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神様の定食屋  作者: 中村 颯希
冬の部
9/27

5皿目 てしをや名物・唐揚げ(前)

 水曜の、夜。

 昼の繁忙時には及ばないまでも、普段ならば、残業をそこそこのところで切り上げたサラリーマンだとか、サークルを終えた大学生たちが、ぽつぽつと来店する時間のはずだった。


 が。


「――……お客さん、来ないね」


 もう三回も流し台を磨いた志穂が、ぽつんと呟く。

 小さな声は、無人の店内に必要以上に響いた。

 ぴとん、と、蛇口から漏れた水滴がそれに追い打ちをかける。


「……こういう日も、あんだろ」

「ないよ。水曜はノー残業デーのところが多いから、いっつも六時くらいからそこそこお客さん来てたじゃん」


 調味料の補充をしながら俺が言えば、志穂は即座に否定して掛かる。

 それからやつは、「こんなの、初めてだよ……」と、少し俯いた。


 沈黙が落ちる。

 俺は、既にたっぷりと詰め終えた醤油差しの向きを、意味もなく変えながら、妹から視線を逸らした。


 くだんのツイートが拡散されてから、二日。


 怒り狂うべきか、一笑に付すべきか、俺たちが対応を決めかねている内に、その影響は想定をはるかに超え、広がっていった。


 まず、翌日の昼の客が目に見えて減り、その夜は常連の三人だけしか来なかった。

 そして今日、昼営業は両手に収まるくらいの組数しか来店せず――夜の今に至っては、閑古鳥が鳴いている。


 「てしをや」は、明らかに避けられていた。


 たしかにこの界隈には定食屋もチェーンのレストランも、ちょっとしたカフェもひしめいていて、怪しげな評判が立っている店に行くくらいなら、そちらの方に足を向ける、という客の心理はわかる。

 というか、俺が客の立場だったら、きっと同じことをしていただろう。


 わかっているのだが――それでも俺はやるせなかったし、妹は更にそうであるようだ。

 特に志穂は、常連さんの反応が気に掛かるようだった。


 どうしちゃったのいったい、という不安げな視線を向けられると傷付くし、かといって、事情を察し、フォローの言葉を口にされると心苦しさでいっぱいになる。


 せっかく、両親の死から少しずつ立ち直り、以前の勝気さが戻ってきた志穂なのに、この二日というもの、またすっかり口数が減ってしまっていた。


「……あいつに、電話番号、教えとけばよかったのかなあ……」


 あげく、そんなことを言いはじめる。


「連絡さえ取れるようにしておいたらさ、こんなことされても即座に抗議できたし……ううん、そもそも、こんなこと、してこなかったかもしれないし……」

「よせよ」


 気弱な発言を、俺は途中で遮った。


「あんなクソ野郎に教えていい個人情報なんてこの世にねえよ」


 クソ野郎。こと、ケンジ。

 やつのことを、俺たちとて名前しか知らないが、今回のツイートの発信源は彼に違いないと確信していた。


 事態の経緯もそうだし、なにより、画像に映り込んでいたテーブルセット――その、まばらになった爪楊枝入れがその証拠だ。

 あの日、豚の生姜焼きを、あの席で頼んだのは、やつ以外にいないはずだから。


「よりによって、あんなやり方ってあるかよ……」


 思い出すだけで、ぎり、と歯ぎしりしそうになる。


 あの時、確かにケンジは「潰れちまえ」と言い捨てて去っていった。

 人様に食べ物を提供する店で、異物混入といった事件が起こるのがどれだけ重大で深刻なことなのか、わかっているからこそ、こういった手段を取ってきたのだろう。


 だが、誓って、あの生姜焼き定食には虫の脚なんて入っていなかった。


 衛生については、志穂が神経質なレベルにまで管理していて、厨房はどんな生命体でさえ生き延びられない程こまめに殺菌されているし、調理フローを考えても、あんな場所に、異物が混入するだなんてありえない。

