凡庸王子のラ・シルフィード
マティアスの中での、ミカという少女の印象は「何を考えているのか分からない」だった。
息抜きにお気に入りの庭園でフルートを吹き鳴らしていたある日、マティアスは迷子に声をかけられた。
それがミカとの出会い。
少女との会話のなかで、挫折をしたと言っていた彼女が、何気ない自分の言葉一つで表情を変えたのが印象的だった。
王族の象徴である銀髪を目にしても変わることのない少女の態度に、マティアスを王子だと本気で気づいていないことはすぐに分かった。
知ってもピンと来ないのか、少女の態度は変わらない。
裏表なくマティアス自身の言葉を受け止めてくれる様子は、マティアスにとって初めての経験だった。
マティアス自身を、飾らない目で見てくれる少女。
それは何者にも変えられるような存在じゃないと気づいたのは、少女が堅物と噂の騎士団長と共にありたいと告げた時だった。
◇
マティアスはその日の夜、部屋でいつものようにフルートを吹いた。
フルートは数少ないマティアスの特技だ。
ピアノもヴァイオリンもそれなりに弾けるが、フルートが一番マティアスの手にしっくりとくる。
最近繰り返し奏でている曲を吹き鳴らしなすマティアスの脳裏に浮かぶのは、美嘉が自分の旋律に合わせて手足を動かす姿だ。
美嘉と初めて出会った日、人の気配に注意しながら木の上でフルートを吹いていたマティアスは、ちゃんと美嘉の姿を捉えていた。
最初は自分を呼びに来た人間かと思って、わざと音を小さくしたり、風の魔法で音が流れる方向を変えたりして、撹乱を試みた。
それでも途中から指先に艶然とした視線を添えて踊り出した少女に呆気にとられ、そのすぐ後には美しい一挙一足に目を奪われた。
もっと見たい。
もっと側へとおいで。
そんな気持ちでフルートを吹く。
脳裏で妖精のように軽やかにステップを刻む少女の姿をなぞるようにして一曲を吹き終わると、ぱちぱちぱちと一つの拍手が響いた。
「珍しいね。マットが部屋で笛を吹くなんて」
「フレッド」
愛称で自分を呼ぶ異母兄のフレデリックに気がついて、マティアスはフルートを口元から離した。
「たまには吹きたくなる時もある」
「そのわりには最近頻繁に吹いていると思うけれど」
長い銀の髪を束ねることなく遊ばせて、フレデリックはマティアスの部屋を勝手知ったるように歩いてソファに座る。
「もう吹かないの?」
「お前が来たからな」
「私はお前の笛を聞きに来たのに」
ちょっと残念そうに肩を竦めるフレデリックに、フルートをケースに片付け始めたマティアスは一つ嘆息をつく。
「聞いても面白くないだろ」
「面白いよ。お前と私はやっぱり違うと安心ができるからね」
「あっそ」
どこまでが本気で、どこまでが冗談かつかめないフレデリックの言葉に、眉間に皺を寄せた。
数日違いで生まれた兄は、度々自分とマティアスの些細な差異を見つけては喜ぶ。
フレデリックが昔はどっちもどっちだと頓着しなかったそれを気にかかるようになったのは、例の婚約者ができてからだった。
気のない返事をしたマティアスにフレデリックは残念そうに唇を尖らせるけれど、すぐに相好を崩す。なんだと思って促せば、フレデリックは楽しそうに語りだした。
「愛しい人がね、手紙をくれたんだよ。彼女によると、私の字は少し丸くて女性の筆跡と見間違えそうになるらしい。しかも絶対に文章中で彼女のことを風の精霊に喩えるような文句が入るらしい。マットは知っていたかい?」
惚気だった。
(なんだこいつは。わざわざ惚気に来たというのか)
婚約者同士の手紙がどういうものか知らないから、マティアスは白けた顔で適当に相づちを打つ。
一人でぽんぽん見えない花を飛ばしながら喋り続けるフレデリックにうんざりしながら、彼の惚気を右から左に聞き流していると、やがてフレデリックは「それでね」と言い出した。
「マットはどんな手紙を書くんだろうと思ったんだ。だからお前、ちょっと好きな子に手紙を書いておくれよ」
「はぁ?」
マティアスは思いがけないフレデリックの戯れに、呆れた声で返した。
「なんで俺がそんな事に付き合わないといけないんだ」
「私が気になるからだよ。マットならどんな手紙を書くのか、愛した人にどんな言葉を贈るのか、単純な興味だ」
「悪趣味だな。やめろよ」
「とか言って恋人がいないとか言わない辺り、気になる相手くらいはいるんじゃないかい?」
ぐっ、とマティアスは言葉につまる。
さらりと聞き流せば良いのを、脳裏にふと美嘉の顔が出てしまった。
顔に熱が集中して、不自然にフレデリックから視線をそらしてしまった。
「……え、本当にいるのかい?」
「……ほっとけ」
