3皿目 具だくさん豚汁(後)
麻里花ちゃんは入口のすぐ傍でコートとマスクを外すと、にかっとこちらに微笑みかけた。
「看板点いてたんで、大丈夫だと思ったんすけど……軽くでいいんで、食べられますかねぇ?」
茶色というよりは金に近いほど脱色した髪に、耳を飾るいくつものピアス。
くっきりとアイラインを入れた目は、ばっさばさの付けまつ毛に囲まれ、唇はグロスで光っている。
いわゆる、ギャル。
この近辺というよりは、渋谷や夜の池袋に棲息していそうな人種だ。
「あ、はい、も、もちろん。どうぞ、カウンターのお好きな席にお座りください」
「よかったあ」
俺がどもりながら返すと、麻里花ちゃんは物おじしない様子で席に腰を下ろす。
温かいおしぼりを受け取り、「はぁ、助かったあ」と、ほっとしたような溜息を漏らした。
「もう、家に着くまでに倒れるんじゃないかと思ったあ。うあー、おしぼり気持ちー」
「あはは……よかったです」
こりゃあ梅乃さんとそりが合わないはずだ、と大変失礼な感想を抱きながら、俺は定型句となりつつあるお断りを口にした。
「ええと、あの、当店ただいま、開店はしているんですけれども……その、諸事情で、出せるメニューに限りがございまして」
「あ、全然大丈夫ですよお。なんかこう……ごはんセットみたいな、軽ーいのをちょっとお腹に入れたかっただけなんで、ちょうどいいっす」
「ごはんセット! ごはんセットですか。ああ、それはよかった」
俺は無意味に言葉を反復しながら、内心で巡り合わせのよさに唸り声を上げていた。
梅乃さんが、冷や飯と豚汁だけしか作らないと言い放った時には、こっそりと、店でストックしているおかずも用意しておこうかと考えたのだが、この分だとその必要はなさそうだ。
(まったく、相変わらず下品な言葉遣いだこと。……ほら、哲史さん。今日のメニューは豚汁と冷や飯だと、さっさと言ってくださる?)
脳裏では、眉を寄せた梅乃さんが急かしてくる。
豚汁はともかく、冷や飯って、と、俺は口の端を引き攣らせたが、梅乃さんが頑として譲らない気配であるのを悟り、思い切って口を開いた。
「なら、その……豚汁とご飯のセットとかどうでしょう。ご飯は……ええと、ほっかほかの土鍋ご飯と、あとは冷や飯から選べますよ」
良心の呵責に耐えかねて、選択制にしてみる。
だって、この世の誰が、こんな寒い日に、わざわざ飯屋で冷や飯を頼むというのだろう。
しかし。
「豚汁に、……冷や飯?」
麻里花ちゃんはきょとんと眼を見開いたかと思うと、ぱっと顔を輝かせ。
「……ぜひ、冷や飯で!」
きっぱりと、冷や飯を注文したのだった。
ほかほかと湯気を立てている豚汁と、土鍋から茶碗に移し、冷蔵庫で冷ましておいた白飯。
あとは、おまけに野沢菜の漬物を用意する。
それを厨房から直接カウンターに置こうとすると、ぐんと体が引っ張られる感覚がして、梅乃さんに体の主導権を奪われた。
(お盆があるのですから、お盆をお使いなさい)
そんな一言が響く。
せっかくのカウンター席なのに、とちょっと唇を尖らせたが、俺は特に反論することなく――だって、ここで独り言を唱えはじめても不気味だ――、お盆に皿を移しはじめた。
両手でお盆を持ち、席を回り込む。
麻里花ちゃんの後ろのテーブルにそっとお盆を置き、そこから丁寧に皿やお椀を取り上げる自分の両手を見て、俺はちょっとだけ驚いた。
(……なんか、きれいだ)
両手で茶碗を捧げ持ち、置く直前に左手をすっと退いて。
音を立てないよう、高台を奥から手前に傾けるようにしながら、最後にそっと右手を離す。
その時、左手を右の一の腕辺りに添えているのは、きっと、着物の袖を押さえる癖の名残なのだろう。
ご飯は左に、汁物は右に。
漬物は、二つの間の、奥の位置。
いつも志穂から言われていることのはずなのに、きちんと等間隔に置かれた皿を見ると、なんだか急に品格が漂って見えた。
「…………」
「え?」
麻里花ちゃんが、少し目を見開いて、なにごとかを小さく呟く。
