愛する人のために未来を捨てたはずの、王弟のお話
子供は、親の愛情に敏感だ。
少なくともハーキースは、幼い頃から気づいていた。そして兄のエドガストも。
「ハーキース、こちらにいらっしゃい」
そう言って微笑む母と、
「まぁエドガスト。あなたは活発だこと」
そう言って微笑う母の、愛情の違いに。
母は、大人しく読書好きだったハーキースを、より愛していた。もちろん、エドガストを嫌っていたわけではないだろう。だが、外で泥だらけになりながら剣を振り回して遊ぶエドガストに、時折途方に暮れた視線を向けていたことを、ハーキースは知っていた。恐らくは、兄も。
兄は、母の愛情を取り戻そうとした。それはいつだってまずいやり方で、だ。弟であるハーキースを苛める。母の大切な物を隠す。兄が母へ愛情をせがむ度に、母は兄から遠ざかっていった。ハーキースが取りなそうとすれば、母はよりいっそうハーキースを愛した。あなたは優しい子だと言って。
「なんで、お前だけ」
兄の傷ついた目に、ハーキースは目を逸らした。悪いことをしていたわけではない。だが生まれる後ろめたい気持ちは、兄から目を逸らさせた。兄は、エドガストは、それによっていっそう孤独を募らせたのだ。
一方で、父は兄を愛した。
豪快で、磊落。繊細さより豪放さを好む父は、自分によく似た兄を愛し、ハーキースを叱咤した。母はそれを憐れんで庇った。愛する母に庇われる弟が憎くて兄は父に加担した。父を責められない母は、その分を兄に向けた。
終わることのない、負の螺旋だった。
誰に言われるでもなく、ハーキースは兄が王に相応しいと悟っていた。
それは、王である父と兄がよく似ているから、という幼い理屈もあっただろうが、見ていると分かるのだ。
「殿下、ぜひ剣のお相手を!」
エドガストは近衛の者から慕われていた。
「全く、殿下は思い切りの良い……」
そう苦笑する老臣にも、エドガストは愛されていた。
一方で、一度読んだだけの書物を諳んじることのできるハーキースの聡明さこそ、王に相応しいと言う者もいた。筆頭は……母だった。
一度読んだだけでは、人間というものは記してあることを覚えられないらしい。それを知った時、むしろハーキースは戦慄さえ覚えたものだ。では、書物の知識を取り出したい時、他の者はどうするのだ?何度も書物と向き合い、何度もページをめくるのか?”そこ”に書いてあるのに?
ハーキースにとっては当然の才能をもって王に相応しいと言う者を、ハーキースは疑念をもって眺めていた。たかが本を諳んじられるほどで人を統べることができるのか?兄のように、自ら臣下と交わり、慕われる姿こそが王の理想ではないのか?
