3皿目 具だくさん豚汁(前)
ささがきにしてアクを抜いたごぼうを、熱したゴマ油に絡め焼く。
こんがりと焼き目が付いたら取り出し、今度はそこに豚肉を投入し、塩を少々。
香ばしいゴマ油と、じゅわりと浸み出る豚の脂が混じり合ったそこに、刻んだにんにくと生姜を放り込んでいく。
ごぼうを戻し入れ、更にはにんじん、大根、こんにゃく、長ねぎ……。
(ちょっと。油揚げはまだ入れないでくださる?)
「うわ、はい!」
途端にぴしりと、凛とした声が脳裏で響き、俺は背筋を正した。
(まったく、こんな簡単な作り方なのに、何度言ったら覚えてくれるのだか)
「……すみません」
(ほら、手が止まっていますよ。返事もいいですが、手も動かしてちょうだい)
「…………はい」
どこまでも厳しい指導に、思わずちょっぴり遠い目になる。
(……そりゃさ)
気が強い女性は好みだし、女王様系美女に「バカなの?」と罵られるシチュエーションだって、大好物ではありますけれども。
(聞いているの? ほら、よく混ぜてちょうだい。まったく、のろまなのだから)
そこには愛情が滲んでいなければいけないと思うし、何より、
「……あの……もうちょっと優しく指導してくださいよ、ばあさん……」
(まあ。ばあさんではなく、梅乃さんと呼んでと言ったでしょう)
そういうのは、「ただし妙齢の女性に限る」ってやつだと思うのだ。
(ほら、よく混ぜたら、おだしを入れる……って、入れすぎないで!)
「うわ、はい! すみません!」
脳裏に老齢の女性の声が、店内に俺の情けない謝罪が響き渡る。
俺は、ここにはいない神様を思い出し、恨みがましく歯を食いしばりながら、つい三十分ほど前のことを思い返していた。
***
「神様ー。いますかー?」
がろん、がろん。
夜の境内に、低い鈴の音が鳴り響く。
右腕に広島の銘酒の茶色い瓶をぶらさげながら、今日も今日とて俺はこの神社に足を運んでいた。
「もったいぶらないで、出てきてくださいよー。今日は、広島の酒を持ってきましたよ。見てくださいよ、このきっぱりとした白いラベルに、堂々とした筆文字。あえての純米酒。男っぽくて素敵でしょう? がつんと酒って感じで、この癖の強さがたまらないんですよ」
ただでさえ人気が少ないこの神社。
深夜ともなれば、他に誰もいないことはわかりきっていたので、俺はどこまでも気安く神様に話しかけた。
彼――いや、彼女だろうか?――の好物もまたわかっている。酒だ。
うまい酒さえぶら下げれば、きっとここの神様は出てくるに違いないと踏んで、俺は熱心にプレゼンを続けた。
「燗にするとね、辛口になって、これがまたうまいんです。どうです? 飲んでみたいと思いませんか?」
はたして。
――……燗を勧めるなら、燗にして持ってこい。うつけ者め。
御堂がぽうっと光り、老若男女、どれともつかない不思議な声が辺りに響きはじめた。
「出た! 神様!」
――まるで私をお化けかなにかのように……。
だいたい、毎回深夜にやってきて、少しは礼儀というものを弁えぬのか?
この不信心者めが。
ぶちぶちと愚痴るように呟くが、そんな態度を取られると、ますます人間くさいと思うのは、俺だけだろうか。
神様と言葉を交わし、不思議な体験をすること二回。
俺はすっかり、この現象を受け入れ、かつ、神様に対して親しみのようなものを抱くようになっていた。
冷静に考えれば、人ならざる者と会話し、死者の魂に体を乗っ取られるなんて恐怖そのものだろうし、あるいは神様と言葉を通わせるだなんて、恐れ多いことなのだろう。
しかし、過去俺の体に乗り移った時江さんや銀二さんは、ホラー映画で見る怨霊みたいなものとは程遠い人たちだったし、想いを果たした後は、感謝しながら俺に体を返してくれた。
料理の技術や心構えみたいなものも教えてもらって、ついでに、ちょっとうるっと来るような場面にも立ち会っちゃったりして――まあ、「また同じことがあっても、別にいっかな」という程度には、俺もこの現象を好意的に受け止めているのである。
ちなみに、恐れ多い云々の方については、……なんといおうか、この神様のキャラクターだと、あまりそういった感情は抱けない、というのが正直なところだ。
――おい。おまえ、今なにかとても失礼なことを考えなかったか?