俺が思わず聞き返すと、彼女はふふっと笑って首を振り、「いただきまーす」と唱えた。
よくよく見ると、そういう彼女の箸の取り方だって、相当きれいだ。
右手ですっと箸を取ったかと思うと、それを一度左手で受け取り、右手を滑らせて箸を握る。
その指先もきちんと合わせられていて、まるでなにかの儀式を見ているようである。
派手な外見といい、ラフな言葉遣いといい、てっきりイケイケ系の女の子なのだろうと決めて掛かっていた分、急に彼女が清楚な女性に見えて、俺はどぎまぎとした。
(なんか……意外にきちんとした子なんだな)
厨房に戻りながら、そんなことを考えていると、まるで俺の思考を読みとったように梅乃さんが意地悪そうに笑う。
(ふん。ようやく、箸の上げ下ろしはできるようになったみたいね。出来の悪い生徒だこと)
どうやら箸の持ち方は、梅乃さんが麻里花ちゃんに教えたものであったらしい。
(素直に褒めてやりゃあいいのに……)
ちょっと気の毒になりながら麻里花ちゃんに視線を戻し、俺ははてと首を傾げた。
彼女は箸を持ったまま、じっと皿を見つめていたのだ。
「……どうかしましたか?」
やはり、いざ冷や飯を前にして、食べる気が失せてしまったのだろうか。
心配になった俺が尋ねると、彼女ははっと顔を上げ、
「え? あ、なんでもないでっす!」
例の明るい笑顔を浮かべた。
だが――心なしか、その表情は、ぎこちなく見えた。
なにか料理に不足があっただろうか。嫌いなものが入っていただろうか。
(はっ……まさか、梅乃さんたら嫌がらせに、麻里花ちゃんの嫌いなものを入れてたとか!?)
今更ながらその可能性に思い当たり、
「もしかして、苦手な具でも入ってました?」
と尋ねてみる。
すると麻里花ちゃんは即座に首を振った。
「ううん。大好物ばっかです。大根も、人参も、全部全部、好きなもの、ばっか……」
だから、ちょっと。
声がすぼみ、途切れていく。
なぜか少しだけ目まで潤ませているようである彼女に、俺はぎょっとした。
と、それに気付いたのか、麻里花ちゃんは
「あはは、すみません。あんまり美味しそうで、興奮しちゃった」
明るくとりなした。
だが、せっかく持った箸を置き、なぜかお腹をひと撫ですると、
「……ねえお兄さん。もしかして礼法とか、習ったことあるでしょ?」
突然、そんな話を振りはじめた。
「れ、礼法?」
もちろんそんなもの、習うどころか、聞いたのすら初めてだ。
戸惑って首を振ると、麻里花ちゃんは当てが外れたとでもいうように、ちょっと唇を尖らせた。
「えー? 本当に? じゃあ親に躾けられたとか? 相当できた親御さんっすね」
まるで俺が礼法をマスターしているかのような口ぶりだ。首を傾げていると、彼女は「だってさ」とひとつひとつ例を挙げて説明してくれた。
「ご飯を左に、汁ものは右に。……まあ、このくらいは『常識』らしいけど、いざご飯屋さんとか行ってみると、意外に実践してるとこ、少ないなあって思うし。お盆の持ち方も、お椀の置き方も、あと、その左手を上にした手の重ね方も、立ち方も、お兄さんったら、すごく自然にやってるから。すごいなあと思って」
「そ、そうですかね……? いや、全然無意識で……というか、そういう作法があることすら知らなかったんですけど」
なにせ、全て梅乃さんの行動だ。
無意識に重ねていたらしい両手を慌ててほどくと、麻里花ちゃんは、それらの作法と、その意図を説明してくれた。
ご飯を左に置くのは、一番持ち上げる頻度の高いお椀を取りやすいように。
丸盆を置く時、先端をテーブルにくっつけてから左、右、と下ろすのは、お盆で起こる風が、相手の側に行って服を乱してしまわないため。
手を重ねる時、左手を上にするのは、剣を持つ手である右手を自ら封じることで――礼法が確立されたのは武士の時代であるらしい――、「私はあなたを傷付けませんよ」と伝えるため。
食事の作法、ちょっとした仕草、立ち姿まで。
全て、「相手を思って行動する」というのが、礼法の基本であるらしい。
