肉じゃがか、カレーか(後)
「へえ。感じのいいお店だね。まさか哲史が定食屋なんて、ほんと意外」
カウンターの一席に通された夏美は、バッグを置くや、出会ったときそのままの、愛想のいい笑みを浮かべて話し出した。
「私、この辺は滅多に通らないんだけど、今日はたまたま近くで人と会っててさ。夕飯食べ損ねて、お腹ぺこぺこー、って思ってたら、急にいい匂いがしたもんだから、つい立ち止まっちゃったの。だから、狙ったわけじゃないんだ、ほんとに」
ハキハキと話す夏美は、この状況になんら物怖じしていないように見える。
だが、手を伸ばされないままゆっくり冷えていくおしぼりや、時々くしゃりと潰すようにして掻き上げられる髪が、彼女の緊張を物語っていた。
「知らなかったよ、哲史がここで働いてたなんて。だって、その」
やがて、静まり返った空間で、一人まくし立てる状況に心折れたのか、夏美が諦めたように目を伏せる。
「……元気だった?」
「うん」
俺もまた、なんと声を掛けていいものかわからず、短く頷くのが精一杯だった。
(もー、せっかく再会したなら、もっと和気藹々と話せばいいのに。というか、そういうことなんだよね? やっぱり、みーちゃんのカレって、しーくんだったんだよね?)
そんな中、脳内の亜紀さんだけが、目を輝かせる勢いではしゃいでいる。
執拗に好みや付き合い遍歴を確認していたのは、彼女なりに俺の正体を照合しようとしていたからなのだと、このときになって俺はようやく思い至った。
(ほらほら、沈黙が痛々しいよ。なにか話して。一年ぶりでしょう? 変化はたくさんあるじゃない。髪型とか服装とか体型とか。それにほら、みーちゃん、お腹空いてるって)
亜紀さんに急かされ、慌てて漬物の乗った小皿を差し出す。
定食に添える漬物を、夜営業の際には先付けとして出しているのだ。
皿の立てる、こと、という小さな音が、一層店内の静寂を際立たせるような気がして、俺は焦りながら会話の糸口を探った。
「これ、ひとまずつまみ代わりに。ええと……髪、伸びたな。それに、痩せた?」
「ああ、うん。まあねー」
だが気のせいか、夏美の笑みは一層ぎこちなくなったように見えた。
「それと……そういう格好、するんだな。その……スカートっていうか、可愛い系の」
「はは。お嬢様チックで笑えるでしょ」
「いや。笑えるとかじゃ、全然」
実際夏美は、可愛かった。
以前の彼女は、動きやすさ重視のジーンズやショートパンツ、そうでなければ、スエットのような服を好んで着ていたし、髪も短く、ほぼすっぴんで、どこか少年のようだった。
それが今や、肩まで伸ばした髪を下ろし、白いニットとふわふわしたスカートをまとい、淡い色の口紅を塗っているのである。
おしとやかな雰囲気は亜紀さんそっくりで、つまりそれは、好みか好みじゃないかで言えば、俺のタイプど真ん中なわけで。
先ほどから俺は、これは本当に夏美なのかと違和感を抱きながらも、どぎまぎとしていたのであった。
「意外だけど……ええと、可愛い、んじゃないのかな」
勇気を振り絞って告げると、しかし彼女は、なぜか恥じるようにして再びくしゃりと髪を押しつぶす。
そして、唐突に席を立った。
「ごめん。そういえば今日、持ち合わせが全然ないんだった。日を改めるね」
「えっ! い、いや、大丈夫!」
このままでは彼女は、俺の前から永遠に去ってしまう。
それを悟った俺は、亜紀さんが、(嘘だよ。しーくん止めて!)と指示を出すよりも早く、本能的にカウンターに身を乗り出していた。
「実はもう、閉店してて。カレーを……明日のカレーを、仕込んでただけなんだ。だから、カレーなら、タダでいいから。試食してってくれないかな。そう、味見」
自分でも強引だと思う説明だ。
案の定、夏美は戸惑ったように笑い、首を振った。
「それでも悪いよ。それにほら、今日私、白い服着てるし、カレーはちょっと」
「あ、洗えばいいじゃん! うち、シミ抜き用の洗剤とか炭酸水とかも用意してるし!」
必死すぎてドン引きされやしないかと、我ながら心配だ。
いっそ泣きたいと思いながら、俺は思いつく言葉を次々ぶつけた。
「よくいる、よくいるんだよ、カレー飛ばしちゃうお客さん! だから俺、シミ抜き得意で。むしろ披露したい。どんなシミだって、俺が華麗に抜いてやるから! カレーだけに!」
カレーだけに。
俺はなにを言ってるんだ?
