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神様の定食屋  作者: 中村 颯希
春の部
25/27

玉ねぎの本分(2)

(結局ネ。運転中に慌てるのって、絶対だめ。バイク、ひっくり返るネ。ほかの人、巻き込まなかったことだけ、本当に()かった)


「てしをや」へと引き返す道すがら、ベトナム語混じりで会話が持つだろうかという俺の不安もなんのその、フォンさんはよく話してくれた。


 それによれば、フォンさんは享年六十五歳。

 四十年ほど前に、ベトナムを訪れていた日本人男性と知り合い結婚、その後来日し、三十歳で一人娘を出産。

 日本にあるベトナム人コミュニティーで、多くの友人を作り楽しく過ごしていたのだったが、友人と遠くまで買い物に行こうと、バイクを飛ばしていたら、事故を起こして亡くなったらしい。


「フォンさん、おっとりした感じなのに、バイクに乗るんですね」

(ベトナムでは、みんな、()くバイク乗る。普通ネ)

「族バイク?」

(ううん。ぞ、く。違う。よ……よー、く?)


 俺が思わず聞き返すと、フォンさんは苦労しながら「よく」「ぞく」とくり返す。


 どうも彼女は、「やゆよ」の発音が「ざずぞ」になってしまうようだ。

 フランス人のジルさんも、ハ行が上手く発音できなかったから、もしかしたらこれも、ベトナム人の特徴なのかもしれない。


(うーん、難しい! ゾウコにも、ぞく注意されたネ。けど、最後まで、直らなかったな)

「ゾウコ?」

(娘ネ。とっても可愛い。結婚して、去年、引っ越しした。もうすぐ、孫生まれる)


 ゾウコ。ゾウコ。

 ああ、「ヨウコ」さんか!


 次第にフォンさんの話し方の傾向を掴んできた俺は、続きを促した。


「娘さんが、ヨウコさんって言うんですね。今日はヨウコさんに、料理を振る舞おうと?」

(そう。ずっと、元気ないネ。引っ越しの後、私すぐに死んだから、それも原因かもしれない。ずっと見てたけど、ずっと元気ないから、そろそろどうにかしないと、育児はもっと大変ネ)


 フォンさんは真剣に頷いて、近況を話してくれた。


 一人娘のヨウコさんは、結婚後もしばらくは都内の実家近くで働いていたのだが、両親が高齢になったからと、脱サラして家業を継いだ夫について、栃木の田舎に引っ越したらしい。

 だが、引っ越し、その直後の母親の事故死、そして自身の妊娠と、激変する環境にすっかり疲弊してしまったのか、ひどく落ち込んでいるというのだ。


(二ヶ月後には、出産ネ。今のゾウコは細すぎ。いっぱい食べさせなきゃ)

「そうですね。なにを作るんですか?」


 フォンさんの話を聞き、俺もつい身を乗り出した。


 そうした事情があるのなら、ベトナム料理の材料がないだなんて言っていられない。

 駅前の大きなコンビニなら、二十四時間営業だし、小容量だろうけどナンプラーの類も置いてあるだろうから、探してまわらなくては。

 フォーの麺を売っている店なんて知らないけど、タクシーを使ってでも駆けつけてやる。


 だが、フォンさんから返ってきた答えは意外なものだった。


(おざこ丼)

「へ?」


 雑魚?

 一瞬、大衆魚や稚魚が載った海鮮丼を思い浮かべてしまったが、すぐに気付く。


「ああ、親子丼ですか」


 彼女は、鶏肉と卵を甘辛く煮込んだ、あの丼飯を言いたかったのだ。

 ベトナム出身の母の手料理、としては想定外だったが、フォンさんの意図するところはわかる気がする。


 おそらく、離れてしまった今でも、自分たちは親子だよというメッセージを込めているのだろう。

 あるいは、あなたもこれから親になるのだから頑張って、ということなのかもしれない。


 ぐっと来てしまった俺は、熱心に頷いた。


「すごくいいですね。わかりました。フォンさんが鶏肉で、ヨウコさんが卵ってことですよね。親子の絆の親子丼、頑張って作りましょうね!」


 だが、きっと照れたように頷くだろうという予想とは裏腹に、フォンさんは軽く苦笑して、「うーん」と首を傾げる。


(私は、玉ねぎネ)