「堅苦しいっちゃ堅苦しいんですけど、そういうのって……なんつーか、和の心っすよねえ」
麻里花ちゃんはなんともなしにそう言うが、その全てが初耳の俺にとっては、彼女こそすごい人だ。
そう言えばこの子は、外見こそ派手だが、コートは埃が飛ばないよう玄関口で脱いで畳んでいたし、無言でスマホをいじりだしたりもしない。
カウンターの上にスマホを置かないことを取ったって、若いお客さんにしては随分マナーが行き届いているように思えた。
「いや、麻……お客さんこそ、めちゃめちゃ作法に詳しいじゃないですか」
「いやいやー。あたしのは全部受け売りだし」
麻里花ちゃんは明るく笑い飛ばすと、ふと黙り込んだ。
そしてじっと、懐かしむように豚汁を見つめた。
「……あたしの義理のお母さんが、鬼厳しい人だったんすよ」
ぽつんと呟く。
梅乃さんのことだ。
俺が咄嗟に言葉を返せずにいると、それになにを思ったのか、
「あは、すんません、なんの話してんだろ、あたし」
麻里花ちゃんは取り繕うような笑みを浮かべ、両手で豚汁のお椀を持った。
「料理はあったかい内に頂かなきゃね」
そうして、いただきますと再び唱えて、静かにそれをすする。
一拍置いて、その長い睫毛に縁取られた瞳を、大きく見開いた。
先程味見した俺にはわかる。
今、麻里花ちゃんの口には、豚の旨みと、とろけた野菜の甘みが、渾然一体となって広がっていることだろう。
コクのある汁が冷え切った喉を駆け抜けて、胃の底から温めてくれているはずだ。
実際、にんにくのほのかな風味が鼻に抜けたであろう瞬間、麻里花ちゃんの顔色がぱっと明るくなる。
頬が上気して、鼻の先がちょっとだけ赤くなった。
――いや、違う。
彼女の目尻もまた、赤く染まっていた。
「――……あー……」
お椀を口の近くに掲げたまま、彼女が小さく漏らす。
その両手は白くなるほど力が込められ、かすかに震えていた。
「……も、だめ……」
こらえきれない、といった口調で呟くと、その言葉を追いかけるように、ぽろりと涙の粒が転がり落ちる。
きれいに口紅を引いた唇を、麻里花ちゃんはぐっと噛み締めたが、小鼻はひくんと動き、涙は後から後から、とめどなく溢れてきた。
「や……もー、ほんと……」
ひっく、としゃくりあげながら、震える手でお椀を下ろす。
彼女は慌ててお絞りを取り寄せてそれに顔を埋めると、まるで子犬が泣くような声で、ひんと喉を震わせた。
その後には、俺の気のせいでなければ、
――おかあさん。
悲痛な声で、そう呟いた。
突然の、なにより女性の涙。これ以上に男を慌てさせるものがあるだろうか。
ぎょっとしてなにも言えないでいると、それに気付いたらしい麻里花ちゃんが、俯いたままさっと片手を上げた。
「す、んません、突然。……あは、やだ……止ま、止まんない……っ」
無理矢理笑みを浮かべようとするのに、しかしそれを裏切るように、涙が流れてくるらしい。
結局彼女はひっく、ひっくと肩を揺らすと、
「なんなんだ、今日はもー……」
弱々しくなにかを罵った。
無言で見守っていた梅乃さんがすっと動き、麻里花ちゃんに温かいお茶を差し出す。
彼女は、ふ、ふ、と息切れしながらそれをこくりと飲み下すと、ほんの少し落ち着きを取り戻した。
ずずっと鼻をすすり、真っ赤になった目を上げる。
「……どうも、すんませんね。今ちょっと……こう、ホルモンバランス的に、すぐ泣けちゃう状態で。あは、気にしないでください」
女性ならではの周期ということだろうか。
俺は大いに戸惑いながら、もごもごと答えた。
「……いえ、あの、……料理とか俺のせいでなければ、いいんですけど……」
「お店のせいなんかじゃ全然……! あ、でも……そっか、ちょっと、お兄さんのせいかも」
「えっ!?」
思わず肩を揺らすと、麻里花ちゃんは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「だって……この豚汁、すごい、……梅乃おかあさんの味、そのものなんだもん」
