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神様の定食屋  作者: 中村 颯希
春の部
26/27

玉ねぎの本分(3)

「こんばんは。すみません、お店はまだ開いていますか?」

「あ、はい! どうぞ――」


 厨房から身を乗り出し、店内へとやって来たお客さんの姿を見た俺は、軽く目を見張った。

 その顔立ちが、神社で見たフォンさんとは、あまり似ていなかったからだ。


 いや、フォンさんに似ていないからというよりは、「ベトナム人とのハーフ」と聞いて漠然と思い浮かべていた姿とは掛け離れていたから、意表を突かれたのかもしれない。


 まず、肌が白い。

 髪は染めずに肩に下ろして、上品な大和撫子、といった風情だ。


 目や口といったパーツのひとつひとつが大きく、よく見ればそれは、フォンさんの彫りの深さを受け継いだものなのかもしれないが、異国の血を感じさせるというよりも、ただただ、目鼻立ちのはっきりとした美人、という印象だった。


 妊娠中ということでお腹はかなり大きく、歩くのもひと苦労だろうに、迷いない足取りで、ぴんと背筋を伸ばしている。


「本当に閉店時間ではありませんでしたか? ご迷惑でなければ、軽く食事をしたいのですが」


 なにより陽子さんは、まるでアナウンサーのように美しい日本語で話した。

 日常会話で、「したいんですが」ではなく「したいのですが」と話す人、たぶん初めて見たぞ。


 フォンさんの「ぞく混ぜるネ」みたいな話し方にすっかり順応していた俺は、その娘である陽子さんの丁寧な話し方に、なぜだか緊張を覚えて姿勢を正した。


「は、はい。実はちょうど、閉店時間間際ではあって、出せる料理に限りはある()ですが、それでも大丈夫でしたら!」


 おっと、口調がうつった。

 早口で告げてから、慌てて付け足した。


「あの、親子丼でしたら、すぐにできます!」


 なにせフォンさんが振る舞いたいのは親子丼だ。

 ここで、「ではチキン南蛮定食を」なんて切り出されても困る。


 幸い、陽子さんは「親子丼」と小さく呟いてから、すぐに頷いてくれた。


「では、それをお願いできますか」

「はい!」


 俺は即座に返事をし、陽子さんを席に案内する。

 テーブル席のほうがゆったりと座れるかと思ったのだが、お腹がつかえるので、天板の位置が高いカウンター席のほうがありがたいと言うのだ。


 そこで、一番座りやすいであろう端の席に案内し、温かいおしぼりと、薄めに淹れたほうじ茶、念のために膝掛けを渡した。

 陽子さんはやはりアナウンサーのような口調で「ありがとうございます」と言い、しばし黙って、蒸しタオルで手指を温めていた。


 ただでさえ陽子さん以外には無人の店内。

 彼女に黙り込まれると、静けさばかりが張り詰める。


 菜箸を掴む音や、卵を割る音までが耳に付くようで、俺は無駄にひやひやとしたのだったが、そんな中でも、俺の中に入ったフォンさんは陽気さを崩さなかった。


(うーん、陽子、その服可愛いネ。おしゃれ。都会の人ネ。お金持ち。頭いい感じ)


 おそらくは、日本語で表現できる賛辞を片っ端から並べ立てているのだろう。


(ねえ、ゾウコのこと、もっと見せて)


 のみならず、俺は卵を溶き入れたフライパンに集中しようとしているのに、フォンさんは体を乗っ取って、ぐいとカウンターを振り返ろうとする。

 慌てて主導権を奪い直しフライパンに視線を戻す、いや、再び主導権を奪われてカウンターを見る、というのを短時間でくり返し、すっかり挙動不審になってしまった。


「……なにか?」


 カウンターで俯いていた陽子さんが、訝しげに顔を上げる。


「あっ、いえ」


 怪しまれている、と察した途端、焦りが込み上げ、言葉を詰まらせてしまった。


(こっち見たネ! 可愛い。ねえ、可愛いって言って! でもだいぶ、ざせたね。まあ、都会っぽい感じ。オーケーオーケー。ほら、ほら、伝えて)


「あの、都会っぽい方だな、と」


 付け込むように脳内でフォンさんに急かされ、咄嗟に最後の言葉を拾い伝える。

 いやだって、初対面のお客さん相手に、「可愛い」だとか、「痩せましたね」だとか、言えるはずもないだろう!


