玉ねぎの本分(1)
11月15日、「神様の定食屋」4巻発売に感謝の気持ちを込めて、
1話を読み切りの形で公開させていただきます。
どうか楽しんでいただけますように。
ガラッ。カラカラ。
ガララララ。
定食屋「てしをや」の引き戸が、忙しく開閉をくり返すたびに、陽光に温められた春風がふんわりと流れ込んだ。
「いらっしゃいませー!」
「どうもありがとうございましたー!」
入る客と去る客とが、ひっきりなしに入れ替わる。
外はまだ少し肌寒いというのに、店内を走り回る俺は、軽く汗ばむほどだ。
一度に三人への配膳を済ませ、ついでにテーブルを拭いて厨房に戻ってきた俺は、妹の志穂がちょうど揚げ物の盛り付けを終えたのを見て、上機嫌に話しかけた。
「いやぁ、今日も繁盛、繁盛。ミニコミ誌の力ってのは、すごいよなあ」
「ね。まあ、一緒に載せたクーポンのおかげかもしれないけど。これをきっかけに、お客さんをしっかり掴めたらいいよね。――はい、南蛮二つと黒酢野菜一つ」
次から次へと降ってくる注文を捌いている志穂は、ひねくれた物言いで応じる。
だが、唇の端は楽しげに持ち上がっていて、この状況を楽しんでいることが伝わってきた。
俺もまた、「ほいよ」と付け合わせの野菜をあしらって、意気揚々と配膳作業に戻った。
「お待たせしました。チキン南蛮定食と、黒酢野菜定食、雑穀米です」
テーブルで待つのは、友人同士で楽しげに顔を寄せ合う女子大生たちだ。
新学期ならではの初々しさを漂わせた彼女たちは、呼びかけにぱっと振り向くと、口々に「はーい」とか「私でーす」などと答え、盆を受け取る。
皿の中身を覗き込むや、「わあ、美味しそう」と目を丸くし、きゃっきゃとはしゃぎ出す彼女たち。
華やいだ声は、そこだけでなく、あちこちのテーブルから聞こえた。
そう。
サラリーマン客が多かった「てしをや」だが、二ヶ月ほど前、近所の女子大が刊行しているミニコミ誌の取材を受けたところ、大学生客が急増したのだ。
べつに、相手が女の子だからといって鼻の下を伸ばすつもりはないのだが、配膳の際、にこにこしながら「ありがとうございまーす!」なんて語尾を上げられると、ついこちらも「ごゆっくりお召し上がりくださーい!」なんて、語尾を上げて返したくなってしまう。
お客さんが女性同士だと、「おいしい」「わあ」などと、料理に対してリアクションを示してくれることが多いし、しかも、クチコミの力で、本当に次から次へと、新規客を呼び込んでくれるのだ。
率直に言って、嬉しかったし、ありがたかった。
「すみませーん、お会計お願いします」
「お水もらっていいですかー?」
ただし、いちどきに客が増えすぎて、ここ最近は目の回る忙しさだというのが、難点といえば難点だが。
「あ、哲史さん! 私やります」
でも大丈夫。
春という新しい季節を迎えた「てしをや」には、この忙しさに向き合うための、新たな切り札があった。
「ありがとう、小春ちゃん」
「はい!」
明るい声で返事をしながら水を配り、迷いなくレジ作業を開始する、小柄な女性。
彼女こそがその切り札――春休みから「てしをや」にバイトとして加わった、西本小春であった。
小春ちゃんは、この近くにキャンパスを構える女子大の三年生。
まさにミニコミ誌で「てしをや」を知り、店内の張り紙を見てバイトを申し込んでくれたのだ。
大学の近くに下宿しているから時間に余裕があるということで、昼時の忙しい時間帯に週三日もシフトを入れてくれているし、飲食店バイト経験者ということで、新入りなのに、俺以上に動きに迷いがない。
明るい茶色に染めた髪を、ふわふわとおしゃれなポニーテールにまとめ、笑顔でせっせと動き回る彼女には、小動物めいた愛らしさがあって、早くも「てしをや」の新たな人気者になっていた。
「あっ、志穂さん。雑穀米、減りが速いみたいなので、よければ混ぜておきましょうか?」
「わあ、助かる! お願いできる?」
「はい!」
小春ちゃんがすごいのは、こちらが言う前に仕事を見つけ出して、控えめながら切り出してくれるところだ。
遅刻もしないし、常に笑みを絶やさない。
たった数日ですべてのメニューの盛り付けを覚えてしまったし、さらには真面目だ。