梅乃おかあさんの味。
その言葉に俺ははっとする。
(そっか、わかったんだ……。これが、梅乃さんの料理だって)
嫌がらせだとか、そういったことではなく。
彼女は、純粋に、梅乃さんの料理に再び出会えたと――恐らくは感動して、泣いているのだ。
「あの……その、おかあさんの味と、一緒、でしたか……?」
麻里花ちゃんの反応に勇気を得て、そう水を向けてみると、彼女はじっとこちらを見返して、
「……うん。あ、おかあさん、って言っても、旦那のお母さんなんすけど。さっき言った、鬼厳しい姑の方」
やがて、そう答えてくれた。
「結婚されてるんですね。若いのに、驚きました」
「あはは、よく言われる。あたしたち、すっごい歳の差婚だったから、めちゃめちゃ反対されたんですけどねえ」
一応こちらが、なにも知らない態を取ると、麻里花ちゃんはそんな風に小さく笑う。
静かな店内。薄暗い照明。
あとはきっと――強がりもなにも溶かしてしまうような、温かい豚汁。
それらが、俺たちの間にあった遠慮や躊躇いを取り去り、彼女はぽつぽつと、噛み締めるように語りだした。
「……あたしね。小さい時親が離婚して、そこからちょっとグレちゃって。高校くらいまで遊びまくって、今のご時世、大学にも行かずにフリーターしてたんですよ」
夢は無かった。やりたいことも。
ただし、再婚した母親が連れてきた「新しい家族」にはなじめなかったから、家から逃げ出したいという思いだけはあった。
夫となる男性と出会ったのは、バイト先のコンビニエンスストア。
病院の近くに位置するそのコンビニに、よく疲れ切った昭秀さんがやってきて、ある日ふと、自分用に購入していたチョコレート菓子をお裾分けしたのをきっかけに、会話をするようになったという。
自分とは対極にいるような、真っ当な家庭で育った昭秀さん。
麻里花ちゃんは彼に反発と好意を抱くようになり、時間が経つとともに、後者の比重が大きくなっていった。
「もー、歩く包容力、みたいな人で。あ、のろけてすんませんね。で、秀さん――旦那が真面目くさってプロポーズしてきたとき、気付けば頷いちゃってたんです」
くすぐったい、夢のような日々。
しかし、「両家への挨拶」だとか「結納」だとかに差し掛かった辺りから、麻里花ちゃんにとある困難が訪れる。
昭秀さんの母、梅乃さんの存在だ。
「これがほんと、ザ・姑! って感じの人で。ドラマとかでよく、窓枠の埃をつーってしたり、『この泥棒猫』って言ったり、そういうのあるじゃないすか。まさにあんな感じで」
なにを思い出したか、ちょっとにやにやした麻里花ちゃんに、俺の中にいる梅乃さんが、
(……そんなことしていませんよ。失礼な子ね)
ぼそっと呟いた。
家柄に自負を持ち、息子を愛してやまなかった梅乃さんは、いきなり湧いて出た「不束な嫁」の麻里花ちゃんに厳しかった。
挨拶や姿勢にはじまる日常作法に、掃除の仕方、服の選び方。
なかでも、昭秀さんに関わることだからと、料理に関しては一切の妥協なく指導されたという。
「今でも忘れられない。初日なんかね、箸の持ち方がなってないって言われて、菜箸すら握らせてくれなかったんですよ。出汁の取り方とか、包丁の研ぎ方とかさ……よく、『あれ、今って平成じゃなかったっけ』って思ったなあ」
麻里花ちゃんは目の前に置いた箸を見つめながら、ふふっと笑った。
不思議なことに、いびられた思い出を語っているはずの彼女は、楽しげだった。
でもね、と、口の端に笑みを残したまま続ける。
「……べつに、Mじゃないけど。あたし、そういうの、……けっこう、嬉しかったんです。ああそっか、普通は、こんな風に母親に躾けてもらえんのかな、って」
俺の中で、梅乃さんが息を飲む気配がする。
箸に視線を落としたままの麻里花ちゃんは、もちろんそれには気付かないようだった。
「それに、その梅乃おかあさんって人が……なんつーのかな、すんごいツンデレなんすよ」
「ツンデレ?」
その単語がもたらすギャップに思わず聞き返すと、彼女はくすりと笑った。
