おかえりなさい織姫様
「私、織姫になりたいんですよ」
教室の窓枠にもたれながら、彼女はそう言った。
太陽がさんさんと輝く炎天下の中言うことじゃないだろとか、あんたなんかに織姫役が務まってたまるかとか、吹いてもない風に髪を煽られたようなポーズとってカッコつけるんじゃないとか、ばーかばーかとか、言いたいことがいっぺんに湧き出しすぎて口が追いつかなかった僕が放ったのは、
「……はあ」
という、気の抜けた言葉だった。彼女はあからさまにむっとする。
「はあ、ってなんですか、はあ、って。もっとこう色々とあるでしょう、言うべきことが」
ありすぎた結果の「はあ」なのだが、子どもじみた口論をするほど僕は馬鹿ではない。なので、彼女が求めているであろう答えを自分なりに推理して、言ってみた。
「……なら僕が彦星になればいいでしょうか」
「百億光年早いです。出直してきなさい」
なんか殺意までこもった目で睨みつけられた。絶対に正解だと思ったのに、むしろ逆鱗に触れてしまったらしい。理不尽だ。
彼女は両手を顔の前で組み、まるで少女マンガのヒロインのように乙女チックな顔をして言った。
「彦星ってのはイケメンなんです。非の打ち所のないイケメンでしかあり得ないんです。目がちょっと釣り気味で二重まぶたで鼻と口が小さいくせに顔のバランスは整っていて成績優秀で品行方正もちろん女性の扱いには慣れており美しさのあまり数多の女性を篭絡するも決して己を特別視しないイケメンの中のイケメンだと」
「それ今大野さんがハマってるキャラのことですよね」
「彦星はみっちゃんだったのですか!?」
「違います」
いつも思うがその王道すぎて逆にお腹一杯になるヒーロー、はたしてヒーローの役目を果たせるのだろうか。一週回ってモブくさい。言ったら殺されるから絶対言わないけど。
大野さんは妄想の余韻に浸っているのか、窓枠のそばでくるくると踊っていた。開け放しにされた窓から涼しい風が入ってくる、なんてことはなく、ただ熱線が直撃するだけなので僕はとても暑い。空回りしているエアコンを機能させるには、大野さんの奇行をやめさせるほかないだろう。
僕は下敷きでぱたぱたあおぎながら、重い腰を上げた。
「大野さん。そんなところで暴れてると落ちますよ」
「死なないから大丈夫ですよ」
「ここ4階です。平和な学校でミステリー起こす気ですか」
「あら倉井くん、それは違いますよ。この場合起こるのはサスペンスです」
「殺人犯僕かい」
言いながらさりげなく大野さんを窓枠から引き剥がし、ぴしゃりと窓を閉じた。頬を膨らませてすねる大野さんは完全無視、これでやっと涼しい風が教室内に回り始める。僕が元いた席に戻るのに、大野さんは風船みたいになったままついてきた。
ふくれたほっぺたが気持ち良さそうだったので、僕は人差し指で突いてみた。ぷすー、とマヌケな音を出しながら空気が抜けるも、何の意地なのか大野さんはふくれっつらをやめなかった。空気を再装填して風船に戻り、また僕が突いてへこませる。お互いだんだん楽しくなってきて、しばらくそのまま、無意味な遊びを続けた。
「って、違いますよ違います! 私は織姫になりたいのです! 風船になるつもりはありません!」
「子どもを喜ばせることはできますよ」
「織姫は大人も喜ばせられるじゃないですか。織姫のほうが上です」
どういう序列でそうなるんだ、とはツッコマないでおいた。
いい加減ここを掘り下げないと話が先に進みそうにないので、立ったままふんぞり返る大野さんを見上げながら、僕は問う。
「どうしてまた織姫になりたいんです。僕には理解しかねます」
「そうですか? 女の子ならみんな思うことじゃないですか。織姫と彦星、天の川をへだてた大宇宙の恋……」
うっとり、と大野さんは表情をとろけさせる。頭の中は宇宙に飛んでいることだろう。