俺たちはなんの注意もしていないというのに、「接客業なので」とバイト中はピアスを外すほどの律儀さである。
志穂とは同い年のはずだが、しっかりとこちらを立ててくれるので、強気な志穂もストレスなく付き合えているようだった。より正直に、気の利かない兄の俺よりも頼りにしていると言っていい。
小春ちゃんは、手際よく会計を終えると、お客さんを見送りがてら、外にいた待機客に声を掛け、席に誘導し、お勧めメニューを明るい声で伝え、ついでに空いている皿のいくつかを下げ、さらには各テーブルの爪楊枝やメニュー表に不足がないかを確認してから、厨房へと戻ってきた。
本当に、なんて頼もしいのだろう。
「美味しいねー」
「うん、今度ほかの子も誘ってみようよ」
店は笑顔のお客さんで賑わっている。
内容にも満足してくれているようで――なにしろ志穂がこだわるので、「てしをや」の定食は赤・緑・黄の三色が揃った、いかにも栄養満点の見た目をしている――、幾人かはスマホを取り出して撮影までしていた。
こんなに好反応だと、いい気分になってしまうな。
今後は、女子大生のお客さんが写真に撮って、つい周囲に広めたくなるような、いわゆる「映え」を意識したメニューに挑戦してみてもいいかもしれない。
付け合わせの野菜をキャベツの千切りからカラフルなサラダにするとか、もう少し暑くなったら、タイ風とかベトナム風のメニューを取り入れてみるとか。
エスニックって、おしゃれだもんな。
志穂のやつは頭が固いから、「お父さんたちが守ってきた店の味を」とか「家庭料理にエスニックは合わない」だとか古風なことを言って反対するだろうか。
いやいや、あいつだって前に、裏メニューを作りたい、みたいなことを言っていたから、お客さんを喜ばせる試みは歓迎かもしれないぞ。
定食屋を継いで、一年半。
業務が回せるようになると、手を動かしながら考えごとだってできるようになる。
俺は、延々とやって来るお客さんを次々に捌きながら、心身ともに余裕を残した状態で昼の部、そして夜の部の営業を終えた。
***
がろん、がろん。
夜の境内に、鈴の優しく籠もった音が響いた。
四月も後半となると、夜風はぬるく緩んで、体の輪郭が曖昧になるような、内側にあったものがふと外に溢れ出しそうな、不思議な高揚を覚える。
どこか落ち着かない所作で、二礼二拍手までを済ませた俺は、両手を合わせたまま御堂を見つめ、へらりと笑み崩れた。
「いやあ、春ですねえ」
いまだ御堂は光らず、神様が聞いているかどうかはわからない。
だが、頬に浴びる夜風は柔らかく、月はおぼろに霞み、店の客入りは今日だって大満足。
目立ったミスもなく業務を終え、俺は非常にいい気分だった。
しかも今日は、あまり筆まめではない彼女の夏美からも、三回もメッセージが届いた。
女性客に受けるような、エスニックメニューを考えたいんだけどどうだろう、と相談したら、珍しくすぐに返事が来たのだ。
内容は、「うーん、『てしをや』でエスニックはしなくてもいいんじゃない?」と否定的なものだったので、一瞬落ち込んだが、その後に続いた「浮気はだめっ」と、アルパカが×マークを作っているスタンプを見て、気分が急浮上した。
夏美が恋愛感情を表現することは少ないけれど、でもだからこそ、やきもちを愛らしく伝えるスタンプを彼女が持っていて、しかも使うことがあるんだと思うと、「ほぉ~」と言いたくなる。
ほぉ~。
その後、俺があえて反論を無視して、「ベトナム風かな、それともタイ風かな」と送れば、夏美は律儀に「話聞けー!」と突っ込んでくれるし、「あまり辛くないほうがいいとは思うんだけど」すっとぼければ、諦めたように「それはそう」と返してくれる。
嬉しくなった俺は、調子に乗って閉店間際のスーパーでパクチーとベトナム産輸入ビールを購入し、神社に足を伸ばしてしまった、というわけだった。
ナンプラーみたいに、使いきるのに時間が掛かるものを許可なく買ったら、志穂に怒られてしまうだろうが、ビールとパクチーなら、たぶん俺一人で胃袋に収められるだろう。
後で写真に撮って夏美に送ったら、いったいどんな突っ込みが来るだろうか。