決まりの悪さに、耳の端が熱くなる。
しかし俺が、「すんませんでした今の全部忘れて帰ってください」と土下座するよりも早く、なぜか夏美は足を止めた。
「……ほんと?」
痛みを堪えるように微笑んだ彼女が、いったい俺の発言の何に反応したかはわからない。
だが夏美は、小さな、縋るような声で、
「じゃあ、……ちょっとだけ、頂いてこう、かな」
と呟き、おずおずと、席に戻ったのだった。
***
楕円形の、少しざらりとした陶器皿に、炊きたてのご飯を盛り付ける。
少し空けておいた右側のスペースに、そっとカレーを注ぎ込めば、完成だ。
(私にもやらせて)
亜紀さんが上機嫌に言うので、一度体を委ねると、彼女は丁寧な手付きでカレーをすくい、なぜかにんじんを一つだけ、白米とカレーの境目に移動させた。
(うん、いい感じ)
でこぼことしたにんじんが、やけに目立つのは気になったが、これで完成らしい。
「めしあがれ」
誇らしげな亜紀さんに代わって、レモン水と一緒にカレー皿を差し出す。
食欲をくすぐるスパイスの香りが、白い湯気となってふんわりと一面に漂ったが、夏美はカレー皿を見つめるだけで、スプーンに手を伸ばそうともしなかった。
「――……これ」
やがて、彼女はぽつんと問うた。
「このにんじん、なに?」
視線の先にあったのは、でこぼこな岩石のような形に刻まれたにんじんだった。
なに、というのは、正体を問われているのだろうか。
それとも、意図を?
「ええと、これは」
(見ての通り、お星様だよ。茶色い大地に降り立った、輝ける地上の星だよ)
言いよどんでいると、脳裏の亜紀さんが神妙に答えるので、思わず「えっ」と声が漏れそうになる。
いや……、道理でにんじんを切るとき、こまこまと包丁を動かしていたとは思っていたが、まさかこれが、星を象っていたつもりだったとは。
もしや「盛り付けに籠もる亜紀さんらしさ」とは、このことだったのか。
「ほ……星」
(ただの星じゃないよ。茶色い大地に降り立った、輝ける地上の星だよ)
「茶色い大地に降り立った、輝ける地上の星」
苦虫を噛みつぶした顔で復唱する。
笑ってくれたらいい。
せめて、「は?」とツッコミを入れてくれたらいい。
だが実際にはそのどちらとも違って、夏美は静かに、息を呑んだ。
「……なにそれ」
ぎこちない笑みを浮かべて、スプーンを握る。
それから彼女は、ゆっくりと、なにかを恐れるように、カレーを口にした。
もぐもぐ、と、引き結んだ唇が動く。
その内側では、豊かな味わいと熱が、みるみる広がっているに違いないと俺は思った。
とろりと舌を滑るカレー。
茶色のそれに触れた途端、爽やかなスパイスと、香ばしいにんにくの香りが、鼻まですっと駆け抜けていく。
くたくたに煮込まれた玉ねぎは歯先でとろけ、にんじんはほんのりと甘い。
ほくほくしたじゃがいもは、舌の上で転がさなくてはいけないほど熱くて、角切り肉は噛むたびに、じゅわりと塩気と脂を滲ませるだろう。
いくらでも白飯を掻き込める、誰もが愛する味。
なのに夏美は、最初の一口を飲み込んだ後、いつまでも動かなかった。
いいや、よく見ればその手は震え、口に含んだままのスプーンが、カチカチと小さな音を立てていた。
「――……っ、…………」
涙がこぼれるのを防ぐように、夏美がぎっと皿を睨みつける。
彼女はスプーンをなんとか引き抜き、素早くおしぼりで目元を拭ったが、すぐにまた涙が溢れてしまったのか、そのままおしぼりに顔を埋めた。
「――……はは。ごめん。……辛くて」
嗚咽を押し殺すあまり、声が震えている。
それでも彼女は、ずっと鼻を啜り上げ、俯いたまま強がりを口にした。
「か、辛すぎて、涙出てきちゃった」
ルーは二つとも辛口ではなかったし、そもそも、夏美は大の激辛好きだったはずだ。
自分でも無理があるとわかっているのか、それ以上嘘は重ねず、夏美はただ、肩を震わせ続けた。
肩を滑る長い髪に、薄い肩。
白い服に身を包んだ彼女は、俺の知らない、弱々しい女の子のようだった。
(ああ、みーちゃん。どうしよう、泣かないで……)
頭の中で、亜紀さんが困り果てた声を上げている。
俺もまた、夏美が打ち震える様子を見ていられなくて、気付けば話しかけていた。
「……いったい、どうしたんだよ」
もしかしたら少し、拗ねたような声になってしまっていたかもしれない。