1年に1度だけ出会える恋人同士の話といえば、織姫と彦星の話、つまり七夕伝説ほど有名なものもない。男はともかく、女が悲劇の恋に惹かれてロマンスを感じるのも、まあ分からなくはない話だ。1年にたった1度の逢瀬でやることなんざ決まってんだろ、と夢のない人間は思ってしまうものなのだが、どうやらこの大野さん、女のはしくれだけあって夢見る少女的思考も持ち合わせているらしい。
だが、僕はそこに待ったをかけた。
「でもよく考えてみてください。1年に1度ですよ。大野さん、前に言ってたじゃないですか。恋人とは1週間会えないだけで死んでしまうと」
「ええ、うさぎメンタルですから」
「そんなんで織姫になりたいなんて、どの口が言うんですか」
「私の彦星は1週間に1度会いに来てくれる彦星だからいいんですよー」
「どうやって」
「……気合と根性」
夢のない話である。そんなもん大多数の昔話がハッピーエンド迎えるわ。
白々しい僕の視線から逃げるように、大野さんは自分の鞄をあさり始めた。中から取り出してきたのは、長方形の色紙と油性ペン。それを僕の机に一つずつ置きながら、大野さんは言った。
「というわけで、我ら雑談部は七夕のお願いごとを書きましょう」
「……いいですけど。いい加減、その雑談部ってのやめませんか。放課後に勝手に集まって駄弁ってるだけなのに」
「ええー。部活何やってるか聞かれたとき、帰宅部って答えるよりマシ――
「なわけないでしょ」
すっぱり切ると、大野さんはへこんでいた。無視。
しかしまあ、七夕の願い事。すなわち短冊か。こんなものを書くのは幼稚園のとき以来な気がする。小中と男子校に通っていたせいか、こういうイベントには縁がなかった。雲の上というか別次元というか、ともかくそういう世界のイベントだと勝手に感じていた。
「どうかしましたか倉井くん。願いごとを決めかねてでも?」
「いや、別に。こういうの、久しぶりだなって思ってただけです」
「倉井くんがですか? ……って、ああ、そうでした。倉井くん、私と逆なんでしたっけ」
そっかそっか、と一人納得して自分の作業に戻る大野さん。見れば、すでに短冊にペンを走らせている。垣間見れる表情は意外にも真剣そのものだ。ちょっと興味が湧いた僕は、後ろから彼女の短冊を盗み見ることにした。
「参考までに大野さんは何を……って」
「あ、み、見ちゃダメですよー!」
慌てて体で隠すがもう遅い。僕はしっかり見てしまった。『織姫様になりたい』という願いを。
大野さんの肩に手を置く。みしみしと力を込める。
「それを本人にお願いしてどうしようってんですか」
「いや、えっと、その……やはり一番の近道は本人に直接聞くことであると……」
「アイドルに向かって『アイドルになりたい』って言ってるのと同じです。大野さんは、僕がみっちゃんに向かって『みっちゃんになりたいです』って言ってるの目撃したらどう思いますか」
「殺したくなります」
「物騒ですね! でもそういうこと!」
だいたいそれを短冊に書いてどうするのだ。織姫から返事がくるのか。NASAもびっくりの宇宙との交信になってしまう。
僕は大きなため息を吐いた。いくらなんでも宇宙との交信を許すわけにはいかない。もっと有意義なことに願い事は使うべきだろう。そう、たとえば、ちょっと頑張れば叶いそうなこととかに。
なぜかしくしく泣き始める大野さんのもとから短冊を取り上げ、代わりに、僕がさらっと書いた短冊を滑り込ませた。大野さんが顔を上げる。
「倉井くん……?」
「それでいいでしょ、願いごと。平和な学校でSFやるわけにもいきませんから。あくまで現代の学園モノ、で」
目をぱちくりとさせていた大野さんは、おもむろに僕の短冊をつまみ上げ、読んだ。
「『願わくば来年も共にあらんことを』……」