顔に出てしまうことはマティアスが一番よく知っている。フレデリックも顔に出る方だが、彼は王子らしくそれなりに誤魔化しができるようになったから、マティアスほど分かりやすくはない。
それでも素の顔になって驚いているのを見ると、ムッとした。
「……気になる奴ぐらいいてもいいだろ。文句あるのか」
「えっ、んっ? いや、ないよ? いや、でも、そっか、いるんだ……」
フレデリックは自分に特別な人がいるのだから、マティアスにそういう人が現れてもおかしくはないと知っていたはずだ。
だが、どこかでマティアスは違うのだろうと思っている部分があったのか、ほんの僅かに戸惑いをのぞかせる。
フレデリックはほんの少し垣間見せた戸惑いを綺麗に引っ込めると、今度は笑顔でソファから身を乗り出して聞いてくる。
「相手は誰だい? どこかのご令嬢? それとも魔術師? それともまさかの女騎士とか?」
マティアスはケースにフルートを片付け終えると、いつもケースを置いている専用の棚にフルートを置いた。
「それを聞いてどうなる」
「婚約者にするなら、挨拶をしたいじゃないか」
無邪気なフレッドの言葉に、マティアスは鼻で笑った。
「する必要はねぇよ。あいつはもう相手を決めたからな……」
フルートのケースから手を離すと、マティアスはくるりとフレデリックの方へ振り向く。
ソファの背もたれに腕をかけているフレデリックと視線が会うと、マティアスは三つ編みにしてある自分の髪を持ち上げて見せた。
「フレッド。俺らのこれ、邪悪なものを追い払う、神秘の色だとさ」
「え?」
唐突な話題転換にフレデリックはぱちくりと目を瞬く。マティアスの目元は王妃に似て切れ長で少しつり上がっているが、フレデリックは側妃に似て丸くて大きい。
銀髪のせいか、パッと見の雰囲気は似ているくせに面立ちが微妙に異なる異母兄は、きょとんと可愛らしい顔をさらしてマティアスを見ている。
マティアスはくくっと肩で笑いながら、腰を棚に預けて三つ編みの毛先を揺らした。
「王家ほど、俗世の汚いところにまみれた色もないのにな」
王と言いながらもその実、重臣や外戚のしがらみが多い。
多くの人間が己の権力のためにマティアスとフレデリックを利用しようとする。手段を問わないから、マティアスも死にかけたことだってある。
歴代の王族も似たようなもので、赤く染まり、闇に葬られた事実なんぞ有象無象にあるだろう。
今現在、二人ほどそのことを実感している人間はいないに違いない。
そんな毒で曇っているような銀色を、綺麗だと、神秘の色だと美嘉は言ったのだ。
「それ、誰が言ったんだい?」
「内緒」
「ずるい! 私にも教えてくれたっていいだろう!」
フレデリックが抗議の声をあげるが、マティアスはニヤリと笑って三つ編みを後ろに払い、腕を組む。
「俺の理想だよ」
少しだけ遠くを見て、マティアスは切なそうに目を細める。
どことなく大人びた表情を見せたマティアスに、フレデリックがそれ以上声をかけることはなかった。
フレデリックが自室へ戻っていった後、マティアスは引き出しから適当な白紙を用意すると、ペンを手に取った。
美嘉とはあの日以来、何だかんだと話し相手になってもらっている。
王宮で会うこともあれば、マティアスがお忍びで会いに行くこともある。
美嘉との関係は、対等な友人といったところか。
フレデリックに見抜かれたような淡いマティアスの想いは、美嘉には伝えていない。
だって美嘉は決めている。
自分がいたい場所を、彼女は既に決めているのだ。
それにマティアス自身が願った。
美嘉のような人間は、彼女に相応しい人間のいる場所にいて欲しいと。
願って彼女が現れた場所が、この国の騎士団を率いるロイクの腕の中だというのだから、ロイクから美嘉を取り上げるような真似はしたくなかった。
かといって、美嘉を放っておくこともしたくはない。
マティアスにとって、美嘉と過ごす時間は価値があるように思えるからだ。
「次はそうだな……三日後に会いに行くか。この日なら城を抜け出しても大事にはならんだろ。アナクレトの予定も空けさせないとなー」
美嘉のところに身近な護衛を連れていきたくはなかった。だからマティアスは美嘉のところへ行く時は、アナクレトを連れていくようにする。
王族としての権力を振りかざしてアナクレトを連行しているが、なんだかんだ言ってアナクレトも毎回お土産にもらう美嘉考案のおやつを楽しみにしているので、今回も二つ返事で頷いてくれるはずだ。
先触れの手紙を書くために、マティアスはペンにインクをつける。
最初に書くのは、「親愛なる、ミカへ」。
マティアスにとって美嘉は、親しい友人でありたい存在だ。




