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神様の定食屋  作者: 中村 颯希
冬の部
8/27

4皿目 フレンチ風オムライス(後)

(ショウコーーー! マシェリ! マビヤンエメ! ちょっと痩せました!? ジルのお肉を分けてあげたい! でも、痩せたショウコも素敵です!)


 ショウコさんが来店するや否や、ボウルを取り落とさんばかりに興奮して叫び出すジルさんを、俺はなんとか抑え込みながら、彼女にお絞りを渡した。


 そして、


「すみません、暗くてわかりにくかったでしょうけど、開いていますよ。ただ、時間の問題で出せるメニューが限られてて……もし嫌でなければ、オムライスなんていかがでしょう」


 もはや定型句となりつつある断り文句を告げる。

 ショウコさんは「オムライス……」と呟いて顔を上げると、


「道理でバターの匂いがすると思った。その匂いにつられて来たのよ。お願いできる?」


 ありがたいことに、即答でそれを受け入れてくれた。


 ショウコさんは、店員と会話を楽しむタイプの人ではないようで、それきり口を噤み、ぼんやりとカウンターに頬杖を突いている。

 ごく一般的な態度ではあったものの、それがジルさんの奥さんだと思うと意外な気がして、俺は卵液をかき混ぜながらちらちらとショウコさんを窺った。


 顎の下辺りで切りそろえた黒髪に、きりっとした眉。少しつり上がった猫のような瞳。

 メイド喫茶云々と聞いていたから、てっきり麻里花ちゃんくらいの歳かと思っていたが、恐らくは三十くらいだろう。

 美人だが、強気そうな女性だ。……いや、タイプですが。


 いかんいかん、人妻人妻、と自らを戒めていると、それを読みとったようにジルさんが話しかけてきた。


(きれいでしょう、ショウコは? アキアバラでも、モッテモッテのモテ子さんだったのを、ジルが口説き倒して、ようやく二人は結ばれたのですね!)


 へえ、と頷いていると、ジルさんは次々に、口説いていた時のエピソードを披露してくれる。

 やれ、店に百日連続で通いつめたり、ショウコさんを主題としたポエムを捧げたり、おそろいのアニメキャラシャツをプレゼントしたり。


 ショウコさんは「大層シャイな大和撫子なので」、そのどれにも無表情と沈黙でもって慎み深く応えてくれたそうだが――俺は沈黙を選んだ――、むしろ周囲の応援に背中を押され、付き合いだしたのだとか。


 彼女の誕生日、自作の歌を披露した際には、道端で干からびた蝉の死体を見るような、ジルさんにしか向けてくれない表情を見せてくれたという。

 俺はやはり沈黙を選んだ。


(ショウコはなかなか、本音を口にしてくれませんね。結婚指輪も外されていますし、メイクも派手になっている気がしますし、ジルはとても心配です)

「…………」


 ジルが寂しい思いをさせてしまったから! と嘆く彼をよそに、俺は少しだけ眉を寄せた。


 指輪を外して、派手な化粧をして。

 なんらか心境の変化があったのは確かだろうが、それらはどちらかといえば――ジルさんのことを忘れたがっているからのように思えたからだ。


 結婚前のエピソードを振り返ってみても、あまり彼女がジルさんに好意を持っていたとは考えにくいものばかりだった。


 この、ちょっと鬱陶しくて、いろいろ空回っていて―――それでも、奥さんを励ますためだけに他宗教の神様にまで縋ってみせたジルさんが、傷付くようなことにならなければよいのだが。


 俺の心配など気付かぬように、ジルさんはふんふんと上機嫌で料理を仕上げる。

 初回以上にふんわりと、滑らかに仕上がったオムレツをライスに乗せると、彼はおもむろにケチャップのチューブを取り上げ、真剣な表情でそれを垂らしはじめた。


 そうして。


「お待たせしました。オムライスです」


 俺の方でレタスとプチトマトを添えて、ショウコさんの前に皿を差し出すと、彼女は怪訝そうに眉を顰めた。


「……メソクソ?」

「……メリクリ――メリークリスマス、です。その、クリスマスが近いので」


 笑顔を引き攣らせながら、ジルさん渾身のケチャップメッセージを解説する。

 方々にケチャップが飛び散り、もはや呪い文字のようになっているので、仕方のないことだろう。


(ジルさん……想いはわかるけど、不器用すぎ……!)