「え?」


 意味を尋ねようとしたとき、ちょうど店の裏口に着いてしまった。

 フォンさんが「わあ、ここが『てしをざ』さんネ!」とはしゃいだ声を上げたことで、話はうやむやになり、俺は「『てしを、()』ですね」と訂正しながらドアを開けた。







 志穂も小春ちゃんも退出した後の「てしおや」は、しんと静まり返っていた。

 厨房とカウンターにだけ明かりを灯し、程よく涼しかったのでエアコンは入れず、窓を少し開けて換気する。

 手を洗い、エプロンを着けると、俺たちは早速調理に取りかかった。


 必要なのは、鶏肉に卵、玉ねぎにご飯、そしてみりんや醤油などの調味料。

 ベトナムらしさはまるでないが、逆に定食屋では定番の食材なので、用意しやすくて助かった。


「ええっと……、俺、親子丼って作ったことないんですけど、鶏肉と玉ねぎを炒めるんですっけ。卵は最後に入れればいいのかな。いや、それとも卵液で具を煮るのか……?」


 料理が苦手な人間ならわかってくれると思うのだが、完成形態から調理過程を逆引きするという行為が、俺は壊滅的に下手くそだ。


 甘辛い味、卵のふわっとした食感、そうしたものは断片的に思い浮かぶのに、どんな順序で調理すればその形質が得られるのか、まるで想像がつかないのである。


(私はまず、鶏肉と玉ねぎで煮物を作るネ。そこに卵を入れる。煮物をいっぱい作っておけば、いつでもおざこ丼できる。便利ネ。ぞく作ってた)


 スマホを取り出そうとした俺を止めて、フォンさんが説明してくれる。

 なるほど、煮物を卵とじにする、と考えれば、作り方も覚えやすそうだ。


 そしてどうやら、親子丼はフォンさん親子にとって定番の味だったようで、その点もまた素晴らしいと思った。

 これならきっと、ヨウコさんも励まされるだろう。


 フォンさんは調理台に並べた食材を見下ろすと、興味を引かれた様子で玉ねぎを取り上げた。


(新玉ねぎ)

「ああ、春なので、新玉ねぎのほうが手に入りやすくて」


 俺が調理台に載せたのは、通年で出回っている乾燥させた玉ねぎではなく、薄緑の皮をした新玉ねぎだった。

 生で食べても美味しいし、火の通りが速い。


「普通の玉ねぎもありますよ。そっちのほうがいいですか?」

(うーん。そうネ。せっかくだけど、私、いつもの玉ねぎのほうが好き)


 志穂も、「玉ねぎと新玉ねぎはまったく別物なんだよ!」とよく主張しているので――新玉ねぎの場合、煮ると溶け崩れてしまうことが多いらしい――、俺は素直に頷き、玉ねぎを取り替える。


 フォンさんは満足した様子で頷き、腕をまくった。


 まずは鶏もも肉を一口大のそぎ切りにし、軽く塩を振って揉む。

 酒を振りかけてから冷蔵庫に入れ、休ませた。

 こうすると肉が柔らかく、また臭みが取れるらしい。


 その間に、玉ねぎを薄切りにする。

 最初に半分に切ったので、てっきり半玉で済ませるのかと思えば、ひと玉丸ごとだ。


 多すぎやしないかと目を丸くすると、フォンさんは、私は玉ねぎが好きなのと笑った。

 もしかしたらさっきの「私は、玉ねぎネ」という発言は、単に具の中で玉ねぎが一番好きという意味だったのかもしれない。


 さて材料を切り終えたら、だし汁とみりんを合わせたフライパンに鶏肉と玉ねぎを入れ、火に掛ける。

 冷たいうちから入れると、味がしっかり染みこむし、また、だしに肉の旨みがしっかりと引き出されていくそうだ。


(醤油は最後ネ。さしすせそ)

「すごい。料理教室みたいですね」


 日々無料レシピを比べ見ている俺からすれば、フォンさんの作り方は、切り方といい、下処理といい、調味料を入れる順番といい、きちんとルールに添っていて、丁寧だ。


 まるで志穂のような――つまり、調理学校で習うような、基本に忠実な作り方のような気がする。

 そう伝えると、フォンさんはちょっとくすぐったそうに笑った。


(日本の料理、本とか教室で、いっぱい勉強したからネ)


