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神様の定食屋  作者: 中村 颯希
冬の部
4/27

2皿目 天たま掛けご飯(後)

 フライ定食用に仕入れておいた、大きめの海老。

 尾を斜めに切り、腹に包丁を入れてから指を押し込み、筋を取る。

 なすは数か所だけ皮をむき、冷水でアクを抜く。

 しいたけ、かぼちゃ、大葉。

 色とりどりの具材が、銀二さんの手によって素早く形を整えられていった。


「なんつーか……鮮やかですね……」


 てしをやに戻ってから、十分ほど。

 丁寧に手を洗い、失礼しますとまで頭を下げてから厨房に足を踏み入れた銀二さんは、そこから勢いよく調理を始めた。


 天ぷらは、具も衣も、とにかく冷えていなくてはならないという主張のもと、彼は氷水で手を洗っていたのだが、手がかじかんでいることを忘れるくらい、その指先の動きは繊細で、素早かった。

 銀二さんが手を掛けた途端、まるで魔法が掛かったみたいに、魚も野菜も素直に形を変えていくのだ。


 いやまあ、今は俺の手であるわけなのだが。

 正直、指先の角度の一つ取っても芸術的すぎて、先程から俺は、自分で自分の手に見惚れてしまっていた。

 料理というよりは、手だけで構成されたダンスを見ているみたいだ。


 銀二さんは余計な口を利かない。

 だから、学ぼうと思ったら、必死に動きを見つめ、意図を推察するしかない。

 俺はぐっと口を引き結んで、動作を体と脳みそに叩き込んだ。


 下ごしらえを終えた銀二さんは、鍋にたっぷりの油を張ると、それを熱しはじめた。

 菜箸でちょんと油をつつき、ひとつ頷くと、野菜から具材を入れはじめる。


 鍋の中で、大葉が、なすが、かぼちゃが。

 つやつやと濡れたように、鮮やかな色味を増していく。


 それも勿論魅力的だったが、ハイライトはなんといっても、海老だろう。


 銀二さんは、薄く粉をはたいておいた海老を、素手でさっと衣にくぐらせると、油の表面ぎりぎりのところまで持って行き、静かに手を放した。


 途端に、じゅわじゅわっという大きな音が響き、海老から細かな泡がいくつも飛び出ていく。

 同時に響く、ぴちぴちと油の跳ねる音が、海老が泳いでいるようでなんだか楽しい。


 灰色だった海老が、まるで紅潮するように色を変える。液体でしかなかった衣が空気を含んで、さくさくの鎧に姿を変えていく。

 やがて海老から放たれる泡が大きくなり、油の音が少し低くなると、銀二さんは再び頷き、海老を取り上げた。


 一度だけ油を切って、紙の上に置く。


 フライパンで軽く()った塩を添えると、銀二さんは


(ん)


 と、俺の前に、天ぷらを盛り合わせた皿を置いた。


(食いな)

「え……」


 俺は思わず、戸惑いの声を上げてしまう。

 だってこれは、常連(タマ)さんとやらに出す品ではなかったのか。


 そう言えば、時江さんのときには、料理が仕上がるタイミングで「引き合わされた」のに、銀二さんの待ち人はまだやって来ない。


(なあに。あいつは、この時間は腹いっぱいのはずだ。天ぷらの盛り合わせなんてもん、食うもんか。これは、おまえ用だ)

「そ、そうなんですか……」


 天ぷら店の常連客である以上、てっきり天ぷらを出すのだろうと思い込んでいた俺は、少し首を傾げたが、目の前に置かれた皿があまりに魅力的で、ごくりと喉を鳴らした。


 からりと黄金色に揚がった衣は、照明の光を跳ね返してつやつやと輝いている。

 揚げたての海老は、ほんのり湯気を漂わせていて、こちらを誘惑してくるかのようだった。


「じゃ、じゃあ……いただきます……!」


 遠慮は、ぴんと尾を張った海老天の前にあっさりと膝をついた。


 俺は厨房の片隅からいそいそと丸椅子を引っ張ってきて、腰を下ろす。

 そうして、なにも考えずにそのまま海老を頬張り、


「――……んん!」


 恍惚の声を漏らした。


 うまい。


 歯の先端でさくっと衣を割ると、ほのかに塩味を残した、ぷりぷりの海老に行き当たる。

 それを、火傷しないように、はふ、はふ、と転がすと、揚げ衣の甘い香りが、口いっぱいに広がった。

 噛めば噛むほど、油と混ざり合った海老の甘い汁が、じゅわりと浸み出してくる。


(神々の料理かよ。海老天ってのは……)


 だが、海老を半分ほど食べてしまったところで、俺は己の失態を悟る。


(あっ! 海老から食っちまった!)


 好物は最後に、というのが、本来の俺の流儀だ。

 俺は断腸の思いで海老天を食べるのを中断し、他の具に手を伸ばした。


 さくさくした衣とは裏腹に、ねっとりと甘く舌に絡みついてくるかぼちゃ。

 油を吸い、とろけるような柔らかさに仕上がったなす。

 噛めばじゅっと汁をしたたらせるしいたけ。

 軽やかな食感とともに、青っぽい香りを運んでくる大葉は、炒り塩とともに。


(だめだ……! どれもうまくて、食うのが勿体ねえ……!)