どこか硬い声色だったように、僕には思えた。緊張ではなく、恐怖でもなく、胃の中の鉛を口から吐き出すみたいな声。ごとりと教室の床に落ちた衝撃は、しっかりと僕のほうまで伝わってきた。
僕は黙って大野さんを見ていた。エアコンの冷風が背筋を撫でてぞっとさせるのも我慢して、僕の冒険を、彼女がどう受け取るのか気になって。身じろぎしない大野さんの背中を、ただ、じっと、見る。手に汗がにじみ、喉がカラカラに渇いてきて、それが全部僕の緊張のせいなんだと分かった頃、大野さんはようやく、口を開いた。
「一緒にいましょう。来年も、きっと。……ね?」
振り返った彼女はひどく悲しそうな顔を浮かべていて、危うく僕まで、釣られて眉を下げてしまうところだった。言いだしっぺがそんなことじゃ情けないにもほどがある。イメージの中の僕を殴り倒して気合を入れてから、僕は毅然と言った。
「きっとじゃなくて、絶対。ですよ」
大野さんは笑った。目じりから一粒、涙を流しながら。
その日から1年。
七夕のお祭りをやるとかで今年は夜の学校が解禁になり、クラスメイトの喧騒を抜け出した僕は、あの教室へ来ていた。なぜ、と聞かれても困る。強いて言うなら、向かうべきだと誰かに背中を押されたからだ。その誰かが僕自身だということに気づいたのは、明かりもないのにぼんやりと浮かびあがるその人の姿を見たときだった。
向こうは僕に気づき、ふわりと微笑んだ。吹いてもいない風に髪があおられ、それを手でおさえている。
「どうして?」
聞かれたことの意味は、なんとなく分かった。一つではなく、三つも四つも意味を込めた言葉だったようだけど、僕は一番答えたかったことにだけ、答えた。
「大野さんと二人での願いごとを叶えにきたんです」
ポケットから、もうくしゃくしゃになってしまった短冊を取り出して、見せた。大野さんは一瞬驚いたようだったけれど、すぐにまた微笑みを浮かべて、窓枠に座って空を見上げた。僕もその横に並んで、しかし空は見ずに、窓に背中を預けた。
「ごめんなさい」
「謝ることないじゃないですか。ひょっとして僕の心配してます?」
こくこく、と大野さんは頷いた。分かりやすい人だ。
「心配してもらわなくても、僕は驚くほど健康体ですし、それに大野さん以外の女友達だってたくさんできましたよ」
「友達?」
「はい」
と、答えて振り返ってみて、僕は驚いた。大野さんは嬉しそうにしているどころか、ちょっとすねているようだったからだ。風船みたいに頬をふくらませて、僕をじとっと睨んでいる。
突いてみたくても突けないもどかしさを感じつつ、僕は言ってみた。
「ひょっとして嫉妬してます?」
斜め45度に首を振られた。肯定なのか否定なのか分からない。縦の動きのほうが若干強かったような気がするけど定かじゃないし。
僕は少しだけ、何を言うべきか考えた。大野さんが嫉妬している前提で話を進めるとしても、何に嫉妬しているのかいまいちよく分からない。僕が健康体なことならそりゃそうだろうけど、友達が増えたことでも納得はいく。両方という線もあり得る。
…………。いや、違うか。
「だって、仕方ないじゃないですか」
僕は言った。
「あの日あのとき、僕とあなたは友達ですらなかったんです。僕はそう思ってました。なんというべきか……同年代の女子として一番身近な観察対象、くらいにしか」
「…………」
大野さんは黙っていた。何か言いたそうにしていたけど、気づかないフリで続ける。
「おかげで、あなたが普通の女の子じゃないってことだけは、痛いほど分かりましたよ。ええ、そりゃ痛かったですとも。同年代にもそんな人がいるんだと思うと、やるせない気持ちでいっぱいでした。全然そう見えなかっただけに余計、ね」
