2皿目 天たま掛けご飯(前)
「うー、さみ……」
厚手のジャケットに長めの靴下。
毛糸のマフラーをぐるっと巻いてなお、全身に染み込んでくるような初冬の夜の寒さに、俺はもごもごと不平を漏らした。
「なんでこう、神社ってのは石畳なんだ……これがいかん……いっそもう、熱導線入りのコンクリとかにすりゃあいいのに……」
ポケットに突っ込んだ右手には、ガサガサと中身を揺らすビニール袋。
中には、俺が好きな銘柄の日本酒が、瓶の一部を覗かせている。
そう。
俺は、奉納品の酒を携えて、深夜の神社に参拝しているところだった。
佐々井時江というおばちゃんの魂が俺に乗り移る事件があってから、もう一週間。
朝になった途端、まるで夢だったかのように時江さんの魂が溶け消えてしまったことで、俺は「もしやこれは夢だったのだろうか」と首を捻りながら、日常に戻ることとなった。
が、その日を境に敦志くんは店に食べに来るようになったし、教えてもらった千切りの技術も、ちゃんと手の中に残っている。
俺は、最初の数日ほど、すぐにでも神社に飛び込んで、諸々の事情を検証したい気持ちに駆られ、次の数日、やはりこういった超常現象には近付かない方がよいのではないかと思い直した。
が、今日になって、神様に訴えたいことができてしまい、ちょうど先週と同じように店を飛び出し――そして今、こうして境内にいると、そういうわけだ。
「くそー、志穂のやつ……。毎回毎回、要求のレベルが高すぎんだよ……」
マフラーに顎を埋めながら、ぼそぼそと妹を罵る。
今日の志穂の怒りのフレーズは、「この、鶏頭!」だった。
「鶏頭ってなんだよ、こちとら四大卒だよ、人並みに記憶力はあんだよ馬鹿野郎」
白い息となって、愚痴が夜の闇に溶けていく。
まったく、どうして毎度こんな情けないことになってしまうのか。
改めて記憶を辿ってみたが、始まりは、ごくごく穏やかな会話だったはずなのだ。
「裏メニューを作りたい?」
夜営業が終わるなり、エプロンも外さずに提案してきた妹に、俺は怪訝な表情を向けた。
「なんでまた。今の品数を回すのだって精いっぱいのくせに」
「それはそうだけど。裏メニューだから、大目に仕入れてある食材を使って作るし、そんなに負担にはならないはずよ」
そう言う志穂の目は、さもいいことを考えついたとでもいうように、きらきらと輝いている。
そういう表情をすると、童顔気味の顔立ちとあいまって、妹ながら可愛いと思うのだが、しかし騙されてはいけない。
ヤツがこういった顔をして寄越す提案というのは、やれ「花火を一気に百本着火したら、面白いと思わない?」とか、「お父さんの額に『肉』って書いてみようよ」とか、昔からロクなものがないのだ。
ちなみに、どちらも実行済みで、どちらも兄である俺が叱られる羽目になっている。
「いや、負担だろ、どう考えても。だいたい、裏メニューだなんて用意しといても、頼む客がいるとは思えんし」
そんなわけで、俺は立ち仕事に疲弊しきった腰をとんとん叩きながら、妹の提案を一刀両断した。
「えー! これでも、当たりはつけてるもん。七味さんとかさ、煮込みさんとか、かなり頻繁に来てくれるじゃない? そういうお客さんだけに、こっそりスペシャルなメニューがあったら、ちょっと嬉しいと思うんだよね」
常連客は大切にしないと、と妹は頬を膨らませる。
七味さんだとか、煮込みさんだとかいうのは、最近この店に通いはじめ、常連となりつつある客のあだ名だ。
それぞれ、注文時に必ず「七味持ってきてくれる?」と頼んできたり、昼も夜も絶対に煮込みハンバーグだけを食べることから、妹にそう呼ばれている――らしい。
らしい、というのは、俺にはその人たちの顔がよくわかっていないからだ。
実は、俺は人の顔を覚えるのがあまり得意ではない。とにかく混み合っている昼の客なんて、尚更だ。
妹なんかは、七味さんが来店した瞬間に七味唐辛子を用意しているようだが、もし俺が「七味さんのところにコレ持ってって!」などと頼まれたら、「テーブル番号で指定してくれよ」と途方に暮れてしまうだろう。
それくらい、顔がわからないし、ついでに言えば、覚えようという気力もなかったのだ。