「ほら、話し方とかも、なんか、アナウンサーみたいだし」


 外見についての発言じゃないんですよ、という言い訳を込めて、付け足してみる。


 知ってるぞ。

 このご時世、たとえ褒め言葉であっても、見た目について口にするというのはマナー違反なんだ。


「…………」


 だが、俺としてはだいぶ無難に言葉をまとめられたと思ったものの、発言を聞いた途端、陽子さんは顔を曇らせた。


「すみません」


 それどころか、膝掛けをたたみ始めるではないか。

「やっぱり、時間がないので、失礼します」


 きちんと角を揃えた膝掛けを隣の椅子に置いて、席を立とうとする。


「あのっ!」


 陽子さんのこれは、明らかな言い訳だ。

 辞退が成立してしまう前に、気付けば俺はカウンターに向かって身を乗り出した。


「す、すみません! 親子丼、できてしまいました……!」


 我ながらなんて強引な接客だと呆れてしまう。

 だがこの状況下、陽子さんを引き留めるのに、それ以外どんな方法があったろうか。


「お、お時間ないんですよね。でもあの、丼なら、パパッと食べられると思うので」


 普通なら、味噌汁や粕漬けの小鉢もセットしてから提供するのだが、陽子さんに振り向いてほしい一心で、慌てて卵とじを丼飯の上に注ぎ込む。


 先ほどの手順に則って、ボウルに残っていた卵液をちまちまと回し掛けていたら、焦れたらしいフォンさんが体の主導権を奪い、瞬く間に丼を完成させてしまった。

 彩りが気になったのか、またもパクチーを数枚散らすというおまけ付きだ。


(ほら、完成ネ)

「か、完成なので……。その、よければ」


 おずおずと告げれば、陽子さんは意表を突かれた様子でこちらを見つめ返す。

 湯気を立てる親子丼と、強ばった笑みを浮かべる俺の顔を交互に見つめ、やがてなにかを諦めたように、再び席についた。


「では、いただきますね」


 端然とした口調に、どこか苛立ちが滲んでいるように聞こえるのは――たぶん気のせいではないだろう。

 俺は冷や汗を浮かべながら、極力愛想よく丼を差し出した。


「いただきます」


 箸を取った陽子さんは、しばし丼を無言で見つめていたが、やがて小さく呟いて、一口分を掬い取る。


 とろりとした卵、ふっくらと煮られた鶏肉、柔らかな玉ねぎ、そしておまけのパクチーを、バランスよく箸に乗せ、口に運び――。


「…………」


 その瞬間、彼女は軽く息を止めた。


 美味しさに感動した、という様子ではない。

 料理の熱に頬を緩めたのでも、甘辛い醤油の味にほっと肩の力を抜いたのでもなく、むしろ逆に、ぎくりと体を強ばらせるようにして、彼女は丼を見下ろした。


 それから、誰にともなく問うた。


「パクチー?」


 丼に載っていたのが、三つ葉ではなく、パクチーだということに気付いたのだ。


「どうして、親子丼に、パクチーが」

「あー! えっとですね、その、うちの店も、女性のお客さんの心を掴むにはどうしたらいいかなって、日々悩んでいまして。パクチーでも乗せたら、おしゃれになって、『映え』るんじゃないかなって。エスニックってほら、女性に人気だし、おしゃれだし」


