葵上
志帆は副校長室ですねていた。
ーー由愛ったら、まだ来ないの。
志帆は男性が苦手だ。それには、教師や同級生も含まれる。女子寮内ならいくらでも出歩けるが、校舎内では副校長室に通っている。
前世の飼い猫である由愛は志帆の親友で、休み時間には必ず副校長室にやって来る。
そう。前世。この学園に所属する者は、『忘れ人』と呼ばれる、前世を憶えている人間たち。前世で叶えられなかった願いを、忘れられない人間たちが、この学園に集められる。
志帆もそうだ。前世は遊女であることを思い出して、そのトラウマから男性嫌いになった。
由愛は、前世が猫だった。そのせいで、猫耳や猫尻尾が霊感のある人間には見える。身体能力も猫のそれに匹敵する高さだ。知能については、まぁ触れないでおこう。
志帆は立ち上がった。
待っていても来ないなら、自分が行くしかない。
今は昼休み。由愛は教室だろうか。
ゆっくりと副校長室のドアを開け、外に出る。園芸土や古い標本の匂いがする副校長室とは違って、校舎の中はみずみずしい活気にあふれていた。何人かの生徒とすれ違ったが、志帆に気を止める者はいなかった。
ーー1-A、1-A……
教室が並ぶ建物で、一つ一つ教室の番号を確かめていく。由愛のクラスは1-A。志帆のクラスは1-Bだが、クラスに行く前に副校長室に入り浸ることになってしまった。
ーー見つけた。
1-Aの番号がついた教室を覗き込む。
由愛は、いない。
ーーどこ行っちゃったのよ、もう。
ため息を吐いて副校長室に戻ろうとすると、ふと、視線を感じた。
髪を三つ編みにした男子生徒が本を片手に、こちらを見ていた。
何となく、女性のように思えたのはなぜだろう。
ーーダメ。
思い出してはいけない。
志帆は視線を背けた。
「おい!あんた!」
背後から聞こえる声は、間違いなく男性の声。
志帆はその場から逃げ出した。
校舎裏まで逃げた志帆は、いつの間にか謡曲を謡っていた。
「♪今の恨は有りし報い
嗔恚のほむらは
身を焦がす〜」
謡いながら、違和感を覚えていた。
ーーこれは、私の曲じゃない。そもそも、私は謡曲が得意じゃなかった。
では、誰の?
「♪思い知らずや。思ひ知れ。怨めしの心や。あら怨めしの心や」
唇から流れ出す言葉は、志帆の知らない世界。それはきっと前世のーー。
「シャァッ!」
猫が威嚇する声が響いて、志帆ははっとした。
「しほ!」
「由愛!」
探していた姿に、志帆は安堵の息をついた。
「どこに行ってたのよ、もう……」
「ごめんにゃ。ゆうなとお茶してたにゃ。志帆も呼ばれてたにゃ?」
「そ、そうだっけ!?如月さんに悪いことしちゃったわ……」
「気にしないにゃ。早く行くにゃ」
志帆の手を握った由愛はふと、木陰からこちらを見ている人物を見つけた。
「にゃにゃ?」
素早い動作で近付くと、その人物は慌てて身を引いた。
「あ、その、ご、ごめん……」
「誰にゃ?」
「1-Bの萩 悠詩だよ」
「1-Aの雉羽 由愛だにゃ。どうしたにゃ?」
「いや、その、さっきの歌」
「うた?」
「彼女が、歌ってた歌……聞き覚えがあって」
「有名な曲にゃ?由愛は知らないにゃ」
「歌そのもの、というか、歌い方が、気になって」
「うたいかた?」
「うん……聞き覚えがある、というか、凄く、懐かしくて、嬉しいんだ」
「嬉しい?」
遠くから様子を見ていた志帆が、口を挟んだ。ひたすら問い詰める由愛に、あわあわと応じる萩がちょっとかわいそうだったのもある。
「う、うん。多分、前世で、君とつながりがあったんじゃないかと思うんだ……とても大切な人、とか。その歌を聴いていると、心が暖かくなる」
「ないにゃ!」
叫んだのは由愛である。
「しほは由愛のにゃ!」
「あ、う、うん。ごめん……」
由愛の勢いに圧される萩を、志帆はかわいそうに思った。
「ごめんなさい。私、前世の記憶はそれなりに思い出してるけど、あなたのことは憶えないわ」