「夏美。どうしちゃったんだよ。そんな……弱々しくなっちまって」
そう。
夏美は、一年前より、痩せていた。
長く伸ばした髪や、ふんわりした白いスカートは、ほっそりとした体と相まって、たしかに可愛らしいと思うのに、俺はどうしても、それが夏美らしい姿とは思えなかったのだ。
「カレー、好きだったじゃん。辛いもの好きで、刺激ばっか求めてて、うまいもん食ったら、大声で『うまーっ』って笑うやつだったのに。……誰かに合わせて、無理してんの?」
もしや、新しい男と付き合って、そいつの望む格好をしているのだろうか。
そいつの望む振る舞いを目指しているのだろうか。
(違うよ)
だがそのとき、亜紀さんがゆっくりと首を振る。
(私のせいなの)
ひどく、悲しげな声だった。
え、と思うのと同時に、俯いていた夏美が、「弱々しい、かあ」と呟く。
涙にくぐもった声は、自嘲の響きに満ちていた。
ひんやりとした室内に、くねるようにして揺れる白い湯気。
針の落ちる音さえ聞こえそうな、静まり返った空間。
あとは――神様の計らい。
それらに背中を押されるようにして、やがて夏美は、おしぼりからふらりと顔を上げた。
「急に泣いちゃったのは、思い出したからで……」
説明しようとして、だが言いよどみ、再び口を閉ざす。
しばし視線をさまよわせ、「どこから話そうかな」と呟いた後、夏美は覚悟を決めたように、まっすぐ俺の顔を見つめた。
「去年はいきなり、ごめんね。あの日、いきなり哲史に、別れを切り出したのは――」
はっきりとした、口調。
だがすぐに、力強さは溶けるようにして消え、夏美はくしゃりと髪を押しつぶす。
「切り出したのは、お……お姉ちゃんが、死んだからなの」
お姉ちゃん、と口にするとき、彼女は喉を震わせ、堪らずといった様子で口を覆った。
「私の、二個上の、お姉ちゃん。去年、バレエ公演の最中に、火災があって……それに巻き込まれて、死……、死んじゃったの」
知らなかったし、知っていた。
この複雑な状況を説明できるはずもなく、俺は軽く俯き、ただ耳を傾ける。
彼女が何度も言葉を詰まらせながら話したのは、こんな内容だった。
夏美には、二歳年上の姉、亜紀さんがいた。
跳ねっ返りの妹とは異なり、いつも穏やかだった姉。
淑やかで素直な彼女は両親のお気に入りで、親の望むままの進路を辿り、親の営む会社に就職した。
自慢の娘だと、親はしきりと亜紀さんを褒め称えた。
一方の夏美は、幼少時からお転婆で、両親の手を患わせてばかりいた。
母親がそれなりの名家の出とかで、「女は淑やかに、上品に」と何度も叱られたが、そのたびに反発し、元来の活発な性質を強めていった。
大学でヒップホップに興味を持ち、就活の時期までサークルの友達と練習漬けの日々を送っていると、「そんな下品な遊びをしていないで、まじめに勉強しなさい」と叱られた。
亜紀さん同様、親の会社で事務員となることを迫られたという。
「私もね、べつにダンサーの夢だけ追いかけてたわけじゃなくて、インストラクターの仕事に就いて生計を、って考えてて。そこを頭ごなしに強制されて、こっちも強く断ったら、すっかり実家から、足が遠のいちゃった」
俺が知る夏美の職業は、ジムのインストラクターだ。
一人暮らしを始めると、両親とはすっかり没交渉になった。
ただ、穏やかで自然体の亜紀さんとだけは、どんな時期でも仲がよく、連絡を取り合っていた。
「それで、去年の今頃、お姉ちゃんに言われて渋々親に電話したら……年末は帰省するのか、みたいな話から、また大喧嘩して。いよいよ絶縁されかけたのね。そうしたら、お姉ちゃんがある日いきなり、……バレエのチケットを送ってきて」
せっかく滑らかさを取り戻しかけていた口調が、再び途切れがちになる。
夏美は何度も瞬きをして、カレー皿から目を逸らした。
「どういうつもり、って聞いたら、もうすぐお母さんの誕生日だから、二人でバレエでも見てきたら、って言うの。わかり合えるかもしれないでしょ、って。要は、喧嘩の仲裁」
お姉ちゃんって優しいからさ、と笑おうとしたようだが、笑みは途中で歪んでしまった。
鼻の頭が、赤く染まっていた。
「でも、そのとき私、感謝するどころか、……お、怒っちゃったの。なにそれ、って。『お姉ちゃんも、お母さんも、全然わかってない。全然、わかってない』……」
チケットは、コンテンポラリーダンスでも、モダンバレエですらなく、クラシックバレエのものだった。
