4皿目 フレンチ風オムライス(前)
「神様ー」
がろん、がろん。
深夜にほど近い境内に、低い鈴の音が鳴り響く。
どっしりとした紐をかじかむ手で掴みながら、俺はゆらゆらとそれを揺すりつづけた。
「神様ー。こんばんはー。今日も寒いですねえ。生身の人間は辛いですよ。早く出てきてくださーい。今日は、前回とはがらっと趣向を変えて、福井の銘酒をお持ちしましたよ。大吟醸!」
神様に向ける、というよりは、居留守を決め込む先輩相手に対するような態度で、気安く酒の話なんか始める。
信心もなにもあったもんじゃない態度だが、ここの神様は酒好きだ。
うまい酒さえ持ってくれば、そう機嫌を損ねることなく話を進めることができると、俺は知っているのである。
「これはね、なんつーんですかね、とにかく上品な酒ですよ。ほら、ラベルだって黒地に金文字で、きれいでしょう? フルーティー、でも甘すぎず、辛すぎず、バランスが最高。その分、飲みすぎに注意ですけど。女の子に飲ませるにも打ってつけ!」
ほら、と、俺は既に蓋の空いている黒っぽい瓶を取り上げ、賽銭箱の横に置いた。
「俺、毒見しておきましたし。ばっちり美味しかったですよ。あ、瓶に口は付けてないので大丈夫です。さ、どうぞ!」
はたして、数秒後。
――……おまえなあ。
御堂がぼうっと光り、心底呆れたような声が振ってきた。
今回もまた、神様が現れてくれたのだ。
「よっしゃ! 神様!」
――いや、よっしゃ、ではなく。
おまえに神を敬う気持ちはないのか。なれなれしい奴め。
神酒を神よりも先に煽るなど、この罰あたりめ、とぶつぶつ呟く神様だが、しかしそういった態度こそが、俺に気安さを覚えさせているのだとは気付いていないようだ。
結局酒が気になったらしく、しばしの間を置いた後に、
――む、うまい。
ちょっと嬉しそうに御堂の光を強める。
それを見て、俺は少し口許を綻ばせた。こういうところが、気さくで好ましい神様だ。
しばらく、置かれた日本酒をちびちびと味わっていた神様だが――別に、物理的に酒の量が減っているわけではないので、効果音は俺の想像だ――、人心地つくと、ゆったりとした声で切り出してきた。
――して。何用だ。
「なにって。前回の続きですよ。神様にじゃんじゃん協力して、俺、両親の魂を呼び出すんですから」
神様の問い掛けに、俺はちょっと戸惑いすら覚えて言い返した。
「梅乃さん――この前の魂の時も、俺、ちゃんと役に立ったでしょう? この調子で、どんどん魂を俺の体に下ろして、成仏の手伝いをしていけば、……そうしたら、俺の両親の魂も呼び寄せてくれるって、そういう約束じゃないですか」
まさか、認識違いだろうか。
それとも、約束はなかったことにされているのだろうか。
不安を覚えて眉を寄せると、
――両親の魂を呼び出すのは、やぶさかではないが。
……おまえ。なにをそんなに焦っておるのだ。
神様が、思わしげに呟いた。
「え……?」
――おまえは、毎度毎度深夜に神社に訪れるような常識知らずだが、神酒に手を付けるようなことはさすがにしなかったはずだ。
心も乱れている。愚痴をこぼしながらも、いつもどこかにあった、自信のような能天気さが曇っておる。
なにがあった。
「…………」
優しくすら聞こえる声音に、俺はつい黙り込んだ。
心が乱れている、と指摘され、戸惑ったのだ。
だって、そもそもここに来るときは、いつも精神的にバッドコンディションだったはずだから。
妹と喧嘩したり、妹に罵られたり、妹を傷付けてしまったり。
(……あれ、なんか全部志穂絡みじゃね?)