「そ。なんかね、あたしに厳しくしすぎた日って、必ず夜にひとりで反省会してんですよ。正座で、神妙な顔してだるまを持って、『ごめんなさい……ご、ごめんなさい……いえ、なぜ私が謝らなくてはならないのよ、ふん』とか、ぶつぶつ。コントかよって。たまたま見ちゃったとき、あたし、爆笑しかけたもん」
俺の耳がかっと熱くなる。梅乃さんが真っ赤になっているからだろう。
「他にもね、あたしが苦手な食材は、二回目からは絶対使わないの。あたしが鼻炎持ちだって知った次の日には、部屋中に飾ってあった花から全部花粉を拭きとってあったり、ちょっと具合悪いなって日は、食べやすいメニューに変えてくれたり」
苦手な食材を、直接口に出して告げたことはなかった。
それでも、ちょっとした表情の変化や食の進み具合から、梅乃さんは必ずそれを見分けてきたのだという。
食事も、部屋の温度も。
体調や気分だって、夫の昭秀さんや麻里花ちゃん本人より、いつだって梅乃さんが真っ先に気付いて、気遣ってくれた。
それが心底すごいと思ったし――言葉にならないほど、嬉しかった。
麻里花ちゃんは、俯いたまま、
「……あたし。ほんとにね、梅乃おかあさんが、大好きだったんです」
小さく呟いた。
そしてまた、ぽろっと涙をこぼした。
「大好きだった。憧れてたの。あんな風に、なりたかった。子どものことをでろでろに愛してて、きちんとしてて、……なんでも気付ける、そういう、母親に」
なのにさあ、と彼女は鼻をすすった。
「おかあさんは、なんでもわかってたのに……、あたしは……っ、てんで、ダメで。おかあさんの病気のことにも……気付けなかった」
手首の付け根で、ぐしっと涙を拭う。
麻里花ちゃんは恥じるように髪をくしゃっと掴むと、泣き顔を隠すようにそれを引っ張った。
「おかあさんね、風邪をこじらせて、肺炎になって、……死んじゃったんです。あっという間だった。その数日前までは、ピンシャンしてたのに。味付けが濃すぎるとか、いつも通りの文句、言ってたのに」
折悪く、梅乃さんが風邪を引きはじめた頃、昭秀さんはずっと家に帰れない日々が続いていたらしい。
麻里花ちゃんは何度も通院を勧めたが、梅乃さんは「ただの風邪でお医者様の手を煩わせるわけにはいかない」と言い張った。
あげく、いよいよ咳がひどくなると、看病すら断ってきたらしい。
出来の悪い嫁に傍にいられては、ゆっくりできないからと言って。
「あたし、その言葉に、ショック受けちゃって。意地になって、一晩、口も利かなかった。でも……っ、あの梅乃おかあさんが、本気でそんなこと言うわけないのに……っ。単に、あたしに移したくなかったからって、気付く……気付くべきだったのに……!」
(……お腹の子にまで病気を移しでもしたら、大変じゃないの)
脳裏で小さく、梅乃さんがひとりごちる。
その内容に、俺ははっと顔を上げた。
同時に、これまで胸のどこかに引っかかっていたものが、一気に繋ぎ合わさる。
倒れそうだと言って店に来た麻里花ちゃん。
米の炊ける匂いを避けるように、冷や飯を頼んだ彼女。
ホルモンバランス的に、涙が出やすいという言葉。
彼女は今、妊娠しているのだ。
それを裏付けるように、目を真っ赤に腫らした麻里花ちゃんが打ち明けてきた。
「おかあさんが肺炎になったとき……あたし、妊娠がわかった直後で。だから、本当は、おかあさんはね。あたしに移したくなかっただけだと、思う」
でも、と彼女は続けた。
顔をくしゃくしゃに歪め、ぼろぼろと涙をこぼしながら。
「でもね。あたしはそれでも、看病……させてほしかった。あったかくして、……栄養のあるもん、食べさせて。背中を撫でて、……傍に、いて……っ、いつもおかあさんが、あたしにしてくれたみたいに、気遣って、……思いやって……あげたかっ、…………!」
とうとう、言葉が続かなくなった。
静かな店内で、ひくっ、ひくっと痛ましい嗚咽が響く。
それをじっと見つめていた梅乃さんが、
(……馬鹿な子でしょう?)