だって。
「……あのさあ。おまえは『頻繁に来てくれる』とか言うけど、それを定量的に測ったことってあるわけ? せいぜい、週に二、三回だろ? その程度の常連だからって、どれだけ店に利益貢献してくれてるって言うんだよ」
ただでさえ、定食屋なんていうのは客単価が低い。
週に二回、八八十円をコンスタントに払ってくれる程度の客を繋ぎとめるのに労力を割くくらいなら、同じ労力を使って、新規顧客をあと二人増やした方が、よほど経済合理性に優れていた。
「だいたいおまえは、安易に『裏メニュー』だとか思い付きを言うけどさ、店の経営なんていうのは、冷静に――」
「お兄ちゃん」
俺が社会人の貫禄を見せてやろうと続けると、志穂は低い声でそれを遮った。
「一応聞くけど」
ぎっと、黒目がちな目を上げ、俺を睨みつける。
「お兄ちゃんがそういうことを言うのは、けして、常連さんと一見さんを区別するのが面倒だとか、そういうことじゃないんだよね?」
「お、おう……」
「純粋に、この店の経済合理性を高めるためのアドバイスであって、けして、お客さんの顔を覚えるのが苦手だとか、そういう理由じゃないんだよね?」
「おう……」
我が妹ながら、異様な迫力にたじたじとなって答えると、志穂は据わった目で問うてきた。
「じゃあ、今日来た常連さんの名前は」
「へ?」
「今日来たお客さんの中に、常連さんは何人いて、名前はなんですか、って聞いてんの」
俺は言葉を詰まらせた。
常連。
いただろうか。
いや、いた気もするし、いなかった気もする。名前なんて、もちろん知っているはずもない。
黙り込む俺に、志穂は畳みかけてきた。
「今日さ、いっつも焼き魚定食頼むってわかりきってる『ほっけさん』に、肉定食のお勧めメニュー渡してたでしょ。いつも水は氷抜きで、って頼んでくるお客さんに、どばどば氷入れたお冷出してたでしょ。私がこっそりメニューとお冷を差し替えに行ったけど、どっちも苦笑いしてたよ!?」
「え……」
「え、じゃないよ!」
志穂は怒りを再燃させたのか、脱いだエプロンをテーブルに叩きつけた。
「お兄ちゃんは『てしをや』での経験がほとんどないし、最近は千切りとかいろいろ頑張ってるみたいだから、なにも言わないでおこうと思ったけど、なによ、やっぱお客さんのこと全然見てないんじゃない!」
事実そのものの指摘に、俺は返す言葉が無かった。
志穂は、すうっと目を細めると、ドスの利いた声でのたまった。
「私は、思い付きで裏メニューを作りたいなんて言ってるんじゃない。常連さんに、感謝の気持ちを伝えたいんだよ。それを、お客さんの顔も覚えられないお兄ちゃんに、『店の経営』だなんて印籠を振りかざして否定されるのなんて、我慢できない」
「な、なんだよ、印籠って。俺はあくまで、社会の先輩として、正しい見地から――」
「本当はお客さんの顔を覚える自信が無いだけのくせに、ふかすな、この鶏頭!」
盛大に罵られて、俺も思わず言い返した。
「と、鶏じゃねえ!」
「鶏でしょ! 元カノに振られて、なにも言い返せずに帰ってきたチキンのくせに! この、頭もハートもチキン男!」
「おまえは胸が鶏がらのくせに!」
「と、鶏じゃない!」
まあ、そこからは幼少時を彷彿とさせる兄妹喧嘩だ。
あれ、おかしいな。先週もそんな喧嘩をした気がするのだが。
とにかく、結局口論が後半に差し掛かるにつれ、旗色が悪くなっていった俺は、「出掛ける!」と言い捨てて、そそくさと店を後にしたというわけだった。
……先週からまるで成長がないとか、どうか言わないでほしい。
俺だってそう思って、神様にお酒の一つでも、と、日本酒の瓶を掴んでくるくらいのことは、したのだから。
「相変わらず、人気、ねえなあ……」
ぽつんとした呟きは、周囲の木々のざわめきに紛れて、消えた。
敷地面積も狭く、古びた御堂に鳥居だけを取ってつけたような神社には、今夜も、先客の一人もいない。
俺は、御堂に吊るされた大きな鈴の前に辿り着くと、そこから垂れる色褪せた紐を、じっと見つめた。
(ええと、神社ってどうすんだっけ。二礼二拍手一礼? いや、二礼? あれ?)
