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堅物騎士団長とトゥシューズ  作者: 采火
第二幕

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38/39

歌劇のパ・ド・ドゥ

 閉じられた幕の内で美嘉は考える。

 舞台に立つのはいつ以来だろうか。

 指折り数えて、ロイクと出会ってからそろそろ半年ほど経つのではと思い至る。

 つまり、有象無象にいる観客の前に立つのは凡そ半年ぶり。

 どくどくと心臓が早鐘を打つ。

 これが緊張というものだろうか。

 ナディアに劇団グリシーヌの衣装担当から借りた衣装の着付けを手伝ってもらう。

 白にほんのりと青い色の着いた何枚ものオーガンジーを重ねたスカート───膝丈のベル・チュチュのようなその衣装を身につけて、髪は少し巻いて、前髪ごとバレッタで留めてからハーフアップに。舞台用の濃いめの化粧を施してもらえば、さながらビスクドールのような姿になった。

 足元は当然、トゥシューズ。

 美嘉はこれから、この世界にはないとおぼしきバレエを観客の前で踊る。

 相手はバレエに詳しい採点者じゃない。

 バレエの見方なんて知らない人だらけ。その中で素晴らしい芸術だと思わせなければならない。

 これはきっと、ジュリーが言う「壁」なのだろう。

 正直、幕の内だというのにさっきから体が震えてしかたがない。コツコツコツと、床に添える様にして後ろに出した右足のトゥシューズが小刻みに震える。

 初めて体感する舞台上の恐怖に気が遠くなりそうになる。

 音楽が鳴り出した。

 前奏に合わせて幕が上がっていく。

 舞台下の楽団の最前列が見えた。

 楽団の列がじわじわと増えていき、観客の視線が美嘉を射抜く。

 ぎゅっと心臓が掴まれた気がした。

 頭の片隅に、失望した観客と採点者の顔がちらつく。

 全身の血の気が引いていって、音楽が遠くなる。

 眩暈のように全身から力が抜けていく。


「ミカ」


 さぁっと一陣の風が髪を靡かせ、スカートを揺らす。

 誰かが名前を呼んだ気がした。

 大きなホールなのに、囁くようなその声は観客に届くことなく美嘉にだけ届いた。

 その不器用で優しい声音に、美嘉は声の主を視線で探す。

 観客席の最上段に(ロイク)がいた。

 じっと美嘉を見つめている。

 美嘉は表情を引き締め、震える体を自分の支配下に置く。

 指先一つ、爪先一つ、揺れるスカートさえも、美嘉の操る糸の先。

 幕が上がりきった舞台上で、美嘉は滑るように踊り出す。

 幕間の演目は、観客が楽しみにしている異界渡りの花嫁のクライマックスの時に流れる歌だ。今は歌う人もいないし、クライマックスのネタばらしのようなものだから伴奏だけ。ナディアに伴奏を頼んでも良かったが、美嘉が舞台に上がる条件として座長に出されたのが楽団が弾ける音楽であるということだった。

 即興で躍りを練らなければならなかったが、ナディアが衣装直しをしてくれた短時間の間にイメージはできている。

 既に一度見た舞台。その印象は美嘉の大事な糧だ。

 それについ昨日、レシェの声に合わせて踊ったときの感覚も残っている。

 軽快だった音楽が徐々に緊迫感を持ち始め、ヴァイオリンらしき楽器の独奏になる。

 数々の困難を乗り越えて、王子が告白するあのシーンだと気がついた美嘉は、右手を柔らかに伸ばして大きく左に滑る(シャッセ)。左手は胸に添え、重心を移動させるようにしてつま先立ち(ポアント)でそのままターン。二歩前へと進み、頭を垂れるようにして深く膝を曲げる(プリエ)

 次は花嫁の戸惑いのシーン。

 弾かれるようにポアントのまま、後ろへ一、二、三。

 それから体を反転させて、大きく旋回するように舞台を駆けて後方へ。

 美嘉にはよく分かる。乞われても、花嫁がすぐに頷くことができなかった理由が。

 だって寂しい。

 元の世界には心残りがある。

 それは人の繋がりだけじゃない。

 自分の誇りだって含まれる。

 この世界で、誰一人として知らないバレエを踊る美嘉のように。

 花嫁には花嫁の、残しては行けないものがあったはず。

 大きく足を踏み込んで宙へ跳ぶ。宙で半回転(アントルラセ)しながら、足を打つ(カプリオール)