なんだか自分がシスコンのように思えてきて、俺は思わず顔を顰めた。
と、その心の声を読みとったように、神様が告げる。
――あのなあ。他人と衝突して悩むというのは、己の信念と相手の信念が沿わぬから悩むのだ。
おまえは、やれ妹と喧嘩した、罵られたとは言っても、その根には「自分が正しい」という自負があった。
驕りと紙一重の信念だがな。
だが、今はそれが見えぬ、と神様は言う。
――おまえは迷っている。自分の行いや想いが間違いではないかと悩んでいる。
そういった人間は、願うのではなく、縋ることしかできぬ。
……今一度聞く。なにがあった。
声は優しいが、言っている内容は厳しい。
要は、うじうじ悩んで「助けて」としか叫べない人間には、神様も手の施しようがないということなのだろう。
それでも、なにがあったと聞いてくれたことに勇気を得て、俺はちょっとためらった末に、口を開いた。
信念が曇る原因といったら――これだろう。
「実は……、今日、店で、少しやなことがありまして」
話しながら俺の脳裏に蘇ったのは、昼の営業時に舌打ちしながら去っていった、とある男性客の姿だった。
「いらっしゃいませ」
その時までの俺は、かなり上機嫌で接客に当たっていた。
千切りもすっかりマスターし、この前作った豚汁が好評だったことから、厨房ではすっかり「お兄ちゃん、こっちも頼むー!」なーんて頼りにされ――体よく利用されているだなんて思わない――。
ホールに出れば、なじみのお客さんが笑顔を向けてくれたり、手を振ってくれたりする。
更に最近では、盛り付けの仕方や皿の並べ方も勉強してみたりして、そしてまたそれを、気付くお客さんは気付いて、褒めてくれて。
それがまた嬉しくて、こちらもお客さんの好みに配慮して接客なんかすると、またそれを喜んでもらえる。
そうすると余裕が生まれて、「ああ、あの人もうそろそろ会計だな」とか、「あ、あの席の爪楊枝、補充しておかなきゃ」だとか、先回りして気付くことができたりして、それができる自分が、また誇らしく感じる。
つまり、俺は完全なる好循環の中にあったのだ。
ちょうどお客さんが入れ替わったタイミングで、すかすかになっていた爪楊枝を補充しようと厨房から足を踏み出した瞬間、玄関が開いたため、俺は条件反射で挨拶を寄越したのだったが――入ってきた客を見て、顔をしかめそうになってしまった。
「どーも」
清潔感のない毛玉だらけのセーターに、くしゃくしゃのジーンズ。
小太りの顔は、恐らくは酒のせいでぱんぱんにむくみ、ブリーチした髪は頭頂部の黒を覗かせながら、好き放題に伸びている。
ケンジ、という名であるらしい彼は、週に二度くらいのペースで店に食べにくる常連ではあるのだが、俺の認識では、厄介者、という存在だった。
なにしろこいつの目的は、
「あれ。今日は志穂ちゃん接客じゃないんすか」
料理でもなんでもなく、妹の志穂だからだ。
ケンジはポケットに手を突っこんだまま、のそのそと店を突っ切ると、空いていたテーブル席にどかりと腰を下ろした。
俺は、手にしていた爪楊枝を引きもどしつつ、笑みを張りつけた。
「はあ、すみません。今日は厨房の方が手いっぱいで」
基本的に、調理はほとんど志穂の担当だが、俺がどうしても手が回らない時、近くの席までなら志穂がサーブに回ることもある。
というか、これまでの俺がてんで役立たずだったので、その頻度は結構高かった。
そして、一度接客された時、すっかり志穂を気に入ってしまったらしいこの男は、以降頻繁に店に来ては、妹に絡もうとするのである。
話しかけたり、口説き文句めいた冗談を飛ばすくらいなら、まだいい。
志穂の奴も、まあ可愛い顔はしているので、その手のあしらいには慣れている方だ。
だがこいつは、隙あらば志穂の体を触ろうとしたり、しつこく電話番号を聞き出したりと、とにかくいやらしいのだ。
ちょっと志穂が顔を出すと、長時間拘束して離さなかったり、他の作業をしていても、自分のところに来るまで大声で呼び続けたりする。