神社など、初詣くらいでしか訪れないため、作法がまったくわからない。
そういえば、事前に水で手を清めるんだっけ、とか、鈴はいつ鳴らすんだ、とか、悩みは尽きなかったが、
(ええい、お参りは、気持ち! 今夜はお土産も持ってきたし、きっと大丈夫!)
俺は強引にその疑念に蓋をした。
奉納品をお土産とか表現してしまっている辺り、我ながら、神様を友達かなにかと思っているかのような気安さだ。
だが、そう。
なまじ一度、会話なんかをしてしまったものだから、俺の中で、ここの神様は「フランクで色々いい加減で、なんかちゃっかりしてる御仁」というイメージで固まってしまっていた。
気になって調べてみたところ、なんでもこの神社は、元々お寺だったのらしい。
江戸の末期だか、その辺りに、飢饉からの復興を祈念して建てられた、その名も「万福寺」。人々が満腹であるように、ということだろう。
しかしそれが、明治時代の廃仏毀釈運動に巻き込まれ、そうすると時の僧侶は神職に転向し、寺を神社に変えてしまった。
ただし、祀ってあるのは、あくまで食を司る神様だと、そこだけは主張して。
結局現在、境内の入り口には、墨の擦り切れた文字で、「神社(、福寺)」と書かれた看板だけがぶら下がっている。
恐らく、「なんとか神社(万福寺)」と書かれていたのだろうが、神社の名前よりも寺の名前の方がまだ読める、という辺りが、いい加減すぎるというか、逆に意志を感じるというか。
とにかく、時代に合わせてあっさり姿を変えつつ、けれど「人を満腹にする」という核の部分だけは頑として譲らなかった、そういう神社なのである。
がろん、がろん。
俺は、日本酒の入ったビニール袋を賽銭箱の近くに置くと、大きく鈴を鳴らしてみた。
一応おじぎや拍手なんかもしてみて、来ましたよということを伝えてみる。
「ええと、神様。いらっしゃいますかねー?」
両手を合わせて目を瞑ると、俺はなるべく心を込めて、神様に向かって話しかけた。
「先日は、その……ありがとうございました。 ……いや、なんか俺、うまいこと働かされただけのような気もするんですけど、でもまあ、お陰さまで、千切りもできるようになったし、お客さんも増えました。総じて見ると、いいことだったのかなと思います。うん」
そこで言葉を区切って、じっと御堂を見つめてみる。
光りもしないし、声も聞こえない。
(――……なんだ)
それが当然のことのはずなのに、俺はちょっと残念に思った。
なんとなく、神様は俺の言葉を聞いてくれていて、また呼び掛けさえすれば、応えてくれるのではないかと、そう期待していたのだ。
「神様ー」
がろん、がろん。
もう一度鈴を鳴らしてみる。
が、なにも起こらない。
(……ま、そんなもんか)
俺はちょっと苦笑いして、紐から手を放した。
本当のことを言えば、先週みたいに、妹のことを愚痴ってみたかったのだが。
それで、今度は、客の顔を覚える必要性だとかを教えてもほしかったが――まあ、神様を頼れる猫型ロボット扱いするわけにもいくまい。
それに、また魂に体を乗っ取られたりしても、やっかいだ。
(……でも、ほんとは、両親のこととかも、聞いてみたかったんだけどな)
頭では納得しているはずなのに、俺はちょっぴり恨めしい思いで、そんなことを考えた。