だが、エドガストに瑕疵がないわけではなかった。
エドガストは、王になれば何でも手に入ると思っていた。尊敬も敬愛も……母からの愛も。
ハーキースは、当時望まぬ王位争いに疲弊していた。
母のやんわりとした、だが強い意志を秘めた視線に、応えられなくなっていた。そらしたその先にいる、家臣を気取る若者達にも。
だから、普段は行かない王宮書庫に向かったのも、ただの偶然だった。いつもなら、蔵書数の多い、図書館に行く。だが、最近ではそこですら取り囲まれることが多く、嫌気が差していたのだ。
そこで彼女と出会ったことは、確かに彼にとっては救いだったのだ。
その人は――少女と呼ぶ方が相応しいように思う年齢の彼女は、艶やかな黒髪をしていた。生き生きとした仕草でページをめくり、夢見るような深草色の目で微笑む。
「――その本、面白いのかい?」
気づけば声をかけていた。
驚いたように振り仰いだ、どこか無防備な表情はどこまでも美しく。
凜とした声でハーキースの迷いを吹き払ってくれたその日のことを、決して忘れることはない。
「どちらも、王の側面を表しているのではありませんか?全てを統治し、君臨することはすなわち、民のために全力を注ぐことに他なりません。……同じ事でしょう?」
彼女は、ローレイラ・ダラム侯爵令嬢はそう言ったのだ。
それらの側面は、エドガストが持つ側面の表裏であった。
何もかもを自分の思い通りにしたいという支配欲に満ちあふれた側面と、統べる対象を豊かにしたいという、優れた指導者としての側面。ハーキースはそれまで、どちらかが正しくてどちらかが間違っているのだと思っていた。恐らくは支配欲が間違っているのだろうとも思っていた。もしエドガストが誤っているのなら、それを正すために自分は王位継承争いに名乗り出なければならないのか、とも。エドガストの間違った側面を正すために、自分が行動しなければならないのかと。
だがローレイラは、それは物事の両方の側面なのだと、ハーキースに教えてくれた。その言葉はしっくりとハーキースの胸に納まった。
王として相応しいエドガストは、同時に王としての悪に取りつかれうる。それを止めることは重要だが、エドガストが王位に就くこと、それ自体に間違いはないのだ。
兄と、血みどろの争いをせずとも良いのだ。
ハーキースの肩からふっと力が抜けた。
意図せず、安堵の笑みが洩れた。
「聡明なあなたに、心からの敬意を」
そう言ったハーキースに、彼女は頬を赤らめて微笑った。
いつものように薄曇りの日差しが書庫に降り注ぐ。
不意にハーキースは悟った。
この人と、ずっと歩いていくのだと。迷った時、苦しい時、喜ばしい時、嬉しい時。この人のこの笑顔と共に、自分は在るのだと分かった。
それは、叶わぬ夢に過ぎなかったのだけれども。
兄は結局、王になる前に母を失った。
母と分かり合える機会を、永遠に失った。どこにも向けようのない悲しみを、兄はハーキースに向けることで薄めようとしていた。ハーキースはただ、黙ってそれを受け止めた。
幼かった頃、兄と母、そして父に、何もできなかった。負の螺旋を、断ち切ることができなかった。その贖罪だと思っていた。その贖罪は、自分自身だけで果たされるとも、過信していた。ハーキースは信じていたのだ。兄を。そして、自分自身を。
その日。
暑くもなく寒くもない、晴れてもいず雨でもないその日。
ハーキースはローレイラとの結婚の申し込みのために、ダラム侯爵邸を訪れていた。
ダラム侯爵は、結婚の申し込みに愉快そうに笑った。もちろん、臣下としての礼儀は尽くしていたが。
宰相の親しい友人であり腰巾着でもあるこの男が、食えない男だというのはその瞬間にハーキースに知れた。恐らく、彼は娘を高位の男に嫁がせるために、ああして王宮の書庫にやっていたのだと。そうして釣れたのが自分、というわけだった。
ハーキースもまた、同じように笑った。
