第0話 終わりのはじまり。
はぁはぁはぁ、と息が上がる。
走って走って走って走った末に辿り着いたここは『亜魔森』と呼ばれる森の中。
見通し悪く、先程から何度も木の根に躓き転び、着ている服はぼろぼろになった。
自慢のゆるくウェーブのかかった根元に向かうにつれて青みがかる白銀の髪も同様に。
それでも彼女は立ち上がる。
父が、祖父が、祖母が。
彼女を逃がしてくれたのだ。
逃げる途中で振り返って見えたのは燃え盛る街だった。
「大丈夫だ、私が強いのは知っているだろう。お前はいきなさい」
「いいかい、ハーシィー、振り返らずに。森を抜ければ追手も来はすまい」
「私達の事は気にしないでいいのですよ、ハーシィー。貴方さえ、無事なら」
そう言って、彼女を逃がし、領民を一人でも多く救う為に街へと戻っていった三人。
それを活かさねばならない。
どうしてこうなってしまったのか。
彼女は解っていた。
父も祖父も祖母も彼女に甘かった。幼い時に亡くなった母の分まで彼女のお願いを聞いてくれた。
これはその結果なのだ。
私が、愚かだったんだわ。
そう彼女は思いだし今までの事を振り返るが、すでに意味はない。
もう事は起こってしまった。
彼女が願ったのは王子と結婚したいという事。
辺境伯ではあるものの、そこまで突出した功績があるわけでもない父に連れられ王族主催の茶会に出た。そこで出会った王子に彼女は一目ぼれをしたのだ。
初めて見た王子は輝いて見えて、彼女はこの人しかいないと、幼いながらに感じて。
それから父に祖父に祖母に願い、王族主催の茶会やパーティーに出席し、王子に名を呼んでもらえるようにもなった。婚約者候補に名が挙がっていると、父から教えられた時には嬉しくて涙を流しもした。
まだ候補だけれども、それでも嬉しかったのだ。
正妃は無理でも、側室という立場でも彼女にとっては嬉しい事だったから。
魔法の一つも扱う事が出来ない、役立たずの女、として色々な貴族から陰口を言われ続けてきた彼女が婚約者候補に名が挙がる事。
散々馬鹿にされてきた自分でも王の妻となれるかもしれない、と。
その為彼女は陰ながら頑張った。いずれ王を支える為にと教養を身につけ、立ち居振る舞いを洗練させて、誰から見ても馬鹿にされない様に。王の隣に立つ為に。
それが実る事を夢見て、それがどれだけ救いとなった事か。
けれどもそれはいらぬ火種を生み出していた。
彼女の知らぬ所でゆっくりと確実にじわじわと。
そして、今。
正確には数時間前。
突如放たれた魔法の嵐。
それは街を守る壁を易々と壊し、家々を焼いた。
逃げ惑う人々を誰一人逃がしはしまいとでもいうのか、どこから放っているのか解らぬ攻撃は止む事なく。
壊れた壁からは魔物たちも押し寄せていた。この街はすぐ側に亜魔森がある。あの森は多くの魔物が住んでいるとされ、その討伐素材を目当てに冒険者達がこの街を拠点に活動しているのだが、しかしこんな大量の魔物が街へ押し寄せる等通常では考えられない。
そんな異常事態が起きていた。
そんな中どこからかまた一人、断末魔の叫び声が。攻撃から逃れても魔物達に襲われ貪り食われる。
彼女は慣れ暮らした屋敷から遠目からでもその阿鼻叫喚の地獄絵図を見てしまった。
屋敷は街の中心部に近い。
まだ魔法による攻撃も街に入り込んだ魔物もこの屋敷に迫ってはいないが時間の問題だろう。
早く逃げなければ。
彼女は普段身近に自身の世話をしてくれるメイドを捜したが見つからない。
「お嬢様、何かありましたらすぐにでも私が駆けつけますから、ご安心くださいね」
にっこりと微笑みまるで姉の様に感じてとても親しくしていた、ルルナというメイド。
何かあった時にはそう言って彼女を安心させてくれたから、何時もルルナを頼ってしまう。
けれど、そんなルルナは今傍にいない。
どこに行ったの?