ぽつんと漏らした。
(この子ったら、本当に、馬鹿で。……馬鹿だから、ひとつ覚えみたいに、毎日毎日、私の墓まで、花やら果物やら、持ってくるんですよ。この寒いのに。どんなにめでたい日でも、毎日、毎日)
もう、見ていられないわよ。
そう言う梅乃さんの声だって、堪えようもなく、震えていた。
めでたい日、の意味は、少しだけ落ち着きを取り戻した麻里花ちゃんの次の言葉で明らかになった。
「今日……あたし、誕生日だったんです。旦那が、仕事の合間を縫って、超高級なフレンチに連れてってくれたんだけど……も、バターの匂いとか、こってりした肉とか、辛くって。……旦那に呼び出しが掛かったのをいいことに、さっさと帰ってきちゃった」
お腹は空いていた。倒れるんじゃないかと思うほどに空いていた。
けれど、食べたいものが思い付かなかった。
苦しい、しんどい。
梅乃おかあさんだったら、こんな時、なにを作ってくれるだろうかと、ぼんやり考えながら歩いていた。
そうして「てしをや」の前を通りがかった瞬間、――彼女は猛烈に、食べたいと思える匂いに気付いたのだという。
「なんか懐かしい匂いだなあと思ったら、大好物の豚汁で、しかも冷や飯を出してくれるって、言うでしょ。お米の炊ける匂いはマジで無理なんですけど、でも、ご飯自体は食べたくって。言われた瞬間、そうだ、それだ! って思って」
その時麻里花ちゃんは、俺のことが梅乃さんに見えるくらいだったそうだ。
だって、お盆の持ち方や、お皿の並べ方、立ち姿までそっくりで。
出された豚汁は、世界一おいしいと思っていた彼女のものと、まったく同じ味。
くどすぎない、塩味の利いた温かな汁が、体中に沁み渡るようだった。
「それも、よりによって、今日でしょ。ほんと……なんかもう、奇跡かよって思えちゃって。梅乃おかあさん、あんたどんだけ凄いの、みたいな……。あは、それで。すんません、号泣しちゃって」
そこで笑みを浮かべようとする麻里花ちゃんは、強い人だ。
ただ、不器用でもある。
嫁のことが大好きで、心配で仕方ないのに、それを言いだせないでいる梅乃さんと、同じくらいに。
「――本当に奇跡だ、……って言ったら、どうします?」
気付けば俺は、そう問い掛けていた。
「え?」
「だって、俺、……梅乃さんのこと、知ってますから。その豚汁も、梅乃さんに教えてもらったレシピなんです」
(ちょっと、哲史さん!)