聡明でありながらどこか無邪気で夢見がちな彼女の父らしくない強かさは、だがハーキースにとってはどこか好ましく思えた。彼なら王弟の妃、という彼女の立場をうまく利用するのだろうという、奇妙な信頼さえ芽生えていた。
そこに訪れた、凶報。
ハーキースは、傷つけられた彼女の姿を見ることさえ叶わなかった。
「お帰りください、どうか。そして先ほどの話はなかったことに」
しばらく席を外していた侯爵は、ハーキースに向かってそう言った。
「彼女の傷が癒えてからで構いません。私は、待ちます」
その時、ハーキースは侯爵が、彼女を修道院にでも入れるつもりだろうと思っていた。陵辱された女性が辿る未来のうちの、一つだ。
侯爵は、底光りのする目でハーキースを見据え、唸るような声で予想外のことを言った。
「お断りします。……娘は、陛下に嫁がせますので」
地の底が、抜けたようだった。
天は裂け、地が割れた。
それなのに平然と立っている自分と侯爵の姿が、奇妙に思われた。
「どう、いう……」
喘ぐような自分の声を、どこか遠くに聞いた。
「――宰相に成り代わります」
侯爵は、全く関係のないことを突然喋り出した。ように、思えた。ハーキースは惚けたように侯爵を見守った。
「ずっと考えていました。宰相は素晴らしい方だ。ですが安定した政治は、腐敗を生み出す。宰相は、いささか長くその座にいすぎたのです。誰かが新しい風を吹き込まねばならない。そう思って私は、娘を誰か有力な者に嫁がせようと思っていました。あなたなら最高だと、娘の幸せのためにも最善の選択だと、そう思っていました。心から」
ハーキースは僅かに首を振った。過去の話をしている、そのことに対する拒否を示したのだった。
「ですが娘を穢した陛下に責任を取っていただく、そうすることで陛下に恩を売ることができるのなら……」
「やめてください!!」
思いがけず大きな声が響いた。そのことに一番驚いたのはハーキースで、侯爵はその大音声を平然と受け流した。
「戦や飢饉に用いる備蓄が、底をついているのです」
何かを言いかけて、ハーキースは口を閉じた。
「ここ数年の、豊かな実りに胡座をかいて、さらなる富を求める愚かな者達が手をつけました。誰も彼らを罰せない。宰相の身内だからです」
侯爵は、天井を仰いで疲れたように目を閉じた。
「これが詰まらぬものに思えるような汚職で、陛下の御代は始まりました。……私は、どうにかしたい。私なら、どうにかできます」
そう言って侯爵は疲れたように椅子に座り込んだ。ハーキースの許可を得ずして行われた動作だが、とてもハーキースにはその非礼を責める気にはなれなかった。
「……彼女は。彼女はどうなるのです?陵辱した相手に嫁げと言われた彼女は……」
ハーキースの言葉に、侯爵は自分の掌を見つめて笑った。
「――あの子は、こんなに小さかった……。あぁ、まさか私があの子を殺すことになろうとは……」
侯爵の掌に、小さな水滴が幾つか落ちた。それを見てハーキースは、侯爵の意志が決して覆らないだろうことを知った。
侯爵邸を出たハーキースは、馬車を郊外に止めさせて一人、王都を見下ろせる丘に登った。
本好きな彼にとって、汗が滲むほどの運動だった。息を切らせて立ったその丘の頂上で、遥か下に見える王都を眺める。そうして、夢想する。
城を、煙が包む。
恐らく王都の民は、怯えて家に閉じこもっているだろう。
大通りを疾走する騎馬の群れ。時折、この丘にすら聞こえてくる、怒号。
ハーキースが宰相と結び、兄と侯爵から王位と権力を奪う。そうすることで生まれる、混沌を思った。
慣れ親しんだ城を、兄の血で染め、彼女を取り戻す。
王が、なんだ。
王に相応しくない、それがなんだ。
全てを欲する者が王に相応しいと言うのなら、自分だって王に相応しい。
侯爵が、娘を犠牲にしてまで守ろうとした民が踏みにじられる。その夢想さえどこか甘かった。
ハーキースは、水面下で宰相に近づいた。