ほら、こういうところが。
「いやいや、気さくでなんて素敵な神様だろう、って思ってたところですよ」
そうごまかして、蓋を開けた日本酒を賽銭箱の横に置くと、途端に神様は上機嫌になった。
――おお。本当だ。酒酒しいほどに、酒だぞ。
そしてたぶん、この神様は食レポが下手だ。
それでも大層美味しそうに、ぐびぐびと――効果音はあくまで俺の想像である――酒を煽る神様の様子を、なんとなく見守っていると、やがて向こうから声が掛かった。
――して。今回は何用で来たのだ?
「え?」
――とぼけるな。毎回、特に前回からは酒まで持って、よくわからぬ願いを言って寄越すではないか。
今回はなんだ?
丑の刻というにはちと早いから、恨みを晴らしたいということでもあるまいが。
どうやら神様は、俺の願いを聞いてくれる態勢であるらしい。
ついでに言えば、これまでも一応、願いを叶えてやってきたという認識らしいことを知り、俺はちょっと戸惑いの表情を浮かべた。
「……賽銭も弾んでないのに、そんなぽんぽん願いって叶えてもらえるものなんですか」
――は。元日だけ、十円ほど放り込んで十億の宝くじ当選を真剣に願うような人間が、なにを謙虚めいたことを。
「なんでそんなことまで把握してんですか!?」
――当り前よ。私は、同時に千の声を聞き、掬いあげる存在ぞ。
そんな回答を聞くと、やっぱり、この神様はもともと千手観音だとか、仏様に近い存在だったんだろうなあ、などと思う。
――実際のところ、願いを叶えるなどと大層なことは、私はせぬ。
願いと願いを拾い上げ、その因果の糸を絡め合うだけ。
おまえの願いの先に、誰かの願いが転がっていれば、あるいはおまえの願いも叶うかもしれぬ。
思いの外優しい声に聞き入りながら、俺はなるほどと思った。
願いと願いを掛け合わせる。
「どうにか料理下手の状況を脱したい」と願った俺が、「どうにか未練に縛られた状況を脱したい」と願った魂たちに引き合わされたのは、そういうわけだったのだ。
解決を求める者には、解決を。
ついでに言えば、人を呪わば穴二つ、というのも、きっとそういうことなのだろう。
呪う者には呪いを、というわけだ。
俺は少し唇を舐め、やがて切り出した。
「……その。両親に、……もう一度会うなんてことは、できますかね」
言ってから、随分と情けない声だったことに気付く。
しかし、何度心の底を覗いてみても、それ以外に願いなど転がっていないことを理解していた俺は、鈴を見上げて続けた。
「……知ってるかもしれないですけど、俺の両親、事故で急に死んじまったんですよ。もっと……話したいこともたくさんあったし、聞きたいこともあった。どうしたらいいのか、相談したり、愚痴りたいことだって、たくさんあって……」
言葉を掻き集めながら、脳裏で考えているのは、妹の志穂のことだった。
口を開けば罵詈雑言、瞬き代わりにガン飛ばし、というのがデフォルトの志穂が、いつになく穏やかだなと思いながら過ごしていた、今日。
夜の部開始早々に少し混み合い、その後人波が去って一段落、という時になって、ふらりと店で倒れたのだ。
「おい、志穂!?」
ぎょっとした俺は、慌てて腕を掴んで妹を立たせたが、その腕がカイロでも貼ってるんじゃないかという程熱くて、更に驚いた。
やつは、高熱を出していたのだ。
「なんだよおまえ、熱あるじゃんか!」
「――……熱なんてない」
とろんと焦点の合わない瞳をしながら、妹はそんな可愛げのない返事を寄越す。
「いや、あるだろ! 風邪か?」
「……風邪じゃない」
