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堅物騎士団長とトゥシューズ  作者: 采火
第二幕

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32/39

歌劇のアダジオ

「歌劇に興味はあるか?」


 いつものように夕食を終えて、就寝前のゆったりとした時間を書斎で過ごしていると、背中越しに声がかけられた。

 美嘉はパチリと目を瞬いて、自分を膝の上にのせている琥珀色の瞳と視線を合わせる。

 声をかけてきたロイクは左手で美嘉の体を支え、空いている右手でワイングラスを揺らした。

 ロイクが夕食の時に何か言いたそうにしていた事に美嘉は気がついていたが、彼が言うまで美嘉は何も聞き出そうとはしなかった。本当に必要なことはロイクがちゃんと言ってくれると思っているからこその距離感。

 言うのを躊躇っているくらいなら聞かずにおこうと思っていたが……このお誘いなら聞いてみても良かったかもしれないと、美嘉は口許をゆるめた。

 美嘉はロイクの膝の上でミルクの入ったマグカップを自分の膝の上に下ろす。話しやすいように横向きでロイクの膝に乗っているので、ロイクの右手にあるグラスにぶつからないように注意する。


「それは、デートのお誘いですか?」

「…………………………ああ、そうなる、か?」


 ロイクの目元にさっと朱が差した。どうやら指摘されて照れているらしい。

 美嘉がロイクの元にいると決めて、彼のためのバレエを披露したあの日以来、二人の距離は着実に近づいている。

 自惚れてしまって良いのかは分からないけれど、ロイクと美嘉の関係を一言で表すのならおそらく「恋人」というのが相応しいだろう。美嘉はあれこれとナディアやマティアス、時にはランディに教えてもらって、世間一般でいう「恋人らしいこと」とは何かを手探りで模索しながらロイクに実践していた。

 それはデートだったり、お弁当作りだったり、ちょっとしたお洒落だったり。

 ロイクの事は好きだと思う。

 でも、それが恋愛という枠に当てはめていいものなのか、美嘉は判断がつかないでいた。

 芽吹いたばかりのその感情をそう名付けるには、美嘉には足りないものが多すぎた。

 だって、未だに美嘉は一人の時間をどう過ごせばいいか分からない。一人でいるとどうしても身体作りをしたり、バレエのステップを踏んでしまう。

 でも、ナディアから「旦那様とやってみたいことを考えてみてください」という宿題を出されてからは、ロイクのことを考える時間が増えて、日中に一抹の寂しさがよぎるようになってしまった。

 それなのにナディアに「ロイクさんのことを考えると、ロイクさんが隣にいないことが寂しくてつらいの」って伝えたら、満面の笑みを返されたのが不思議だった。笑い事ではないと思うのに。

 とにもかくにも、最近では以前のように屋敷に籠りっぱなしということは減り、美嘉も精力的に外へと出かけていた。その一環で、ロイクが休みの日は度々デートをしているわけだが。


「歌劇って、舞台ですよね。歌いながら劇をする」

「そうだ」


 憮然とした表情でロイクは頷く。

 美嘉は少し考えて、頷き返した。


「観れるなら、是非」

「分かった。今度の休みに間に合うように手配しておく」


 ロイク曰く、大きな劇場でやる歌劇はかなり人気で、早めに予約しておかないと席がないそうだ。

 そんなに人気の歌劇なら、これは期待できる。曲がりなりにも美嘉はジャンルが違えど舞台を目指していた人間だ。この世界に来てしばらくそういったものから遠ざかってきたが、興味がないと言ったら嘘になる。

 今の美嘉なら純粋な目で舞台を楽しめるかもしれない。

 だってその隣にはロイクもいるのだ。

 美嘉はゆるゆると弛む頬を隠すようにロイクの胸にもたれると、すり寄りながら小さく感謝の言葉を述べた。

 珍しい美嘉の『甘え』に、ロイクが理性をグッと総動員したのは言うまでもない。



 ◇



 次のロイクの休暇、宣言通りにロイクが歌劇の席の予約をもぎ取ったというので、美嘉は歌劇を見に王都でも王城の次くらいにかなり目立つ劇場にやって来た。

 今日の美嘉は、体のラインがくっきりと浮き出るワインレッドのシルクにワントーン暗い赤色のレースを重ねたくるぶし丈のドレスに、同じ色のヒール、そして要所にシルバーと黄色の宝石をあしらったアクセサリーを身に付けている。髪も巻いて、ナディアが複雑に編んでくれた。

 どこのパーティーに出席するのかという大人びた格好に少しだけ戸惑ったが、これはいわゆるドレスコードというものだろう。何回か両親に教養のためと言われてつれていかれたクラシックコンサートのようなものだと思えば腑に落ちた。

 ちらりと隣の席に座って舞台を見つめているロイクを見る。彼はいつもの騎士服ではなく、グレーのジャケットとスラックスにワインレッドのシャツを合わせている。お揃いだと思うと、ちょっと嬉しい。

 ロイクは二階の個室を予約したようで、他の観客を気にすることなく観劇ができる。こういう席は高いんだろうなと美嘉はなんとなしに思った。

 このドレスといい、席といい、ロイクの気前の良さにたまに申し訳なくなってしまう。気軽にお誘いにのってしまったが、いつも貰ってばかりなのに、こうお高いところだと日本人らしい謙虚な精神が今にも遠慮を申し立てそうになってしまった。それを言ってしまうとロイクのせっかくの好意を無駄にしてしまうことも理解しているので、美嘉は感謝の気持ちだけは忘れないようにしようと改めて心に刻む。