屋敷の管理を任せている数人いる執事の中で、彼女に普段ついている執事も、この時間ならば本来いる場所にいなかった。
「見て下さいお嬢様、この邸からでも見える噴水。あれはこの街のシンボルでもあるんですよ」
あまり屋敷から出ない彼女に屋敷から見える街の色々な事を聞かせてくれた、彼女にとって仄かに抱いた最初の恋心の相手、レド。
レドも彼女の傍にいてくれる大切な人だ。
そんな二人が、いない。
どこに行ってしまったのだろう、と彼女が思って捜し歩いた先で話しこむ父と祖父の姿を彼女は発見し、聞いてしまったのだ。
今この町を襲っているのが、彼女が王子の婚約者候補となった事が気に食わない者達が起こしたものだろうという事と、辺境であるこの地の利益を欲した他の貴族が絡んでいるのだろうという事を。
そして、それら貴族が送り込んだのが、彼女のメイドと執事だという事を。
父も祖父も間違いないだろう、と。
そう、ルルナと、レドが。
一体何時から?そう思った彼女の顔は蒼白となっていた。
ルルナもレドも。元々彼女の母親についていた者たちだ。その当時からとても良くしてくれていて、母親が亡くなってからも、いや、亡くなってからは一層彼女に親身に接してくれて。
彼女の中で膨らむ不安。
その時ひときわ大きい爆音と共に建物が揺れた。
「きゃっ!」
彼女は声を上げその場にうずくまる。
近くの窓からちらりと見えた光景。
屋敷の一角が燃えていた。
それから彼女は茫然とするままにいつの間にかやってきた祖母に腕を引かれ、祖父と父に先導され、屋敷の地下通路へと連れて行かれた。
ずっとずっと走り歩いて、辿り着いたのは、街の外の祠だった。
正確に言えば、地下から出た先がその祠だった。
そうして彼女は言われたのだ。
「大丈夫だ、私が強いのは知っているだろう。お前はいきなさい」
「いいかい、ハーシィー、振り返らずに。森を抜ければ追手も来はすまい」
「私達の事は気にしないでいいのですよ、ハーシィー。貴方さえ、無事なら」
だから、彼女は走って走ってただただ走っている。
彼女は解っていた。
今生の最期の言葉になる事を、彼女は茫然としたまま聞き、けれどもその意味はしっかりと刻まれていたから。お守りだ、と魔物除けのマジックアイテムのネックレスまで渡されて。
だから。
生きる為に奔る。
「あっ!」
しかしずっと走り続けていた身体は限界に近かったのだろう。
ずざっ、と何かに躓いて受け身も取れず彼女は倒れこんでしまった。
一体何に、と彼女はみた。
そこにあったのは、人骨。もうすでに骨だけの『 人 』だったなれの果て。
ここで一体何があったのだろうか。
魔物に荒らされた跡も見てとれるがざっと見ただけで三人分はあるだろうか。
いや、もしかしたらもっと…。
彼女はそうしてさっと周りを見る。
「ひっ!」
そのうち一つの、頭蓋骨が。
彼女を、見ていた。
見ている様な、気がした。
それはまるで逃げ切る事が出来なければ、お前もこうなるのだと言わんばかりに彼女には思えたのだ。
逃げなければ。
彼女は立ち上がった。
そして駆けだす。
駆けだそうと、した。
ひゅっ、と風を切る音。
足に奔る違和感。
遅れてやってくる痛み。
ぐらりと傾ぐ身体。
暗がりで見えなかったが、丁度ここは崖の端。
「あ…」
手を、伸ばす。
空に向かって。
足はもつれ、そのまま彼女は崖から落ちた。
彼女が最後に見たのは。
先程の頭蓋骨。
その眼窩に潜んだ強い意思。
訪れる衝撃。
痛みは一瞬。それは彼女にとって、幸いだったのかもしれない。
そうして、彼女は死んだ。
出来るなら、そう、出来るなら、すべてやり直して、もっともっと、生きたかった。
落下し地面に叩きつけられるその瞬間、そう思いながら。
だから、そう。
彼女は自覚しないままで、魔法を行使した。
彼女の願いを叶える為。
やり直したいという彼女の強い願いを、切に願った祈りを叶える為に、時間を遡る魔法を。
魔法が使えない、はずの、彼女が。
王国歴382年。
この年、ユミエント王国にあるリングドット辺境伯領はその一番の街を含めて滅びた。
後に残ったのは焼け落ちた街の城壁くらいのものだった。
調査に向かった者達によれば、至る所に焼け焦げた人々と大量の魔物の死骸が転がる地獄絵図だったという。臭いも酷く、その臭いで亜魔森からまだ魔物を呼び寄せている現状から、調査も碌に行われず、おざなりにとはいえ光属性の浄化の炎ですべてを焼き払った。
これに王国は、領に隣接している亜魔森から魔物が突如溢れ街や村を襲い、到底敵わないとなった辺境伯領の者達が街に火を放ち、魔物諸共街に火が巡り、自分達の命を持って、多領に魔物の被害が無い様計らったのだろう、と発表した。
そして魔物が溢れたのは、魔王が復活したのだろう、とも。
魔王復活の報は王国全土に齎され、リングドット辺境伯の名も含め何がそこで起こったのかは人々から忘れられた。
こうして真実は闇に葬られ、正史として創られた話が語られていく。
彼女の物語は、終わり。
けれど、そして、始まった。
それを知るのは、魔王、だけ。
すべてを『見て』いた魔王だけ。
これは、そんな話から始まる彼女を取り巻く物語。