夏美はそれを見てむしろ、「伝統的な芸術しか認めない」と突き付けられたように感じた。
自分と、自分以外の三人は、やはり住む世界が違うのだと。
だから夏美は、「母親と一緒に観るなんてごめんだ」と、チケットを姉に突き返した。
「そしたらお姉ちゃんが次の日、『お母さんも行かないそうだし、せっかく評判のいい演目だから、夏美だけでも行ってみたら』って言ったの。お母さんも来ないって聞いたら、私は……なんでかな、ショックで。怒鳴っちゃった。ならお姉ちゃんが行きなよ! って」
黒々とした瞳に、じわりと涙が滲む。
それで、と声を震わせる、夏美の話の続きを、俺はもう知っていた。
亜紀さんは代わりにバレエを鑑賞し、そこで火事に巻き込まれて亡くなったのだ。
「わ……私の、せいなの」
すっかり赤らんだ頬の上を、透明な涙がぽろりと流れ落ちてゆく。
「私が行くはずの、席に、座っていたせいで。お姉ちゃんは死んだ」
(違うよ、みーちゃん)
頭の中で、静かな亜紀さんの声が響く。
だが空気を震わせないその言葉は、次々と涙を溢れさせる夏美には届かなかった。
「お姉ちゃんに、観に行く理由なんて、なかったのに。私が、行けって言ったから」
(違う)
「せめて、一緒に行ってたら……ううん。私が、死ねばよかった」
(違うよ、みーちゃん)
一向に聞き届けられぬ言葉に、亜紀さんもまた、徐々に声を湿らせてゆく。
(そんなこと、言わないでよ……)
夏美はとうとう両手で顔を覆い、大きくしゃくり上げた。
その拍子に、はらりと黒髪が肩を滑ると、真っ赤な目でそれを見つめる。
「……その日から、髪を伸ばしはじめたの」
消え入りそうな声に、俺ははっと顔を上げた。
服装。
髪型。
すっかり華奢になった夏美をまじまじと見つめ、この一年、彼女がなにをしようとしていたのかを、今さらながらに理解したからだった。
「色も変えた。元の服は、全部捨てた。親の会社に、転職した。私……消えちゃいたかった。『佐藤夏美』も、それを知っている人も、全部消しちゃいたかったの」
髪を強く握り締めながら、夏美はぼろぼろと涙を流す。
彼女は、俺を含めた「佐藤夏美」の世界を全部断ち切って、――亜紀さんに、成り代わろうとしていたのだ。
「そんなこと……」
「馬鹿げてるよね。わかってる。でも、そうでもしないと、生きていけないと思ったの。申し訳なくて、苦しくて……親が望んだお姉ちゃんじゃなく、私が生きていくなんて」
両親は、姉の言動をなぞる夏美を見るたびに、複雑そうな顔をしたが、結局止めはしなかったそうだ。
おそらく彼らも、喪失感を埋めるのに必死だったのだろう。
演者も観客も、偽りだとわかりきっている芝居。
破綻がすぐ後ろまで迫っているからこそ、誰もが必死にそこから視線を逸らした。
折れた骨が歪んだ形のまま定着してしまうように、夏美たちの生活は、徐々に奇妙な安定を見せていく。
両親との仲はすっかり良好になり、すると母親は、夏美に見合いを勧めたそうだ。
それがちょうど、今日だった。
「み、見合い!?」
「うん……。いや、紹介、って言う方が近いかな。二人で食事だけ、してきなさいって」
ぎょっと目を剥いた俺に、夏美が鼻を啜りながらもごもごと答える。
互いの顔を確かめるだけの「食事会」。
やって来た男性は、たしかに母の紹介だけあって、品がよく、穏やかな人物だった。
静かな会話。
優しい物腰。
店も予約してくれていて、自分は付いて行くだけでよかった。
けれど彼は、夏美がメイン料理を注文しようとすると、何度も口を出してきたという。
トマト煮込みは論外。
脂が跳ねるから、ステーキもだめ。
匂いが強い料理も品がない。
カレーソースなんて、まずありえない。
だって、女の子が、それもそんな白い服を汚しては、みっともないじゃないか――。
「その瞬間、なんか……無理だーって思っちゃって」
(それは私も無理だなぁ)
静かに話を聞いていた亜紀さんが、しみじみと呟く。
やはりその声は届かなかったので、夏美は、親に叱られた子どものように、しょんぼりと肩を落とした。
「お店では全然食べられずじまい。お腹が空いて、早くご飯を食べたいなって思って……でも、家には帰りたくなくて。ふらっと電車を降りて、ぶらついてたら、ここに来てた」
秋の夜は寒かった。
腹は倒れそうなほど空いていた。
帰りたい。
でも、どこへ?