 盛りつける時、提供する時だって、どんなに忙しくても、必ずその点の確認は怠らずにいるのだ。


 あれは、ケンジが、それこそ爪楊枝の屑でも細工して入れたか、さもなければ画像を合成でもしたものに違いなかった。


「あの野郎……」


 こぢんまりとしているけれど、きちんと料理を作っていて。

 清潔で、アットホームで、気取らない店。

 そういった「てしをや」を作り上げ、維持するのに、俺たちがどれだけの努力を払っていることか。

 それをあいつは、幼稚な動機で、恐らくはあまり深く考えもせずに、めちゃくちゃに踏みにじりやがった。


 舌打ちしたくなるのをぐっと堪えていると、横で志穂が呟いた。


「私のせいだよ……」

「……志穂?」

「せっかく、……お父さんとお母さんが作り上げた店なのに、私がクソ野郎を一匹、うまく捌けなかったせいで、こんなことになっちゃった」


 クソ野郎、だなんてあえて口汚く言ってはいるが、妹の横顔は、今にも泣きだしそうだった。


「んなことあるかよ。それで言うなら、直接あのケンジとかいうやつに喧嘩売ったのは俺だし。俺のせいだろ」

「違う。私のせい」


 志穂は譲らない。

 黒目がちの瞳を涙で潤ませて、ぐっと口を引き結んでいた。


 こうなったやつは、頑固だ。

 もとから妙な方向に責任感が強いうえに、今はとかく、自分を追い詰めやすい傾向にある。この分だと、俺がなにを言っても、妹は無言で首を振るだけだろう。


「…………っ」


 唇を噛み締める、その力が強まる。涙を堪えている証拠だ。

 葬式の後から、目を潤ませはしても、涙はこぼさないとでも自分に誓っているのか、やつは必死に目を見開いて、なんとか醜態を避けようと足掻いている。


 だが、眉は苦しげに寄せられていて、唇の端なんかも、ちょっと震えていて。

 もともと肌が白いから、涙を堪えるとすぐ鼻の先が赤くなって、すごく痛々しい表情になる。

 俺が、世界で一番苦手な表情だ。


「――……志穂」


 はあっと大きく息を吐くと、俺は頭をがりがり掻いて、身に付けていたエプロンを放り出した。


 志穂は、無言でこちらを振り向く。

 声を出さないのは、口を開いた瞬間、嗚咽が漏れそうになるからだろう。

 下手な泣き顔よりもよっぽど泣いている、その表情に、俺はちょっとだけ唇を歪めてから言い放った。


「今日はもう閉店にしようぜ。どうせだれも来ねえよ」

「…………」

「それでな、志穂。――神社に行こう」


 答えには、一瞬の間があった。


「……なに、それ」

「いいから」


 眉を顰めた妹に、コートやマフラーを放り投げる。

 いったいなに、と言いかけた志穂の腕を取り、俺は強引に、神社への道のりを歩きだした。




***




 さびれた鳥居に、冷えた石畳。ひっそりと佇む寂しげな木々。

 もうすっかり通い慣れた、夜の境内。


 俺は、途中から腕を振り払ってきた妹が、ちゃんと後から付いてくるのを確認しながら、どっしりと垂れた鈴紐を鳴らした。


「神様ー! 神様! いませんかー!」


 がろん、がろん。

 今日も今日とて、眠たげな低い音がする。


 何度か鈴を揺すっていると、後ろから志穂が俺の腕を取った。


「ちょっと、お兄ちゃん! なにやってんの!」

「なにって、鈴鳴らしてんだよ。神社に来たら、その合図に鈴を鳴らす。常識だろ?」

「どこが常識よ、こんな夜に! 近所の人にも神社の人にも、神様にだっていい迷惑でしょ!」


 小声で叱られる。

 どうやら、ここに来るまでの間に、少しは涙も収まったらしい。まあ、俺の行動に驚いているだけかもしれないが。


「いいんだよ。いっつもこうして、神様を呼んでるんだから」

「は!? なに言ってんの!? お兄ちゃん、どうかしちゃったの!?」


 志穂は、不審の眼差しを隠しもしない。

 あからさまに「こいつ頭がおかしいんじゃないか」という表情を浮かべた妹に、俺はちょっと笑いながら、紐を揺すりつづけた。


「神様! 焦らさないで出てきてくださいよー! ピンチなんです、助けてくださいって! 今日はお酒も忘れちゃいましたけど、今度すっげえいいやつ持ってきますから! ね!」