 しかもなぜ略したうえに、カタカナ表記にした。


「……ちなみにこの、鳴門のうず潮みたいなものは?」

「そ、それは、その……薔薇の花です」

(薔薇はショウコの花ですからね! 頑張りました!)


 脳裏でジルさんが誇らしげに鼻の穴を膨らませているが、確かにそう、薔薇というよりはナルトにしか見えない。


「薔薇……? なんで……?」


 不審そうに見上げられて、俺は咄嗟に返答に詰まった。

 ジルさんが、「薔薇はショウコの花」と言ったことから察するに、彼女の名前は薔子(しょうこ)というのだろう。

 だがそれを、初対面のはずの俺が知っているというのも不自然だ。


「ええと、いえ、その……なんとなく……?」


 結局曖昧に答えると、薔子さんはちょっと黙り込んだ。

 そして、スプーンを取り上げ、


「あ……っ」


 せっかくの薔薇の花を、ぐちゃぐちゃに崩してしまった。

 悪いけど、こういうことをしないでほしいのと呟いて。


 そりゃあ、見ず知らずの店員から、なれなれしくメッセージを寄越されても、気持ち悪いだけかもしれない。

 けれど、もう少し大人の対応ってものがあるだろう。


 なにより、


「せっかく、ジルさんが――」


 俺の中にいるジルさんが、しょんぼりと肩を落とした気配を感じ取り、思わず呟いてしまった。


(って、いかん!)


 慌てて口を押さえたが、それよりも早く、薔子さんがぱっと顔を上げた。


「ジル……!?」

「え、あ」

「今、ジルって言ったの!?」


 先程までの物憂げな態度からは想像もつかない剣幕に、ついたじたじとしてしまう。

 ええと、ともごもご言い訳を考えている間にも、彼女はカウンターに身を乗り出してきた。


「あなた、ジルを知ってるの? ジルベール・レヴィナス。オタクで間抜けなフランス人。彼の知り合い? だから、こんなことをしたの?」


 立てつづけに質問攻撃を食らい、戸惑う。


「その……」


 うまい説明が思い付かず、口ごもってしまう。

 今までだったら、恥ずかしがって制止してくる魂に逆らってでも、「実は生前の知り合いで」などと嘘八百を説明していただろう。


 けれど、俺には薔子さんが、あまりジルさんのことを好いているようには思えなくて。

 このオムライスはジルさんのレシピで作ったものなんですよ、なんて言ったところで、かえって彼を傷付ける反応が返ってきそうで、踏み切ることができないでいた。


 しかしその時、


(哲史さん。どうか、ショウコに話してください。このオムライスはジルが、ショウコを想って作りましたと。ジルの魂は、いつもショウコを見守っていますと)


 脳裏で、ジルさんが優しく囁いてきた。

 これまでのような、ハイテンションな声ではなく、ただ慈愛を感じさせるような、穏やかな口調だ。


(ショウコ、とても傷付いています。寂しがっています。お腹もきっと、空いています。早く、オムライスを食べさせてあげて)


 傷付いている? 寂しがっている?

 この、ぎろりとこちらを睨みつけてくる彼女が?


 俺は半信半疑ながらも、ジルさんが「早く」と急かしてくるのに負け、口を開いた。


「……その。そうです。俺、ジルさんと、知り合いで。そのオムライス、見覚えがあるでしょう? ジルさんに教わって作ったものなんです。その……ジルさん、よく、あなたのこと話していて、もし一人で来ることがあったら、サプライズでこれを振舞ってほしいと……頼まれていて」