時江さんはあの時、未練があったから地上から離れられなかったのだと言った。そこに、神様が声を掛けてきたのだ、とも。
だとしたら、同じ事故によって亡くなった俺の両親もまた、同様にして接触することもできるのではないかと、俺はそう考えたのだ。
(まあでも、あの二人、時江さんよりも更に楽観的っつか、サバサバしてるもんな……。案外、未練なんか全然感じずに、早々に天国に行って、定食屋開いてたりして)
親が自分たちのことを気にかけていないのではないか、という発想は、少々寂しい。
けれど、彼らがなんの未練もなくこの世を去れたというなら、きっとそれはよいことなのだろう。
「……あーあ」
必ず再会できる、だなんて確証はどこにもなかったが、それでももう神様は現れてくれないのかと思うと、なんだか肩透かしだ。
すぐに帰るのも勿体なくて、俺はこのお酒分くらいは、と、せめて愚痴を聞いてもらうことにした。
「神様ー。俺、間違ってないですよねえ? 俺がせっかく、『てしをや』の正しい盛り付けやら、定番メニューやらを必死こいて覚えようとしてるっていうのに、そこに裏メニューだなんて自由演技を求めてくる、やつの方がトゥーマッチですよねえ?」
なにごとにも、順序というものがある。
俺は、料理が大の苦手で、このたびようやく、千切りの方法だとか、付け合わせにまで心を砕く料理屋の在り方を理解しはじめたというのに、そこに更に、料理だけでなく人にまで配慮しろというのは、いったいなんという無理ゲーだろう。
客の顔が覚えられないから言い訳をしている、という志穂の指摘は正しい。
だが、客の顔を覚えられるほどの余裕が俺にはないことだって、理解してほしかった。
「……なんで常連だからってだけで、癖やら好みまで覚えなきゃなんねえんだよ。その重要性や必要性を、テンパってる俺にも納得できるように、言ってみろってんだ……」
ぽつんと呟く。
しかし、俺はそこで、はっとして顔を上げた。
「――い、今のなし! 別にこれ、神様や幽霊の誰かに言ったわけじゃないですから! 俺、とり憑かれたい願望の持ち主とかじゃ、ないですからね!」
そんな願望が世の中一般にあるとは思わないが、神様に勘違いされてもいけないので、明確に否定しておく。
そう、俺は、先日時江さんに料理を教えてもらったことこそ感謝しているが、別に、毎回そういった方法でレクチャーをしてほしいだとかは、欠片も思っていないのだ。
神様ならもっと、天啓を下ろすとか、俺の身体能力を引き上げるとか、やりようはいくらでもあるはずだと信じている。
これ以上ここにいても、なんだか失言ばかりを重ねそうだと思った俺は、最後に「手土産」の紹介だけしてこの場を立ち去ることにした。
「ええと、聞いてるかわかんないですけど、俺、帰ります。これ、最近気に入ってる酒なんで、よかったら飲んでください。佐賀のね、結構有名な酒なんですけど、甘口の割に甘すぎず、旨みがあって、フルーティーで。結構手に入れるの大変なんですよ」
社畜時代の先輩が大の日本酒好きで、激務の合間を縫ってたびたび飲みにつれていってくれたので、実は俺は、少々日本酒びいきである。
そういや、夜の参拝の時って、お供えはどうすればいいのかな、と今更ながらきょろきょろしていた、その時。
――銘酒、とな?