これはあれだ。「お、とうとうおまえも花粉症か?」と尋ねた俺に対して、鼻をずびずび言わせながら「がふん症じゃない。わだしは、がふん症なんでならない」と意地を張っていた、春先の態度と一緒だ。
もちろんその時も、志穂は見事に花粉症を発症していた。
こいつの「大丈夫」は全く当てにならないことを知っていたので、俺は早々に看板の灯りを落とし、志穂をマフラーでぐるぐる巻きにすると、その場で帰宅を命じた。
「お客さんも来ないしさ。今日はもう閉店にしようぜ。おまえ、先に帰っとけよ」
「やだ」
だが、志穂のやつは頑として譲らない。
駄々をこねるように、マフラーの中でいやいやと首を振ると、熱で潤んだ瞳で、じっと俺のことを睨みつけてきた。
「風邪じゃなくて、疲れて熱が出てるだけだから、お客さんには移んない。明日の分の仕込みもしなきゃだし、お皿はきれいに洗ってきちんと戻したいし、テーブルセットの補充もしなきゃだし……」
二年とはいえ社畜生活を送っていた俺が断言しよう。こいつはワーカホリックだ。
「心配すんなよ、それくらい、いい加減できるようになったよ。俺、A型だぜ? 掃除とか整頓とかは、おまえより絶対丁寧な自信あるし」
俺はやれやれと肩を竦め、ちょっとおどけた口調で続けた。
「深皿は一番右の棚、箸は箸先を上にして奥の筒。テーブルセットは、塩が右で醤油が左、差し口が手前に来ないよう注意な」
ついでに、出す時はご飯が右で汁物が左! と得意げに付け足したところ、
「ご飯は左で、汁物は右! ……そういうところが信用ならない」
志穂に低く吐き捨てられた。
「おまえなあ……」
心配してやったのに、その手を振り払われ、あげく盛大にディスられて、へそを曲げない人物ってこの世にいるだろうか。
「なんなんだよ、一体。なにをそう色々むきになってるわけ? いい加減にしろよ!」
いらっとしたこと自体は、俺としても自分を擁護したい。
が、声を荒げてしまったのは、悪手だったと言わざるをえないだろう。
「…………っ」
志穂は途端に、じわっと目を潤ませてしまったのだから。
普段勝気な妹が、めそめそとした表情で俯いたことに、俺は心底慌てた。
だって普通なら、ここは「火加減調節もできない人間が、加減を語るな!」とか返ってくる場面だ。
が、志穂はマフラーに鼻を埋め、すん、とそれを鳴らしている。
目を逸らしているのは、涙がこぼれないように、必死に堪えている証拠だ。
やばい、まずい。病人のメンタルの弱さを舐めてた。
冷や汗を浮かべる俺をよそに、志穂はしばし沈黙したかと思うと、やがて「帰る」と呟き、ふらふらした足取りで店を出ていった。
ここ最近の兄妹喧嘩とは逆のパターンである。
残された俺は、もやもやした気分のまま、閉店作業をし、翌日の仕込みをし――とはいっても、せいぜい漬物を刻むくらいしかできなかったが――、補充作業を完了させたものの。
「…………なんだよ」
それでもなお気分が晴れず。
まるで、気心の知れた先輩がいる溜まり場に駆け込むような感覚で、日本酒の瓶を掴み、今、こうして境内にいるというわけだった。
「……妹のやつ、ほんと、自分を追い込みすぎなんですよ。今日のは熱のせいもあるだろうけど、たぶん、『両親の店を、完璧に再現したい』って想いが、根っこにあるんだと思うんですよね」
それは、前々から感じていたことだった。
その想い自体は否定されるべきではないと思ったし、最近ではそこに、ある種の哲学みたいなものも感じられたから、俺も敬意を払っていた。
でも、体を壊してまでも貫くべきかと言われたら、首を振らざるをえない。
妹が自分を追い込みすぎてぶっ倒れるのを、よしとする兄なんているものだろうか。