 苦し紛れの説明を、薔子さんはひとまず受け入れたようだった。

 口を引き結んで、再び腰を下ろす。


 だから、温かい内に食べてくださいと促すと、彼女はしばし黙り込んだ後、スプーンを取った。


 そうして、一口。また一口。

 きれいな仕草で、オムライスを口に運んでいく。


 きっと彼女の口の中では、温かで濃厚なオムレツが、とろりと溶けているはずだ。

 なのに薔子さんは、思いがけず苦手な野菜を口にしてしまった子どものように、きゅっと眉を寄せ、なにかを堪えるような表情を浮かべた。


「ジル……」


 いや、違う。


「あの、馬鹿……」


 これは、途方に暮れた表情だ。

 薔子さんは、そうでもしていないと泣きだしてしまうとでもいうように、ぐっと口を引き結んでいるのだった。


 色白の肌の、鼻の先がつんと赤く染まる。

 猫のようにつり上がった瞳が、見る間に潤みだし、――とうとう、ぽろりと、一粒涙がこぼれた。

 その唐突な表情の変化に、俺はただぎょっとして、息を飲んだ。


「こんな……こんなことに、気を回せるくせに、……どうして肝心なところで、おっちょこちょいなのよ……!」


 そうして彼女はスプーンを置くと、乱暴に手の甲で涙を拭った。

 けれど、それでも堪え切れなかった涙が、ぱた、ぱた、とカウンターに滴っていく。


「――……っ、……っ」


 ふ、ふ、と小さく息を吐き出して、両手の拳を真っ白になるほど握りしめて。

 薔子さんが必死で嗚咽を我慢しているのがわかった。

 しかし無言の涙は、くしゃくしゃに歪めた顔とあいまって、他のどんな泣き方よりも辛そうに見えた。


(ショウコ、ショウコ、泣かないで。ああ、マシェリ、ごめんね(デゾレ)!)


 ジルさんが慌てふためく気配がする。強気な奥さんの泣き顔に、相当動揺しているのだろう。


(哲史さん! どうしよう! 慰めて! ハグ! ハグして! いやだめだ、これは他の男の体でした! どうしましょう! 歌って! 詩を読んで! 花を出します!?)


 もう大混乱だ。

 気持ちはわかるが、しかし平均的日本人に、咄嗟に詩を読むスキルがあるだなんて思わないでほしい。花を出現させるマジックもしかりだ。


 結局ためらった末に俺は、


「……ちゃんとジルさんの味に、なってましたか?」


 薔子さんにそう水を向けることにした。


「その……オムレツの作り方も、ケチャップのメッセージも、全部ジルさんの言ってたとおりに作ったんです。想いが伝わるように。ジルさん、あなたに――薔子さんに喜んでもらいたいって、必死だったから」


 敦志くんに玉城シェフ。麻里花ちゃん。

 大切な人を亡くして、言いようもない悲しみを抱えた人たちと、薔子さんは、今同じ顔をしている。


 本当は伝えたいことや聞きたいことがあって、謝りたいことなんかもあって、叫び出したいくらいなのに、もう伝わらないと思っているから、ぐっと歯を食いしばって黙っている。そういう顔。


 彼らは、本当は吐きだしてしまいたいんだ。

 腹の底で、ひんやりと重く凝っている、氷の塊のような思いを。


 お悩み相談なんて定食屋の本分ではないけれど、ほかほかの飯で人の胃袋を温めるのは仕事ではある。氷の塊がその邪魔をするというならば――少しでもそれを溶かす、手伝いを。