 がろん、がろん。


「ちょっと……」

「とにかく助けてほしいんじゃない、明確な願いがある。両親に会いたいんです。会って、今すぐ俺たちに喝を入れてほしいんです。ねえ、神様。頼みますよ」


 がろん、がろん。

 俺は俺なりに、必死だった。


 それはそうだ。志穂と同じかそれ以上に、俺だって、今回の件に内心かなり追いつめられているのだから。


 たちの悪い客をうまくあしらえずに、喧嘩を売ったのは俺だ。

 事態を引き起こしたのは――両親や妹の宝物である「てしをや」をピンチに追いやったのは、俺。


 志穂に弱音を禁じるようなことを言っておきながら、誰よりも俺こそが、罪悪感を持て余していた。

 そんな自分が情けなかった。

 誰かに、しっかりしろと横っ面を張ってでももらわなければ、このまましゃがみ込んでしまいそうだったのだ。


「神様! ねえ、いるんでしょう!」


 以前神様には、両親を呼び出すには「足りない」と言われた。

 でもそれならば、酒でもお賽銭でも善行でも、なんでも差し出すつもりだった。


 だから、とにかく、今。

 今、俺は両親に、逢わないといけないのだ。


「神様! 神様!」

「お兄ちゃん……」


 後ろで、志穂が困ったような声を上げている。

 兄が錯乱したとでも思っているのだろう。


 が、次の瞬間。

 ぼうっと、御堂が光り――例の、不思議な声が辺りに響いた。



 ――まったく。相変わらず、うるさい。



「神様!」


 思わず、安堵の声が漏れる。

 すぐ傍で、志穂が「は!?」と叫んで、きゅっと腕にしがみついてきた。


「な、なに!? なにこれ!?」


 ――今回は妹も一緒か。で、酒は一緒でないと。ほほう。


 ぎょっとしたように辺りを見回している志穂を、「落ち着け」と宥めてから、俺は神様がいると思しき御堂に向かって切り出した。


「毎度毎度、夜分にすみません。でも、今日はもう本当に切羽詰まってるんです。酒が足りてないかもしれない。お役立ちもまだまだ足りてないかもしれないですけど……なんとか、前借りって形で、両親に会わせてくれませんか?」

「な……なに、どういうこと……」


 横では、事態に付いてこられていない妹が目を白黒させている。

 俺は志穂に向き直ると、これまでの経緯を掻い摘んで説明した。


 いっそ誰かに体を操って料理を教えてもらいたいと願ったら、この身に魂が下りるようになったこと。

 これまでに何回か、その魂が成仏するのを手伝いがてら、料理の練習に励んできたこと。

 そうして神様に貸しを作っていけば、やがて両親の魂にも引き合わせてもらえるかもしれないことを。


「そんな……ことって……」


 志穂は額に手を当てて呆然としていたが、ここ最近で急に料理の腕を伸ばしたり、定食屋経営への姿勢を変えた俺に、思い当たるところがあったのだろう。

 なにより、現に御堂が光り、不思議な声も聞こえている。

 大いに戸惑いながらも、話を信じはじめているようだった。


 俺はひとつ頷くと、再び御堂を向いた。


「神様。お願いです、この通りです。こいつ――妹だって、両親にずっと会いたがってる。どうか、願いを、叶えてくれませんか。足りないというなら、これからいくらでも、補いますから……!」


 こんなに必死に、なにかに祈ったことなどあったろうか。

 俺が途中から、叫ぶような声でそう告げると、神様は静かに溜息を落としたようだった。


 ――おまえなあ。


「はい」


 ――あたかも私のことを、酒か金にしか興味を持たぬ、俗な取り立て屋のように言うのは、よしてくれぬか。


「…………は?」


 心底呆れた、というような口調に、思わず眉を寄せる。

 が、その次に告げられた内容にこそ、俺は目をまん丸に見開いた。


 ――足りぬ、と言うたのはな。願いの数だ。

   私がするのは、願いの糸を()り合わせること。

   顕現させたい魂は二つあるというのに、それを願う依代(よりしろ)の数は一つ。

   足りぬであろう?