 外国人のほうがむしろ原則に忠実な日本語を話す、みたいな事象と同じことなのかもしれない。


 煮立った後、鶏肉を何度か裏返し、醤油を加えてさらに煮込んだ。

 五分ほどで鶏肉を取り出し、玉ねぎだけをさらに煮詰めるのがフォンさん流だという。

 ずっと鶏肉を入れっぱなしにしていると、固くなってしまうのだそうだ。


(鶏肉はふっくらしてるのがいい。でも私、玉ねぎはくったくたのが、好きネ)

「くったくた」

(そう。くったくた)


 言葉の響きが楽しいのか、フォンさんは節を付けて「くったくた」とくり返した。


 煮込むにつれ玉ねぎが透き通り、縦筋が浮き出し、いかにも甘辛そうな、ずっしりとした茶色に染まってゆく。

 その間にも、フォンさんはたくさんの話を披露してくれた。


 ヨウコさんの字は「陽子」と書くこと。

 小さい頃から頭がよく、大学も就職もすんなりと決めてしまい驚いたこと。

 都内にいたときは高給取りの会社でバリバリと働いて、気鋭のウェブデザイナーとして名を馳せたこと。


 彼女は何度も、「ゾウコは頭がいい」「頑張りざさん」「可愛い」「すごい」と熱心に訴え、そのたびにちゃっかりと、「私にそっくり」と締めくくった。俺は笑い返すに留めた。

 なんにせよ、仲の良さそうな親子で結構なことである。


 さて、玉ねぎが「くったくた」になったら、後は卵を流し入れるばかり。


 卵は一度に入れてしまってもいいが、一人分ずつ、食べる直前に仕上げをしたほうが美味しいという。

 そこで、練習を兼ねて、煮込んだ鶏肉と玉ねぎの半量を使い、俺のぶんを先に作ってもらうことにした。


 まずはフライパンに鶏肉を半量戻し、玉ねぎは半量抜き、具を一人ぶんにする。

 卵を二個ボウルに割り、混ぜるというよりは、白身を切る要領で、数回だけ箸を動かした。


「卵、全然混ざってませんけど、いいんですか?」

(混ぜすぎると、パサパサになる)


 フォンさんは「ここが大事」とばかり頷き、卵を注ぎ入れる前に丼にご飯をよそった。


(ここからは、一気に行くネ)

「は、はい!」


 まるで戦に臨む武将のようだ。


 宣言通り、フォンさんは真剣な顔でフライパンに向き直ると、卵を入れたボウルをさっと傾けた。

 途端に、混ざりきらなかった白身のほうが、黄身よりも先にぼとっと落ちてくる。

 塊になっている白身をさっと菜箸で広げ、うっすらと固まってきたところに、黄身を追撃させた。


(白身のほうが、固まるの、時間かかるネ。一緒に入れたら、黄身がパサパサになる。だから、なるべく白身を先に入れる)


 なるほど。

 たしかにフライパンの中では、白身と黄身に、いい塩梅で火が通りはじめている。

 フォンさんは素早く蓋をかぶせると、鍋肌に卵がくっつかないよう軽く揺すった。

 そうして、三十秒ほどでさっと蓋を外すと――。


「うわあ」


 ふわん、と湯気と一緒に立ち上った、甘辛い醤油の匂いに、俺は思わず小さく声を上げてしまった。


 オレンジ色の照明を跳ね返す、「くったくた」の玉ねぎや、柔らかそうな鶏肉、そして白身と黄身の入り交じった卵が、きらきらと輝かんばかりだ。


 よそってあったご飯に、手際よくフライパンの中身を注ぎ込むと、最後にフォンさんは、ボウルにわずかに残っていた黄身を掻き集め、丼の上に垂らした。

 すると、黄金色の卵液が、濡れた鶏肉や玉ねぎの上をとろりと流れ、もはや官能的と評していい光景になる。


 なるほどな、店で見る「とろとろの親子丼」っていうのは、事実とろとろの卵液を後から掛ければ実現できるのか。


 感心しきりの俺に、


(日本だからできる、生卵の技ネ。お店みたいって、昔ゾウコも褒めてくれた)