侯爵の考えに気づいていない宰相にとって侯爵は、未だ忠実な友であり使い勝手の良い駒だった。
初めは、現状維持の政策を採る兄に忠誠を誓っていた宰相はしかし、侯爵がその座を引き継ぐとついにその日、知ったのだった。
「やれやれ……長年の友に裏切られる。これほどの悲劇がありますかな、殿下」
老人、と言っても良い年齢の彼は、灰色の髭を撫でながら穏やかにそう言った。目線ですら優しげだ。怒りの気配はどこにもない、静かに笑む老人。
「それで。殿下の欲されるものはなんでしょうかな。王妃以外ならなんでもさし上げましょう」
老人の言葉に、ハーキースは訝しげに顔を上げた。ハーキースの望みはただ一つ。それをこの男が知らぬとも思えなかった。
「……あなたならお分かりでしょう?」
ハーキースの言葉に、宰相はまるで孫を宥めるような優しい笑顔を浮かべた。
「殿下には、私の孫娘をさし上げますのでな。王妃は要りません」
ローレイラを”要らぬ”という宰相の顔は、一瞬だけ不快げに歪んだ。それを、ハーキースは見逃さなかった。
不意に宰相は嗤った。
「まさか、そんなお覚悟もなく王位を望まれると仰せか?長年の友が裏切り、愛する娘を売る世界ですのになぁ。この世界は、最も欲しいものが決して手に入らぬようになっておるのですよ」
宰相はそういうと、なおも嗤い続けた。
夕闇の中、ハーキースは再び丘に立つ。
幾つもの灯火が煌めく王都をじっと眺める。
ローレイラが憎悪を込めて美しく笑う姿を、思い出した。体から満ちあふれる憎悪を、ただひたむきに兄へと向けていた。
美しい、哀しい姿だった。
彼女のために、彼女の憂いを取り去りたかった。そのために王都を血で染める覚悟さえした。それなのに、彼女を取り上げられると聞いて尻込みした。
「――ははっ」
ハーキースは空しく笑った。
誰もが、失う覚悟をして進んでいた。あれほど無垢で無邪気なローレイラすら、己の命を賭けて兄に対峙していた。
失えない、そう思うハーキースだけが惰弱で脆かった。
この命を賭けて兄を殺す。そう考えたこともあった。そして、滅亡する王家を思った。民を巻き添えに、貴族もろとも滅ぶ。ローレイラさえも。
「なんて……なんて私は無力なんだ……」
ハーキースには、兄に取って代わるために使える臣下がいなかった。もちろん、自ら手放した、とも言える。だが手放した力の大きさを思い、嘆くしかない己が惨めだった。
「……考えろ」
ともすれば、己の惨めさに浸りたがる自分を叱咤した。
ハーキースは無力で、兄は王のままだ。なればローレイラは王妃のままで居続けねばならない。その彼女が、かつてのように微笑えるために、ハーキースにできることはなんだ。誰の血を流さずともできること、時間がかかってもいい、彼女のためにできることを。
「考えろ、ハーキース……」
彼の影は闇に溶け、星が瞬く頃になっても彼が動くことはなかった。
「……良き王妃に、なってはいただけませんか」
ハーキースがそう言った時、ローレイラが浮かべた涙を、彼は喜びをもって受け入れた。喜びと痛みに、胸が掻きむしられる。その苦痛に耐えるため、深く頭を下げた。深く、深く。
嫌だと首を振る、愛おしい人。共に歩むはずだった未来。せめて、未来の彼女が笑えるように。
「兄を殺して、それであなたが手に入るならそうしたい。血塗られた王座でも、あなたがいるならそれでも構わない。……だが、きっとあなたは殺される。私を惑わした女性だと疎まれて、暗殺されるでしょう。どれだけ私が守ろうと、悪意はあらゆる所からあなたに襲いかかる」
失いたくない。
失わないでいられるなら、どんな形でもいい。
例え”良き王妃”を演じる過程で、兄と心通わせる日が来たとしても、構わない。生きて、笑っていてくれるなら。
恨んでいい。憎んでくれたって、いい。
それなのに彼女は、
「……全ては、あなたのために」
と言った。