 ───観客が息を飲む。


 今まさに、花嫁が異界との別離を惜しむ瞬間。軽やかに跳んだ美嘉の靡く髪の下から、蝶が羽化をするように虹の燐粉を散らして硝子のような羽が広がる。

 それは一瞬の出来事。

 花嫁が異界との別離を惜しむ一時に見せた幻。

 美嘉の羽に魅入られて、観客は呼吸を忘れて美嘉の一挙一動から目を離せなくなる。

 繊細でしなやかな指先も。

 ふわりと揺れる後ろ髪も。

 風を孕んで膨らむスカートも。

 軽快にトゥシューズを鳴らす爪先も。

 美嘉という異界渡りの花嫁が、その心を表現していく。

 元の世界と別離をしても、私は寂しくないと。

 ここには私を愛してくれる人がいると。

 私はあなたの元にいたいと。

 熱に浮かされるほどに熱い想いが、ガラスの羽をとろりと溶かす。

 ステップを踏み続けた爪先が舞台の中央でピタリと止まる。そしてつま先立ち(ポアント)をして、美嘉の右手の指先が恋い焦がれるように遠くへ───観客席のロイクへと差しのべられる。






 ロイクは自分に差し伸べられた指先に囚われる。

 一目見たときから愛しかった妖精から差し伸べられた手を取るため、観客席の隙間を縫って歩きだした。

 ロイクの歩む風に気がついて、ぼんやりと見送る観客が多い中、迷わずロイクは舞台に跳び乗った。

 正気づいた観客が、ほんの少しざわつく。

 だがロイクは構わず美嘉の手を取ると、観客同様驚いた顔をしている美嘉に微笑みかけその指先をすくうように口づけた。

 踊りきった高揚感と大衆の前でのロイクの口づけで頬を薔薇色に染めた美嘉を隠すように、幕が降りていく。

 この日公演された幕間の舞踊は、劇団グリシーヌの二度と見られない伝説の脚本の一つ「騎士団長と舞台の妖精」として、名が残った。



 ◇



 着替えや挨拶もそこそこに馬車に放り込まれた美嘉は、いつもと同じ不機嫌そうな顔にさらに深い怒りのようなものをにじませたロイクの隣で必死に視線を反らしていた。


「ミカ」

「……はい」

「俺が何を言いたいか、分かるか」


 普段口数の少ないロイクが流暢に美嘉に話しかけてくる。

 何もなければ沢山お話ができると手放しで喜べただろう……何もなければ、だが。

 びしばしと突き刺さってくる視線に美嘉は身を固くするしかない。だって自分がやった事の自覚があるから、言い訳なんてできない。

 口をつぐんでじっと身を縮こまらせていると、ロイクが大きく溜め息を着いた。


「……お前の望みを叶えるのに、俺では心許ないか?」


 告げられた言葉に、美嘉は慌てる。


「そ、そんな事ないです! ロイクさんはいつも私のために頑張ってくれてます!」

「なら何故、俺を待っていてくれなかった」


 咎めるでもなく、諌めるでもなく、ただ寂しそうに言うロイクに、自分の無鉄砲さ加減に嫌気が差して美嘉は項垂れた。


「……ごめんなさい。でも私も……ううん、私が、何かしたくて。レシェの事だけじゃない。元の世界で私が見えていなかっとことが、分かればいいなって……」


 話していくうちに声がしぼんでいく。

 それでも何とか話せば、ロイクはしっかりと美嘉の話に耳を傾けてくれた。


「……そうか。ミカにとって必要な事だったのならいい。それで、何か分かったのか」


 ロイクがするりと、くるくる巻いている美嘉の髪を指先にからめながら尋ねた。美嘉は少しだけ考えて、それからこくんと頷く。


「……誇り、というものが何かよく分かった気がします」


 帰り際の、ジュリーとレシェの様子を思い出す。レシェの兄だというレフェを間に挟んで、二人は幼馴染らしく仲良さげに話していた。

 ジュリーが美嘉にも謝ってくれた。無茶を言ったのに見事にやり遂げてみせた美嘉を褒めてくれた。その時に、話してくれたのだ。


『私の誇りは演技力。レシェの誇りは歌。同じ土俵にいないのに嫉妬してちゃあねぇ。あれもこれも欲張っても、私は器用にできないから、まだしばらくはこの二人一役におさまってあげるわ』


 自分が舞台に立っている間に、何か憑き物が落ちたように晴れやかになっていたジュリーがそう言い切った。

 なるほどジュリーの誇りはレシェとは別だと割りきったらしい。その上で二人で手探りで役作りをしていくらしい。

 それなら美嘉は?