「え? え?」


 それはつまり、二人分の魂を呼び寄せたいなら、二人分の願いが必要だということか。

 確かに、神様からはっきりと酒や賽銭を催促されたわけではなかったが、でもそれなら、そう教えてくれればよいのにと思う。


 その考えを読みとったのかどうなのか、神様は拗ねたように呟いた。


 ――依代は本来、神子の領分。

   願いの数が合わないからとて、安易にその身を差し出せと命じたのでは、大いなる(ことわり)に背く。

   なにより、私の仕事は、既にある願いの糸を結びつけることであって、私自身がその糸を紡がせるわけにはゆかぬのでな。


 よくわからないが、神様の世界にもいろいろとルールがあるらしい。

 だが、それよりなにより、


「……じゃあ、つまり、それって……」


 俺はとある可能性に、ごくりと喉を鳴らした。

 呼び寄せたい魂は、二つ。必要な願い――つまり体の数も、二つ。


 ということは、俺の他に、志穂が心底、両親に会いたいとさえ、願ったならば。


「お兄ちゃん……! あれ……!」


 きゅっと袖を引かれ、俺は慌てて振り返る。

 志穂が震える指で指した先には――白っぽい靄が、二つ。虚空に凝りはじめていた。


 一つは、ずんぐりむっくりとしていて、いかり肩で顎ひげを生やした、人の良さそうな男性。

 もう一つは、小柄で、目尻にすっかり笑い皺が寄った女性。


 俺たちの――両親だった。


「お父さん……! お母さん……っ!」


 志穂が信じられないというように叫ぶ。

 何度も何度も、淡く光る人影に視線を走らせ、妹は小さく震えた。


「うそ……! うそ、ほんと? うそ……!」

『やだもう。嘘なの、本当なの、どっちが言いたいのよ』

『嘘じゃないぞ。お父さんだぞー』


 母さんが呆れたように笑えば、親父はちょっとおどけたように肩を竦める。

 その見慣れた仕草を見て、志穂はいよいよ、顔をくしゃくしゃに歪めた。


「おか……っ、お母さん! お母さん! お母さん!」


 涙をぼろぼろこぼしながら、母さんのもとに走り寄る志穂の姿を見て、親父がちょっと切なそうな表情を浮かべた。


『え、志穂。父さんはー……?』


 だが、それよりも。


「おい、志穂! 下手に触ると……!」

「え?」


 ふわん。


 俺の制止も虚しく、志穂のやつは、両手を差し出した態勢のまま、見事に母さんと合体してしまったようだった。


「え? え、え? えええ?」


 急に脳裏から母親の声が聞こえだしたからだろう。

 己の両耳を手で塞いで、きょろきょろと周囲を見回している。


『あれまあ。母さんったら、志穂に憑いちまったなあ』

「お兄ちゃん! ど、え、な……なにこれ!」

(まあまあ。私が志穂の方でよかったじゃないの、性別的にいろいろと)


 不思議なことに、志穂の体に入り込んだ母さんの声は、よくよく耳を澄ませば聞き取れるようだった。

 それは、俺たちが親子だからかもしれないし、俺と志穂が兄妹だからかもしれないが。


「ええっと……神様。今回は別に、俺たち両親に料理を教わりたいわけじゃないし、両親の未練の対象も俺たちだと思うので、別に、乗り移ってもらわなくてよかったんですけど……」


 これって、分離ってできるんですかね? と神様に尋ねてみたものの、答えは意外なものだった。


 ――ほう? だが、これら二人の願いはな、「今一度地上に蘇って、客に料理を振舞いたい」というものなのだがなあ。


「へ?」


 俺は間抜けな声を漏らし、ついで眉を下げた。

 客に料理を振舞いたい? 俺たちに会いたい、ではなく?