「どうした。何か気になるものでもあったか」

「いえ。ロイクさんの今日の格好がいつもと違うので、見ていて飽きないだけです」


 さらっととんでもないことを言っている美嘉だが、彼女にとって誉め言葉は気取るようなものではなかった。

 言われたロイクが少しだけ目を丸くして顔をそらしてしまう。


「……もう幕が上がる」

「はい」


 ロイクの照れ隠しに気づかず、美嘉は額面通りに言葉を受け取って顔を舞台へと向けた。






 歌劇とはその名の通り、歌が中心の劇であり、舞台芸術の一つだ。

 役者はそれぞれ自身の役の衣装に身を包み、舞台の上で自分ではない誰かを演じあげる。

 バレエと違い、躍りではなく歌で、声で、言葉で演じることが可能な歌劇は、歌の良さが分からなくとも、ストーリーを理解することは容易いため、初めて触れるストーリーでも美嘉は十分楽しめた。

 歌劇の内容は、以前さわりだけ教えてもらった、異界渡りをした奇跡の花嫁の話だった。

 舞台の上で、かつて実在したと謳われる伝説の王子が、花も恥じらうほど美しい花嫁に向かって手をさしのべる。王宮を取り巻く疑心暗鬼に憔悴して、自身の「唯一」を召喚した王子。今から始まるのは王子と花嫁を取り巻く幾つもの困難を乗り越えた末の、大告白のシーンである。

 王子は花嫁に歌う。


『貴女こそが唯一の理解者なんだ。唯一の信頼足る者なんだ。寄り添う誉れを私にどうか、比翼の連理』


 重たく、荘厳な、緊張感を歌うテノールを、花嫁はゆったりと首を振って、涼やかなソプラノで打ち消した。


『私の世界、隔たる世界、決別の先に何が待つ。いずれ来るは、比翼の別離』


 最後の最後で、花嫁は王子の愛を拒絶した。この先の未来に絶対はないのだと。自分は愛のない花嫁として喚ばれたのだからと。

 王子は言葉を重ねる。


『生涯、貴女以外を娶ることはないと誓う。貴女に捨てさせた世界にあるもの以上のものを捧げると誓う』


 王子の求愛に、花嫁はただ一つを望む。


『家族を。同胞を。温かな帰る場所を望む。私が捨てるは、かけがえの大切なもの。あなたに与えられますか』


 花嫁の言葉に、王子は笑顔の花を咲かせた。


『私という小さな家族も、国という大きな家族も、この世界には貴女の家族は沢山いる』


 そしてフィナーレにて、花嫁が故郷との別離と新しい故郷への祝福を歌う。

 結ばれたはずなのに、ハッピーエンドのはずなのに、花嫁の明るい表情を裏切るような、寂しさに胸をしめつける歌声が、観客を魅了してやまない。



 ◇



 劇場を後にして、馬車の中で美嘉はロイクに感想を述べた。


「異界渡りの花嫁ってああいう話なんですね」

「かなり脚色はしてあるがな」


 美嘉が物語について幾つか細やかなところを話せば、ロイクは一般的に広まっている伝説を交えながら細く説明をしてくれる。

 あれこれと話していれば馬車はあっという間に屋敷についてしまう。歌劇は途中休憩や幕間をはさみつつ長い時間上演されており、昼過ぎに劇場へと入ったのに家に帰ればもう夕食の時間だった。

 夕食はいつもよりもゆっくりと時間をかけて話ながら食べる。馬車での話の続きから、やがて役者自身の話にまで及んだ。


「それにしても、花嫁の方のお歌はすごいですね。あんなにほっそりとした身体であの声量を歌い上げるなんて」

「ああ、いや。あれは違う。風の魔法で音を送っているのだろう。連絡用の風魔法の応用だと思う。……そういえばあの花嫁、歌っている人間と台詞を言う人間が違っていたな」

「違う?」


 美嘉がどういうことかと首を傾げると、ロイクは詳細に説明をしてくれた。


「魔力の感知は苦手故、魔力の流れは読めなかったが、場内に吹いていた風の方角が台詞と歌で違っていた。顕著なのは、舞台左手に花嫁がいるのに、歌は右手の袖の上方から聞こえてきた時だな。あの花嫁は、歌う振りをしているだけだ。よく聞けば、声質が違うのにも気がつく」

「よく、聞き分けられますね」


 ロイクの言葉に、美嘉はそうだったのかと納得しつつ、ロイクの常人場馴れした聞き取りに驚いた。

 ロイクが美香の言葉に苦笑を漏らしつつ、食事の手を進める。今日は鳥の香草焼きだ。相変わらず綺麗に食べるなと美嘉が思っていると、視線の合ったロイクがふっと表情を和らげた。すっと机を越えて、手を伸ばしてくる。


「ほら、唇に香草がついている」


 ふにっと皮の厚い親指が美香の唇にあてられて、油っぽい唇をつるりと滑った。

 美嘉はなんだか気恥ずかしくなって、今まで話していたことがポンっと頭から抜けてしまった。

 照れ隠しに、もそもそと食事を再開する。なんだか無性に胸の奥がむずむずとして、居心地が悪い。

 話に夢中で全く減っていなかった美嘉の食事がようやく減り出し、ロイクは満足そうに頷いた。

 恥ずかしそうに視線を下げる美嘉が今日も愛らしく見えるのは、惚れた欲目に違いない。

「アダジオ」ゆったりとした曲にあわせた、ゆっくりとした動きの事。男性と女性が二人で踊る最初の曲を示す。


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