 美嘉の誇りは?

 それはきっとバレエだと胸を張って言える。

 けれど、同じ誇りを持っていた「彼女」にとって「美嘉」は?


「……私は、彼女にとって、誇りを踏みにじるような人間だったのかな……」


 茫然自失していた自分に「滑稽ね」と嘲笑った「彼女」。

 美嘉は自分の事ばかりで回りを省みてこなかった。その結果、自分でも気がつかないうちに、他人の誇りを踏みにじっていたのだろうか。

 考えても考えても、答えてくれる「彼女」はここにはいない。

 俯いてしまった美嘉を、ロイクがそっと抱き寄せる。

 かたん、と馬車が揺れた。

 揺れた振動で美嘉の体がロイクへと傾いて、密着することになる。

 驚いた美嘉は慌てて離れようとするけれど、ロイクがゆっくりと背中を倒して、美嘉の腰をさらった。自然と、座席に横になりかけたロイクに美嘉が乗り上げる形になる。


「ろ、ロイクさん、離してくださ……」

「ミカ」


 退こうとする美嘉の腰を抑えて、ロイクが優しい声音で美嘉の名前を呼ぶ。

 美嘉は目のやり場に困った。

 最近、ロイクが二人だけの時に見せてくれる表情がある。眉間のシワがほぐれて、眉が少し下がって、ほんのり目尻に朱が差して。そしてその唇に仄かな笑みをたたえるのだ。

 その微笑みを見るたびに、美嘉の心臓がとくとくと急ぎ足になって、ロイクを直視できなくなる。

 今もまた、ロイクから顔を背けようとすれば、顎をくいっととられてしまって背けられなくなる。

 腕も足も、ロイクに体重をかけないようにと気をつかっているから、美嘉は身動きがとれなくなってしまった。


「ろ、ロイクさん……」


 何だか恥ずかしくて、心臓の音が聞かれやしないか不安になって、ついつい瞳を潤ませてしまう。

 美嘉のそんな様子を間近で見たロイクは、少しだけ目を丸くしたあと、その琥珀色の瞳を細くして笑う。


「ミカ、愛している」

「し、知ってます」

「ミカ、愛しているんだ」


 ロイクが繰り返す言葉に、美嘉は情けない表情を見せた。

 駄目だ、ロイクの前では、美嘉は無防備な女の子。何者でもない、ただの美嘉に成り下がる。

 必死に取り繕おうとしても、ロイクがその取り繕った皮を剥いでしまう。


「……ミカの誇りは立派なものだ。真に誇り高き者は、他者のことより自分を見つめるものだ。そこに本来なら優劣は存在しない。俺は、その誇りをもつ気高いミカを愛している」


 不安に揺れるたびに、こうやってロイクは美嘉の心を解していく。

 美嘉はロイクの言葉をゆっくり噛み締めた。

 温かい気持ちが胸に広がっていく。

 温かな言葉を、温かな気持ちを、温かな体温を、くれるロイクが好き。


「……ロイクさん、ありがとう。私も、愛してる」


 好きをどれだけつめたら言葉は伝わるのだろうか。

 バレエでは表現できないこの胸の熱をロイクに伝えようとすれば、するりと口から言葉が出てきた。

 ロイクが少しだけ驚いて───そして、今までで見たこともないくらいに破顔した。


「そうか。俺も、愛している」


 言いながらも、ロイクはその首をそっと伸ばして、今だ至近距離にあった美嘉の唇と、己の唇を合わせた。

 ちゅっと小鳥がついばむような軽いキス。

 だけどそれは、三十路になるまで堅物だったゆえに純情なロイクと、バレエ以外に何もなかったために純粋な美嘉の精一杯。

 どちらからともなく姿勢を直して、二人は火照った顔を冷ましながら帰路を馬車が行く。

 体は離れたけれど、その指先はしっかりと絡んで、屋敷までの時間を過ごした。






【第二幕 大団円(アデオポーズ)

「パ・ド・ドゥ」男女二人の踊り手による踊りのこと。

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