 最強の布陣に、俺は箸を握り締めたまま項垂れた。

 前座として済ませてしまうには、どの具材もあまりに魅力的すぎる。


 だが、ちみちみ食べるのもまたもったいない気がしたので、覚悟を決めて食らいつくすと、銀二さんが静かに笑う気配がした。


(おまえ、うまそうに食うなあ)

「いやだって、うまいですもん」

(はは、そうかい。まったく、おまえの素直さときたら、あいつに爪の垢でも煎じて飲ませてやりてえや)


 あいつ。


 それは、銀二さんが待っているという、常連客のことなのだろう。

 ピンと来た俺は、おずおずと彼に問うてみた。


「銀二さん。その……銀二さんが逢いたいと思ってる常連さん――タマさんでしたっけ。その人って、どんな人なんですか?」

(ん? ああ……)


 銀二さんはちょっと言葉を選ぶように黙り込むと、


(まあ……生意気な若造だよ。だが、腕はそこそこいい)

「腕?」


 不思議な答えを返してきたので、俺は首を傾げた。


 すると銀二さんは立ち上がり、大切に持ち帰ってきたファイルを手に取った。今度は赤色の方だ。

 それを開いて、ん、と指で指し示してくる。


(あれ? でもこれ、「天ぷら 吟」の記事じゃない)


 そこに収まっていた記事を見て、俺は目を瞬かせる。

 そこにあったのは、他の店のスクラップ記事のようだった。ライバル店の情報収集ということなのか、記事の横には、几帳面な文字で日付などが書き込みされている。


「これ……」


 最後まで読み通して、俺はまん丸に目を見開く。

 絶句する俺に、銀二さんはそっぽを向きながら言った。


(俺の店の隣に、気取ったイタリアンの店があっただろ。あそこの店主……じゃなくて、なんてんだ、シェフ? 玉城(たまき)っていう、いけすかねえ男だよ)

「たた、た、玉城シェフって……!」


 俺が盛大にどもってしまった、その時。


 カラ……――


「こんばんは。看板が点いてたけど、まだ、やってるかな?」


 てしをやの引き戸が開き、長身の、甘いマスクの男性――「イタリアン界の貴公子」だなんて言われてTVにも出演している、超有名な玉城シェフが、穏やかな笑みをたたえてやってきた。




***




「お、おしぼりです。どうぞ……」

「ああ、どうもありがとう」


 玉城シェフは、他に誰ひとりいない店内だというのに、なんら委縮することなく、滑らかな動きでカウンターに移動し、ゆったりと腰を下ろした。

 そうして、貴族のような優雅さでおしぼりを受け取り、手を拭く。

 常人にはなかなか着こなせないだろう黒シャツと黒パンツの組み合わせも、とにかくひたすらおしゃれだ。


「閉店か開店中か、ちょっと悩んだんだけど、大丈夫だったかな。なんか、この店の前を通りがかったら、急に小腹が空いてしまって」

「だ、だ、大丈夫です! ばっちり開店しておりました!」


 憧れの料理人、というよりかは、イケメンの芸能人を前にしたような心境で、俺はさっきからテンパり気味だ。


(す、すげえ! 生・玉城シェフだ! サインほしい! っていうかこの人に向かって俺料理すんの!? まじ!?)


 作るのは銀二さんだとはいえ、その状況に身が震えた。


 そういえば、結局銀二さんは、彼になにを食べさせるつもりなのだろう。

 ひとまず、こちらの指定したメニューしか出せないことを伝えようと口を開くと、それよりも早く、玉城シェフが話しかけてきた。


「ごめんね。ここ、定食屋さんだとはわかってるんだけど、実は夕飯自体は食べてきてて。ワインも結構飲んだから、茶漬けとか、味噌汁とか、そういうのがあったら、ほしいんだ」

「あ、ええと……」

(ふん。やっぱりな)


 曖昧な俺の返事に、銀二さんの呟きが重なる。


(おい、哲史。こう言ってくれねえか。とっておきの卵かけご飯を食わせてやるって)

(た、卵かけご飯!?)


 いかにも貴公子然とした、プロの料理人に、なんと貧相なお品書きを出すつもりなのか。

 ぎょっとしたものの、いいから、と銀二さんに促された俺は、しぶしぶ口を開いた。


「その……卵かけご飯、なんて、いかがでしょう……?」

「え……?」


 鼻で笑われるかと思ったが、玉城シェフは、弾かれたように顔を上げた。


(十分ほど待てって言いな)


 あげく、銀二さんはそんなことを抜かしてくる。

 飲食店、それも卵かけご飯なんてメニューで十分も待たせるだなんて、致命的だ。


「あの……ただ、十分ほど待っていただくことに、なるんですけど……」


 しかし、恐る恐るそれを告げると、なぜか彼は小さく笑みを浮かべた。

 なんだか少し寂しそうな、懐かしそうな、そんな笑みだった。


「……いいね。ぜひ、お願いするよ」





 玉城シェフの声を皮きりに、銀二さんは素早く動き出した。


 先程天ぷらを上げる前に研いで水に浸けていた米を、土鍋に移し、火に掛ける。

 同時に、天つゆ用に作っていた鰹だしの一部を小鍋に移し、醤油と混ぜはじめた。そこに味醂(みりん)をほんのひと匙。辺りにふわりと、鰹と醤油の、丸みを帯びた香りが広がる。


 ひと煮立ちだけさせたつゆを、早々に火から下ろすと、ドレッシングを添える時などに使う小さな鉢に、それを移して冷ましはじめた。


(卵かけご飯っつっても、米から炊きはじめるのか……)