 フォンさんはそう言って笑った。


 と、「お店みたい」という言葉に、ふと気付く。

 彩りという観点からも完璧を目指すなら、小ネギを散らしたり、三つ葉を入れたりしたほうがよいのではないか。

 それを伝えると、フォンさんは「ああ」と気乗りしない様子で頷き、


(でも、三つ葉も、ネギも、入れたことないネ。めんどくさい)


 と肩を竦めた。

 たしかに、そういう「あしらい」を用意するのって、意外に面倒なんだよな。わかるぞ。

 俺だって葉っぱを率先して食べたいわけでもないし。


 本人がそう言うならいいか、と身を引きかけた俺だったが、そのとき、フォンさんがふと、調理台の端にあったものに目を留めた。


(ああ。これならいいネ)


 手に取ったのは、なんと先ほど俺が買っていたパクチーだ。


「え? 親子丼にパクチーですか?」

(ちょっとだけネ。うん、いい香り)


 驚く俺をよそに、フォンさんは先っぽの柔らかい部分を洗い、水気を切ってさっさと丼にあしらってしまった。


 パクチーと三つ葉はたしかに似ていて、一見、ものすごく本格的な親子丼に見える。

 だが、少し鼻を近付けてみると、甘辛い醤油の匂いと一緒に立ち上ってくるのは、あの特徴的なパクチーの香りで、そのギャップに思わず笑ってしまった。


「いいんですか、これで」

(うん。そういえば、家でも時々こうしてたネ。『()え』、『映え』)


 フォンさんは大らかに笑い、手で写真を撮る仕草をする。

 なんでもベトナムでは、日本以上にSNSが盛んで、皆しょっちゅう食事の内容を撮影しては、投稿しあっていたという。

 映え、という言葉選びの若さに、やはり俺は笑ってしまった。


 フォンさんが「食べてみて」と勧めてくれるので、厨房の丸椅子に掛け、ありがたく陽子さんに先んじることにする。

 箸で飯ごと大きく掬い取り、ごろりとした鶏肉、湯気を立てる卵ごと頬張り――。


「ほ……」


 口内でふわりと広がった熱と香気に、思わず変な声を漏らしてしまった。

 慌ててすぼめた口から湯気を逃し、火傷しないよう咀嚼してから、飲み下す。

 熱の塊がじわりと喉を下りていく感覚に、ついだらしなく口元が緩んだ。


 ああ。

 この手の、醤油とみりんで甘辛く煮付けた料理というのは、食べるとどうしてこんなにほっとしてしまうのか。


 ぷりっとした鶏肉の脂と、それがまとった黄金色の卵。

 くたくたになるまで煮込まれた玉ねぎを噛めば、たちまち甘じょっぱい汁気が迸る。


 純白だったご飯が、どんどん汁や卵を吸って、茶色っぽい色合いになっていく様も堪らない。

 ああ、茶色い食べ物って、しみじみ美味い。


 面白かったのは、パクチーを口にしたとき。

 ほんのりと甘さを持った、清々しい香りがぱっと広がり、主張の激しさに、少しびっくりしてしまう。

 親子丼らしいかと言えば、一気にエスニック方向に乖離していく感があるのだが、これはこれで爽やかでよかった。


 それにしても、鶏肉以上に、玉ねぎに染みこんだ甘辛さが嬉しくて、ご飯と一緒にどんどん掻き込んでしまう。

 あっという間に、丼は空になった。


「いやー、美味しい! これなら陽子さんも大喜び、間違いなしですよ!」

(そう? ありがとう。照れるネ)

「いやいや、本当に。こんな美味い親子丼をしょっちゅう食べてたなんて、陽子さんが羨ましいくらいだな」


 満腹にさせてもらったこともあり、調子よく告げると、しかしフォンさんは、ちょっと困ったように笑った。


(んー。でも、ゾウコ、私の料理、あんまり食べてくれなかったから)

「え?」


 落ち込んだ娘を案じて親子丼を振る舞おうとしている母と、母にそっくりだという娘。

 二人は、仲良し親子というわけではなかったのだろうか。


「それって」


 ――ガラガラッ。


 だが、俺が意図を問いただすよりも早く、店のドアが開いてしまう。

 陽子さんだ。

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神様の定食屋4
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