 まさかこの段階から突然、「実は俺の中に、ベトナム人のあなたのお母さんが入っていまして」とは切り出せるはずもない。

 俺がしどろもどろに言い訳を捻っていると、陽子さんはふっと視線を逸らし、低い声で呟いた。


「……そういうの、あまり、よくないのではありませんか」

「えっ?」

「安易というか。おしゃれどころか、ただ違和感ばかりが残って、美味しい親子丼にも、エスニック料理にも、両方なり損ねてしまうのではないですか」


 冷えた口調だ。

 端然としているからこそ、なおさらに。


 俺が面食らっていることに気付くと、陽子さんははっとし、一度唇を引き結んでから、言い訳をするように付け加えた。


「すみません、突然。思いがけずパクチーだったから、驚いてしまって」

「えっ、い、いえ。たしかに、親子丼にパクチーって、ちょっとこう、アレですよね」

「ごめんなさい。頭ごなしにこんなことを。私が口出しする話ではないですよね。珍しい取り合わせだけど、美味しいと思いますし。ただ」


 陽子さんは、なんとかそれらしいフォローをしようと努力したようだったが、「ただ」の後の言葉が続かず、やがてことんと、小さな音を立てて、箸を置いた。


「……実は私、ベトナム人とのハーフなんです」


 彼女が「なんです」と口語体で発音するだけで、途端に素直な声に聞こえる。


「あ……あー! そうなんですね! そっか、自分の国の食材を中途半端な形で使われたら、気になっちゃいますよね。わかります! すみません、余計なことしちゃった」


 陽子さんがハーフであることはもちろん知っていたが、初耳のふりをし、さらには、このぎくしゃくとした空気を少しでも和らげるべく、声を張って調子を合わせた。


「いやあ、ハーフなんて、格好いいですね。しかもベトナム! すごくおしゃれじゃないですか。俺もいつか行ってみたいなって憧れてて――」

「べつに」


 だが、空気が和らぎかけたのも束の間、陽子さんは再び視線を落とすと、固い声で告げた。


「ハーフって、かっこよくも、なんともないですよ」

「へ……?」


 堪えきれず、口からこぼれ落ちてしまった言葉に聞こえた。

 その証拠に、陽子さんは再び、居心地の悪そうな表情を浮かべると、俺の視線を避けるように箸と丼を取り上げ、顔を隠した。


 一口、二口、三口。

 なにかに急かされるように、丼の中身を掻き込む。


(ゾウコ! ぞく噛んで食べるほうが、いいネ!)


 フォンさんは、俺の体を使って目を丸くし、心配そうに身を乗り出したが、途中でぴたりと、その動きを止めた。


「――……っ、…………」


 丼を持つ陽子さんの手が、細かく震えていたからだった。


 静かな店内だ。

 どれだけ押し殺そうと、喉の中でくぐもる嗚咽は聞き取れてしまう。


 ぐう、とも、うう、ともつかない、小さな音を数度響かせると、やがて陽子さんは、隠すのを諦めたように、丼をカウンターに戻した。


 現れた彼女の顔は、くしゃくしゃに歪み、目の端には涙が滲んでいた。


「……す、みません、突然」


 俺の視線を気にしてだろう。陽子さんが素早くおしぼりで目元を拭い、詫びを寄越す。


「あの、私」


 少し疲れてしまって。

 妊娠中だからか涙もろくて。

 あくびが出てしまって。


 強引に言い訳をしようとすれば、できたはずだ。


 だが陽子さんは、元々嘘がつけない人なのだろう。

 潔癖な性格なのかもしれない。

 結局、ごまかすことは諦めて、絞り出すような声で呟いた。


「母のことを、思い出して」


 その言葉を聞いた俺は、咄嗟に「よかった」と思った。

 きっとパクチーが引き金になったのだ。ベトナム人の母親の、定番料理に込めた愛情を、エスニックな親子丼で思い出してくれたのだろう。


「そうなんですね。もしかして、パクチーで!」

「いえ」


 だが、身を乗り出した俺とは裏腹に、陽子さんは硬い声で視線を逸らした。


「玉ねぎで」


 俺は目を見開いた。

 玉ねぎで?


「母にずっと、つらく当たってきたことを、思い出してしまって」


 つらく当たってきたことを?