嬉しい。彼女が自分を想ってくれているのが、躍り上がるほど嬉しい。そうして流させる涙が、彼に己の罪深さを思い出させる。
いつか。
ハーキースは思った。
いつか、彼女が笑えるようになったら。その時こそ、愛を伝えて断罪を請おう。
深く頭を下げて、ハーキースはそっと微笑った。
ハーキースは、兄が二人きりで彼と会うことに驚いた。
騎士の控える庭園かどこかで会うことになるかと思っていたのに、面会を申し入れたら深夜の、王の私室を指定された。
「二人というのは久しいな、ハーキース」
にやっと笑う顔を見て、ハーキースはため息をついた。右手に頭を預けて足を組み、偉そうに座ってみせる姿は父王にそっくりだった。つまりは、父がよくやっていた体勢をとらなければならないほど兄が緊張している、ということでもあった。
「……いい加減にしてください、兄上」
ハーキースは、あらかじめ順序立てて話そうと考えていた。その考えをすっぱり放り投げた。
胸元から黒い小瓶を取り出す。
「あの人をこれ以上傷つけるなら、これを飲んでください」
そう言って、毒薬の入った小瓶を、二人の間に置かれていた机に置いた。真顔になったエドガストは、ゆっくりと身を起こしてその小瓶を手に取った。そして掌に握り込んでくるくると弄んだ。
「――お前が、羨ましい、ハーク」
幼い頃に呼ばれて以来、使われたることのなかったハーキースの愛称を、エドガストは呼んだ。
「あの人があなたを憎んでいるからですか?」
そう問いながらも、ハーキースはそれが違うということを半ば確信していた。
ローレイラの憎悪に満ちた、凄みさえある笑顔を向けられてエドガストは……微笑っていたからだ。満足そうな笑みなら、或いは弱った獲物を面白がる獣の戯れと取れたかもしれなかった。だが兄の笑顔は、どこか陶然としていた。そしてハーキースはその気持ちが痛いほどに分かってしまうのだ。
愛する人、それが片方だけの思いならそれだけ、自分だけを見つめてくれる強い眼差しに囚われないはずがなかった。
兄がローレイラを愛している。
彼女を陵辱した男が、彼女を愛している。
そうハーキースに確信できたからこそ、彼女に懇談したのだ。”良き王妃になって欲しい”と。
「違う」
ハーキースの予想通り、エドガストはそう答えた。
手元の小瓶をくるくると手の中で回しながら、兄は呟いた。
「……お前が、王妃のために死ねるからだ」
エドガストは、手の中の小瓶をとんっと机に置いた。
「俺は、死ねぬ。王だからな」
彼は眼差しを遠くに投げて、椅子の背もたれに身を預けた。
「お前の方が、王には相応しかったのかもしれん。だが王なのは俺だ。王は、死んではならぬ」
エドガストの言葉に、ハーキースは自分の殺意が見透かされていたことを悟った。殺意どころか、それを諦めたことさえ知られている。そう、ハーキースは感じ取っていた。そして、そのことに対して何も言わないことで、ハーキースは兄からの赦しも感じていた。
「……あの人を、苦しめないでください。あんな笑顔は、あの人に相応しくない」
たまらず、彼は吐き出した。兄の赦しなど欲しくはない。兄を赦していないのは、自分の方だというのに。
「俺は、王妃の泣き顔を見た。苦鳴も聞いた。悲鳴もだ。……俺が知っている笑顔は、あれだけだ。相応しいのかどうか、知りようもない」
ふっと片手を開いて、エドガストはそれに見入った。
「――不公平だと思わぬか。俺の方が早かった。生まれるのも、王妃を見出したのも」
ハーキースは兄を凝視した。
「そんな、まさか……」
「近衛の者には有名だった。書庫の妖精だと言われてな。興味本位で覗いたことがある。……すぐに後悔したが」
エドガストはちらっとハーキースを見て笑った。自嘲の籠もった笑いだった。
「王妃にしては、幸せにできぬ。そう思ったのだ。垣間見る横顔だけで、良かった。お前が……お前が、彼女の心を奪うまでは」