(なんなんだよ、それって……)


 もとから、さばさばした性格の二人ではあったが、あまりに実の子に対する想いが薄くはないか。

 志穂の涙の対面を見て、ちょっとぐっときていた俺は、つい口をへの字にしたまま、親父を見やった。


『ま、そういうわけなんで、俺にも体を貸してくれ、哲史』


 相手はといえば、こちらの気持ちも知らず、「よっ」といった感じで片手を上げてくる。


「……別に……いいけど」


 そうだ。

 両親はいつもこんな感じの人だった。


 なんだか肩透かしを食らったみたいで――でもその分、文字のごとく肩の力が抜けたような気もして、俺は中途半端な表情のまま、親父に向き直った。


 かくして。


『じゃ、行くぞー』


 十数年ぶりに、親父がどアップで近付いてくるのを、顎を引いて見守りながら。


 ――ふわん。


 俺と親父もまた、フュージョンを果たしたのであった。




***




 てしをやまでの道のりを、俺たち四人は、ゆっくりと、時間をかけて歩いた。


 この面子だと、大抵母さんと志穂が話し倒して、男たちは聞き役に徹するというのが常だったが、今日だけは別。

 俺も積極的に話し手に回り、過去に経験した乗り移りのエピソードや、今遭っている事件についてなどを語って聞かせる。


 ケンジとの一件については、俺も志穂も、罪を懺悔するような心持ちで説明したのだが、意外にも二人は、それについては「やーだ」、「災難だったなあ」とあっさりしたコメントを返しただけだったので、俺たちは拍子抜けする思いだった。

 が、同時に、すとんと肩の荷が下りたような感覚を抱いた。さすがすぎる。


 両親の関心は、むしろ、俺の体に乗り移った他の魂にあったようで、俺が彼らのプロフィールや詳しいエピソードを語って聞かせると、二人は「ははあ」と感心したような声を上げた。


(なるほどなるほど。そんなことだろうとは思ったけど、あの時、哲史の脳内では、そんな会話が繰り広げられてたのねえ)

(いやあ、天ぷら職人の銀二さんが乗り移ってた時の、おまえの油捌き。あれ、見てて痺れたもんなあ)

「って、見てたの!?」

(見てたどころか、父さんも母さんも、「気付けええええ!」「俺たちにも乗り移らせろおおお!」って、ずっと叫んでたんだがなあ)


 親父が脳裏でぼやく。

 俺は、仰天するやら、恥ずかしいやらで、必要以上にどもってしまった。


「な、そ、それならもっと早く出てきてくれりゃよかったのに……って、そっか、俺が一人でしか神社に行かなかったからか……」

(そうよお。仕方ないから、母さんだけでも哲史に乗り移ろうかって言ったのに、この人「やだ! 絶対俺も行く!」って譲らなくって)

(逆だろ、俺が行くって言ったのに、母さんが譲らなかったんじゃないか)


 どうやら、二人が二人とも譲り合わなかったために、対面までにこうして時間を取られる羽目になったらしい。


「…………なんか」


 だいたいあなたはいつも、いやおまえの方こそ、と夫婦げんかを始めかけた二人の声を聞きながら、志穂がぽつんと呟いた。


「変わらないなあ」


 死んでしまっても、魂として蘇っても。

 相変わらず、うちの両親は陽気で、頑固で、どこかずれている。

 それに呆れたような――心底ほっとしたような。そんな表情だった。


「……ほんとにな」


 ぎゃあぎゃあ騒いでいる両親をよそに、俺も妹に頷きかける。

 こっそりと苦笑いを交わす、それだけでもう、ずっと以前の日常がこの手に戻ってきたかのようだった。


 四人で、店に向かう道を歩くだなんて、いったいいつぶりのことだろう。


 一歩一歩を味わうようにして、やがて店に辿り着くと、親父も母さんも、俺たちに立ち止まるように命じて、しみじみと看板を見上げた。


(……ただいま)