脳裏で、梅乃さんが少し慌てたように声を上げる。
けれど俺は知っていた。
銀二さんといい、梅乃さんといい、素直でない人たちの未練を無くすためには、こちらからちょっと背中を押してしまった方がよいのだと。
「そう、なんですか……?」
「黙っててすみません。名前が一致するのに時間が掛かっちゃって。でも、梅乃さん、しょっちゅうお客さん――麻里花ちゃんですよね、あなたのこと、話してましたよ。そう、……すごく一途なお嫁さんだ、って」
馬鹿の一つ覚え、なんて彼女は言っていたが、それを一途と言い替えても、この場合は意訳の範疇だろう。
(ちょっと、哲史さん。あなた、さっきからなにを――)
「今日冷や飯なんて準備してみたのは、前に梅乃さんに、つわりの人にはそういったメニューの方がありがたいって言われたのを思い出したからなんです。でなきゃ、飯屋で冷えた飯なんて出さないですもん」
「あ……じゃあ、お兄さん、あたしの体調を、一発で見抜いたってこと!? すごいなあ」
まったく気付いていなかったが、そこは笑顔で黙殺する。
俺は、乗り移りだとかの単語を出さないように注意しながら、なるべく自然な口調で続けた。
「そういうことって、たまにあるんですよ。なんかこういうお客さんが来るかなー、と思って飯を用意しといたら、ちょうどそうなる、みたいな。そういう時は、俺はもう神様が用意した巡り合わせだと思うことにしてます。だから……今日、この豚汁に出会ったのは、きっと、梅乃さんが麻里花ちゃんを呼び寄せたからなんですよ」
実際に呼び寄せたのは、恐らく神様だが。
それでも俺が自信たっぷりに言い切ると、麻里花ちゃんは涙の残った声で、「おかあさんが……」と繰り返した。
「そう。きっとなにか、豚汁を通して麻里花ちゃんに伝えたかったんじゃないかな。例えば……」
(…………)
「ほら、ええと……」
言葉を繋ぎながら、脳裏では「早く!」「なんか言ってくれえ!」と梅乃さんを急かす。
まったく、なんと意地っ張りな人だろう。
「例えば……?」
「例えばですね……」
心なしか、期待を込めてこちらを見上げてきた麻里花ちゃんに、俺が冷や汗を滲ませたとき、
(――……麻里花さん)
ようやく、梅乃さんが口を開いた。
(あなたは、常盤家の嫁です)
だから、しっかりしろということか。
この期に及んで、まだそんな厳しい発言をしようとしているらしい彼女に、俺は思わず天を仰ぎそうになった。
が、しかし。
(常盤家の……自慢の嫁です。あなたは、人を思いやることができるし、なにより、人からの思いやりに気付くことができる)
後に続いた言葉に、俺はちょっと目を見開いた。
慌てて、それを代弁する。
「……麻里花ちゃんは、人を思いやったり、人からの思いやりに気付ける、自慢のお嫁さんですって。これは、実際に梅乃さんが言ってた言葉です」
「へ……?」
「だってそうでしょう。いくらこちらが心を砕いて、冷や飯やら豚汁やらを用意しても、気付かない人は『なんで冷や飯なんか出すんだよ』ってなりますもん。一つ一つに気付いて、それをすごいって言える麻里花ちゃんは、立派です」
そうとも。
嫁いびりにしか見えない梅乃さんの行動に、優しさや、気配りを感じ取ってみせた麻里花ちゃんは、立派だ。
自分の行動を「嬉しい」と言われて、慕われて。それで喜ばない人間なんて、きっといない。
麻里花ちゃんの想いは、――梅乃さんへの好意は、間違いなく本人に伝わっていたはずだと、俺は請け負った。
潤んだ瞳のままきょとんとする彼女に、俺は脳裏で響く梅乃さんの声を拾いながら、続けた。
「しんどくても、笑顔でいようとする麻里花ちゃんは、すごい。きっと、素敵なお母さんになれる。だから、心配なんてせずに――あったかくて栄養のあるものをしっかり食べて、元気な子どもを産んでください。……頑張って」
最後の一言を聞いた途端、麻里花ちゃんが再びじわっと涙を浮かべた。
「……なれるかなあ、素敵なお母さんに」
(なれます)
「なれますよ」
梅乃さんと俺で、即答する。
麻里花ちゃんは、またもや赤くなってしまった鼻をすん、と啜ると、小さく「へへっ」と笑った。
「……ありがと。ありがとうございます。それなら……この豚汁も、あったかい内に、食べちゃわなきゃね」
そう言って、丁寧な仕草でお椀を持ち上げる。