(ゾウコ)


 俺はぽかんとしたが、当のフォンさんは驚くでもなく、苦笑するばかりだ。

 この二人、仲良し親子というわけではなかったのか。


「あの……よければ、話してみてくれませんか?」


 すっかり事態に取り残された俺が、動揺しながら尋ねると、陽子さんは怯んだように再び口を引き結ぶ。


 だが、静けさか、丼から立ち上る湯気か、それとも神様の計らいか。

 なにかにとんと背中を押されたように、彼女はおもむろに口を開いた。


「私……母とはずっと、疎遠で」


 箸から離れた手は、無意識にだろうか、膨らんだお腹を撫でている。

 一度「どこから話せばいいのかな」と息を吐くと、彼女は顔を上げ、ぽつりぽつりと語りはじめた。


「さっきも言ったとおり、私、ベトナムと日本のハーフなんです。ただ……、私が小さい頃って、ベトナムは全然、『憧れの国』なんてイメージではなくて。ベトナム人の母がいると言うと、侮られるようなこともあって」


 陽子さんはそこで、眉を寄せて言いよどんだ。


 彼女が小学生だったのは、今からもう二十五年も前。

 当時はまだ、ベトナムは後進国の部類で、「ハーフ」と聞いて目を輝かせた子どもたちも、「ベトナム」の名前を聞いた途端、「なあんだ」と肩透かしの表情を浮かべることが多かった。

 周囲の大人の中には、「日本人の嫁さんがもらえなかったから、ベトナムからもらったんだろう」などと、フォンさんたちを馬鹿にするような人もいた。


 そのたびに、幼い陽子さんの心は傷付いた。

 悲しみは徐々に怒りや苛立ちに転じ、やがてそれは、口さがない周囲よりも、フォンさんに向けられるようになったという。


「恥ずかしい、と思ってしまったんです。だって実際、授業参観に来る母親は、一人だけ容姿が違っていて、言葉もうまく話せない。『やゆよ』が発音できなくて、娘の名前すら、きちんと呼べない」


 私の名前、陽子と言うんですが、と付け加え、くしゃりと顔を歪めた。


「母にかかると、ゾウコ、になるんです。どうしても象を連想してしまって、思春期だったから、一層いやでした。どうして、呼べもしない名前を付けたのかって、呼ばれるたびに苛々して。段々、返事もしなくなって」

(ゾウコ。ごめんネ。もっと練習、すればぞかった)


 体の中にいるフォンさんが、肩身が狭そうに頬を掻く。

 声が聞こえるはずもない陽子さんは、記憶に引きずられるように、どんどんと俯く角度を深めた。


「内心……母のことを、馬鹿にしていたと思います」


 苦りきった声だった。


 ひらがなは読めても、漢字は読めない。

 おかげで、小学生の頃から、学校との連絡はすべて陽子さん自身がこなさなくてはいけなかった。


 口論になっても、日本語を主とする自分と、ベトナム語を主とする母親では、深いレベルでの意思疎通ができない。

 感情が高ぶるとベトナム語でまくしたてるフォンさんに、陽子さんは何度も「わからない!」と叫び返したという。「日本語で話して!」と。


 いつまでもカタコトの母親への反発から、中学、高校、大学と、放送部に入ってアナウンスを学んだ。

 付け合わせにパクチーを使ったり、隠し味についナンプラーを足してしまうフォンさんの横で、陽子さんは完璧な和食を作り、父親に振る舞った。


 美しい日本語を操ること。完璧な和食を作ること。

 それらは、日本にいるというのに、いつまでも馴染みきれずにいる、「不出来な」母親への密かな嫌味だった。


「我が家は、食事もなにもかも、すべて日本風だったんです。食卓に並ぶのは和食ばかり。お正月はおせち料理を作って、父は日本語しか話さない。日本の大学の受験方法も、日本の会社の悩みも、父にしかわからない。だから、三人家族でいると、いつも母だけが浮いていました」


(うーん。たしかに、それはそう)