志穂はもちろん、周りの客だって嫌な気分になるし、大迷惑だ。
俺は、厨房の奥から視線を飛ばしてきた志穂に「来るな」と目で合図しつつ、注文を聞き、茶を出し、豚の生姜焼き定食をサーブした。
が、やつはほかほかの定食を出されても、箸を取るどころか、苛立たしげに貧乏ゆすりを続けている。
あげく、付け合わせのパセリをちぎって遊んだり、スマホを取り出してゲームを始めたりする始末だ。
折しも、昼の混雑時。
この寒い中、狭い店内に入りきらず、外に並んで待ってくれているお客さんだっている。
なのにこいつときたら、志穂に会いたいがために、失礼極まりない方法で時間つぶしをしやがって。
俺は苛立ちのゲージを上げつつ、念の為五分ほど待って、ケンジに切り出した。
「あの、お客さん。なにか、料理にご不足の点でもありましたか?」
さっさと食え、そして去れ。
もし現実世界に副音声があったら、そんな言葉が聞こえてくるはずだ。
がしかし、ケンジのやつは、
「志穂ちゃん」
「……は?」
「志穂ちゃん、待ってるんすけど。早くしてくんねえ?」
むしろ、志穂を寄越さないこちらに罪があるとでもいうように、ぎろりと睨みつけてきたのだ。
「……失礼ですが、うちの店員と、なにかそのような約束をされてるんでしょうか」
「は? 約束っつか、客が来たら店員が飛んでこいよ」
万が一、志穂と待ち合わせの約束でもしていたらことだ、と思い尋ねてみたが、ケンジは傲慢に鼻を鳴らしただけだった。
「……彼女は今、調理中で手が離せませんので」
「っせえな。客待たせてんじゃねえよ。水でも茶でも店員でもよ、さっさと持ってこねえ店とか、ありえねえし」
志穂を、水やら茶やらと同列に扱っているらしい態度に、俺の声は一層低くなった。
「あの。うちは定食屋なんで。頼むのは飯だけにしてくれませんかね。店員はメニューにないんですよ」
「え、それってうまいこと言ったつもりすか? 笑えねえし」
にやにやと、たるみきった顔の中でケンジが目を細める。
「あのさあ。三日と置かずに来てる常連にさ、もっと誠意があってもいいんじゃねえの? どうせこの店の料理なんて大したことねえんだからさ、それならせめて、客の要望に応えて女の店員を出すくらい、普通だろ。志穂ちゃん、おっぱい小っちゃいけどかわいいしさ、俺としては――」
「食わないんなら、帰ってくれませんか」
ぺらぺらと世迷言を言いはじめたケンジを、俺は強い口調で遮った。
「は? あんた――」
「あいつは手が離せないって言ってるでしょう。食うなら食う。――食わないんなら、さっさと帰れ!」
声を荒げてしまったのは、視界の片隅で、志穂が青褪めながらこちらを覗いているのに気付いたからだ。
こんなくだらない男と、いつまでもやり合っていてもらちが明かない。短期決戦で片付けたかった。
ついでに言えば、妹を怯えさせたこの野郎が心底むかつく。
ケンジは俺の口調に一瞬怯んだようだったが、
「――……んだよ」
すぐに椅子を蹴飛ばして立ち上がると、ついでにがんっとテーブルの脚まで蹴って、踵を返した。
「二度と来るかよ、こんな店。潰れちまえ!」
捨て台詞と、舌打ちまで残して。
やつが去った店内は、気まずい沈黙に包まれた。
「すみません、お騒がせしました」
俺が方々に頭を下げるのと同時に、「いやいや」だとか、「やあね」とかの声とともに、会話が戻りはじめる。それでも、しばらくはその音量も小さめだった。
「……お兄ちゃん」
ケンジの残した定食を厨房に持ち帰り、残飯となった生姜焼きをゴミ箱に移していると、背後から小さな声が掛かった。
「……ごめんね」
振り返ると、途方にくれたような顔をした志穂が、左の二の腕をぎゅっと掴みながら立っていた。
言葉を、なんて掛けてよいのか迷ったのだろう。
「なんでおまえが謝るんだよ」
「……だって、私がもう少し、うまくやってれば……」
歯切れ悪く答える妹に、思わずかっとなってしまう。