 息ぴったりに、二人が呟く。

 そうして裏口に回り、ひんやりとしたドアから暗い店内に入ると、両親はじっと厨房を見渡し、またも小さく溜息を漏らした。


(……ありがとね)


 ややあって、母さんが小さく告げる。


(こんなにきれいに、店を守ってくれて、ありがとう)

「…………ううん。私――」

(ありがとう、志穂。頑張ったな)


 志穂がちょっと唇を噛んで否定しようとするのを、すかさず親父が遮る。

 ついでに俺の手を持ち上げて、ぽんぽんと頭を撫でると、妹はすっかり黙り込んでしまった。

 だが、その目には、もう自己否定の色はない。ただ素朴な、ちょっと照れたような表情があるだけだった。


 やはり、両親には敵わない。


 と、その時、


(――さて!)


 なんとなく静かになってしまった空気を切り替えるように、母さんが声を張り上げた。


(それじゃあ、やりますか!)

(おう)


 きっぱりと答え、腕まくりまでしはじめた親父に、俺はふと首を傾げる。

 結局、ここまでの時間は、経緯の説明にほとんどを費やしてしまって、この二人が誰になにを振舞いたいのかを聞けていない。


「やるって……いったい、誰に、なにを作るんだよ」


 今更ながらに問い掛けると、母さんは志穂の顔で、妙にうまいウインクを寄越した。


(そりゃあ、あんた。うちの新たなる「常連さん」にさ)

(チキン南蛮に並ぶ「てしをや」の看板メニュー――唐揚げ定食を食ってもらうんだよ)




***




 常温に戻した鶏もも肉から、不要な脂と血管を除き、丁寧に筋切りしていくのが、親父の担当。

 一口大に切られたそれに、塩こしょうやにんにく、生姜、醤油、そして少々のレモン汁を擦り込んでいくのは、母さんの仕事だ。


 二人はなんの打合せをせずとも、流れるように作業をこなしていく。

 まさに阿吽の呼吸というやつだった。


(哲史。ここのな、肉の繊維が、こう流れてるだろ。だから包丁はこう。ばーっと入れて、ちょっちょっと切っていく。わかるか?)

「……正直、その擬音だけだとさっぱりわかんないけど、手元を見りゃ理解できるよ」

(志穂。あんた、調味料まとめて漬け込んでたことあったでしょう。味に関わることだからね、順番を守らないと。臭みを取るためにも、にんにくと生姜は最初。わかった?)

「うん」


 今、てしをやの厨房は、ちょっとした親子料理教室になっている。

 俺たち兄妹は、真剣な表情で、両親から唐揚げの作り方のレクチャーを受けていた。


 下味を付けたら、しばらく寝かせて。

 その間に、お茶をすすって、久々の家族だんらんなんかをしてみる。


 もっとも、俺がこれまで「お客さん」に乗り移りのことを説明できなかったみたいに、両親もいろいろと制約があるみたいで、死後の世界についてを語って聞かせることはできないようだったが。

 それでも、思い出話をしたり、ちょっとした世間話を披露したり、様々なことづけをしたりと、俺たちの会話は尽きなかった。


 やがて頃合いを見計らい、卵と小麦粉、そして片栗粉をまぶしてから、揚げの作業に入る。


 最初は、低温で。ラードを混ぜた揚げ油に、そっと鶏肉を落としていく。

 じゅわ、と静かな音を立てて、もも肉からいくつもの泡が飛び出していった。


 しばし、静観。

 肉が浮き上がって来て、表面がちょっと油からはみ出してくる頃になったら、空気を含ませるように転がす。

 店内には、肉の焼ける匂いと、香ばしい油の匂い、そして、じゅじゅじゅ……という食欲をそそる音が満ちていった。


(なんか、懐かしいなあ)