 話に誇張はなかったようで、フォンさんが軽く苦笑いを浮かべる。

 聞いていた俺は、胸が苦しくなってきてしまった。


 家族なのに、そんな風にフォンさんのことを責めなくたっていいではないか。

 三人家族の中で、それも異国で、常に一人のけ者にされるなんて、どれだけ寂しい心地がすることだろう。

 想像するだに、可哀想でならなかった。


 フォンさんだって、もっと陽子さんを非難すればいいのに。

 なぜ肩を竦める程度で受け流してしまえるのか。


「それで、ある日。就活で悩んでいるときに、母が励まそうと、してくれたことがあって」


 だがそこで、陽子さんはふと声を湿らせた。

 震える唇を何度も引き締め、それでもなお堪えられないというように。


「親子丼を作ってくれたんです。でも私、『いらない』って断ってしまった。親子丼のことを、『おざこ丼』って言うから――そんな、くだらない理由で。『なんでいつまでもカタコトなの? 日本のことなんて、わからないでしょ。お父さんにしか相談したくない』って」


 ぱたたっ、と軽い音が響く。

 涙がカウンターを叩いた音だった。


「そうしたら、母は……悲しそうな顔をしながら親子丼を下げて、小さく、溜め息をついたんです」


 それから、親子丼にラップを掛け、こう呟いたのだ。


 ――私は、おざこ丼の、玉ねぎネ。


 ああ、と思った。

 先ほどのフォンさんの発言は、そういう意味だったのだ。


 父親が鶏で、陽子さんが卵。

 二人はどう見ても親子だけど、玉ねぎのフォンさんだけがよそ者。

 あっても、なくてもいい存在――。


「私に、聞かせようとした言葉ではなかった。たぶん、独り言でした。でも、なぜかずっと、印象に残ってた。最近は特に、よく思い出すんです」


 ひく、と喉を震わせ、陽子さんはそこで、強引に口の端を持ち上げようとした。


「だって……今は、わ、私が、玉ねぎだから」


 だがすぐに失敗し、顔をぐしゃぐしゃに歪めてしまった。


「え……?」

(ゾウコ。泣かないで。つらいネ。しんどいネ)


 言葉の意味を掴み損ねてしまった俺とは裏腹に、フォンさんは悲しそうに眉を寄せ、身を乗り出す。

 声が届かないことを、もどかしく思っているようだった。


「私、去年、夫について、彼の田舎に引っ越したんです」


 涙を恥じたのだろう。

 陽子さんはぐいとおしぼりで涙を拭き取り、嗚咽を宥めるかのように喉を撫でる。

 ほんの少しだけ落ち着きを取り戻すと、最近の状況を話してくれた。


「夫は一人っ子で、ご両親は栃木で苺園を営んでいて……。もう高齢で、でも苺園を畳むことはできないから、どうか手伝ってくれないかと頼み込まれたんです。夫婦で何度も話し合って、引っ越しを決めました」


 折しも、旦那さんは体を壊しかけるほどの激務を続けていて、このまま会社員を続けるべきか悩んでいた。

 また幸いにも、ウェブデザイナーの陽子さんは職業柄、勤務地の縛りも少なく、地方に移住しても十分仕事は続けられると考えた。


 当面の間、旦那さんは苺園の経営に専念し、陽子さんはデザイナーの仕事を抑えつつ、義家族のフォローに回る。

 生活設計は、そこそこ描けていたはずだった。


「夫婦間では、私がずっと『しっかり者』の役回りだったんです。だから、彼を引っ張ってあげなきゃ、って思ってました。でも、いざ新生活が始まってみたら、もう、全然」


 滑らかに話していたはずの陽子さんの口調が、ふいに途切れる。

 いちどきに押し寄せた感情を、ぐっと飲み下すように唇を引き結んだが、すぐに口元はわなないて、嗚咽を溢れさせてしまった。


「……言葉が、わからないんです」


 結局彼女が告げたのは、そんな言葉だった。


「方言が、きつくて。義理の両親は、どちらも、本当にいい人たちなのに、にこにこ、しているのに、なにを言っているのか、わからなくて」


 九十代の夫の祖父母に比べればまだ、夫の両親は標準語に近い言葉を使ってくれる。

 だが、繁忙期に入って、早口で指示を飛ばしたり、焦っていたりすると、途端に方言が強くなり、意味が取れなくなる。


 苺園にやって来る、高齢の客を相手にするときもそうだった。

 きちんと意志を疎通せねばならない状況に限って、それができなくなるのだ。


 忙しそうにしている相手に縋り付き、電話を切ろうとしている客を呼び止め、何度も何度も言葉を聞き返さないといけない状況は、それまで「仕事ができる」と自負していた陽子さんを追い詰めた。