 炊飯器でしか米を炊いたことがないため知らなかったが、土鍋であれば十分少々で炊きあがるらしい。

 鍋の縁からふつふつと白い泡がはじけ、それとともに、米の甘い香りが広がるのに気付くと、腹が性懲りもなく音を立てそうになった。


 その間、玉城シェフは地酒のメニューに気付き、俺が半分プライベート用として混ぜ込んでいた、愛知県の銘酒「吟」を飲みはじめた。

 ふわっと湧き上がる香りと、優しく澄んだ甘みが特長で、年に一回しか出荷されない、大変貴重な大吟醸だ。普通の定食屋にはまず置いていないだろう価格でもある。


(ぐ……まさかうちの一番高い酒を飲まれるとは……)


 店員としてはあるまじきことだが、俺はどちらかといえば、秘蔵の酒を取られてしまった心持ちであった。


 だが――「吟」。

 今日この日に、その名前の酒を選んだ彼に、なんとなく感じるところもあった。


 やがて飯が炊きあがる頃になると、銀二さんは今度は、海苔と天ぷら衣の準備を始めた。


(って、え? 衣?)


 卵かけご飯に、揚げものの衣は必要ないはずである。

 だが、彼の意図はすぐに明らかになった。


 空の茶碗に、海苔を十字に渡し、その中に卵を落とす。

 そうして、海苔の端を摘まみ上げて巾着状にしたものに、先程の衣を付けて。

 高温に熱された油の上に、そっと落としたのである。


(ああ! たまごの天ぷら!)


 卵かけご飯は卵かけご飯でも、天ぷら屋の主人らしいレシピであった。


 野菜や海老の旨みを吸った油が、素早く卵を温めていく。

 半熟に揚がったたまご天ぷらをさっと取り出すと、銀二さんはそれを、炊きあがったばかりの土鍋ご飯の上に乗せた。


 そうして、先程のだし醤油を添えれば――


(お待ち。「吟」の卵かけご飯だ)


 天ぷら屋特製の、天たま掛けご飯の完成だった。


「これは……」


 出された土鍋の卵かけご飯を見て、玉城シェフが目を丸くする。

 彼は二、三度瞬きをすると、


「君……もしかして、『吟』って天ぷら屋さん、知ってる?」


 おずおずと、そんなことを問うてきた。


「ええと……」

(知らねえ、って言いな)


 頷くべきかと悩んでいたら、銀二さんが即座に遮ってくる。


(別に、こいつに俺の存在を伝えたいわけじゃねえんだ。俺は、単にこいつにこの飯を食わせたいだけなんだから)

(そんな……)


 成仏を拒んでまで、料理を振舞いたい相手なのだから、もっと素直に想いを伝えればよいのに。

 そう思うものの、銀二さんは頑として首を横に振らなかった。


「って、ごめん、ごめん。今の、気にしないで」


 黙り込んでしまった俺になにを思ったのか、玉城シェフは苦笑いして手を振る。

 そして、「うまそうだ」と呟き箸を取ると、そっとその先端を、卵の天ぷらに食い込ませた。


 衣と、薄い白身の膜を割られた瞬間、とろりと黄色い中身が溢れだす。

 黄身は見る間に海苔を伝い、つやつやと粒立つ白飯の上に広がっていった。

 一瞬遅れて、柔らかくなった海苔が、ふんわりと米の上に倒れてくる。


 立ち上る湯気に目を細めながら、玉城シェフはそっと一口目を口に運んだ。


 きっと彼の口の中では、濃厚な卵と米の甘みが溶けあって、素晴らしい奇跡が起こっているはずだ。

 よほど熱いのか、はふ、と白い息を漏らす。

 見ているこちらの喉が鳴った。


 継いで玉城シェフは、だし醤油を手にとり、それをほんの少し垂らしてから、ご飯全体をかき混ぜた。

半透明の白身が、衣をまとった海苔が、そして黄身と白米が、渾然一体となっていく。


(ああ、もう……)


 その時、銀二さん、というか俺の手が、無言で鰹節の入った器を差し出して、シェフは破顔しながらそれを受け取り、ご飯にまぶした。


(これは……、これは……っ)


 ふわふわと踊る鰹節。

 醤油を吸って、ほのかに色味を深めたご飯ごと、大きく(すく)って頬張り――


(絶対、うまいだろおお!)


 俺が心の中で絶叫するのと同時に、玉城シェフが「うまい」と呟いた。恨めしい。


「いやあ、おいしいですよねえそれ。俺も食べたいくらいだなあ! なんちゃってー」


 玉城シェフに話しかける振りをしながら、みみっちく銀二さんにおねだりしてみる。

 が、


(駄目だ。これは、卵好きなタマ……玉城限定の裏メニューだからな)


 銀二さんはけんもほろろだ。


(なんだよ、いけず! 鬼! けち!)