「うまくやるってなんだよ? あいつの言うとおり、なんでもかんでも言うこと聞きゃいいのかよ」
「…………」
なにかを言い淀むような表情を見せた妹に、俺の苛立ちは更に募った。
それは恐らく、志穂も俺も、心のどこかで「もしかしたら、さっさとケンジに顔を見せてしまえばよかったのかもしれない」と、ほんのわずかに思っているからだ。
別に、ちょっと柄の悪い客に、ほんの数分接客時間を取られることくらい、総合的に見れば大した問題ではなかった。
だが俺は、妹が不快な思いをしてまで男の前に立つ状況が許せなかった。
しかし、たったそれだけのことを避けるために、客全員が不快な思いをさせられたのも、また事実だ。
中でも俺の胸をえぐったのが、ケンジが去っていった時、客の何人かが、ちょっと怯えたように、または迷惑そうに、俺の方を見ていたことだった。
彼らにとっては、よくわからない要望を突きつけるケンジも、声を荒げて昼食を妨げた俺も、等しく迷惑な存在でしかないのだ。
実際その内の幾人かは、気分を害したとでもいうように、そそくさと食べ終えて店内を去ろうとしている。
なんでこっちの味方になってくれないんだ、とは言わないまでも、――それでも俺は、ショックだった。
客のために心を砕いて、動き回って。
なんとか美味しいものを食べてもらいたいと、あれこれ考えて。
なのに、ちょっとトラブルが起きると、お客さんはさっさと店を去ってしまう。それが虚しかった。
その瞬間、まるで俺たちが、客の歓心を繋ぎとめるために、せっせと一方的な努力をしているだけの、愚かな存在に思えてしまったのだ。
客のための料理、客のためのサービス。
最近では崇高さすら感じていたそれらが、なんだか、不実な恋人の愛情に縋りつくための、見苦しい行為に思えてならなかった。
「……俺たち、なんでこんなに一生懸命やってんだろうなって」
真剣に話を聞いてくれているようである神様に、ぽつんと漏らす。
俺以上に「両親の店を完璧に維持したい」と張り切っているようである志穂は、今回の件のことも、俺以上に気に病んでいるようだった。そんな妹の前で、この手の弱音を吐くわけにはいかない。
その分、胸の中でよどませてしまった感情を、俺は周囲の静寂に促され、さらけ出していた。
「……たかだか、ちょっと客ともめたくらいで大袈裟なって、自分でも思います。でも……いきなり定食屋を始めて、色々悩んで、やっと楽しく思えてきたところに、こういうのが起こると、なんか、がっくり来るっつーか……」
両親は――頼る相手は、もういない。
それは、もうとっくに理解し、受け入れたことのはずだった。
兄である俺は、志穂よりもよっぽど早く落ち着きを取り戻し、冷静に日々を過ごせているはずだった。
しかし実際のところは、無意識に気を張っているのだろうと思う。
それで、その疲れが、薄い膜のようにゆっくり、ゆっくりと重なって、こんな些細なことで、ふと立ち現れるのだ。
今の俺は、なにかを明確に願うのではなく、縋っている状態なのだと神様は言った。
そのとおりだ。
俺は、両親に縋って、ただ慰めてほしかった。
このしんどい思いを、どうにか解きほぐしてもらいたかった。
――ふむ。
しばしの沈黙の後、神様の思案気な声が響く。実体を伴っていたならば、顎でも撫でていそうな調子だ。
――まあ、本当なら、「とにかく助けてー!」と言われても、「どう助けてほしいかくらい、具体的に言ってみろ!」と突き返すのだがなあ。
事情まで聞いて、その具体が把握できたのに、放置するというのも、ちと後味が悪いしなあ。
酒もうまいし。
ちびり、と酒を舐めるような気配がして、やがて、神様はよし、と何事か決めたような声を上げた。
――特別だ。その、めそめそした物思い、願いとして掛け合わせよう。
「へ?」
その発言に理解が追い付かず、間の抜けた返事をしてしまう。
というか、今さりげなく神様にこき下ろされた気がする。
――要は、相手のために心を砕く在り方が美しいと、信じたいということであろう?