「でも……たぶん、俺が言うんじゃだめなんですよ。両親本人に、『そんな頑張るな』って言ってもらわないと。俺じゃ、頭ごなしになって、せいぜい喧嘩になるだけで……」
自分の不甲斐なさ、そして、親の存在の大きさを痛感するのはこんな時だ。
結局のところ、俺は志穂の親代わりになんかなれない。
その当たり前の事実が、ずしんと胸に重かった。
――今一度、両親に、なあ。
と、思案気な声が響いた。
神様は珍しく困惑したような間を含むと、ぽつんと呟いた。
――おまえとはもはや知らぬ仲でなし、酒も馳走になったが……ちと、足りぬのよな。
「足りない?」
俺はぱっと顔を上げる。
「それって、なにがですか? 願いの強さが? それとも御賽銭? 酒ですか?」
――いや……
「強く願って叶うんなら、お百度参りでもしますよ。酒が必要なら、店中のものを持ってきます」
口早に告げながら、先程神様が「知らぬ仲でなし」と言っていたことを思い出し、俺は更に提案を重ねた。
「神様と仲良くなるとか、役に立つのが条件っていうなら、俺、この前みたいなこと、もっとやりますよ。俺の体を使って、魂の願いを叶えてあげたら、神様の仕事が一つ減るってことでしょう?」
自分にできることで、なんとか神様に恩を売りつける。
俺はそんな考えで頭がいっぱいだった。
神様がなにか言いかけたようだが、反論を封じるつもりで畳み掛ける。
「ほら、誰か呼び出してみてくださいよ。あ、俺もなにか願わなきゃいけないんですっけ。なら……ええと、そうだな、俺、食事の作法とかいまいちよくわかってないんで、そこら辺をきっちり指導してもらいたいです」
先ほど志穂に、飯と汁物の正しい位置を指摘されたことを思い出し、願いを捻り出す。
「あ、できれば今度はじいさんとかじゃなくて、きれいな女の人がいいなあ。ちょっと気の強い感じの。それで――」
――……もうよい。
静かに遮ると、神様は溜め息を落とした。
――もうよい、わかった。わかったというのに、……おまえなあ。
そんなタイミングよく、ジャストミートな願いを口にされたら、掛け合わせざるをえないではないか。
ぶつぶつと独り言のように、そう呟く。
どうやら見事、ちょうど掛け合わせやすい願いを提示できたらしいことを察知して、俺はぱっと顔を上げた。
「成立! 成立ですね! 俺、今、神様の役に立ってますよね。これ、一つ貸しですよ!?」
――……そうさなあ。
まあ、この手に余る数の願いが向けられる今日日、おまえの願いを掛け合わせられるなら、こちらも助かるというのは事実なのだが……。
神様はなにか言いよどんでいるのか、歯切れが悪い。
けれど俺はこの勢いを止めてはならないと、両手を広げて呼び掛けた。
「はい! 助かるって言いましたね。貸しですよ! さあ来い、貸し! どーんと!」
――…………まあ、よいか。
しばしの間と、なにかを放棄したかのような溜め息。
その後、じわりと俺の目の前に靄が立ち込めはじめた。魂の顕現だ。
――要望通り、折り目正しい大和撫子、凛とした女の魂だ。こやつも、然るべき相手に飯を食わせたいと申しておる。うまくやってくれ。
「なんだかんだこの展開、三回目ですし。任せてくださいよ」
俺は力強く請け負った。
大和撫子タイプの清楚な女性に体を貸すというのも、……ちょっぴりドキドキする。
靄が凝り、次第に人型を取りはじめた。
ぴんと背筋の伸びた立ち姿、色白な肌。なんと和服を着ている。
(おお……)
期待が高まる。
細い顎、丁寧に結われた髪、そして……品のある皺。
(お、お……?)