いまだに足に馴染まないヒールを引きずり、底冷えのするスカートの裾をひらめかせ、とぼとぼと夜道を歩く。
するとそのとき、突然、懐かしいカレーの匂いがした。
郷愁を誘う、あの匂い。
夏美は導かれるように、この店へとやって来た。
「そうしたら、哲史が現れて、カレーを食べてけって、言うでしょ? 白い服だからって断ったら、シミ抜きしてやる、なんて」
軽い口調を取り繕おうとしているのに、夏美の笑みは、不格好になってしまっていた。
「しかも、このカレーがね。お姉ちゃんが作ってくれたのに、そっくりなの。にんにくで炒めた野菜を、酒で蒸した、ちょっと和風のカレー。一度私が教えたら、お姉ちゃん、律儀に、毎回そうしてくれてて。……毎回、へたくそな星が乗ってて」
毎回だった、と、夏美は震える声で付け足した。
「親と喧嘩したとき。家に帰りたくないな、っていうとき。家の前で立ち止まっちゃう日に限って、なぜか毎回、お姉ちゃんは、カレーを作って、待っててくれてたの。だから、匂いにつられて、私は家に帰れた。親とも話せた」
香ばしいにんにくや、こんがりと焼き目を付けた肉の匂い。
酒に蒸されて、とろとろになった野菜や、何よりあの、食欲をくすぐるカレーの匂いが、夏美を家に導いた。
「お姉ちゃんが……私にとっての、帰れる家だった」
つ、と一筋、涙が頬を伝う。
夏美はぐいと乱暴にそれを拭い取ると、強引に口の端を持ち上げた。
「……だから、私、もっと、ちゃんとしなきゃね」
え、と思ったのは、そのときだ。
「こんな巡り合わせ、そうないもん。きっとお姉ちゃんが、私を励ましてくれたんだと思う。ここで怖じ気づいてどうする、家庭に入って、ちゃんとしなさい、って」
(え?)
頭の中でも、亜紀さんが愕然とした気配がする。
俺も思わず天を仰ぎそうになった。
「息苦しくて無理、なんて言ってる場合じゃないよね。私……ちゃんと、お姉ちゃんのぶんまで、生きないと。お姉ちゃんみたいに、きちんと」
そうじゃないだろう!
叶うなら俺は、カウンターを飛び越えて、夏美の肩を揺さぶってやりたかった。
そうじゃない。
そんなはずがない。
妹を「活発で魅力的」と評する亜紀さんが、夏美にこれ以上の無理を求めるはずがない。
筋違いな罪悪感に押しつぶされて、自分らしさをそぎ落としてまで、必死に「姉」に成り代わろうとする――亜紀さんは、そんな夏美をこそ止めたいと思ったに違いないのに。
「夏美――」
(しーくん)
だが、俺が口を開くより早く、脳内の亜紀さんが切り出した。
(悪いけど、こう伝えてくれない?)
俺の拳が、強く握り締められている。
亜紀さんと一体となった俺の体は、かっと腹のあたりから熱を帯び、突き上げるような衝動は、喉を震わせるほどだった。
(こんの、――馬鹿!)
普段おっとりと話す亜紀さんの怒号は、俺の鼓膜を内側から揺さぶるほどの激しさだ。
(なに考えてるのよ! みーちゃんはみーちゃんでしょ!? 死んだ人間は今さら戻らない。佐藤夏美を、途中から佐藤亜紀にすることなんてできない。どうしてわからないの!)
じわりと涙が滲む。
それは、亜紀さんが初めて見せた激情だった。
鼻がつんとする。
喉が痛んで、奥歯に力が籠もる。
亜紀さんは、怒り、悲しんでいた。
(材料は同じでも、カレーを今さら肉じゃがになんかできっこないよ! 私、そう言ったでしょ!?)
