始まりの日々
入学式の日のことだった。
薫風学園。忘れ人と呼ばれる、『前世を覚えている』人達が通う孤島の学園。『普通の人間ではない』存在を隔離する場所。まるで牢獄のようなそこでも、桜はごく当たり前のように咲いて、花びらを校庭に散らしていた。
私はため息を吐いた。
私には前世の記憶なんてない。
ただ、古い踊りや歌、楽器が得意なだけ。きっと小さい頃に、先生から習ったんだ。
でも周りの大人達は口を揃えて、私を忘れ人だと言う。
そんな古い踊りの型、初めて見た。
そんな古い歌い方、よく知ってたね。
そんな弾き方、現代のやり方じゃないよ。
君には、前世の記憶があるんだ。きっと前世では古典芸能に携わる存在だったんだ。だから、こんなに上手い。
私のことを褒めるようでいて、私の努力を無視するこの言葉達が嫌いだった。私に忘れ人なんてレッテルを貼って、家から追い出そうとする家族が嫌いになった。勿論、この島、この学園だって嫌いだ。
私は普通の人間よ。
それでもこの学園がある孤島に、もう着いてしまった。もう置いていかれてしまった。逃げる道なんてない。
私は仕方なく、制服に袖を通す。正確には、制服っぽく仕立てた私服だ。この学園には、制服はない。だから、通いたかった女子校の制服に似た服を作ってもらった。私はこれを制服にして、せめてもの気休めにする。
桜の花びらの絨毯を踏みしめて、私は校門をくぐった。
突然、背中に衝撃が走った。
誰かに飛びつかれたんだ。
体をひねって後ろを見ると、キジトラ色の猫耳ピクピク動いていた。
「猫耳?」
思わず声に出すと、これもまたキジトラ色の尻尾がピンと立つ。
「りん!!やっと会えた!!」
飛びついてきた小柄な少年が、顔を上げる。青と黄色の猫眼。
そんなことより。
りん。
そう呼ばれたことで、思い出した。
思い出して、しまった。
私の、前世を。
あまりの恐怖、苦痛に全身から力が抜ける。
私はそのまま、意識を失った。
目を覚ますと、白い壁とカーテンに囲まれたベッドに、私は寝かされていた。
「気が付いた?」
白衣の男性が、カーテンをめくって穏やかに話しかけてきた。
多分養護の先生。
でも、今の私には。
「来ないで……!!……うぇっ」
男の人、というだけで。
吐き気を催すほどの恐怖。
私は朝食を全て吐いて、胃液までも吐き尽くした。
えづく私の背中を優しく撫でてくれる女性は、4人目に現れた。養護の先生を追い払って、担任の先生を追い払って、校長先生を追い払って(全員男の人だった)。やっと来てくれた、女の人。
女の人、というだけで私は安心する。
大丈夫、この人は私に酷いことはしない。
「ありがとう、ございます」
なんとかお礼が言える程度までは回復した。
先生は穏やかに微笑んだ。
「いいえ。高階志帆さん」
「はい。……えぇと」
「橘由梨亜よ。この学園の、副校長」
「……橘先生。ありがとうございました」
「……前世を、思い出したのね?」
先生の穏やかなのに確信に満ちた視線から目を逸らして、私はうなずいた。
「はい……私、遊女だったんです」
先生は黙って先を促した。
「嫌だった。辛かった。御座敷の芸は好きだったけど、お酒の相手をするのも、その……夜のことも、怖くてしかたなかった。いくら頑張っても、報われることなんかなくてっ。そんな、こと、いきなり思い出してっ」
涙がこぼれてきた。
「先生、怖い……!私、怖い!!」
私は叫んだ。
橘先生は、優しく私の頭を撫でてくれた。
「大丈夫。今のあなたは、前世のあなたとは違うわ。記憶を取り戻して、混乱するのはよくあることよ」
「はい……」
私はうなずいた。
うなずくしかなかった。
これまでとは違って、否定できない過去の記憶。
汚らわしい、忌々しい過去の記憶。
私は忘れ人だ。
それも、最低の過去を持つ。
「雉羽さーん!!屋根から降りるんだ!!」
