13
綺麗に洗濯された元着ていた服を身に着け、ステラに礼を言ってからフェイはサリスフォード邸を出た。
やはり伯爵家というだけあって、その敷地は広大である。
庭園の入り口は割とすぐに分かったものの、この中にギルバートがいるとしてすれ違わずに会うことができるだろうか。
しかし、そんな疑念はものの数分で消え去ることとなった。
庭園の中でも目立つ大木を見上げる形で、ギルバートは静かに佇んでいたのである。
「………ギルバート様」
ギルバートは何やら物憂げな雰囲気を醸し出していたが、このまま帰るわけにもいかないフェイは遠慮がちに声をかけた。
そして彼がゆっくりと振り向く。
フェイの姿をとらえたギルバートの瞳は一瞬驚きに揺れたものの、すぐに視線を大木に戻した。
「…体調は」
ただ一言、フェイに背を向けたままで告げられたその言葉は、その態度とは裏腹に気遣うような声音だった。
「もう大丈夫です。寝ている間に色々とお世話になったみたいで…、忙しい時なのにありがとうございます」
「別に、いい。お前が短剣を取り返してくれたようなものだし、それに…」
なぜかそこで、ギルバートの言葉は途切れた。
どうしたのだろうかとフェイが様子を窺っていると、ギルバートはぎゅっと拳を握りしめていた。
そんなに力を込めたら爪が食い込んで痛いだろうに。
「…俺だけでは、今回の事件の全貌を知ることは不可能だった。俺ではあの悪魔にたどり着くこともできなかった。…お前がいなければ、犯人に制裁を加えることもできなかった」
―――俺は、無力だ
最後の一言は、風にかき消されてしまうほど小さいものだった。
フェイはギルバートの背中をじっと見つめた。
なんとなく、ギルバートの言わんとしていることが分かったような気がする。
―――彼は、自らの手で、犯人を断罪したかったのではないだろうか
犯人が人間であれば、伯爵の権限で様々な罰を法的機関に要請することができただろう。
しかし実際はこんな子供に犯人の処遇を任せることしかできず、現実では犯人は未だに逃走中ということになっている。
ごく限られた人物は真実を知っている。
だがそれだけだ。
大多数の民衆が「サリスフォード伯爵の殺人犯はまだ捕まっていない」と信じている。
真実を知っている我々は、しかしそれを伝えることを許されない。
たとえ「伯爵の財力をもってしても犯人を捕まえることができないのか」と蔑まれたとしても、「かわいそうな息子さん」と憐れまれても、彼は皆が信じている真実を否定してはならない。
ただフェイが行ったことを隠し、オスカーの作り話を語ることしかできない。
そんな自分に、無力さを感じているのではないだろうか。
「貴方にしか、できないことがあります」
気づいたら、声に出していた。
今まで背を向けていたギルバートが、フェイを見て、互いに向き合う形になる。
彼の眉間には大きなシワが刻まれていて、こちらにまで苛立ちが伝わってくる。
「何だそれは?伯爵家を継ぐこととでも言うつもりか」
「それもそうですが、そちらではありません」
「…それ以外に何があるというんだ」
「大事なことですよ、とても」
「息子として、お父様の死を悼み、悲しみ、寂しいと思うことです」
フェイとギルバートの間を、風が通り抜けた。
驚くほどに真剣な色を宿した金の双眸に固まっていたギルバートは、彼女の言葉を何回も咀嚼してやっと飲み込んだ。
「っそれ、は」
「必要のない感情ですか?当主となる貴方にとって」
「…そうだ。養父の死に悲しみや怒りを感じても、寂しい、などと…」
「では、ブレンダン様の死を悲しみ寂しいと思う”親族”の方がギルバート様の他にいらっしゃると?」
―――ギルバート、私は寂しかったのかもしれない
唐突に、生前の養父の言っていたことが頭をよぎった。
まだ養子にもらって間もない頃、かつてギルバートがブレンダンに「なぜ養子にしたのか」と聞いた際の答えだ。
ブレンダンは妻に先立たれ、その妻との間に子はなかった。
そして後妻を娶ることもなかったため、後継ぎには養子にしたギルバートを立てていた。
ギルバートの生まれと育ってきた環境は決して良い方ではなかった。
ブレンダンとの出会いも最悪のものだった。
それなのになぜ自分を伯爵家の養子にしようなどと思ったのか、純粋に疑問がわいたのだ。
そのときブレンダンは「寂しかった」と言っていた。
妻に先立たれ後継ぎもおらず、これから老いて死にゆく自分。
そんな自分を頼ってくれる人がいない中で、「頼ることを知らない」ギルバートと出会ったのだと。
そんな養父を慕っていた気持ちにさえ蓋をしようとした。
ひな鳥が親鳥の後をついて行くように、「他人に頼ること」をゆっくりと教えてくれた思い出を辿るのは、つらくて、寂しい。
この気持ちを蔑ろにしてしまったら、あの人は寂しがるのではないだろうか。
「確かに、その気持ちは貴方の弱さになります。けれど、人間として生きていくのに必要不可欠なものです」
「――――――」
「悲しみはいつか思い出に変わると、私は信じております。貴方はもう、独りではなのですから」
そう言って、フェイは踵を返してサリスフォード邸を去ろうとした。
看病をしてくれた礼は言ったし、引っかかっていたギルバートのことについても話ができた。
だから今回の事件は収束したと、もう満足していたのだ。
―――しかし、彼のほうは違ったらしい
「………っ」
一瞬、息がつまった。
後ろから手が伸びてきて、抱きすくめられたのである。
そんなことができるのは、今この場にひとりしかいなくて。
「…お前のせいで、余計な感情を思い出した」
「そ、れは…申し訳ありません」
最初に感じたのは、衝撃。
それは緩やかに暖かく、穏やかなものに変わっていった。
強くも弱くもない力で絡めとられ、態勢のせいで彼の顔を見ることは叶わない。
寂しく、なってしまったのだろうか。
「確かに、俺は独りではない」
「そうですね。ユリシーズやヒューゴさんもいますし…あとはステラさんくらいしかサリスフォードの者は知りませんが、オスカーだって結構頼りに」
「―――お前は」
フェイの言葉を遮って耳元で囁かれたそれは、聞き間違いでなければ縋るような声音だった。
お前は、違うのか。
そう言っているようで。
「―――私、は」
自分のお腹の前で交差しているギルバートの手に、フェイは自分の手を重ねた。
後ろで、ギルバートがぴくりと肩を揺らしたのが伝わってくる。
「私は、探し物がありますから」
だから、ひとつの世界に留まってはいられない。
きっとこの人の力にはなれない。
私は探し続けなければならないのだ。
私が、人間に成るために。
一章はここで終わりです。