫よ」
「時間差で溺死する場合もあるんだよ。大人しく診てもらえ」
「……わかった。でも、私より沙羅先輩を取ったのね?」
「……そりゃあ」
雄哉は笑った。
「こっちには由愛がいるの、見えてたからな」
志帆は吹き出した。
「とりあえず、今のところ問題はなさそうだ。3人とも、まずはお風呂に入って温まるんだ」
「はい」
養護教諭の春村に言われて、志帆、由愛、雄哉は頷いた。沙羅は保健室のベッドに寝かされている。その側には、千世が付き添っている。
「沙羅は、大丈夫ですか?」
雄哉の言葉に、春村は微笑んだ。
「睡眠薬を盛られたんだろうね。眠っているだけだよ。もうすぐ目覚めると思うよ」
「……そうですか。良かった」
「大丈夫だよ。まずは自分のことを考えるんだ」
「はい」
「じゃあ、温まっておいで」
「はい」
3人は保健室を後にした。
雄哉は口を開いた。
「お嬢様」
「なぁに?」
「申し訳ありませんでした」
雄哉は頭を下げた。
「オレの浅慮で、PCのヤツを暴走させました。危険な目に遭わせて、本当に申し訳ありませんでした」
志帆は笑った。
「雄哉くんのせいじゃないわよ。気にしないで」
「しかし」
「いいの。……カーライルの家には、高階の家から正式に抗議します。だから、雄哉くんは気にしないで」
「……ありがとうございます」
「ほら、寮に着いたわ。それじゃあ雄哉くん、風邪ひかないでね」
「はい。……お嬢様も、気をつけて」
「うん」
雄哉と別れて、女子寮の部屋に戻った志帆は、由愛を抱きしめた。
「しほ?」
「由愛……!ありがとう……!」
「こわかったにゃ?」
「うん……!」
みゃは、と由愛は笑った。
「しほはゆーやの前では立派なご主人様だったにゃ!」
「当たり前よ!それが人に仕えられる者の務めなんだから!」
「でも由愛の前では気を抜くにゃ!」
「うん、うん……!さぁ、お風呂に入るわよ」
「にゃー!お風呂嫌にゃー!」
「さっき海に入ったじゃない!」
志帆は由愛を浴室に引き込んだ。
迅速に風呂を終えて、雄哉は保健室に戻った。
「沙羅!」
「雄哉……?」
目が覚めていた沙羅がゆっくりと上体を起こす。
雄哉は沙羅を抱きしめた。
「悪かった……!」
「……雄哉のせい、じゃないよ」
沙羅は雄哉の背中に腕を回して、頬を寄せた。
「助けてくれて、ありがとう」
雄哉は沙羅をきつく抱き寄せた。
薄笑いを浮かべながら時計台を降りたPCを、迎える人影があった。
「おはよう、カーライルくん」
「……昌壁、先生」
昌壁は彼らしくない影のある笑みを浮かべた。
「君、ちょっと派手に動きすぎ」
昌壁はポケットに入れた手の中で、スイッチを押した。
「ぐぁっ……!?」
PCの首筋に、仕込み針が刺さる。鋭い痛みが走って、PCはうずくまった。
「少しここで、反省するといい」
昌壁はその場を後にした。
声も出せずに痛みに耐えるPCだけが、その場に残された。
...end.