「そ、そう」
それ以上、うつむいた萩にかけられる言葉を、志帆は持っていなかった。
「如月さんのところ行こう、由愛」
「わかったにゃ!」
萩にあっかんべーをする由愛の頭を軽く叩いて、志帆はその場から立ち去った。
残された萩は、その後姿をじっと見据えていた。
「如月さん!ごめんなさい!」
「志帆ちゃーん、来てくれて良かったぁ」
のんびりと笑う優奈は優しい。由愛が懐くのも当然だ、と思いながら志帆は微笑み返した。
カフェテリアの一角に、紅茶とケーキ。いかにもな女子会が開かれた。
「それでね、霧夜くんがね、」
「ふふふ」
「え〜、何?」
「如月さんってば、さっきから霧夜くんの話ばっかり。仲が良いのね」
「えええ///」
赤面する優奈はかわいらしい。志帆は思わず笑みを浮かべた。
そんな志帆を見下ろす影。
「こんにちは」
どこか女性的な雰囲気が漂う少年が、3人を見下ろしていた。1-Aの教室で志帆と目が合った、彼だ。志帆は浮きそうになる腰を必死で押さえつけた。大丈夫、今は由愛も優奈もいる。
「あ、鶴谷くん」
「美味しそうだね。そっちの子は、はじめましてだよね」
「えっと、はじめまして……高階です」
「僕は鶴谷 弌累。よろしくね」
「よ、よろしく……」
「ところで」
鶴谷の瞳が強く輝いた。
「僕たち、どこかで会ったことないかな?」
「な、ないと思うけど……」
「うん。今世ではないね。でも、前世なら?」
鶴谷が志帆を見つめる。
「♪人の怨の深くして憂き音に泣かせ給ふとも、」
由愛が謡い出した。はっとしたように、鶴谷の視線が志帆から外れた。
「……♪生きて此世にましまさば、水暗き沢辺の蛍の影よりも光る君とぞ契らん」
呟くように謡う鶴谷の瞳は焦点が合っていない。
「つ、鶴谷くん?」
異様な鶴谷の様子に、優奈が怯える。
「な、何の歌?」
「……知らない」
「分からない。でも、多分前世に関わることなんだろうね」
鶴谷の目は異様に輝いている。
「僕は、僕の前世を知りたいんだ。協力してくれないかな?」
鶴谷に連れて行かれた音楽室で、志帆は扇を広げた。すぅ、と鶴谷が息を吸い、謡いだす。志帆は自然に舞い始めていた。
「♪思い知らずや。思ひ知れ。怨めしの心や。あら怨めしの心や。人の怨の深くして憂き音に泣かせ給ふとも、生きて此世にましまさば、水暗き沢辺の蛍の影よりも光る君とぞ契らん」
舞いながら、志帆は泣いていた。
「♪わらわは蓬生の」
「♪もとあらざりし身となりて。葉末の露と消えもせば。それさえ殊に恨めしや。夢にだにかえらぬものを我が契り。昔語になりぬれば。なおも思いは増鏡。その面影も恥かしや。枕に立てるやれ車。うち乗せ隠れゆこうよ。うち乗せ隠れゆこうよ」
謡が終わり、志帆は扇を閉じた。
そして、振り返る。
「悦さん……!」
「麟ちゃん!」
志帆は思い出した。どうして忘れていたのだろう。同じ置屋で、同じように遊女として生きていた2人。悦子ーー鶴谷の謡に合わせて、何度舞ったことだろう。憂き世で身を寄せ合って過ごした。そんな仲だった。
鶴谷は志帆の手を握ろうとして、止めた。音楽室のドアの陰に、人がいた。
「重岡様。丞さん。丞さん……!」
そこにいたのは、萩。鶴谷は萩にすがりついた。呼んだ名は、前世の。
「悦子……!」
萩は鶴谷を抱きしめた。
「また、会えた……!前世では一緒に死ぬしかなかった僕らだけど、今世では一緒に生きられる……!」
鶴谷の手が、萩の背に回された。
「はわわ……」
ついて来ていた優奈が顔を赤くする。
「ね、行こ?邪魔しちゃダメだよ」
「う、うん……」
志帆はうなずいた。由愛に手を引かれて、歩き出す。
歩きながら、志帆は違和感を覚えていた。何か、重岡と悦子ーー萩と鶴谷の関係が、ボタンを掛け違えているような気がする。
end.
鶴谷と志帆の謡は、能『葵上』より。