早く伝えて。
急いた口調で言われ、俺は耳に一番残った台詞を、慌てて伝える。
「夏美。材料は同じでも、カレーを今さら、肉じゃがにすることなんかできないよ」
言い切ってから、我ながらなんて唐突だろうと思い、付け足した。
「……って、昔、ある人が言ってて。それを今、思い出して」
だが、不自然さを警戒する必要はなかったようだ。
亜紀さんの不思議な啖呵を聞いた途端、夏美ははっと顔を上げ、食い入るようにこちらを見つめていた。
やがて、小さく開いた口が、掠れた声を紡ぎ出した。
「――……それ、誰が言ってたの?」
この機会を逃してはならない。
俺は頭を捻り、なんとか話の辻褄を合わせた。
「亜紀さん。佐藤亜紀さん。去年の今ごろこの店に来て、話が弾んで……。俺がカレーの作り方に悩んでたら、このレシピを教えてくれた。妹から教わった作り方なのよ、って。ごめん、よくある名字だったから、夏美のお姉さんだったってことに、今気付いたんだ」
「…………」
夏美の目が、大きく見開かれる。黒々とした瞳が、見る間に涙で潤んだ。
(ありがとう、しーくん。それで、こう言ってくれる? 「カレーと肉じゃがじゃ、材料の切り方も違う。味付けを変えればいいってもんじゃない」って。「私は、みーちゃんのカレーが大好きだった」って)
「亜紀さんは言ってた。カレーと肉じゃがじゃ、材料の切り方も違う。味付けを変えればいいってもんじゃない、って」
亜紀さんは夏美のカレーが、と伝える前に、俺は口をつぐむ羽目になった。
夏美が、これまでとは比べものにならない勢いで、涙をこぼしはじめたからだ。
「――……そう、言って、たの……っ?」
「あ、ああ」
頷くと、夏美は子どものようにくしゃくしゃに顔を歪め、両手で顔を覆った。
お姉ちゃん。
子犬がひんと鳴くような、嗚咽まみれの声だった。
「……なにか、特別な意味のある言葉だったのか?」
尋ねると、夏美は肩を震わせたまま、小さく頷く。
は、は、と息を吐き出しながら、途切れ途切れに答えた。
「む、昔……、私が、親に、ご、ご飯……カレーを、作ろうと、したとき。親が途中で、そんなの嫌だ、肉じゃがにでも、変えろって、言ってきて」
(みーちゃんね、小さい頃は、親に気に入られたくて、必死だったの。ご飯を作ったりして。でも……私たちの親って、遠慮がない人で。今日は炊き込みご飯をもらっちゃったから、カレーなんて作られても困る、って言うのよ。十歳の子が、一生懸命料理してたのに)
妹の言葉足らずの説明を、亜紀さんが補う。
静かな怒りと、悲しみを湛えた声だった。
(私ならその時点で、鍋ごとゴミ箱に突っ込んだと思うんだけど、みーちゃんは、慌ててお醤油を探してた。もう煮てるのに。肉じゃがにしなきゃ、って、泣きながら)
「私……、悲しかったけど、肉じゃがにしようと、した。そうしたら、お姉ちゃんが」
(だから私、横からルーを放り込んじゃった。家中のルーを掻き集めて、銘柄問わず、手当たり次第。それで親に言ってやったの)
「『無理無理、もうカレーでーす』って、言ったの。『今さら、肉じゃがになんか、なれませーん』って。にこにこしながら、きっぱり。わ、私の、代わりに、言ってくれた」
涙がぼろぼろと、白い頬を滑り落ちる。
きれいに塗った化粧は、すっかり剥げてしまったが、感情をむき出しにする彼女を見て、俺は、ああ、夏美だと思った。
「それで、二人で……カレーのまま、食べた。普段、お上品な和食しか出ない、家なのに、お姉ちゃん、ルーを入れすぎの、味の濃すぎるカレーを、全部食べて……、『みーちゃんのカレー、美味しい』って、言ってくれたの」
(だって、美味しかったもの)
亜紀さんが小さく笑う。
ただし彼女も、控えめに鼻を啜っていた。
(あのなんでもかんでも淡泊な『家庭の味』の中で、みーちゃんのカレーだけが、はっきりしてて、美味しかったもの)
そのとき俺には、二人で鍋を覗き込む幼い姉妹の姿が見えた気がした。
がつんとした匂い。
ぶつ切りにした具材。
冷え切った家の中で漂う、唯一温かな湯気を浴びながら、二人手を握り、冒険の味に挑む。
「亜紀さんは……『みーちゃんのカレーが大好きだ』って、言ってたよ」
伝われ、と願いながら、俺は亜紀さんの言葉を告げた。
「なんでも淡泊な『家庭の味』の中で、夏美のカレーが一番好きだったって。亜紀さんは、はっきりしてて、活発な妹のことが大好きだって、言ってた」
伝わってくれ。
亜紀さんは、妹に自分を再現してもらうことなんて望んでいない。
夏美に、ありのままの姿で、生きてほしいだけなんだ。
「…………っ」
ぐ、と唇を引き結んだ夏美に、亜紀さんが静かに語りかける。
(私、元気で人気者のみーちゃんが、いつも羨ましかったよ。でもね、別に、自分のことも嫌いじゃなかった。肉じゃがには肉じゃがのよさがあるもの。みーちゃんが私に成り代わろうなんて……成り代われるなんて、私に失礼だと思わない?)