現れたのは、つんと顎を上げ、気高い表情でこちらに向かって目を眇める――ばあさんだった。
「お……!?」
『まあ、殿方ですか』
どことなくセレブ風なばあさんは、心底残念といった感じで鼻を鳴らす。
しかし『まあよいでしょう。四の五の言ってはいられません』と呟き、着物の裾をからげはじめた。
きっとこちらを見据え、外見に似合わぬ素早さで駆け寄ってくる。
「さ……」
『はあっ!』
お決まりの、ふわんと間抜けな衝突音が辺りに響き、
(あら、背が高いですね。鴨居にぶつかりはしないかしら)
脳裏にばあさんの声が聞こえはじめ。
「詐欺だー!!」
俺は思わず絶叫した。
――別に、若い女とは言っておらぬわ。
神様のぼそっとした言い訳を、背後に虚しく聞きながら。
***
このたび体に乗り移ったばあさんは、姓を常盤、名を梅乃といい――本人からそんな風に仰々しく名乗られた――、俺はありがたくも、彼女を「梅乃さん」とお呼び申し上げる栄誉を賜った。
なんでも、弁護士やら医者やらを多く輩出し、数代遡れば公家にも繋がる、大変な名家の出であるらしい。
(昭秀――私の息子もね、それはまあよくできた子で。明朗闊達、温厚篤実。医者としても申し分ない、本当に常盤の名に恥じない素晴らしい男ですよ)
「……さようでございますか」
昭秀さんは、梅乃さんが四十近くになってからできた子だった。
今では珍しくもないが、当時としては高齢出産。
そのことも手伝い、彼女は大層息子を大切に育ててきたらしい。
性格は温厚、頭脳は明晰。見事に医者として身を立てた昭秀さんだが、四十になっても一向に結婚しない。
ならば私がぴったりの嫁を、と梅乃さんがぐるぐる肩を回していたら、しかしなんとしたことか、本人が二十そこそこの――志穂と同い年くらいだ――フリーターを連れてきてしまった。
騙されている、絶対上手くいくはずがないと梅乃さんは猛反対したが、昭秀さんは折れず、二人は一年前に結婚。
しぶしぶ同居生活を始めた梅乃さんだったが、三ヶ月ほど前に、風邪が元で肺炎にかかり、うっかりころっとこの世を去ってしまったのだという。
(ああ、忌々しい。もっとあの子をねちねちいびり抜いてから、大往生するつもりだったのに)
「えええ……」
昼ドラの姑役も真っ青な発言に、思わず怯えた相槌が漏れる。
てっきり時江さんみたいに、愛息子に手料理を振る舞いたいといった未練なのかと思っていたが、もしや嫁の方を祟りたいだとかの理由だったらどうしよう。
「あの……梅乃さんにおかれては、どなたに、どのような品を振る舞いたいとお考えで……?」
びくびくしながら遠回しに真意を問うた時、ちょうど俺たちは「てしをや」の裏口にたどり着いた。銀次さんの教えを受けてから、俺も出入りは裏口からするようにしている。
ひやりと冷たいアルミ製のドアノブに手を掛けながら、梅乃さんはつんとした声で言い放った。
(それはもちろん、麻里花さんに――ああ、件の嫁ね)
「そ、そっちなんですか……?」
(何を作ろうかしらねえ。やはり、冷や飯に、あとは豚汁かしら)
「冷や飯……っ?」
この寒いのに、冷や飯。
豚汁はまだよいとして……いや、もしかして「このメス豚め」とかの暗喩なのだろうか。
それとももっとダイレクトに、雑巾の絞り汁なんかを入れるつもりだったら本当にどうしよう。
(せ、せめて絞り汁だけは思い留まらせなきゃ……!)
悲壮な決意を固める俺をよそに、梅乃さんは腕まくりを始める。
(では、よろしくお願いしますよ)
「は、はい……!」
そんなよい子のお返事と共に、俺の手はまず米を研ぎはじめたのだった。
梅乃さんは長らく関節炎を患っていたとかで、長期間体を動かし続けることに抵抗があるらしく、時江さんや銀次さんのように、ずっと俺の体を操作しつづけるということはない。
代わりに、どこの部活の鬼コーチですかと言わんばかりに、仁王立ちしながら指示を飛ばす方式を取っていた。
(研ぎ方が甘い。もっと腰を入れて!)
「はい!」
(なんですか、その包丁の持ち方は。もっとごぼうの繊維に沿わせて!)