 俺のそんな思いが伝わったのか、それとも神様の計らいか。

 薔子さんは赤く充血した目でじっとオムライスを睨みつけると、やがてぽつんと尋ねてきた。


「……あなた、ジルにこれを、頼まれたって言った? この……ケチャップの薔薇も含めて?」


 それは、これまでの彼女の口調と違って、まるで、親を見失った少女のような、頼りなげな声だった。

 もしかしたら、それが、彼女の本当の性格に近いものなのかもしれない。


 はい、と俺が答えると、薔子さんは苦笑いを浮かべ、静かに首を振ると――再びぽろっと涙をこぼした。


「じゃあこれが、百本目かあ……」


 くぐもった声で、そんなことを呟く。


「百本目?」


 聞き返すと、彼女はすん、と鼻をすすりながら、「あなた……ジルと私のこと、どのくらい知ってるのかしら」と問うてきた。


「ええと、おおよその馴れ初め……ジルさんが薔子さんにぞっこんで、猛アタックの末に結婚されたこと、くらいですかね」

「そう」


 彼女はひとつ頷くと、少し間を置いてから、小さな声で説明してくれた。


「あのね。その中で、ジルが百日連続で私のバイト先に通い詰めたっていうのがあったでしょう?」

「はい」

「それね、私たちが結婚してからも続いてたの。今度は、ちょっと違う形で」


 ジルさんは、愛情表現を惜しまなかった。

 浮かれた言動とは裏腹に、ワールドワイドに展開する企業の日本支社長なんぞを務めていた彼は、お金には余裕があったようで、隙あらば常になにかを貢いでこようとする。


 それをすっかり持て余してしまった薔子さんは、ある日告げたのだという。


 宝石も、高価な食事も、よくわからないコレクションも要らないから、――記念日ごとに一本ずつ、薔薇の花をちょうだいと。


「花一輪なら場所を取らないし、処分も簡単だし、きれいだし。なにより薔薇とか言っておけばね、ジルの乙女心も満たされるだろうと思ったから、提案したの。そしたら彼、案の定目をきらきらさせて。『わかりました! ショウコはオノノコマチ! モモヨガヨイですね!』って」

「……ジルさん、古典にも詳しかったんですね」

「うん。全方位型オタクだったから」

(ジル、オタクですからね!)


 小野小町の百夜通い伝説を知っているとはなかなかだ。

 薔子さんは懐かしそうに目を細めると、続けた。


 これで十年くらいは時間を稼げるだろうと思っていたのに、ジルさんは毎日のように、なにかしら記念日を設けては、薔薇を送ってきたこと。

 途中からは生花では飽き足らず、薔薇を模した食べ物や、小物なども含まれてきたこと。

 気付けば、あっという間に、「百本の薔薇」に手が届きそうになっていたこと。


「最初はね、こっ恥ずかしいというか、アホらしいというか……ちょっと困ったな、って思ってたのよ。でも、……毎日、毎日、ささやかなことを記念日だって大騒ぎして、にこにこ薔薇を持ってくるジルを見てると……なんか、ね」


 すっかりほだされてしまったのだと、彼女は言う。


 目を輝かせて、その日を祝福されるたびに、くすぐったい気持ちになった。

 今日はどんな薔薇を贈ってくれるんだろうと、その日の朝に考えるのが癖になったり、たまになにもない日があると、自分でも驚くくらいがっかりしたり。


 薔子さんは視線を落とすと、きゅっと唇を噛み締めた。


「私、……ジルみたいに、気持ちをはっきり伝えるのって、苦手で。いつも受け身で、……一回も、好きとか、愛してるとか、そういう言葉をね、言ってこなかったの。ジルはあんなに、毎日言ってくれたのに」


 同じ日本人として、その在り方はよくわかった。

 俺だってそんな言葉、酔っ払いでもしなきゃ言えないと思うから。


 しかし薔子さんは、それを心から悔いているようだった。


「……一度くらいは。私からもなにか言ってみよう、って、思ったのよ。でも、次の『記念日』が来たら。薔薇が五十本になったら。今度また黄色の薔薇だったら……そうやって、照れて先延ばししてる内に、……あっという間に、百本近くなって」


 猫のような彼女の瞳に、ふわりと涙の膜が張った。


「……今度こそ。百本になったら、絶対に、私からも言うんだ、って、思ってたら……、思ってたのに……っ、ジルは、その日に限って、……来なかっ、た」

(ショウコ……)


 脳裏でジルさんが項垂れる気配がする。彼は、大柄な体をしょんぼりと丸めて、心から詫びているようだった。


(ごめんね。ごめんなさい。ジル、間に合わなくて、本当にごめんなさいでした)