低く通る男の人の声が響いて、私は飛び起きた。
泣き疲れた私は、一人で眠っていた。橘先生はいない。養護の先生も気を遣ってくれたのだろう。
声は外から聞こえてきた。
私はそっと、保健室の窓を開いた。
向かいの校舎の屋根に座った少年と、ばちっと目が合って、私は思わず体を引いた。
遠いのに、青と黄色の目がしっかり見えた気がした。何かを思い出しそうになる。
「りんー!!」
少年は満面の笑顔で手を振っている。あの猫耳尻尾の少年だ。
りん、は昔の……遊女だった、私の名前。
恐怖が甦る。
私は急いで窓を閉じた。
結局その日は授業がないこともあって、私はそのまま寮に帰った。
夜は散々うなされた。
でもそれは夢じゃなくて、過去の記憶だ。
それから私は、副校長室に通学することになった。
どうしても男の先生やクラスメイトと、一緒にいることができなかったのだ。
教科書を読み、問題集を解いていく。分からない所は後で聞けるようにメモしておく。勉強は好きじゃないけど、特別扱いしてもらっている限りは、ちゃんとしないと。
カツン、と、窓に何か硬いものが当たる音がして、私は顔を上げた。
「……ッ!!」
窓の横の木の枝に、あの猫耳尻尾の少年が座っていた。
私は副校長室から飛び出した。
副校長室を出て、左。つきあたりを、右。階段を、下。見知らぬ校舎で、どこをどう走ったのか分からなくなる。何人かに声をかけられた気もするけど、振り返る余裕はなかった。
校舎の外に飛び出した私の前に、雉色の何かが降り立った。
それはあの猫耳尻尾の少年だった。
じ、と青と黄色の瞳が私を見上げてくる。
私は逃げようとする脚を、なんとか留めた。
「な、何?」
声が震えてるけど、言えただけで合格だ。
「……ん」
少年は、片手を差し出してきた。
私は、恐る恐る手を出す。
ぽとり、とふわふわしたものが手に落とされる。
セグロセキレイだ。
気絶しているのか、ピクリとも動かない。
「……あげる」
それだけ言って、少年は去っていった。雉色の尻尾が、力なく垂れていた。
セグロセキレイは生きていた。
でもあまり動かないので、なぜか物理の先生が持っていた水槽に入れて、私の寮の部屋にいる。セキレイは虫を食べるらしい。でもミルワームは流石に手に入らないので、代わりに卵をもらって、食べさせた。
何かに餌をやるのは、なんだかとても懐かしくて、優しい気分になった。
その日の夜も、前世の夢を見た。悪夢なのは確かだが、救いもあった。
猫だ。
真っ白な毛並みに、青と黄色の瞳。私の脚にすり寄って、ニャァと鳴く。柔らかい毛並みが、素足に心地よい。
遊女だった私の、唯一の救い。
翌日は、体育があった。
人数の少ないこの学園では、学年ごとにまとめて体育の授業がある。女子だけが集まる授業だし、出てみたら?と橘先生に言われて、私は出席することにした。
クラスのみんなはもうグループを作って話していたり、1人でいたりとそれぞれの雰囲気を理解しているようだ。その中で私1人が浮いていた。
けど。
「りんー!!」
あの猫耳尻尾の少年が、なぜかいた。
「男の子……じゃなかったの??」
「おんなだよ!」
それを聞いて、ひどく安心した私がいた。
「えぇと、……。私は、高階志帆よ。りんじゃない」
「分かった!しほ!あたしは雉羽由愛!ゆっちって呼んで!」
えへへ〜と心から嬉しそうに笑うゆっちからは、ゴロゴロと喉が鳴る音が聞こえてくるようだ。私まで、なんだか嬉しくなる。
「ねぇ、ゆっち、その猫耳と尻尾って、どうしたの?」
おもちゃにしてはリアルすぎるけど、人間にそんなものが生えているわけがない。
「んー。前世、猫だったっぽい。で、霊感のある人には見えるんだって。普通の人には、見えないよ」
「私、霊感ないけど」
「忘れ人だからかも」
「ふぅん……」