滑らかに箸を動かし、具を口に運び。温かな汁を、そっと喉に流し込む。
時折ぽろりと涙が頬を伝ったが、麻里花ちゃんも俺も、なにも言わなかった。
そうして、ご飯の一粒すら残らずに、彼女はお皿を空にし、
「――ごちそうさまでした」
爪の先をきちんと揃えて、両掌を合わせた。
「……あー。なんっか、久々に、ちゃんとご飯食べた気がする」
「二人分ですしね、いくらでも食べてくださいよ」
「あは。頑張りまっす」
そう笑う麻里花ちゃんの表情は、この店に来たときよりもずっと晴れやかだ。
顔色もよくなった。
やがて、彼女は今度は「眠くなってきた」と言いだすと、会計を済ませ、何度も「ありがとう」と繰り返してから店を去っていった。
静かな店内には、俺と、俺の中の梅乃さんだけが残った。
「よかったですねえ、梅乃さん。麻里花ちゃん、梅乃さんのこと、大好きなんですって」
(……別に、人様に宣言してまわることじゃないでしょうに。恥ずかしい子)
「またまた。梅乃さんも、麻里花ちゃんに言ってあげたらよかったんじゃないですか? 大好き、って」
つんけんした梅乃さんの言葉の中には、隠せぬ愛情が滲んでいることを、俺はもう理解できるようになっていた。
ついニヤニヤしながら、そんな風にからかってみる。
てっきり、「べ、別に大好きなんかじゃないわよ」みたいな、ツンデレっぽい答えが返って来るのかなあ、と思っていたのだが、
(ふん)
梅乃さんは余裕の態で、軽く眉を上げただけだった。
(そんなことはね、言わずとも伝わるものです。心を、姿勢で、呼吸で、仕草で表すのが、奥ゆかしき日本人の在り方なのですから)
「……さようですか」
俺が無難に返すと、梅乃さんはちょっとだけ黙り込んだ。
そして、
(でも……ありがとうございました)
小さな声で、そう言ってくれた。
それから彼女は、達筆な文字でわざわざ豚汁のレシピを残し、他にも、食事のちょっとした作法や礼儀を伝授し。
更には俺にまで、寒いから風邪を引かぬように、などといった言葉を掛け。
やがて、溶けるようにして、消えた。
***
「よーし、いい匂い」
朝。
寸胴鍋の前で仁王立ちしていた俺は、おもむろに汁を一口分小皿に取り分け、味見した。
差し込む陽光にきらきらと脂の粒を輝かせる、茶色の汁――豚汁だ。
飲み干し、昨夜と同じ味を再現できていることを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
大量に作るのは勇気が要ったが、上手くいってよかった。
俺は、昨日熱でダウンした妹に代わり、朝の仕込みをしているところだった。
仕込み、とはいっても、肉や魚をどう処理しておけばよいのかは、わからない。
ひとまずできることとして、ご飯を炊き、汁物を用意しておいたのだ。志穂のやつも、一晩寝れば大丈夫だと思うので、あとはなんとかなるだろう。
今日だけ味噌汁から豚汁にランクアップだが――まあ、一日くらい、よしとする。
個人経営の店のよいところだ。
と、ポケットにしまっていたスマホがぶるっと震え、メッセージの到着を告げてくる。
画面を開いてみると、それは妹からだった。
『寝坊した! 十分で行く』
慌てるあまりスタンプも絵文字もない文面に笑いながら、返信を打つ。
『大丈夫。ご飯炊いて、豚汁作っといた。家の台所に置いといたのと、同じやつ。食べた?』
そう、昨夜梅乃さんに教えてもらったレシピを、俺は即座に練習がてら実践し、家の台所にメモを添えて置いてきたのだった。
生姜やにんにくを使い、根菜もたっぷり入った豚汁は、きっと今の志穂にも必要なものだと思ったから。
ほんの少しだけ間を置いた後、
『沁みた』
志穂からは、なぜか顔面蒼白になって震える豚のスタンプが送られてきた。
『ていうかびびった』
(びびった?)
それがポジティブなのかネガティブなのかわからず、俺は思わず眉を寄せる。
だが数秒後に送られてきたメッセージを見て、小さく口許を綻ばせた。
『超おいしかった。ありがとう』
おいしかった。ありがとう。
たったそれだけの言葉を、何度も読み返してしまう。
「……へへっ」
そういえば、自作の料理を妹に食わせたのも、俺自身に感想を貰うのも、初めてのことだ。
冬の寒さを漂わせた空は真っ青、差し込む陽光は穏やか。
味噌の柔らかな香りが漂う店内で、俺は機嫌よく、開店準備に取り掛かったのだった。