馬鹿にすんな、と、拗ねた口調で唇を尖らせてから、亜紀さんは笑った。
(今さらほかに変身なんて、できないよ。お願いだから、カレーの本分を全うして)
それは、つい先ほど俺が口にした台詞だ。
あのとき亜紀さんがなぜ満足そうに笑っていたのか、俺はようやく理解できた気がした。
一年前店に来たときそう言っていた、という形に調整して、亜紀さんの願いを伝えると、夏美はいよいよ大声を上げて泣き出した。
何度も「お姉ちゃん」と呼び、顔中を涙でぐしゃぐしゃにして、すっかりすべての化粧を流し終えてしまった頃、彼女はすんと、小さく鼻を啜った。
「なんで私、忘れちゃってたんだろうなぁ……」
感情の嵐が過ぎ去ったのと同時に、憑きものも一緒に落ちてしまったようだ。
瞼は赤く腫れ上がっていたが、素直な光を浮かべて、カレー皿を見つめた。
「……冷めてきちゃった」
ぽつんと呟き、スプーンを握る。
夏美は少し考えて、やがてこう尋ねた。
「カレーが飛んじゃったら、シミ抜きしてくれる?」
俺は力いっぱい頷いた。
「任せろ」
夏美はそこから、気持ちのいいほどの速さで、スプーンを動かした。
飯を掬う。
カレーの海をくぐらせる。
口に運んで、噛み締め、飲み込む。
咀嚼するたび、唇が震え、ふ、ふ、と息が漏れていたが、きっと辛さのせいだろう。
だって夏美の食べる姿は力強かった。
がつがつ、という音が聞こえそうなほど。
飲み込むたびに、生きる、生きる、と宣言しているかのようだった。
ありのままに、生きる。
飯の一粒も残さず、きれいに皿を平らげると、夏美はからん、とスプーンを置いた。
「ごちそうさまでした。……美味しかった」
目はまだ潤んでいたし、顔中、ぐしゃぐしゃだったけれど、胸を衝かれるほど、美しい笑みだった。
夏美は、カレーを食べる間、肩の片側に流していた髪を掴むと、軽くおどけてみせた。
「カレー食べるのに、長い髪って邪魔だね。切っちゃおうかな」
意味を悟った亜紀さんが、小さく息を呑む気配がする。
一拍置いて、彼女はそれは嬉しそうに、頬を緩めた。
(いいと思うよ。私は、ショートのみーちゃんが好き)
「いいと思う」
伝言、というのを言い訳に、俺は答える。
俺だって、ショートヘアの夏美が好きだ。
声には温度が籠もりすぎていたのかもしれない。
夏美は俺の相槌を聞いた途端、ちょっと唇を噛み、顔を逸らす。
三呼吸ほどの沈黙の後、彼女は「じゃあ」と、上擦った声で応じた。
「切ったら、見せに来ようかな」
「来て」
無意識に身を乗り出し、言ってしまってから俺は我に返った。
「いや、ええと、だから」
ぐるぐると、言葉が頭を駆け巡る。
鼓動が速まり、耳の端が熱くなった。
ああそうだ、去年、別れを切り出されたときもこうだった。
咄嗟に、どう振る舞ったらいいかわからなくて。
手を伸ばしたいのに、踏み込みすぎては一層嫌われるのではないかと躊躇って、言い訳を並べて身を縮こめて、結局すべてをうやむやにしてしまったんだ。
「カ、カレー!」
だが今、店中に充満するカレーの匂いに背中を押されるようにして、俺は叫んでいた。
「カレー用意して、待ってる。だから、事前に連絡をくれると嬉しい。っつか……こっちからも、連絡させてくれると、嬉しい!」
夏美は目を瞬かせると、ぷっと噴き出した。
「それはだめ」
「ええっ!?」
「私から連絡させてください」
なぜか居住まいを正すと、彼女はまっすぐに視線を合わせた。
「あの日のこと――私のほうから、やり直させてください」
目尻のちょっと切れ上がった大きな瞳は、緊張と、決意とを含んでこちらを見ている。
俺は、わけがわからないほど胸をいっぱいにしてしまい、片手で口元を覆った。
「そ、それは、その」
(ひゅーひゅー)
亜紀さん、今このタイミングで、にやにや笑いはやめてください。
俺は顔を隠すため、深く頭を下げざるをえなかった。
「よ、よろしくお願いいたします」
(なんで二人とも敬語なの?)