 その日は、思い出の場所でデートをしようということで、二人が初めて出会ったメイド喫茶で待ち合わせをしていたらしい。

 ところがジルさんは仕事が立て込んでいて遅刻し、取り立ての免許で慌てて車を走らせ――事故を起こしたのだ。


「ほんと、馬鹿でしょ。詰めが甘いのよ。よりによって、どうして百本目の日で、そういうことするかなあ。馬鹿で、間抜けで……ほんと……っ、どうしようもない……っ」


 悪態を突きながらも、薔子さんの顔には「ジルさんに逢いたい」と書かれているようだった。

 悲しいと。寂しくてどうしようもないと。


 彼女が細い肩を抱きしめるようにして俯くと、胸元に埋まっていた繊細なネックレスがかちんとカウンターに音を立てる。その細い鎖に通されていたものを見て、俺は思わず息を飲んだ。


 彼女の指には少しだけ大きめに見える――結婚指輪。

 彼女は、それを外してどこかにやってしまったのではなく、首にかけていたのだ。


(ジル、死にました時、魂だけ慌てて慌てて、店に駆けつけましたのですよ)


 ぐす、と鼻をすすりながらジルさんが告げる。


(ショウコは、ずっと、ずっと、待っていました。お客さんがみんないなくなって、店じまいとなりまして、それでも、待たせてくれって、言って……ジルが薔薇を持ってくるのを、ずっとずっと、待っていたのです)


 デゾレ。ごめんね。

 そう繰り返す彼の言葉を聞きながら、俺はああそうかと思った。


 薔子さんが指輪を外してしまったのは、きっと、痩せてサイズが合わなくなったから。

 メイクを派手にしたのは、今、涙で明らかになってしまった濃い隈を隠すため。


 彼女は傷付いて、寂しくて、どうしようもなかったのだ。


「一度くらい、言わせなさいよ……っ。人が、せっかく……! ジルの、馬鹿! 大馬鹿……!」


 馬鹿、と罵りながらも、彼女のその言葉はまるで愛の叫びのようだった。

 大好き。

 傍にいてほしい。

 どうしていてくれないのと。


(ショウコ! ショウコ! 泣かないで! ごめんなさい。ごめんね)


 脳裏ではジルさんが、薔子さんを上回る勢いで大号泣している。

 勝手に涙線を緩めてぼたぼたと涙を垂れ流しそうになるのを、なんとか意志の力でねじ伏せ、俺は声を上げた。


「薔子さん」


 真っ赤に泣きはらした猫目が、俺の視線を捉える。

 こちらを見上げてくる薔子さんにひとつ頷くと、俺は唇を一度だけ舐めて切り出した。


「……その、百本目の薔薇が、ジルさん本人からじゃなくて、すみません。ただ……そのオムライス自体も、薔薇の形も、全部、ジルさんが言ったとおりに作ったものなんです。だから、その……難しいかもしれないですけど、……このオムライスは、ジルさん本人からのプレゼントって、思ってはもらえませんか」


 こういった言葉を口にするのは、常に緊張が伴う。

 余計なことを言っているのではないか。

 かえって相手を不快にさせるだけではないか。傷付けるのではないか。


 それでも、俺はこういった涙をどうにか止めたいと思ったし、そのための方法を他に知らなかったので、どうか想いが伝わりますようにと祈りながら、続けた。


「薔子さんは、伝えられなかっただなんて言いますけど……ジルさんは、きっと薔子さんの気持ち、わかってたと思いますよ。じゃなきゃ、百本の薔薇なんて、贈る方だって心が折れます」

「…………」


 薔子さんは、再び途方に暮れたような顔をした。

 信じられない。けれど――信じたい。そんな迷いが窺える表情だった。


(そう! そうですよ、ショウコ! ジルは、ちゃーんといつもわかっていましたよ!)