エドガストは、見つめていた方の掌で顔を覆った。
「お前は、みんな奪うのだ。母上も、彼女も。……俺が奪い返して、何が悪い」
そう言いながらもエドガストは、覆っていた手を外そうとはしなかった。
思わずハーキースは叫んでいた。
「あなたは勝手だ!!」
彼は立ち上がった。
「奪い返したいなら、心を奪えば良かった!!あんな風にあの人を苦しめるしかできないやり方など、どんな理由があっても認めない!!」
普段激昂することのないハーキースの激情は、簡単には収まらなかった。
「あなたは昔からそうだ!母上の大切なものを奪う。母上が嫌がることをする。そんなやり方で愛情が手に入るはずもないのに!!……あの人にも、同じなのですか?あの人にも、愛情が欲しくて苦しめ続けているのですか?!」
「報いは受けている!!」
「詭弁だ!!傷つき続けているのはあの人の方なのに!!」
兄弟は睨み合った。
お互い、腰を浮かせる勢いで息を荒げて睨み合い、威嚇し合う。
荒い呼吸音が、しばらく部屋の空気を震わせていた。
初めに折れたのは、兄だった。彼は力なく椅子に座り直し、深くもたれ掛かった。
次いで弟も、ゆっくりと椅子に座り直した。
「――どうすればいい」
兄の掠れた声が響いたのは、吐息が部屋の空気を脅かさなくなってからだった。
ハーキースはじっとエドガストを見た。
「どうすれば、王妃は笑う?何をすれば、喜ぶのだ」
頼りない兄の声を、しかしハーキースは笑うことができなかった。彼女が本当に望み、喜ぶことを、果たして自分が知っているのだろうか。どこまでいっても、自分は彼女ではないのだから。
「……労ってください。気遣ってください。優しい言葉を、かけてください。あの人が嫌がることを、しないでください」
戸惑いながらも、言葉は淀みなく彼の口から洩れた。
「――俺は、お前ではない」
「知っています。あの人だって知ってます。兄上は兄上のままで、あの人を気遣えばいい。時間はかかるでしょうが、しないよりはましです」
ハーキースが冷たく言い捨てると、兄は苦笑した。
「しないよりはまし、か。なるほど」
兄は、じっと机の上の小瓶を見つめた。
「おいハーク」
エドガストは言った。
「俺が本当に王妃を苦しめるしかできぬのなら。お前、俺の後を継ぐ準備をしておけ」
そう言って、エドガストは小瓶を再び握り込んだ。
「俺の王妃を、くれてやる」
傲慢に笑おうとして、エドガストは歪んだ笑みを浮かべた。
あの時、どれだけ兄は本気だったのだろうとハーキースは思う。
翌日から、エドガストは見事に変わった。
ハーキースが思わず笑い出しそうになるほど、エドガストは変わったのだった。
おずおずと話しかけては、一見和やかに、だが”良き王妃”の仮面で冷たくあしらわれる。それは氷の女神像に恋うる少年の不器用さにも似て。
そしてハーキースは気づいていた。
彼女の瞳の奥に、戸惑いの光が宿ったことに。
ハーキースは、迷う度に王都を見下ろす丘に来るようになっていた。
あの日からエドガストは、容赦なくハーキースを政治の場に引きずり出すようになった。時には王に近い役割さえ任すこともあった。そうした役目を必死にこなしてようやく3年。
「――愚かだったな……」
かつて、この王都を燃やす夢想に胸躍らせたことがある。
必死になってこの国の政治に携わるうちに、そんな過去の自分には決して戻れない己がいることを自覚する。
今でも、何が最善だったのかを考える。
あの日、陵辱されたあの人を屋敷から攫って逃げれば良かったのか。そうして他国にでも逃れれば、或いは……。
もっと初めから、王位を兄から奪っていれば良かったのかもしれない。人に交わり、家臣と交わり、兄の手足をもいでいって。そうすれば、或いは……。
いずれも、夢想に過ぎなかった。過去はなんとしても変えることができず、そして彼女は今や、国民に慕われる王妃であった。