(そうねえ)


 鍋を覗き込みながら、両親がそんなことを言う。

 なにが、と促すと、母さんは懐かしそうに目を細めた。


(店を始めたばっかりの頃さ、よくこうして、閉店後に料理の研究をしたのよねえ。あんたたちが寝てるところを抜け出してさ、こっそり無人の店に来て、父さんと二人っきり)

(なにせ看板メニューが唐揚げにチキン南蛮だからさ。来る日も来る日も、鶏ばっかり揚げつづけたよなあ)

(随分な数の鶏を葬ってきたわよねえ)


 その時試した味付けがああで、とか、ボツにしたレシピがこうで、とか。

 二人の話はほとんどが、この「てしをや」のことや料理のことばかりだ。


「……親父も母さんも、ほんと、好きだよな。この店が」


 俺たちのことよりよっぽど気にかけてんじゃねえの、という呟きは、ちょっとだけ拗ねた響きを帯びてしまったかもしれない。

 志穂がちらりと、横目でこちらを見た。


(んん? そりゃまあ。あんたたちより、っていうか、あんたたちそのもの、のつもりなんだけど)

「…………はい?」


 謎かけのような答えに、思わず眉が寄る。

 すると、俺の体で勝手に大根を取り出し、すりおろしはじめた親父が、脳裏でのんびりと口を開いた。


(なんだ、おまえ、知らなかったのか)

「は?」

(この店の由来)


 てしをやの由来。

 たしか、「手塩にかけて育てた子どもに食べさせるような料理を」というコンセプトであったはずだ。

 いや、それは両親から直接聞いたのだったか。

 違う、メニューの裏に小さく書いてあったのを、読んだだけのような気がする。


 でも、それで間違いということはないだろうと首を傾げていると、志穂が呆れたように言った。


「てしをやのさ。『て』は哲史の『て』だよ。『し』は『志穂』の『し』」


 哲史、志穂、親二人。家族四人で、てしをや。

 この店は、うちの家そのものなんだよ、という妹に、俺はぽかんと口を開けた。


(看板メニューだってさ、唐揚げは志穂の大好物でしょ。で、チキン南蛮は、あんたの大好物じゃない)

(おまえも志穂も、馬鹿みたいに揚げた鶏肉ばっか、うまいうまい、って食ってただろうが。あんまりうまそうに食うから、それがきっかけで、この店を始めたのに)

「…………は」


 咄嗟に、言葉が出てこなかった。


 両親が大切に大切に、この店を切り盛りしてきた理由。

 志穂が、頑ななほどに、この店の存続に――完璧な再現にこだわった理由。


 それがすとんと腑に落ちて。同時に、なぜか泣きそうになった。


「……んだよ、それ」


 そんなの、知らなかった。

 ある日いきなり脱サラして、定食屋を始めて。妹とばかり、三人でわいわいやって、――あげく、ある日いきなり、この世を去って。


 俺だけが、蚊帳の外。

 そういう印象があったのだ。


「捻ってんだか、シンプルなんだか、……そのネーミングじゃよくわかんねえよ……」


 ぼそぼそと突っ込むと、親父はにたあ、と笑ったようだった。


(哲史。耳が熱くなってるぞ。父さん、わかっちゃうぞ)

「うっせえよ!」


 大根にまみれた手でごしごしと耳たぶを擦ると、親父は手を洗えよ、と口を尖らせた。

 志穂の中の母さんが、ふと顔を上げる。


(この店は、うちそのもので、あんたたちよ。で、今や、お客さんは、あんたたちの大切な「お友達」。親としてはさ、一言くらい、うちの子をよろしくって、言っときたいじゃない)

「……母さん?」

(――ほら、来たよ)


 その視線の先を追うと同時に、玄関の引き戸がからりと開いた。来客だ。

 が、これまでと違い、やってきたその人物を認めて、俺はつい目を見開いた。

次話で最終話となります。

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