自分たちのやっていることは、無為ではないのだと。
「は、はい……」
俺は曖昧に頷いた。
確かに、助けてパパママ、と言うよりはよっぽど高尚で、建設的だ。
神様は、よし、と頷いた。
――ならば、この者がよかろう。
ちとばかり……うざいが、まあなんだ、いろいろ励まされることもあるはずだ。
「は……?」
今この神様、魂に向かって「うざい」なんて表現しなかったろうか。
だが、その疑問を口にするよりも早く、見覚えのある靄が立ち上り、人の形を結びはじめた。
『オウ! 体を貸してくれるのですね!? シュペール! トレトレビヤン! ジルは、とても感謝しますよ!』
いや、今回に限っては、靄が固まりきる前に、既にその人物はずりずりとこちらに駆け寄ろうとしていた。相当前のめりの姿勢だ。
足が固まっていないためか、やや芋虫チックな動きになっているその人物は、なんと金髪に青い瞳をした――外国人。
年齢は読みにくいが、俺より十歳ほど上くらいだろうか。
縦にも横にも大きく、頬なんかぷくぷくして、けして美形ではないのだが、なんだか愛嬌がある。
なぜか彼は、この寒いのにアニメキャラの描かれたTシャツを着用しており、かつ、その薄手の生地をまとわせた腕を、俺に向かってばっと開いた。
『ああ! やっとショウコに会える! セマニフィック! 待っていますね僕の天使!』
「…………」
ハイテンションの外国人男性に満面の笑みでハグの態勢を取られ、俺は少しだけ口の端を引き攣らせた。
どうしよう。
既に、「ちとうざい」の意味がわかってきてしまった。
『え、なぜ逃げ腰ですか? そこを動きませんよ。さん、はい!』
「ちょ……」
展開そのものに、文句はない。
恐らくは神様も俺のことを考えて、この魂を引き合わせたのだろうし、ここでまた体を貸せば、一歩両親の魂にも近付くことができるだろう。
が、大柄な外国人男性に全力の笑顔で駆け寄られて、本能的に身を竦ませずにいられる人物って、この世にいるだろうか。
『フュー……――ジョン!』
「ひいっ!」
まあ、結局、いつもどおり、ふわんと間の抜けた音とともに、俺は体にもう一つの魂を宿すことになったのだが。
(オウ、あなた、大変スリムですね。軽やか。あたかも足に羽が生えましたようです!)
脳内で「セビヤン!」と陽気に響き渡る声に、
(……神様)
俺はどうしても一言だけ突っ込みたかった。
「あんた、さすがに手広すぎやしませんか……!?」
グローバル化の進む今日日、そりゃあ外国人の信徒だっているのだろうが、気のせいでなければ、さっきこの人物は「天使」がどうとか言っていたと思うのだが。
なんなんだここは。神社なのか寺なのか教会なのか。
――言うな。クリスマスの翌週に初詣に来て、葬式で経を唱えるおまえらの国民性に合わせたら、必然こうなったのだ。
背後で、ぼやきのような神様の呟きが聞こえた。
***
ジル、ことジルベール・レヴィナスと名乗るこのフランス人男性は、てしをやに戻る道すがら、まあとにかくよく喋った。
それによれば、彼が日本に来たのは五年ほど前。
当時フランスで放映されはじめたアニメに、「雷を打たれますがごとき衝撃」を受けたのがきっかけで、日本語を猛勉強したそうだ。
そして、来日してすぐに「女神がごとき運命の女性」に出会い、猛アタックの末、昨年ようやく結婚。
幸せな結婚生活を送っていたものの、取り立ての免許で高速を走ろうとしたら、なんとトラックと衝突して死亡してしまったらしい。
(残念ながら、異世界テンセーやオーレ・ツエー展開は、ありませんでしたネ……)
「なんですかそれ」
新種のカフェオレのような単語を唱えはじめたジルさんに胡乱な眼差しを向けた俺だったが、彼が喜び勇んで説明しようとする気配を感じたので、慌てて取り下げた。
「とにかく、ジルさんは、その奥さんに料理を振舞いたいってことでいいんですよね?」
(ウィ! マ・シェリ・ショウコに、なんとしてもジルの、愛の立ち込めた料理、食べてもらいたいですね!)