 ぱっと顔を上げるようにして、慌てて言い募るジルさんに勇気を得て、俺は声に力を込める。


「そりゃ毎回、毎回は、リアクションできなかったかもしれません。でも……ちょっとした時の表情とか、態度とかで、案外気持ちって伝わるものです。自分が仕掛けたサプライズで、喜んでもらったり、楽しみにしてもらったりするのって、……それだけで、充分、お礼や好意になってたり、するんですよ」


 話しながら、俺は自身に「そうとも」と頷いていた。


 客のために、心を砕いて、動き回って。

 それでも、今日の昼みたいに、報われない思いをすることはある。

 けれどあの時、顔を顰めて去っていった人と同じ数――いや、それ以上のお客さんが、俺たちのために、「災難だったね」みたいな、いたわしげな視線を向けてくれた。

 お茶のお代わりを注いだだけで、いつもよりずっと明るい笑顔を向けてくれた人もいた。


 それはけして、はっきりとした励ましの言葉ではなかったが、それでも、俺とお客さんの間でこれまで築いてきたなにかがあったからこその、温かな態度だった。

 俺は、そちらに注目すべきだったのだ。


(そう! そうですよ! その証拠に、ショウコは、これが百本目だって、数えて覚えていてくれています。ジルは、それだけで、ショウコの愛を感じていますよ!)


 ジルさんが脳裏で言い募るのを、薔子さんに告げてみると、彼女はぐっと俯いた。


「――……そうかなあ」


 やがて、震える声で、頼りなげに漏らす。

 ジルさんと俺は即座に頷いた。


「そうですよ」

「……本当に……そう思って、……いいの、かなあ……っ」


 二度目の問い掛けは、涙に濡れていた。


 ウィ。もちろん。

 ジルさんが、優しい声で何度も頷く。


 それが聞こえたように、薔子さんはやがて涙を収めると、顔を上げて、スプーンを取った。


「……さっきは、ぐちゃぐちゃにしちゃって、ごめんなさいね」

「いえ」


 小さな声で謝ってくる彼女に、静かに答える。

 薔子さんはそのまま、「いただきます」と唱えてオムライスを掬おうとし――ふと、手の動きを止めた。


「あの。ケチャップのチューブって、ある?」

「え?」


 突然の問い掛けに、俺は目を瞬かせたが、足りなかったのかなと思い差し出す。


「どうぞ。業務用ですみませんけど」

「ううん。こっちの方が慣れてるから」


 細い手で大きなケチャップチューブを受け取ると、彼女は少しだけ照れたような、ぎこちない笑みを浮かべた。


「……百本目の薔薇を、受け取ったわけだから、さ」


 そう言って、彼女がその手を動かすと、――そこには大きなハートマークが出現した。

 丁寧な筆記体で、文字も添えてある。


 Je t'aime


 フランス語に疎い俺でも唯一知っている、有名な愛のフレーズだ。


「……馬鹿でしょ、私も。これ、結構練習したのよ」


 苦笑いを浮かべる薔子さんの顔を、ぽろっと、透明な涙が零れていく。

 彼女はそれを拭おうともせずに、小さく「ジル」と呟いた。

 恐らくは心の中で、その愛の言葉を続けながら。


 やがて彼女は、


「あーあ、ケチャップ、かけすぎちゃった」


 軽く肩を竦めると、再びオムライスを頬張りはじめた。

 時々、「おいし」と言いながら。


 そうして、「メソクソ」の辺りを特に丁寧に食べ終えると、ゆっくりとスプーンを置いた。


「……ごちそうさまでした」


 きれいに皿を空にしてくれた彼女の顔は、最初に見た時よりも少し晴れやかになっている。

 強気そうだなと思ったつり目も、少しだけ和らいで、彼女をあどけない女性に見せていた。


「……いえ、こちらこそ」


 俺はといえば、先程から「ショウコォォォォ! モナムール!」と絶叫するジルさんと、なんだか急にかわいらしくなった薔子さんに挟まれて、すっかり「ごちそうさまです」といった気分だ。


 だが、そんなことはつゆ知らぬ薔子さんが怪訝そうに首を傾げたので、


「お腹いっぱいになりました?」


 慌てて話を逸らした。


「うん。お腹いっぱい。この、どこまでもバターでハイカロリーなところが、ジルだなって思い出したわ。ありがとう」


 なんだか一気に太っちゃいそう、と笑った薔子さんは、それからしばらくジルさんの思い出話を披露してくれた。

 そうして、すっかり打ち解けた彼女は、お礼の気持ちなのだろうか、


「知り合い全員に、このお店のこと、宣伝しとくから」


 と真剣な表情で請け負い。

 最後にもう一度、ごちそうさまと丁寧に告げてから、店を去っていった。


(哲史さん! 哲史さん! 本当にどうもありがとう! ありがとうございました! メルシー! ああ、ショウコォォォォ!)