 限定だとか裏メニューだとか言われると、ますます食べたくなってしまった俺は、ちょっと涙目になりかけながら、銀二さんを罵った。

 あんまりに恨めしさが滲み出ていたのか、玉城シェフが笑い掛けてくる。


「君もこれが好きなの? なら、一緒に食べたら? 客の僕が言うのも変だけど」

「いえ……いいんです。それはタマさん(・・・・・)専用の裏メニューなんで……」


 俺がぼそぼそと答えると、彼ははっとしたように目を見開く。


「君……」


 それで、俺も自分の失言に気付いた。


 まずい。

 今のはどう取っても、「吟」の――というか、銀二さんのことを知っていると自白しているようなものだ。


 案の定、玉城シェフは真剣な顔になって箸を置くと、静かに問うてきた。


「やっぱり、君、銀二さんのこと、知ってるんだね。このレシピも、もしかして彼に教わった? 僕のあだ名を知ってるってことは、客っていうより、同業者として付き合ってたのかな」


 一息で間合いを詰めてくる質問ぶりに、俺はもうたじたじだ。

 答えに窮してしまい、沈黙を選ぶ。


 黙り込む俺を、玉城シェフはしばらく見ていたが、やがて額に手をやって、苦笑いを浮かべた。


「……いいなあ」

「え……?」


 意味を捉えそこね、思わず聞き返す。

 玉城シェフはちょっと悔しそうな表情を浮かべると、ちびりと日本酒を舐めた。


「君は、銀二さんの病気のこと、聞かせてもらってたクチ? だとしたら、羨ましいなあ。僕なんて、一周忌の今日になって、店にお供えするくらいがせいぜいだよ」


 一周忌。

 その言葉で、これまでに見た光景が、ばちっと音を立てて繋ぎ合わされるのを感じた。


 閉店時間だったにもかかわらず、まるで銀二さんがやって来るのを待つかのように灯された看板。カウンターに、厨房。

 玄関口に置かれた、天ぷら屋というよりは、イタリアンの店に相応しいような、赤ワインのボトル。


 店は、お弟子さんが銀二さんのために特別に明りを残していたもので、ワインは、玉城シェフからの差し入れだったのだ。


(それもこれも、今日が銀二さんの一周忌だから……)


 玉城シェフが黒シャツを着ているのも、ひょっとしたら、単なるおしゃれではないのかもしれなかった。


 彼は、酒精を含んだ息をはあっと漏らすと、ぽつぽつと語りはじめた。


「……君、この卵かけご飯、どれだけ練習したの? すごいなあ、銀二さんの味、そのまんまだ」

「…………」


 なにせ本人が作りましたから、とも言えず、俺は困って黙り込むだけだった。


 さすがプロの舌。

 単に作り方が同じというだけでなく、味や形、そういった要素を含め、これが間違いなく銀二さんの料理であることを看破してしまったのだろう。


「家の近くの定食屋に、こんな腕のいい料理人がいるとは知らなかった。銀二さんも、さぞ自慢だったろうな」

「あの……」


 そしてすっかり、俺が銀二さんの弟子かなにかであると勘違いしてしまったようだ。


 誤解を解こうと口を開くよりも早く、玉城シェフは、


「僕とは大違いだ……」


 低く小さく、そう呟いた。

 頬杖を突いた端整な顔の、その目尻はほんのり赤くなっている。

 ワイン――恐らくは自分の店で飲んできたのだろう――と日本酒で、実はかなり酔っているのだろうことがわかった。


 酒のためか、この静けさのためか。はたまた、神様の計らいか。


 玉城シェフは、少し眠たげに瞬きをすると、ゆっくりと語りはじめた。


「――……実は僕、イタリアンのシェフなんてやっててさ」

「……知ってます。玉城シェフを知らない人なんて、いないですよ」

「あはは、ありがとう。でも……知ってるかなあ。僕、これでも本当は、和食の出身でさ」


 その内容に驚きながらも、邪魔しないように静かに耳を傾ける。

 銀二さんもまた、戸惑いながら、それでも話を聞いているようだった。


 玉城シェフは、料理の世界に興味を持ち、高校卒業と同時に、赤坂の割烹屋で修業を始めた。

 それは、銀二さんが天ぷら屋を始める前に営んでいた店だった。


 しかし――厳しい師匠に、閉塞的な世界。和食は季節を愛し、作法を楽しむ美しい食事ではあったが、その分作り手はいつも多大な制約とルールを課せられた。


 向上心を溢れさせた彼にとっては、辛い日々が続き、やがて玉城シェフはその世界から出ていく決意を固めはじめる。


「銀二さんの店にいた時の僕は、ひよっこどころか、孵化すらしてない卵のタマだったけど――あ、これ、銀二さんが僕に付けたあだ名ね――、海外で武者修行をして帰ってきた僕に対する、世間の評判は違った。イタリアンは、和食に比べると随分と大らかで、自由で……うん、楽しい世界だよ」


 彼は、どこか寂しそうに語った。


 反発し、縁を切ったつもりでさえいる和食の世界。

 しかし、たとえば壁にぶち当たった時、あるいは注目を集め過ぎて批判に晒された時、真っ先に思い浮かぶのは、あの地味で辛い修行の日々だった。


「素材や旬を大事にする精神とか、小鉢一品を作るために、びっくりするくらいの手間を掛ける在り方っていうのがさ、……やっぱり、自分の根っこにあるんだなと、折に触れて思わされるんだよね。それで……僕が当時巻き起こったイタリアンブームなんてのに流されて、料理の方向性を見失っちゃったときにさ、ちょうど銀二さんが店を出したって聞いて。途方にくれた顔をして、『吟』に行ってみたんだ。予約もせずに」