「じゃーん、見てくださいよ。見たことあります、これ? パクチーって言うんですけど。いや、さすがに剥き出しで神社にパクチー供えるのは変か。ビールならいいかな」
がさがさとビニール袋を揺らし、二本買った缶ビールのうち、一本を賽銭箱横に供える。
艶やかな緑色の缶が、春の夜気をまとって、しっとりと汗をかきはじめる――そんなささやかな光景まで、なぜだかこの上ない情趣を湛えているように思えて、俺は柄にもなく、しみじみと月を見上げた。
「春だなぁ」
店は繁盛。
人間関係は良好。
空には満月。
夜気は、足が一センチだけ地上から浮いてしまうような、妙な温かさを含んでいる。
まさに、春。
「満ち足りてる……俺の人生、今が満月。なんかもう、藤原道長の気持ち、わかるぜ」
ふっと笑い、思いつく中で最も教養深い独白を決めた、その時だ。
――たわけ。
ぼうっと御堂が光った。
「神様!」
そう、もはやおなじみ、神様の登場だ。
といっても、声だけだが。
最近は店が忙しかったせいで、神社に詣でる頻度が落ちており、また神様のほうも、気まぐれに現れたり現れなかったりするので、声を聞くのは、かれこれ二ヶ月ぶりになるだろうか。
感覚としては、出張続きだった常連客が久々に店にやって来てくれたときの喜び、というのに近い。
俺はビニール袋からいそいそと自分の缶ビールを取り出し、賽銭箱脇に置いたもう一本に、こつんと軽くぶつけた。
乾杯の代わりだ。
「お久しぶりじゃないですか。さては、このビールに釣られて出てきたんでしょう」
――おまえときたら、すぐに神を飲んだくれのように……。だが初めて見る缶だ。外国のものか。
ほらね。
ベトナム産ビールに神様が興味津々なのを悟って、ほくそ笑みそうになってしまう。
自分が日本酒党だから、つい日本酒を供えがちだけど、たまにはこうしてほかの酒を供えたほうが、マンネリ解消にはよいのかもしれない。
センスを褒められたような気のした俺は、得意になってビールを勧め、ついでに、最近店に女子大生のお客さんが増えたことや、おしゃれなエスニックメニューを検討していることなどを説明した。
――ほう。エスニックとなあ。
「そうなんですよ。なにしろ今、『てしをや』は、新たなる季節を迎えたわけですから。この新規客をがっちり逃がさないようにしないと。若い女性も気軽に訪れられる、ちょっとおしゃれな定食屋。いいと思うんですよねえ」
神様がふむふむと聞いてくれるので、ますます気分が乗ってきてしまった。
「神様にも会えたし、挑戦したいこともある。なんか今、すごく乗ってる気がするな。これぞ、望月の心地ってやつですよ。この世の春!」
――望月の歌が詠まれたのは秋だし、月はいずれ欠けるがな。
こちらが上機嫌に両手を広げるのとは裏腹に、神様は意地悪く混ぜ返す。
だが、すっかり浮かれ気分だった俺は、優しい笑みを浮かべて、それを受け流してやることにした。
「神様の塩対応も、見逃して差し上げましょう。なにせ今の俺は満ち足りていますからね。人を穏やかにし、他者に手を差し伸べさせる季節。それが春ですよ」
――春というのは、命が蠢きはじめるからこそ、不穏なことも起こるのだがなあ。
したり顔の俺に、神様はなんとなく釈然としない様子だったが、「まあよい」と気持ちを切り替える素振りを見せた。
――おまえがそんなに他者に手を差し伸べたいと言うなら、差し伸べさせてやろうではないか。
「え」
にわかに風向きが変わったのを、敏感に察する。
そうとも。神様との付き合いも、はや一年半。
ちょっとした隙や失言を拾い上げては、流れるように魂を憑依させようとする相手のやり口を、俺は熟知していた。
「さーて、今日はもう帰ろうかな。パクチーを使った料理の研究もしたいし。うん」
べつに協力するのにやぶさかではないが、今夜はもう少し、この浮かれ気分を楽しんでいたかった。
鳥居に向かって、くるりと踵を返したのだったが、
――まあ待て。食材とにらめっこするばかりが料理の研究というわけでもあるまい。先達から実地で使い方を学ぶ、そうした方法も有益とは思わんか。
時すでに遅く、鳥居の下には白い靄が凝りはじめていた。
出たよ!