聞き覚えのある声が、うわんと鼓膜を揺らした。
「え……?」
――おお、誠だ。しかも純米大吟醸ではないか。苦しうないぞ。
「え……!?」
この声は、神様……だろう。
だが、気のせいだろうか、先週聞いたときよりも、少しばかりテンションが高いように思われた。
無意識に、光沢のある紫色の瓶を抱き寄せると、少々むっとしたような声が響く。
――こら。酒の瓶を抱きしめるでない。温もる。置け。すぐ飲みたい。
「え? え? えええ?」
あんなに呼び掛けても出てきてくれなかったのに、なぜ今更顕現するのだろうか。いや、タイミング的に、酒につられたとしか思えない。前にも感じたが、神様がこんなに俗っぽくてよいのだろうか。
――東北モノもよいが、今は西日本がアツい。大儀であったぞ。
恐る恐る、賽銭箱の傍に日本酒を置いてみると、神様が興奮でもしたのだろうか、御堂がほんのりと光り出す。
俺はぎょっと目を剥いた。
――なにをしておる、早くその蓋を開けぬか。気の利かないやつめ。
「え、え、でも、お供えって、こっちで開けていいんですかね……!?」
もごもごと言い返すと、しゃらくさい!と一喝され、俺は慌てて瓶の蓋を回し開けた。
途端にふわりと、甘みのある日本酒の香りが広がる。
――ああ。うまい。
ついで、そんな恍惚とした呟きが聞こえてきたので、俺は呆れたものか、笑ったものか悩んでしまい、結局戸惑いの表情を浮かべた。
どうも、ここの神様は大層な酒好きらしい。
俺の困惑なんて歯牙にもかけず、神様はぐびぐびと酒を味わい――効果音は俺の想像だ――、時折、肴がほしいだとか、いやもう塩でよいとか、なぜ四合瓶にしたのだケチめ、などとお言葉を漏らした。
(……ええと)
見守る俺の心境と言えば、奉納品を気に入ってくれたことにほっと胸を撫で下ろすというより、酒乱癖のあるおじさんを遠巻きに見つめる親戚、といったところだ。
なんだろう、あまり近付かない方がよいような気がする。
仕切り直すことにして、今日はもう帰ってしまおうと、そっと踵を返したところ――
――おや、どこへいく。
「わ!」
背後から神様の声が掛かった。
――つれないではないか。まだ願いも叶えてやってないというのに。
「ね、願い……?」
びくびくと肩をすくめながら、聞き返す。
神様は、まるでしたり顔で頷くかのような様子で答えた。
――さよう。そなた、「常連客の癖や好みを覚える理由が知りたい」と申していたであろう?
「聞いてたんですか!? っていうか、いや、その後すぐ、『やっぱ無し!』って言いましたけど!」
――はは。遠慮するな。ういやつめ。
「いや、遠慮とかでなく……!」
だめだ、なんだか酔っ払いとの会話くらいに噛み合わなくなってきた。
展開の不穏さに覚えがあって、咄嗟に境内から逃げ出そうと走りだす。
両親の話も聞いてみたかったし、そりゃあ常連客を覚える必要性だって聞いてみたいものではあったが、毎回何者かに体を乗っ取られるだなんて、ごめんだ。
しかし、俺が鳥居の向こうを目指して足を踏み出したその瞬間、
ふわっ……
先週同様、白い靄が進路を塞ぐようにして凝りはじめ。
――今回はこの酒の味に免じて、特別に、その道のプロをアテンドしてやろう。
経歴五十年、一代で日本中に名を轟かせる店を築き上げた名料理人ぞ。
感謝せよ。ひくっ。
「あんた、なに急にそんな肩回しちゃってんですか!? ってか酔ってる!? ねえ、酔ってるでしょ!」
見る間に、その靄は人型になったかと思いきや、年配の男性の像を結んだ。
小柄な体に、角刈りにした白髪頭、鋭い目つき。いぶし銀というか、いかにも職人然としたじいさんである。
――だがなあ、この男、口下手なうえに頑固でな。なかなか成仏に至らんのだ。
いろいろ説得もしたが、「自分の飯を食わせたいやつがいる」の一点張りでなあ。
こちらも上手いことやっとくから、おまえも上手いことやってくれ。頼んだ。
「やっぱ俺にそういうこと押し付けようとしてんじゃねえかあー!」
絶叫したが、時すでに遅い。
『……ふん、体を貸すってったってえ、素人じゃねえか』
不機嫌そうにこちらを見つめてきたその人物は、『だが折角だ。貸してもらうぞ』と呟くと、外見に似合わぬ俊敏さで、こちらに駆けてくるではないか。
「ちょ……冗談……!」