「込もった、ですかね。……なにかの記念日ですか?」
これまでの魂の皆さんのことを思い出し、ふと尋ねてみると、なぜかジルさんはぽっと頬を赤らめた。
(毎月二十三日は、ショウコとジルが結ばれた日です。素晴らしゅうございます。あと、十二月というのは、初めてショウコがジルの料理を褒めてくれました、記念すべき月でもあります)
「…………」
どうしよう、愛が重い。
サラダ記念日かよ、とか、しかも一ヶ月間祝い通すのかよ、とか、突っ込みは尽きなかったが、ひとまず俺は沈黙を選んだ。
その後も陽気に妻のことをのろけるジルさんを、半ば聞き流し、とうとうてしをやの裏口に到着する。
ほほう、これがジャポンのチューボー、などと興味深げに周囲を見回すジルさんに、
「それで、今日はどんな料理を作るつもりなんですか?」
俺がそう尋ねると、彼は意気揚々と腕まくりをしながら答えた。
(それはですね。ショウコとジルを結びつけた、聖地アキアバラの看板メニュー……――オムライスでございますね!)
***
フランス人の食べものは、とにかくバターがないと始まらないんだ、とジルさんは言う。
宣言通り、彼が俺に用意させたのは、たっぷりのバター。
ライスの具は、玉ねぎとベーコン、マッシュルームの三種だけ。
それを細かく刻んで、バターを馴染ませたフライパンに放り込む。途端に、溶けたバターがじゅっと音を立て、濃厚な香りを撒き散らした。
塩こしょうをたっぷり振りかけて味を整えたら、そこに残りご飯を投入。
バターの塩味とベーコンの脂が全体に回るよう、底から丁寧にかき混ぜ、更にケチャップで味を調えていく。
「なんか……せっかく大人っぽい味で仕上げてたのに、最後ケチャップ入れたら、全部ケチャップに持ってかれませんか?」
(ノン。バターとベーコンのコクが土台となって、尋常ならざるケチャップ味になります。大人の味です)
ケチャップを入れずとも充分美味しそうだな、と思いつい尋ねると、ジルさんはきっぱりとそう答えた。
なんでも、オムライスは、中身がケチャップ色でないといけないらしい。
(オムレツはフランスにもありますが、オムライスはジャポンの食べ物。ジャポンの食べ物は、ジャポン式に作るのが、仁義です)
ちなみに、ジルさんが初めてオムライスと遭遇したのは、アキアバラ――彼はハ行がうまく発音できない――のメイド喫茶だったそうだ。
そして、そこでバイトをしていたショウコさんに出会い、以降彼は、甘酸っぱいケチャップ味と恋の虜になったのだという。
「って、ええ!? 奥さんメイドさんだったんですか……!?」
(ウィ。いつもは料理人だったのですね。でもその時だけ、人が足りなかったのでメイドさんでした。運命ですね)
ジルさんは陶然とした様子で語りながらも、仕上げたケチャップライスを手際よく皿に盛りつけた。
次は、卵の衣の方だ。
「あ、でも、ショウコさんが来てから作った方がいいんじゃないですか?」
(ノン。一回目だと、フライパンにバターが馴染みきりませんですから、少々残念に仕上がります。ジルは、二回目が得意です)
だから、一回目に作った分は、味見に食べていいですよと告げられ、俺はちょっと言葉に迷った。
こうも堂々と毒見役を申し付けられると、反感を覚えていいのやら笑っていいのやらわからない。
だが、残念だという一つ目であってもぺろっと食べられそうなくらいには、腹も減っていたし、それに――
(押し付けてごめんなさいネ。でも、ジルはショウコに、絶対おいしいオムライスを食べてもらいたい。ショウコに出すものは、絶対絶対、失敗したくないのです)