なんとかしてあげたい。本気で思っていた。思っていただけで何も行動には起こせなかったけど、短冊に書いた願いごとは僕なりの決意でもあったのだ。いくらでも頑張る時間はあると思い込んでいたあの頃の、僕の精一杯だった。
結局、大して時間もくれないまま、大野さんは逝ってしまったわけだけど。
「友達」
「……大野さん?」
呟くような小さな声に、僕は振り向く。大野さんはうつむきながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「友達。……ずっと」
僕が困惑していると、大野さんはそっと両手を僕に差し出した。抱きしめてほしい、とでもいうみたいに。けれどうつむいたままで表情は読めなくて、何が言いたいのかも分からない。友達同士でハグなどしないだろう、僕たちは日本人なのだから。きっと別の意味があるはずなのだが。
どうしたらいいのか分からず挙動不審になる僕に、大野さんはひときわ大きな声で言った。
「友達!」
そして、ぎゅっと握った拳を、自分の胸に当てた。伝わってほしいと懇願するような瞳で、僕のことを見つめてくる。
僕のほうに差し出した両手は、僕を包みこむような感じだった。続く今の動作は、きっと自分のことを指しているのだろう。僕を包んだあとに自分を指す……そこに加えて、友達、という一言。
もしかすると、大野さんは……。
「すみません……」
情けないやら悲しいやら、よく分からない沈んだ感情が胸に去来して、僕はうつむいた。彼女のために何かしたいと本気で思っていたくせに、それよりもっと前の段階からすれ違ってしまっていたなんて、笑い話にもなりやしない。嫌っていたほうがまだマシだったとさえいえるだろう。僕のこれからは、彼女のここまでだったのだ。
大野さんは眉を下げ、悲しそうに僕を見上げていた。ひょっとして僕の反応が意外だったのだろうか。
「大野さんは悪くありません。むしろ、その気持ちには感謝しなければならないくらいです。僕が落ち込んでいるのは……自分自身の矛盾のせいですから」
それだけ言うと、僕は窓枠から離れた。名残惜しそうにする大野さんだが、その場から動こうとはしない。きっと動けないんだろうと思う。視線だけが僕を呼び止めてきていた。
教室の中ほどまで歩いた僕は、大野さんのほうへと振り返った。暗がりの中、蛍のように淡白く光る大野さんに、できる限りの笑顔を浮かべて言う。
「織姫にはなれましたか?」
この人ならなっていてもおかしくはない。いつかの皮肉を返すようだけど、それは違う。大野さんがあの日願ったことが叶ったのかどうか、世界で唯一その願いを知っていた僕なら、聞いてもいいはずだ。
大野さんはしばらく目を丸くしていたが、ふと唇に人差し指を当てて笑い、そして僕を、音もなく指差した。
「彦星」
「……なれと?」
ふるふる。大野さんは首を振る。僕は苦笑して返した。
「待ってるよ」
大野さんがひときわ優しい声でそう言って、窓枠に立ち上がった。すると、彼女の体がよりいっそうまぶしく光り始め、すぐに人間の体は見えなくなった。ただ明るい星へと変貌した大野さんは、ほんの少しの余韻も残さず、吸い込まれるようにして夜空へ消えていった。慌てて追いかけて空を見上げても、満点の星空が広がっているだけ。
「こんなにあるんじゃ、どれだか分からないなぁ」
どれか一つは大野さんなのかもしれない。そう思うと、僕の心は温かくなった。非現実的でSFチックだって構わないじゃないか、そのほうが素敵で、幸せなんだから。
開きっぱなしだった窓を閉める。しっかりと鍵もかけて、静かに教室を出る。二度と訪れることはないだろう教室を、僕は封印した。立ち去る直前、部屋の中から大野さんの無邪気な笑い声が聞こえてきた気がしたけど、開けようとは思わなくて、僕は駆け足でその場をあとにしたのだった。