どんなに硬い氷も、春の日差しに溶けていく。それに似て彼女の心が徐々に溶け始めているのをハーキースは気づいていた。それが、胸を抉られるほど苦しいものだということを、今になって知った。
愛する者が、自分以外に目を向ける。今になって幼かった兄の心痛が、分かった。
「今も、愚かだ……」
幸せになって欲しいと願った。
王妃が王と想い合えるのなら、それが一番だと思う。だがハーキースの感情は納得してくれない。煮えたぎるような嫉妬を覚えている。
この丘に来る度に、思い出す。全てを破壊して、彼女を取り戻そうとした、己の愚かさを。平穏な今を、受け入れる。嫉妬ですら、受け入れよう。彼女が笑って、いられるのなら。
ハーキースと王を震え上がらせた、ローレイラの出産は無事に終わった。
王妃の義務すら見事に果たした彼女は、今や完璧な王妃であった。
ハーキースは、思うことがあった。このまま適当な女性と結婚して、彼女を自分から解放するべきではないのかと。若い頃の悲恋を綺麗に葬って、そうしてお互いに新しい道を歩み出すべきではないのかと。
「殿下」
その思いも、ローレイラの声を聞く瞬間に消えてなくなる。
「妃殿下」
頭を深く下げる。そうしなければ、見つめすぎてしまう。ハーキースを認めた瞬間にふっと”王妃”の仮面が緩む、彼女の目を。
エドガストは狡猾にも、ハーキースに縁談を勧めていた。
そのどの令嬢も、王弟の妃という身分が大好きな女性ばかりで、だからエドガストは
「愛せなくとも構わん。お前の妻になるだけで勝手に幸せになってくれるのだから」
と言い放った。
「私には愛する女性がいますのでご遠慮します」
今や臆面無くそう言って断る弟に、兄の顔は引きつる。兄の策謀はさておき、彼女の重荷になりたくないと思うハーキースには悩ましい問題でもあった。だが。
「殿下、もしお好きな方がいらしたら……」
他ならない愛する女性にそう言われ、ハーキースはにっこり微笑んだ。微笑んで、断った。
「いやです」
王妃の提案を真っ向から拒否するハーキースに、彼女は困惑したようだった。
「ですが――」
「心に決めた方がいるのでお断りします」
ハーキースは清々しい顔で笑った。
彼に結婚を勧めた彼女の顔を見て、ようやく心が決まったのだ。そんなに辛そうな顔をしてくれるのなら、一生を捧げてでも重石になろう、と。
「その方が、ようやく心から笑えるようになったようなので、その幸せを見守るまでは結婚できません」
「……それっていつまでですの……」
王妃は眉を寄せた。
「えぇまぁ、一生ではないかと」
むっとしたように彼女は彼を睨みつけた。愛らしいその顔に、思わず相好が崩れた。ローレイラは、ハーキースの前でだけ、そっと王妃の仮面を外す。その素顔が愛しくてならない。
「――私のために、良き王妃になってくださった。だから私は、一生見守りたいのです。……王子もお健やかだ。私の出る幕はないでしょう?」
彼女は言葉に詰まった。
受け入れられている、そうハーキースは感じ取った。
「あなたが、穏やかに笑ってくださるなら、それでいい」
本当は、一生同じ道を歩みたい人だった。だが、例え道が分かたれたとしても、それでもその幸せを見守りたい。
「あなたに、生涯の忠誠を」
愛しい人の前で、片膝をついてハーキースは頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
震えを帯びた声に赦され、ハーキースの心は歓喜に満ちた。
異なる道でも、重ね合わせられるなら同じ道を歩いていることと同義だ。
一生、同じ道を、共に。
ローレイラが与えてくれる、嫉妬の茨ですら、甘美な棘だ。
そっと顔を上げ、目を見交わしてひっそり微笑み合う。この一瞬があるなら、どこまでも歩いてみせよう。ハーキースの笑みはいっそう深く甘く。
愛する女性を見守るしかできない、弱い男の、これは物語。
読んでくださってありがとうございました!!