 一度は店を飛び出した身。

 顔を合わせた瞬間、怒鳴られるかもしれない。塩を投げつけられて追い払われるかもしれない。

 大の大人になっても、それが恐ろしくて、閉店間際だった店の玄関を、まるで泥棒のようにこっそりと開けた。


「会ったのは、それが十年ぶりくらいだったんだけどさ。銀二さんたら、ついさっき別れたみたいな、平然とした顔で、『おう、タマ。どうした』だよ。笑うよね」


 笑う、と言いながら、玉城シェフの顔は、むしろ涙をこらえているように見えた。


 実際、彼はその場で号泣したらしい。

 不甲斐なさと、安堵と、嬉しさと、様々な感情が入り乱れて、どうしようもなかったのだという。


 一流シェフと呼ばれるまでの日々のことを、玉城シェフは多くは語らなかったが、きっと、ものすごい苦労や葛藤を重ねたのだろうということを、俺はそれで悟った。


 すっかり泣きはらした彼を、銀二さんは特に慰めるでも、叱るでもなかった。

 ただ代わりに、土鍋で米を炊きはじめた。


 そうして出してくれたのが、この卵かけご飯だったのだ。


「シェフってさ、人にもよるけど、料理中、試食だけで結構な量を食べちゃうんだよね。その時の僕も、パスタやら肉やらでかなり満腹だったのに、なんかその土鍋ご飯を見たら、急に腹が減ってきて。で、そこに銀二さんが言うわけだ」


 おまえ、未熟者(タマ)の癖に、なに一丁前に悩んでやがる。ほら、食え。

 それくらいなら、食えんだろ。


 ちょっとそっぽを向きながら、照れたように早口で告げる銀二さんがありありと想像できてしまい、俺は少し笑った。

 銀二さんは、口下手で、つっけんどんで、無愛想だが、――優しい。


 玉城シェフは、はたしてそれを食べた。


 揚げたての天たま掛けご飯は、濃厚で、そしてとにかく温かかった。

 飲み込むたびに、胃の底から熱が湧いてくるかのようだった。

 気付けば、土鍋の底に残ったお焦げごと、ぺろりと平らげてしまっていた。


「敵わないな、と思ったよ。でもそれで、やる気が湧いてきた。盛り付けだとか過剰な味付けじゃなくて、シンプルな素材と熱だけで、人を感動させるくらいの料理はできるんだと確信した」


 その時、彼は自身の料理スタイルを確立させ、その容姿もあいまって、爆発的な人気と知名度を得るようになった。

 TVに出演し、店舗を拡大し、ある日とうとう、赤坂に店を移す――なんと、銀二さんの店の、すぐ隣に。


 玉城シェフは、悪戯っぽく笑った。


「できそこないの元弟子からの、挑戦状のつもりだったんだ。とうとう僕は銀二さんに肩を並べた、これからは追い越してやるんだぞ、ってね」

(……あん時は、さすがにびびったなア)


 脳裏で、ぼそっと銀二さんが呟く。


 だがすぐに、玉城シェフは視線を落としてしまった。


「でも……結局は、僕が、銀二さんを追い掛けてただけだったな。ずーっと。一生。最後には、銀二さんは僕のことなんて歯牙にも掛けないまんま、先に逝っちゃったよ」


 ただでさえ静かな店内に、張り詰めるような沈黙が落ちる。

 玉城シェフはそれを解すように、そっと日本酒を啜ると、目を細めて続けた。


「僕だけが悩んで、僕だけが反発してさ。結局、銀二さんは変わらずにどーんとそこに立ってるだけなんだけど、こっちが勝手にしょげて、(すが)って。僕だけが憧れて、追い掛けて、研究する……。僕は何度も『吟』に行ったけど、銀二さんがこちらの店に来てくれたのは、強引に誘って叶った一回だけだった。……一方通行って、切ないよねえ」

「一方通行なんかじゃ……」

「一方通行だよ。僕だけ、病気のことすら教えてもらえなかった」


 俺が口を開くと、彼は静かに頭を振った。


 二人の店には共通の客もいたのに、銀二さんはその客に口止めをしていた。

 そして、痛みも体の不調も押し殺して店に出ていたため、店を隣り合っていてさえ、玉城シェフが病に気付くことはなかったのだ。

 銀二さんが末期のがんに侵されていたと知ったのは、通夜のその日。

 彼は、とにかく愕然と店の前で立ち尽くしたという。


「なんで、教えてくれなかったんだろうなあ……」


 声が、掠れる。

 組んだ両手で口許を隠すように頬杖を突いた彼は、そのまま顔を(うず)め、くしゃりと前髪を押しつぶした。


「……隣に店なんて構えちゃったもんだからさ、いつでも会えると思ってたんだ。銀二さんはとにかくすごい人だから、……僕が弱った時には、いつも泰然と、そこにいて、そういう揺るぎない存在だと、……思ってたんだ」


 声は湿っていない。肩も震えてもいない。

 けれど、俺の目には玉城シェフが泣いているように見えた。


 そして、その静かな口調で語られる想いは、俺にも覚えがあるものだった。


 揺るぎなくて、心の支えで。

 ずっといると思っていた存在が、ある日突然目の前から消えてしまう、その衝撃。


「知ってさえいたら、……話したいことがいっぱいあったのに。まだまだ、教えてほしいこともあったし、恩返しだってしたかった。そうだ、店の感想だって聞いてみたかった。躊躇(ためら)ったり、遠慮なんかしないで、……僕のこと、ちょっとくらいは料理人として認めてくれてるのか……聞いて、みたかっ……」


 滑らかだった口調が、とうとう乱れる。

 組まれた両手の隙間を伝った涙が、ぽたりとカウンターに落ちた。


(銀二さん……! 銀二さん! なんで、なにも言わないんだよ!)