 絶叫し、号泣するジルさんと俺を残して。


「わかりました! わかりましたから! もういちいちそんな泣き叫ばなくたっていいじゃないですか! 涙堪えるの、すっごい大変だったんですからね!?」

(だって! ショウコが! 愛していると! うわああ、僕の方こそ愛してるよショウコォォォ!)


 そこからはもう、聞き取れないくらいのフランス語の嵐だ。

 ジルさんは叫び、時に歌い、おいおいと泣き崩れると、数十分後、ようやく涙を収めてくれた。


(本当に、本当にありがとうございました)


 ぐす、と涙の余韻を残したまま、深々と頭を下げる。

 まあ、俺自身が虚空に向かってお辞儀しているような格好になるので、滑稽きわまりない光景なのだが。


 ジルさんは何度も礼を述べ、そのたびに薔子さんの愛の言葉や表情をリプレイするという脱線をしながらも、最後には満面の笑みを浮かべ――やがて、消えた。


「はあ……」


 なんだか、急に広くなったように感じる店内を見回しながら、俺はそっと息を漏らす。

 ジルさんの激しすぎる喜怒哀楽や、猛烈な愛情表現は、身体にも、いつもとは異なる疲労をもたらしたようだった。


 が。


「……そうだよな」


 神様の言うとおり。

 俺は彼の魂に、だいぶ励まされてもいた。


 別に定食屋は、客の奴隷なんかじゃなくて、単に相手を喜ばせたいから、頑張っているだけで。

 その全てに、毎回リアクションが返ってくるわけではないけれど、それでも、ささやかな反応を返してくれる人は、必ずいる。

 そしてそれを、嬉しいと感じられる自分も。


 だったらそれで、いいじゃないか。


 と、なんだか晴れやかな気分で店じまいを始めようとしたところに、


「あの!」


 カラッと音を立てて、再び玄関の引き戸が開いた。

 薔子さんだ。


「あれ? 忘れ物ですか?」


 洗い物を中断し、手を拭いながら玄関に近付くと、彼女は険しい顔でスマホを突きだしてきた。


「これって、このお店よね?」

「へ?」


 薄暗い店内で、煌々と光る画面。

 そこに表示されているのは、料理の画像と、数行のテキストだ。


「呟いて、『てしをや』のことを宣伝しようと思ったら……今、この画像付きのツイートが、どんどん拡散されてるみたいなの」


 薔子さんが深刻な声で告げる間にも、記事の左下にある小さな数字が、どんどん数を変えていく。

 だが、それよりなにより、俺はその内容を見て青褪めた。


 画像は、豚の生姜焼き。

 てらてらと脂が乗ってうまそうな豚肉の横に、付け合わせのキャベツが盛られ――その片隅に、なにか細い釘のような、茶色く折れ曲がったものが見える。


 添えられた文章にはこうあった。




 豚の生姜焼き、付け合わせはゴキブリの片足。どんな店だよ。二度と来ねえ。




 本文中で店の名前は出ていないが、画像の一部に「てしをや」と書かれたメニューが映り込んでいて、それを見れば、容易にこの店のことだと特定ができた。

 現に、リツイートのコメントには、「てしをやww」だとか、「どんな手塩をかけてんだ」だとかの文字が見える。


「そんな……」

「ありえないでしょ。私も厨房やってたからわかるけど、お皿のこんな場所に、こんなものが、混入するだなんてありえない」


 きっと厳しい眼差しを浮かべた薔子さんは、俺を糾弾しにきたのではなく、この事態を教えに来てくれただけのようだった。


「うちの店も、似たような被害を受けたことがあるの」


 彼女は苦々しい声で告げた。


「これって、嫌がらせだと思うわ」

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