「何度も言うんですけどね。べつに頼られるのはいやじゃないですけど、もう少し事前にお伺いというか、前振りみたいなのを、してくれないもんですかね?」
――したではないか。
「はい?」
靄はどんどん濃度を増して、次第に人型をまとってゆく。
服や肌ごとに質感が区別されていき、やがて、彫像に内側から絵の具を流し込んだかのように、じわりと色が広がっていった。
今回は、どっしりとした体つきの女性だ。
足に張り付くタイプのジーンズに、薄手のトップスを身に付けている。
服装は若々しいが、年は――六十かそこらだろうか。
おばあさんと呼ぶには少々若すぎる、溌剌とした印象のおばちゃんである。
明るめの茶色に染めた髪と、厚めの唇。少し彫りの深い顔立ちに――ん?
夜目にはわかりにくいが、ずいぶんと日焼けしているような。
『こんばんワ。お世話になりますネ。私、フォンです。藤岡フォン。ベトナム出身ネ』
「ベトナム人ー!?」
エコーの掛かった声で、にこやかに挨拶を寄越したフォンさんに、俺は思わず叫んでしまった。
考えてみれば、すでにフランス人のジルさんという前例もあるわけだが、いやしかし、ベトナムってたしか仏教国ではなかったか。
神社を構える神様が、キリスト教徒やら仏教徒やらにほいほいと手を貸してよいのだろうか。
「こ、これが、グローバル社会……? あ、この神社は元々寺だったから?」
『あっ、それ、ベトナムのビールですネ。私も好き。パクチー、なんで持っていますか?』
戸惑う俺をよそに、フォンさんは人なつっこい様子でしげしげと俺の荷物を見回し、首を傾げる。
ついで、俺の答えも待たずにあっさりと疑問を手放すと、『さて』と両手を広げた。
『お願いしますネ!』
「えええ!」
総じて展開が早いぞ!
「えっ、でもあの、心の準備が! というより、食材の準備も!」
言葉が通じるのはありがたいが、フォンさんが未練を晴らすための一品がベトナム料理だったら、材料を手に入れるのも大変そうだ。
ベトナム料理といったら、やはりフォー? あとは、ナンプラー? 店にそんなの置いてないぞ。
どうしよう、スーパーはさっき閉店してしまったのに。
『大丈夫、大丈夫』
「えっ、でも」
フォンさんは、後ずさる俺にぐいぐいと近付く。
――ふわん。
次の瞬間、優しく籠もった音が境内に響いた。
(おお、これがフュージョンですネ! 背、高いですネ!)
視界が変わったのが興味深いらしく、フォンさんはきゃっきゃと声を上げている。
興奮でか、ベトナム語でまくし立てるが、残念ながら俺には彼女がなにを言っているのかわからなかった。
まごまごとしていると、フォンさんはなにもかも心得たような笑みを浮かべ、俺の手を使ってぐっと拳を握った。
(大丈夫。私に任せるネ)
もう敬語も取れはじめている。
一息に距離を詰めてくるフォンさんに、こちらは遠い目をして満月を仰ぐばかりだ。
「思うんですけど、回を重ねるごとに、合意形成というか、前振りが雑になってきていませんか」
――なにを言う。
ぼやきに対して、神様は片方の眉でも引き上げていそうな口調で応じる。
――パクチーの使い方を学びたい。おまえのほうから、それは丁寧な前振りをしてきただろう?
俺ががくりと項垂れると、パクチーを突っ込んでいたスーパーの袋が、がさりと軽い音を立てた。