なんとなく耳に手を伸ばすと、本物の猫のようにぺたりと伏せられた。
「ふふ」
いつぶりだろう。ひどく久しぶりに笑った気がする。
それはきっと、ゆっちが夢に出てきた白猫に似ているから。
その晩、白猫の夢を見た。とてもとても、優しい思い出だった。
「橘先生は、どんな願いを持ってるんですか?」
ふと思いついて、聞いてみた。忘れ人は、前世強い願いを持ったために、未練を残して生まれ変わる。
私は、前世の記憶は部分的に思い出したけど、願いについては思い出せていない。なのになぜ、記憶だけがあるのだろう。
「そうねぇ」
橘先生は、曖昧に笑った。
しまった、と思った。
願いは、その人の心の奥底にある、生まれ変わるほどの強い思い。それを会って数日の他人に、気安く教えられるものだろうか。まずいことを聞いてしまった。
それでも、橘先生は答えてくれた。
「……私には、とてもとても大切な人がいたのよ。その人が、幸せになってくれることが、私の願い」
「先生が幸せになるんじゃなくて、その人がですか?」
「ええ」
先生の爽やかな笑顔の意味が、私にはよく分からなかった。自分が幸せになるんじゃなくて、他の人の幸せを願う。……その時の私には、それが理解できなかった。
前世。願い。
私は一体何を願ったのだろう。やっぱり、自由になりたいとかかな。だったらそれは、もう叶ってる。わざわざ過去を思い出す必要なんてない。
そんなことを考えながら、学校から寮への道を歩く。
ふと、黒いものが視界を横切った。
猫だ。
黒猫が道の端に座って、こちらを見ていた。この島にも、野良猫がいるのだろうか。
ゆっくりと近づいてみる。
猫は逃げない。
私はそっと手を差し伸べた。顎の下をかいてやると、ゴロゴロと喉を鳴らした。
ーーシャァァッ!!
唐突に響いた威嚇の声に、黒猫は飛び上がって逃げ出した。
私が振り返ると、ゆっちがいた。
その大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれている。
「……ゆっち?」
「バカ!しほのバカ!せっかく人間に生まれてきたのに、今度も猫の方が良かったの!?」
それだけ言い捨てて、ゆっちは逃げていった。
私は茫然とその場に立ちすくむしかなかった。
私は、まだ何か思い出していないことがあるのだろうか。
その晩も、夢を見た。
でも今度の私は遊女じゃなかった。遊女になる前、幼い頃の記憶。
かつての私は、裕福な商人の家に生まれた。物心つく前から、私の側には猫がいた。キジトラの猫で、名前はゆち。姉妹のように育った私たちは、何不自由なく暮らしていた。
しかし、猫と人とは寿命が違う。
ゆちは私を残して死んでしまった。
それから、私の人生に波乱が訪れる。父が事業に失敗し、私は女衒に売られた。そして遊女して莫大な借金を返すために働いた。働いて働いて働いて、男から移された梅毒で死んだ。
そんな私は、少し生活に余裕ができたころ猫を飼った。青と黄色の目の白猫。昔を懐かしむように、名前をゆちとつけた。
あの白猫の瞳は、ゆっちの……由愛の瞳。
そして、幼い頃のキジトラの毛並みは、由愛の毛並み。
ああ。
ゆち。由愛。
あなたも願ってくれたのね。
2人で一緒に生きたかったって。
翌朝、私はセグロセキレイを逃した。十分元気に飛び回っていて、水槽の中では可哀想だったからだ。
食堂が開くと同時に駆け込んで、ゆちを待つ。キジトラ色の猫耳尻尾が見えて、私は駆け寄った。
「ゆち!」
私はゆちを抱きしめた。ゆちは一瞬びくっとしたけど、すぐな体の力を抜いた。
「……しほ。思い出したの?」
「うん。うん。ありがとう、ありがとう、ゆち……」
涙がこぼれてくる。
この涙は、悲しい涙じゃなくて、幸せな涙。
私は、愛している。
私は、愛されている。
生まれ変わってもう一度、一緒に生きたいと願うほどに。
end