 思念が相手に伝わるとも思えなかったが、俺は心の内で銀二さんを詰った。

 彼が語りさえしてくれたら、時江さんの時のように、代弁者になれるのに。


(成仏を拒むほど、玉城シェフのことが気に掛かってたんだろ!? その想いのひとかけらでも、言ってくれよ、頼むから!)


 俺は、静かに涙を流すシェフのことを、これ以上見ていられなかった。


 だって、彼は俺や、妹と同じだ。

 必死に追いかけていたのに、突然置き去りにされ、戸惑い、悲しんでいる。


(がんでもうすぐ死ぬんです、なんてえ話、人づてに聞かせられっかよ……)


 その時、まるで俺の叫びが聞こえたかのように、ぽつんと銀二さんが呟いた。


(直接言おう、言おう、って思ってたのによ、そんなときに限って店に来なかったのは、てめえの方じゃねえか)


 それはまるで、子どもが叱られてそっぽを向く時のような、拗ねた口調だった。

 それで俺は、思わずかっと頭に血を上らせた。


(勿体ぶって伝えなかったから、こうして今、未練を残す羽目になってんじゃねえか! また同じこと繰り返す気かよ!)


 銀二さんが、こうして他人の体を乗っ取ろうとするくらい元弟子のことを気に掛けていたのだと、俺は知っている。

 頑なさや照れを捨てて、たった一言でもその想いを伝えていれば、違った未来もあったかもしれないのに。


(だめだ、銀二さんに任せてちゃ、らちが明かない)


 神様からは、「上手くやってくれ」と頼まれているのだ。

 時江さんのときのように、「料理を食べさせて未練解消」といかないならば、それなりの手段を講じる必要があるだろう。


「――……玉城シェフ」


 俺は体の主導権を強引に奪い返すと、厨房の端に置いておいたファイルを取り上げた。


(お、おい、哲史。てめえ、なにすんだ)


 銀二さんの慌てた声が脳裏に響いたが、それを無視して、俺はファイルをシェフに突き付けた。


「……え?」

「これ、銀二さんの遺品です」


 顔を上げ、目を見開いた玉城シェフに、俺は一気に畳みかけた。


「そうです。俺、銀二さんと知り合いだったんです。といっても、料理繋がりじゃなくって、こう、ちょっと、……そう、電車の中で倒れた銀二さんを介抱して、そこから意気投合したんですけど」


 我ながら大胆な作り話だ。

 だが、人助けのために駆りだされたこの現状に近いエピソードとして、思い付くのはこれが限界だった。


(おい、哲史、てめえいったいなにを――)

「銀二さんはうちの常連になってくれて、それで……玉城シェフの話を、しょっちゅうしてましたよ。若いけど腕のいい料理人だって」

「え……」


 脳内で銀二さんが叫んでいる。やめろ、やめろよ、と大騒ぎしているが、嫌悪しているというよりも、心底恥ずかしがっているだけのようだったので、俺はすっぱりとそれを無視した。


 そうして、カウンター越しに、どさっと音を立ててファイルを広げた。


 ラ・ウオーヴァ。


 玉城シェフの店の記事ばかりが集められた、赤いファイルを。


「これ、銀二さんが集めてた、お店の記事です。表紙だけ『ライバル店情報』だなんて書いてあるけど、中は――見てください。シェフのお店ばかりでしょう?」

「これ……」


 シェフは潤んでいた目を大きく見開いた。

 ぽかんと口まで開いたまま、ふらりと手を伸ばしてファイルを受け取る。


 そして、一ページ目に収められた雑誌の切り抜きを指でなぞり、ぽつんと呟いた。


「……赤坂に移る前の、一番最初の記事だ……」


 そこには、「ラ・ウオーヴァ」と書かれた看板と、まだ取材慣れしていないのだろう、ぎこちない笑みを浮かべてポーズを取らされている彼の写真が載っていた。

 その店構えは小ぢんまりとしていて、先程見かけた、こじゃれたイタリアン店の印象とは掛け離れている。


「『一番最初』じゃないですよ」

「え?」


 俺は小さく笑うと、身を乗り出してページをめくった。


(お、おい! よせ! やめろ!)


 銀二さんがいよいよ絶叫しているが、無視だ、無視。


「…………!」


 玉城シェフが絶句する。薄い唇がすっと息を吸い込み、少し、震えた。


「これ、は……」


 イタリア語で書かれた、現地のレストランの特集記事。

 料理コンクールの受賞者リスト。

 「月刊イタリアン通信」だなんて、明らかに読者が少なそうな新聞のインタビュー。


 それらの中で、玉城シェフは、ある時はゴマ粒のように小さく映り込み、またある時は見切れており――親くらいの愛情がなければ、探し出すのが困難なほどだった。


 シェフの手が震える。

 けれど彼は魅入られたように、瞬きもせず、ファイルをめくりつづけた。


 赤坂に移る前の、小さな店の特集記事。横には日付と、「メニュー名に誤植あり。ザマアミロ」の一文が、癖のある文字で添えられていた。


 TVに出はじめた頃のインタビュー記事には、「髪型がちゃらい。気に食わん」。

 地元紙で取り上げられた時には、「盛り付けが少ない。ぼったくりか?」の文字が。


 そして、赤坂に店を移し、大々的に取り上げられた雑誌の特集記事の片隅には、


 ――来やがった!