『はあ!』
あとはもう、お察しの通り。
「だ……」
ふわん、という、優しげな衝突音が辺りに響き。
(おお、おまえ、背が高いな。……だが、足の長さは俺とそう変わらんな、へっ)
脳裏にじいさんの声が聞こえるようになり。
「だからさああああ!」
俺は二度目の、フュージョンを果たしたわけであった。
***
大野銀二、と名乗ったそのじいさんは、「気難しい頑固じじい」を地で行くような御仁だった。
なにせ、せっかく俺が体を「貸している」という状態であるのに、こちらから話しかけない限り、自分からは話を振ろうとしない。時江さんとは大違いだ。
初回が時江さんで本当によかったと、俺は改めて彼女のおしゃべり癖に感謝を捧げながら、なんとか銀二さんとのコミュニケーションにこれ努めた。
「ええと……俺の認識では、銀二さんが俺の体で料理をして、それを、銀二さんの望む相手に食べてもらえば、体から出ていってもらえる――もとい、成仏してもらえる、って感じなんですけど、これで合ってます?」
(ああ)
「一応、その時俺にも、その料理の作り方とか、料理人としてのコツやらを教えてもらいたい……というか、それが交換条件、っていう認識なんですけど、それも合ってます?」
(まあな)
まあ、終始こんな感じだ。
神社から店へと引き返す間、なんとか聞き出した話を要約すると、こうである。
銀二さんは、赤坂に店を構える和食料理人であった。
十五の頃から修行に打ち込み、その店の暖簾を継いだ十年後、意を決して天ぷら専門店を出店。
一日に数組しか客を受け入れず、代わりに、相手の体調にまで配慮してメニューを決める繊細な料理ぶりが受け、かの有名なミシュランガイドで星をもらうほどの店となった。
しかし、仕事に打ち込むあまり、自らの体調を顧みなかった結果、一年半前に大腸がんが発覚。
手術を決意するも時すでに遅く、かなり進行していたがんはあっさりと彼の命を奪ってしまった。
仕事ばかりの人生、未練と言っても、向けられるのは主に客に対してだ。
赤坂という立地や、日に数組しか受け入れない店の仕様上、客は常連ばかりで、自らの病気のことも概ね伝えられていたが、一人だけ、事前になんの連絡もできなかった相手がいた。
その人物の、あだ名はタマ――きっと、猫っぽい性格だったのか、あるいは天ぷら屋だけに、たまご天が好物の客だったのだろうと俺は推察した――。
彼に不義理をするような形でこの世を去ってしまったことが、銀二さんの唯一の心残りであるらしい。
「常連客、ですか……」
成仏を拒んででも、飯を食わせたい相手というのが、家族でも友人でもなく、客だというのが、俺には少し意外だった。
だがまあ、仕事に生きた男らしいといえば、そうなのかもしれない。
駅を通り過ぎ、そのまま反対側にある「てしをや」に向かおうとする。
だがその時、足が地面に縫いとめられたように動かなくなった。
「銀二さん?」
(……待ってくれ)
俺、というか、その中に収まった銀二さんの瞳は、じっと電車を見つめている。
ついで、時刻表の横にぶら下がっている時計を確認すると、おもむろに切り出した。
(……寄り道したい。赤坂の店に、行ってくれねえか)
「へっ!?」
(そう長居はしねえよ)
声は淡々としているが、逆らえないような重みがあった。
見れば、終電まではまだ一時間以上ある。ここから赤坂なら、とんぼ返りすれば電車で往復も可能だろう。
毒を食らわば、なんとやらだ。財布を持ってきていてよかった。
俺は「はいはい」と肩を竦めて、改札に向かって踵を返した。
***
「おお……ここが……」
銀二さんの案内に従って、彼の店まで辿り着いた俺は、いかにも「名店でござい」といった門構えの前に圧倒されて立ち尽くした。
すごい。
赤坂も赤坂。
超有名なイタリアンの店と隣り合った、一等地である。
落ち着いた色調の土壁に、美しい木造りの門、清潔な白の暖簾。
暖簾には小さく家紋のような模様が一ヶ所染められているだけで、横に置かれた灯篭型の看板に、上品な筆文字で「天ぷら 吟」と書かれている。
恐らくは銀二さんの名前の響きから取った店名なのだろう。
しかも、店の玄関は暖簾をくぐったその先で、そこまでのアプローチの間に、石畳だの砂利だの植栽だのが、実にセンスよく配置されているのだ。