笑いを含んだツッコミが、静かな秋の夜に響く。
その後、俺たちが会計についての押し問答をし、夏美がしっかりとした足取りで店を出ていくまでを、亜紀さんは上機嫌に見守っていた。
再び、俺たち以外に無人となった店内を見回すと、満足げな溜め息を漏らす。
(ありがとう、しーくん)
亜紀さんは、ぽんぽんと俺の肩を叩いた。
といっても、傍目からは、自分の肩を労っているようにしか見えないのだが。
(いや、未来の弟、かな? 結婚を報告するときには、私のお墓にはカレーを供えてね)
「どう考えてもお寺に怒られますよ。というか、き、気が早いですよ」
(さてさて。それはどうでしょう)
亜紀さんはなぜか、流しの奥に視線をやると、悪戯っぽく微笑んだ。
それから、夏美の意外に繊細な性格や、実は俺の名前を一度だけ夏美の口から聞いていたということ、両親は面倒な人だがコツさえ掴めば操縦しやすい、といった大変重要な情報を俺に授け――やがて、溶けるようにして消えた。
流しの奥に放置していたスマホに、早速夏美からのメッセージが入っていたと気付くのは、その数分後のことだった。
***
「ありがとうございましたー!」
亜紀さんを見送ってから三日ほど経った、昼の「てしをや」。
昼の部の最後の客を見送った俺は、鮮やかな手付きで皿を下げ、素早くテーブルを拭き、足取りも軽く昼メニューを回収していた。
流しで大量の洗い物と格闘していた志穂が、俺を見て怪訝そうに眉を寄せる。
「なんかお兄ちゃん、やけに機嫌よくない?」
「べつにー? あ、それより、俺たちのまかない、カレーでいいよな?」
「いいけど……。突然、これまでにないメニューをお品書きに加えてくるの、やめてよね。材料の取り回しが狂っちゃうんだから」
「はっはっは、すまんすまん。まあ、うまいワインを買ってきてやるから許せ、妹よ」
相変わらずの小言も、爽やかな秋風のように受け流せる。
理由のひとつは、元同僚の久保田から、「おまえの店、マジで美味かったから、友達全員に紹介しといたぜ!」と連絡が来たことにあった。
メッセージには、「貢献したから、次に行くときは割引してください。彼女の前で見栄張りすぎて、今月の請求やべー」と、悲しげな訴えも添えられていた。
どうやらあの日、「頑張れよ」との発言に哀れみを感じてしまったのは、俺の被害妄想でしかなかったらしい。
俺は、自分の頬を殴ってやりたい衝動に駆られつつ、慌てて久保田宛のワインを買い直すことを決めたのだった。
いやあ、秋のわびしさって、神様の言うとおり、とんでもない威力だなと言い訳しつつ。
そう、神様の言うとおり。
今回もまた神様は、魂の未練を解消してやりながら、俺の願いを見通し、それをこっそり叶えてみせたのであった。
ワインは、神様のぶんまで買わねばなるまい。
そして、俺が上機嫌な理由のもうひとつは――。
「こんにちはー」
今、ガラリと扉を開け、店にやって来た人物にあった。
顎下で軽やかに揃えたショートボブに、ほっそりとしたジーンズ姿が清々しい。
おずおずと扉をくぐるのは、そう、夏美である。
「今、お店に入って大丈夫?」
「おう、大丈夫。カレーあるから、食ってけよ」
大丈夫もなにも、客足の途切れるこの時間帯を指定したのは俺だ。
約束通り、ショート姿を見せに来てくれた夏美に、俺は極力さりげなさを装って告げた。
「すげえ、似合うじゃん」
夏美のことを知らなかった志穂が、「なになに?」と興味深くこちらを見ている。
俺は、夏美をカウンター席に案内しつつ、彼女をどう紹介するか、ごく一瞬迷った。
けれど、それと同じくらい短い時間で、力強く結論付けた。
夏美は店まで来てくれたんだ。
この関係を、もう後戻りなんてさせない。
「志穂。こちら、夏美。俺の……彼女」
きっぱり告げると、志穂が「はあ!?」と洗っていたボウルを取り落とす。
「嘘でしょ!? 急に寒くなったから頭が風邪引いたの!? 妄想? 幻覚?」
「失礼にもほどがあんだろ! 実在人物ですー。ほら、さっさとカレー食おうぜ」
想像通りの反応を寄越す妹には、くわっと歯を剥き、照れをごまかすためにそそくさと鍋へと向かう。
鍋の中では、茶色い大地に降り立った輝ける星が、ちょうどほくほくと煮えているはずだった。
哲史、夏美とよりを戻せてよかったね!
1月12日発売の「神様の定食屋」3巻では、この「肉じゃがか、カレーか」のほか四皿のお話が掲載されています。よければご堪能いただけますように^^