 強い筆跡で、そう一文が添えられていた。

 そして、そこから爆発的に量を増やした切り抜き記事の、一番最後には。


「…………っ」


 ポラロイドで撮ったのだと思われる、記念写真が挟まっていた。


 恐らくは、誕生日や記念日に来店した客のための、店からのサービスだろう。

 「ラ・ウオーヴァ」と記された、華やかで美しいデザートプレートの前で、仏頂面の銀二さんが腕を組んでいる。

 そこに、にこやかにピースサインをした玉城シェフが、コーヒーをサーブする振りをしながら、身を乗り出して映り込んでいた。


 横には、たった一言。


 ――うまかった。


「ちょっと……ストップ……」


 玉城シェフは、大きな掌で顔を覆い、もう片方の手を、言い訳するように俺に突き出した。


「男もさ……四十過ぎると、やたら涙もろくなるんだよ。ちょっと、これは……」


 もう、本当に。

 震える声で、そう呟く。


 肩を揺らしはじめた彼に向かって、しかし俺は続けた。


「シェフ。銀二さんは、シェフのことを、気に掛けてましたよ。客としても――弟子としても」

「…………」

「その天たま掛けご飯だって、タマさんだけの専用裏メニューって言ってましたから。他の人には、俺も含めて、絶対食べさせないって言ってたんですからね」

(――……おい哲史。さてはてめえ、それで怒ってんだな……?)


 銀二さんが恨みがましそうに囁いてくる。

 いやいや、俺はあくまで大義のために行動しているというのに、まったく失礼なじいさんである。


「まあ、そこを粘って粘って、レシピだけ教えてもらって、今日は偶然成功しましたけど」


 同時に、銀二さん本人が作ったものであることは言えないため、帳尻合わせも済ませておく。

 相手が、酔いと涙とで思考能力を半減させているところに付け込んで、俺は半ば強引に話をまとめた。


「銀二さんの命日に、たまたま(・・・・)シェフがこの店に来て、たまたま(・・・・)俺が銀二さんのレシピを知っていて、遺品まで持ってて……これって、奇跡みたいなことですよね。きっと、銀二さんが、玉城シェフになにか伝えたくて、こういう奇跡を引き起こしたんじゃないかな。うん、そう思うな」

「銀二さんが、僕に、伝えたくて……」


 玉城シェフが、ぼんやりと反芻する。

 まるで祈るような顔つきで、神妙にこちらを見返してきたので、俺ははったりを利かせて頷いた。


「そうですよ。銀二さんはシェフに、きっとこう伝えたいんだ。ええと――」


 声はあくまでシェフに向けながら、内心では銀二さんに「ほら、言って!」とせき立てる。

 その催促が通じたのかどうか、銀二さんはうっと黙り込み、やがて観念したように息を吐くと、


(……おい、哲史。こう伝えてくれ)


 ようやく想いを口にしはじめた。


(……タマ。がんのことを言えずに悪かった。おまえにゃ、自分から弱みを見せるようなまね、したくなかったんだよ)

「病気のことを伝えられなくて悪かった。師匠としての自負があるからこそ、弟子の玉城シェフには弱みを見せたくなかったんだ」


 シェフが再び、ぐっと口を引き結んだ。

 さりげなく視線を逸らし、必死に涙を堪えているのがわかる。


 こちらまで、なんだか込み上げてきそうになりながら、俺は必死に銀二さんの言葉を代弁しつづけた。


 おまえは大した料理人だ。ずっと自慢の弟子だった。

 俺のことを慕ってくれて嬉しかった。

 ずっと言えなくて、すまねえな――。


「――……っ」


 店内に、一回だけ。

 小さな嗚咽が響く。


 涙に湿った声で、「僕は……」と玉城シェフは言った。


「……僕こそ、気付くべきだったんだ。僕の……僕だけのための、メニューまで、作ってもらっていながら……っ、銀二さんが、気に掛けてくれなかったはずが、ない、って……」


 そうして、流れ落ちた涙を素早く手の甲で拭うと、穏やかな笑みを張りつけて、再び箸を取った。


「もし、銀二さんが本当にそう伝えたくて、今日君にこれを作らせたんだとしたら、……美味しくいただくのが、きっと最高の供養だよね」


 時間が経ってもなお、ほかほかと湯気を保っている土鍋ごはん。

 それを、丁寧に、大切に、噛み締めていく。


 やがて、ご飯の一粒も残さずに平らげると、玉城シェフはしみじみと、


「……うまかった」


 と呟いた。


 そこには、これまでに食べてきた銀二さんの料理全てへの想いと、感謝が詰まっているような気がした。


「……銀二さんも、喜びます」


 俺がありがとうと言ってしまうと、シェフの言葉は俺に向けたものになってしまう。

 だから代わりに、俺は小さくそう答えた。


 「吟」の二合分も飲みきり、熱いお茶も啜ったシェフは、その頃にもなるとすっかり、当初の落ち着きを取り戻していた。

 穏やかな笑顔で、銀二さんとの思い出話をしたり、料理人としてのちょっとした苦労話を披露したりなんかする。


 やがて自然に話題が途切れると、彼は滑らかな動きで立ち上がり、会計を済ませた。


「ごちそうさま。また来るよ」

「ぜひ」


 力強く答えてから、「あ」と付け加える。


「でも、今日の天たま掛けご飯は、奇跡的にうまくいっただけなんで、その……期待するなとは言いづらいんですけど、あんまりハードルは上げずに来てください。他の料理については、特に」