 ミスが増え、心が萎縮し、ますます会話から遠ざかる。

 悪循環をくり返す。


 一生懸命その土地のしきたりに、ルールに合わせようとしているのに、言葉のアクセントや味付け、そんな些細なことでいちいち差をからかわれ、最初は浮かべられていた笑みが、次第に強ばっていった。

 誇りだったアナウンサーのような話し方も、田舎では、「気取った、嫌味な話し方」としか受け止められなかった。


 あんたのとこの嫁さんって、のりが悪いのね。

 気が利かないのね。


 そう囁く近所の客の声を聞いたとき、立ち聞きしていた塀から飛び出して、どれだけ標準語で叫び散らしてやりたいと思ったか。


 あなたは私のなにを知っているというの。

 都内にいれば、私はなんだってできた。


 行政の手続きだって、投資信託の売買だってできる。

 ネットにだって詳しいし、日本語も英語もベトナム語だってわかる。

 最終学歴だって、年収だって、あなたよりずっと上だと思うけど!


 学歴や年収を盾に自尊心を守ろうとしている自分が信じられなかった。

 そんな行為は、品がないと思っていたはずなのに。

 次第に自分が嫌いになっていった。


 夫や義理の両親は、その都度自分を庇ってくれた。

 だが一度だけ、嫁が一向に地域になじめないでいることに対して、苛立ちの溜め息を落としたことがあった。


 たった一度の溜め息。

 それに驚くほど傷付いた。


 夜、静まり返った台所で、声を押し殺しながら泣きに泣いて――ふと、思ったのだ。


 庇ってもらえると思っていた相手から、たった一度溜め息を落とされただけで胸が潰れる心地がするというのに、自分は母に、いったいなんという仕打ちをしてきたのだろうか、と。


「その瞬間、世界が、がらっと反転したような気がしました」


 陽子さんは、丼の前で両手を広げ、小刻みに震えるそれを見下ろした。


 自分に都内での、仕事人としてのキャリアがあったのと同様に、母にもまた、ベトナムでの、女性として積み重ねてきた経験や知識があったはずだ。

 なのに自分は、ただ日本語がカタコトだというだけで、その内側にある彼女の豊かさに一切目を向けることなく、「できない母親」のレッテルを貼って馬鹿にした。


 口さがなく言う周囲のほうが悪いに決まっているのに、母を庇うどころか、彼らのほうに同調して、「恥を掻かせた」と母を恨んだ。


 溜め息を落とすどころではない、ひどい仕打ちを、自分はずっと母にしていたのだ。


 母が一人浮いてしまうほどに、家が日本風に染まっていたのは、ほかでもない彼女が、全力で陽子さんたちに合わせていたからだというのに。


「夫の家に合わせた味のお味噌汁を作るとき。方言を真似てみせたとき。お腹の子の名前を、義理の両親に付けてもらおうと決めたとき。ようやく、ああ、こういうことだったのか、って思いました」


 合わせていたのだ。溶け込もうとしていた。

 その土地の輪に入りたかった。

 だから、舌に馴染みきらない嫁ぎ先の料理を作り続けた。

 自分の好みではない名前を子どもにつけた。


 必死に、この閉じた世界に、合わせよう、合わせようと、してきたのに――。


「さ、最近、考えてしまうんです。自分を、親子丼の玉ねぎって、言ったとき……母は、どんな気持ちだったのかな、って」


 陽子さんは、真っ赤な目から、幾筋もの涙を流した。


「い、今の私も、よそ者で混ざりものの、玉ねぎなのかな、って」

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