真剣に、目をきらきらさせて告げるジルさんに、圧倒されたからでもあった。
彼は本当に、奥さんのことを愛しているのだろうなあと思う。
彼の手は、細かな作業が得意でないようで、玉ねぎやベーコンを刻む手つきはどこかぎこちなかった。
それでも、手順や分量に悩むことなく手を動かせているのは、きっと彼が、何度もこのオムライスを作ってきたからなのだろう。
恐らくは、ショウコさんが「おいしい」と言ってくれたのが嬉しくて。あるいはその笑顔を見るための練習として、何度も、何度も。
むんと口を引き結んで、ジルさんが取りかかりはじめたのは、卵液を泡立てることだった。
贅沢なほどの量の卵を使い、ただひたすらかき混ぜていく。
腕に痺れを感じる頃になると、卵液は、白っぽくとろりとしたクリーム状になった。
「こ、こんなに泡立てるんですか……?」
(ウィ。これをたっぷりバターで焼くと、スフレみたいでおいしいのです。フレンチのオムレツスタイルですね)
「ジャポンの料理はジャポン式で作るんじゃなかったんですっけ……!?」
(しかしかつて、ショウコはこちらが好きだと告げました)
ショウコさんの言葉は神の啓示か。
どこまでもショウコさんファーストを貫くジルさんに、俺はぐったりしながら付き合った。
宣言通り、ちょっと背徳感すら覚える量のバターをフライパンに入れ、それがじゅわりと溶けて広がる頃に、卵液を流し込む。
塩こしょうといった味付けすらしない。ただ、バターと卵の味だけを、じっくり低温で焼いて引き出していく。
ふつふつと気泡が生まれるようになった辺りで、慎重な手つきで生地を折り返すと、ジルさんはそれをそっと、ケチャップライスの上に乗せた。
そして、その上からさらに、ケチャップをたっぷりかけた。
(どうぞ、味見をお願い申し上げます)
「おおお……」
差し出された皿を見て、思わず喉がごくりと鳴る。
それは、最近流行りのとろとろ系オムライスではなく、どちらかといえば、老舗の喫茶店で出すような、ふんわりしたオムレツが乗ったオムライスに近かった。
スフレといっても頷ける、滑らかな黄色の生地に、ケチャップの鮮やかな赤が美しい。
「いただきます」
スプーンで、オムレツ、ライス、そして少々のケチャップを掬い取り、一気に頬張る。
(…………うま!)
予想以上の濃厚さに、俺はかっと目を見開いた。
なんといっても、口の中に一番に広がるのは、ふわふわのオムレツ。
歯で押しつぶすと、バターの香りが、とろりと熱々な中身とともに広がっていく。
それを受け止めるのが、ケチャップで味付けされたライスだ。
てっきり幼稚な味に仕上がっているのかと思いきや、ベーコンやバターのコクをしっかり吸ったそれは、意外な味わい深さを見せてオムレツの味と混ざり合う。
しかも、塩味と旨みでこってりしがちなところに、ケチャップの酸味がきゅんと加わってきて、絶妙なバランスだ。
時々ごろっと現れる肉厚のベーコンや、旨みを吸った玉ねぎ、マッシュルームの存在も、たまらない。
「うま……! うまいですよ、これ。一つ目でも充分うまい! 俺、こんなオムライス初めて食べた!」
目を輝かせて、俺ががつがつ皿を平らげると、ジルさんは照れたように笑った。
そうして、二つ目に取り掛かろうと、ボウルを取り上げた、その時。
「すみません。このお店って……まだ、やってます?」
玄関の引き戸が開いて、ショートの黒髪が印象的な美人――ショウコさんが、やってきた。