 来てくれといいながら、飯は期待するなと言い放つなんて、我ながらプロ失格の態度だ。

 とはいえ、TVにも出ている超有名シェフに向かって、期待して来てくれと宣言するだなんて真似、俺には逆立ちしたってできないのだった。


 幸い、玉城シェフはちょっと目を見開くと、酔いの微かに残った顔で、小さく笑った。


「――うん。だって今日のは、銀二さんがもたらしてくれた、奇跡の天たま掛けご飯だもんね」

「はは……」


 彼の台詞はかなりキザだと思うのに、その端整な顔立ちにハマりすぎているのと、事実そのものであることに、笑うしかできない。

 そうして、玉城シェフは涙の跡を感じさせない爽やかな表情で、店を去っていった。


(おう、哲史)


 無人となった店内に立ち尽くしていると、脳裏に銀二さんの声が響く。


(なんだ、その……。ありがとよ)

「……どういたしまして」


 身体を伴っていたなら、きっと仏頂面を浮かべて、そっぽを向いているに違いない銀二さんを思い浮かべ、思わずにやにやしてしまう。


 照れくさかったのか、すっかり彼が黙り込んでしまったので、俺は付け足した。


「銀二さん」

(ん?)

「裏メニューって、なんかこう……いいもんですね」


 それは、心の底からの感想だった。


 大切な人のためだけに。

 メニューにない、特別な一品を。


「シェフ、嬉しそうだったもんなあ。……食べられない側からしたら、余計に美味しそうに見えたし」

(……だから、根に持ってんじゃねえよ)


 銀二さんがぼそっとツッコミを入れてくる。

 彼は少しだけ考えると、続けた。


(あんな、哲史。裏メニューなんてのは、客に喜んでもらいたいってのはそうなんだが……ほんとのところは、作り手自身のために作るんだ)

「え?」

(だってよ、……嬉しいもんだろ? 飯屋が飯を出してるだけなのにさ、やったらめったら喜んでもらえて。変な会話や、挨拶なんかしなくてもさ、ぐっと距離が近くなるっつーか)


 言っていて気恥ずかしくなって来たのか、「つまり、男は言葉じゃなくて飯で語り合うんだよ!」と強引にまとめた銀二さんに、俺はぼそっと呟いた。


「……言葉足らずだったせいで、未練を残す羽目になったくせに……」

(るっせえ! 最終的には飯で通じただろうが!)


 即座に叫び返された内容に、俺は「それもそうか」と頷いた。


 玉城シェフのためだけの天たま掛けご飯。

 そこには、きっと銀二さんと彼の間だけでわかりあえる、たくさんのメッセージが込められていたはずだ。


 俺が素直に詫びると、銀二さんは途端に「お、おう」と身を引き、その後ぼそぼそと、再び礼を言ってくれた。


 そして、店を片付け、揚げ物のコツやらなんやらをぽつぽつと語り――、

 銀二さんは、溶けるように消えた。




***




「いらっしゃいませ。今日も、日替わり焼き魚定食でよろしいですか?」

「あ、はい」


 昼の、てしをや。


 店は混み合い、俺は客席の隙間を縫うようにして、注文を取りまくっていた。

 今向き合っているのは、飴色の縁眼鏡が特徴的な男性客。通称、ほっけさん。


「ええと、飯は――」

「雑穀米じゃなくて、白飯。熱いお茶も一緒に。――で、よろしかったですか?」


 にこっと、「いつもありがとうございます」と添えると、彼は目を見開き、その後、ちょっとだけ口許を綻ばせた。


「はい、それで。お願いします」


 ただ、それだけのこと。

 なのに、それがとても嬉しい。


 俺が厨房に戻り、「日替わり魚、白飯で」と注文を伝えると、ちょうど遣り取りを見ていたらしい志穂が、ふと口を開いた。


「……お兄ちゃん」

「ん?」


 じっと黒目がちな瞳でこちらを見つめ、ちょっとだけ笑みを浮かべる。


「やるじゃん」

「――おう」


 俺も微かに唇の端を引き上げながら、白飯とみそ汁の準備に取り掛かった。


 銀二さんと玉城シェフの遣り取りを目の当たりにしてから、俺は少しだけ、裏メニューなんてものに対する意識を変えた。

 お客さんの好みを覚えたり、常連さんを見分けたりする努力くらいは、してもいいかなと、そう思うようになったのだ。


 それは売上だとか、お客さんの満足度がどうだとかいう理由ではなく――単純に俺が、嬉しいから。


 もちろん、今の俺に裏メニューを考案したり、作ったりするキャパシティまでは無いわけだが。きっとそれは、この想いの延長線上にあるはずだ。


「ま、ちょっとずつな」


 俺が小さく付け足すと、志穂は特になにも言わず、開いたほっけを焼き網に乗せはじめた。

 だが、漏れ聞こえる鼻歌は、やつが上機嫌であることを示している。


「すみませーん!」


 と、今度は女性客が手を上げてきたので、俺は「はい!」と慌てて厨房を飛び出した。

 伝票とともに、右手に七味唐辛子を忍ばせて。


 背後からもう一度、志穂の「やるじゃん」という呟きが聞こえた気がした。

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神様の定食屋4巻 23年11月15日発売!
神様の定食屋4
― 新着の感想 ―
[一言] お料理って手が込んでるものはもちろん、その相手だけを思って作ったシンプルなものの素晴らしさってないですよね。 裏メニューがどういう流れになるのかな?と思いながら読み進めましたが、やはり涙目…
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