これを高級そうと表現しなくて、なんと言おう。
「あれ? でも、閉店中の札が掛かってる……?」
看板の明かりも灯されているようなのに、間違いだろうか。
俺は首を傾げたが、銀二さんは、
(……ふん)
そう鼻を鳴らすだけで、なにもコメントしなかった。
「銀二さん、もしかしてもう、閉店準備中ですか? ちょっと遅かったですかね」
赤坂エリアの標準営業時間というのがよくわからないが、「閉店中」と書かれているからには、そうなのだろう。
「あ、なんか玄関口のところに、ワインが置かれてますけど。あれってなんですかね。忘れ物?」
しかも、よくよく見てみれば、玄関口のふもとに、この場に似つかわしくない赤ワインのボトルが佇んでいる。
俺はますます訳がわからなくなって、困惑に眉を寄せた。
「仕入分が、外に出しっぱなしになってるとか? いやさすがにそれは――」
(おい、哲史)
首を傾げていると、銀二さんが遮った。
(裏に回ってくれ)
「え」
(お客さん用の玄関から、堂々と入る料理人がいるもんかよ)
どうやら、彼はこの店の厨房に入るつもりであったらしい。
一見客のふりをして、ちょっと店を覗く程度のことしか覚悟していなかった俺は――それでもかなりの難易度だと思うのだが――、「部外者による厨房侵入」という一気にハードルを上げたミッションに、思い切り顔をしかめた。
「えええ!? そりゃ無理ですよ、まだ中に誰かいるでしょうし」
(いねえ。大丈夫だ)
なぜか銀二さんは、自信満々に言い切る。
俺たちはしばらく玄関の前で押し問答を続けていたが、結局こちらが折れ、俺はしぶしぶ裏口に回ることとなった。
(指紋認証式だが、緊急時はIDで開く。言うぞ。3・5・5・2……)
「……意外に最先端なんすね……」
ピピッという軽い電子音とともに、果たして裏口は開き、俺は人に見つかった時の言い訳をあれこれ考えながら、恐る恐る中へ足を踏み入れた。
が、誰もいない。
物音ひとつしないところを見ると、どうやら奥にいるとかではなく、本当に無人であるようだ。
入ってすぐの手洗いや着替えスペースを抜け、その先の洗い場を抜け、客席に面した厨房に踏み入っても、やはり誰もいなかった。
「……変なの。厨房と客席だけ、明りが点いてるなんて」
俺は首を傾げたが、銀二さんは再び鼻を鳴らした。
(――……ふん、あいつら。気取りやがって)
「え? 今なんて?」
だが、彼はその質問に答えることなく、すたすたと俺の足を動かして厨房内を進むと、カウンターからは見えないような位置にある戸棚に手を伸ばし、二冊のファイルを取り出した。
背表紙の紙が黄ばんでしまっているような、古いファイルだ。
緑と赤、二色あるそれらをじっと見つめると、銀二さんはぱらりと、大切そうな手つきで緑の表紙のものを開いた。
「あ……」
そこには、大小さまざまなスクラップ記事や、名刺が収まっていた。
昭和時代のものと思われる、小さな新聞広告。
「ゴチソウサン!」と走り書きされた簡素な名刺。
本の切り抜き、雑誌の特集記事。
扱いも小さく、白黒だったそれが、ページをめくるごとに、大きく、そしてカラーになっていく。
その全てが、「天ぷら 吟」について書かれたものだった。
これは、銀二さんの仕事の歴史であり――人生そのものなのだ。
もう一冊の赤いファイルは、緑のものよりは新しい。
二冊目、ということだろうか。
後で見せてもらおう、と思っていると、銀二さんはぱたんとファイルを閉じて、おもむろに店内を見回した。
「銀二さん?」
(…………)
気難しい天ぷら職人は、なにも言わない。
ただ、目に光景を焼きつけるように、ゆっくりと瞬きをすると、最後に、深々と頭を下げた。
人生の大部分を捧げてきた客席に。共に過ごした厨房に。
温かな光が漏れる、この店に。
(――待たせたな。行こう)
しばらくして、銀二さんが切り出す。
「……せっかくなら、ここで料理していきますか? ほら、俺も赤坂で天ぷらとか、食べてみたいし」
(いや、ここはもう、弟子の店だ。他人様の油を使って料理はできねえよ)
冗談めかした俺の提案は、静かに断られた。
(……あんがとよ。おまえの店に着いたら、駄賃代わりに、うまい天ぷら食わせてやるよ)
そんな言葉とともに。