「はい、すみません!」
年の功なのかなんなのか、びしりと真っ直ぐに飛んでくる声には、否やを言わせない迫力がある。
恐らく同様のいびり、もとい指導を受けていたであろう麻里花ちゃんに、俺は深い同情を覚えた。
だが、その指示は明確で、無駄がない。
俺の手は梅乃さんの命に従って、着々と米を炊き――今回も土鍋ご飯だ――、豚汁の準備を進めていた。
ごぼうはささがきに。大根や人参は大きめのいちょう切り。
こんにゃくは食感を残すように手でちぎって湯通しをし、長ねぎ、しめじ、油揚げ、そして豚肉も食べやすい大きさに。
あとはにんにくに生姜も細かく刻んで……。
(すげ、何種類入れるんだ)
ここに雑巾の絞り汁が加わるかはともかく、たかだか汁物一品に対して、相当な手間が加えられているのは事実だ。
炒め終えた豚肉とごぼうに、薬味や他の具材を放り込むと、梅乃さんはそれを鍋の底からよくかき混ぜるよう指示した。
深めのフライパンを揺するようにしながら底を持ち上げると、きらきらした豚肉の脂が鍋全体に回る。
繊細な油の粒はオレンジ色の照明を跳ね返し、美しささえ感じさせた。
そこに塩と、鰹節と昆布から取っただし汁を少々。
「――って、え、煮汁ってこんだけですか?」
(そうよ。ほら、蓋をして。蒸しますよ)
てっきりひたひたにして煮込むものと思っていたら、あくまで煮汁は鍋が焦げない程度。
野菜は「蒸す」のが梅乃さん流らしい。
(煮るための水なんてやる必要はありません。野菜自体の水分を使って蒸した方が、甘みが引き出るのです)
なんとなくその台詞が、「野菜すら甘やかしてはならぬ」という姿勢に聞こえて、俺はしおらしく「はい」と答えた。
蓋をしてことこと蒸していると、やがて出汁の香りと、野菜の甘い匂いが立ち上ってくる。
細かな汗をかいた蓋を取り、透き通りだした具材を確認すると、梅乃さんはようやくそこで、水を加えるよう指示した。それも、ひたひたというよりは、やや少ない程度だ。
そうしてまたひと煮立ち。
汁には、きらきら細かに光る豚の脂と、野菜のうまみが溶けあっている。
(この時点で、絶対うまいだろ……)
俺はごくりと喉を鳴らし、一口だけ味見をさせてもらった。
(うお!)
蒸された野菜の甘み、豚とお揚げから浸み出した油の丸い旨み。
それが、塩と出汁の深いコクに包まれている。
汁を口に含んだ瞬間、その美味しさに唾が湧き出てくるなんて、初めての経験だ。
火を止め、少し鍋の温度を落としてから、最後に味噌を溶き入れる。
むらの無いようによく混ぜて、いよいよ豚汁の完成だ。
「味! 味見! していいですか!」
(……もうよそっている癖に、なにを言うんです)
眉を顰める梅乃さんを無視して、一杯だけ豚汁をお椀に移す。
箸を両手で挟み、素早く「いただきます」と唱え、具ごとお椀を傾けると――
「……ふめぇ……っ!」
それは、至福の味わいだった。
口に流し込んだ大根が思いの外熱くて、はふはふ言ってしまう。
まず口に広がるのは、熱されたゴマ油と味噌の香り。
汁を吸った根菜は、噛むほどにじゅわりと旨みを迸らせ、時々煮溶けた長ねぎが、とろりと甘みを伝えてくる。
ちぎったこんにゃくも、じっくりと味が染み込んでいて、たまらない。
豚肉はほのかなにんにくの香りをまとい、噛むと、繊維がそっとほどける感触とともに、じゅわっと濃厚な脂が飛び出してきた。
(も……もう一杯ほしい……)
あっという間にお椀を空にしてしまった俺は、ちらちらと鍋に熱視線を送る。
が、そんな時。
「すみませーん」
少し滑舌の甘い声とともに、カラリと玄関の引き戸が開き、
「お店、まだやってますかあ?」
マスクをした若い女性――麻里花ちゃんがやってきた。