肉じゃがか、カレーか(中)
神社から店へと戻る道すがら聞いた話では、このたび俺に憑いたのは、佐藤亜紀さんという女性の魂だった。
享年二十六歳。
大学を出て、親の営む会社で事務員として働いていたが、一年ほど前、バレエの公演を観に行ったところ、そこで火事に巻き込まれて亡くなったらしい。
「あ……。そのニュース、聞いたことがあります」
たしか照明器具からの出火で、避難経路も万全に確保されておらず、ホールの管理者が責任を問われていたはずだ。
死者が出たため、しばらく世間は、避難訓練や消化器点検の必要性を騒ぎ立てたが、半月も経つと事件は風化してしまった。
俺の両親の事故死もそうだが、世の中にとって人の死というのは、そういう扱いだ。
「その……おつらかったですね。本当にご愁傷様でした」
聞いたことがある、とは言ってみたものの、どう話を続けてよいのかわからず、俺はもごもごと呟く。
亜紀さんは小さく笑い、のんびりと応じた。
(ありがとう。私もびっくりしちゃった。まさかバレエの鑑賞中に死ぬなんてね)
「ですよね……。ええと……バレエ鑑賞がお好きだったんですか?」
(ううん、全然。意味がわからなくて、熟睡しちゃった。それで逃げ遅れちゃったの)
「えっ」
亡くなったときの話題よりは、趣味の話題のほうが盛り上がるだろうと踏んで水を向けたのだが、ばっさりと否定されて戸惑う。
「そ、そうなんですね。いやあ、亜紀さん、おしとやかな雰囲気だから、てっきりお好きなのかと……」
(それほどでも。バレエなら、みーちゃんのほうがまだ好きなんじゃないかな。あ、妹ね。すごく元気な子なんだけど、お姉ちゃんっ子なだけに、私が死んでから落ち込んでて)
彼女が手料理を振る舞いたい「みーちゃん」とは、猫かなにかと思いきや、妹であったらしい。
活発ですごく魅力的な女の子だったのに、最近はずっと意気消沈しているそうだ。
カレーを食べさせてあげたいの、と気負いなく呟いた亜紀さんは、姉というよりも、まるで愛情深い母親のように見える。
きっと、何度もそうやって「みーちゃん」を元気づけてきたのだろうな、と思った俺は、改めて気合いを入れて、拳を握った。
「カレー、いいですね! 最高のものを作りましょう。さては、妹さんの好物ですか?」
(え? どうだろう)
だが、漲らせた気合いは、すかっと音を立てて空振りした。
「え……っ? 『どうだろう』、とは……?」
(そのままの意味。私、料理苦手だったから、作れるのってそれくらいしかなくて。みーちゃんが好きかどうかは知らないけど、まあ、カレーにさせてもらおうかなと)
「……そ、そうですか」
どうしよう。
大丈夫だろうか。
成仏を拒むほどの未練を残しておきながら、「これなら作れる」みたいな消去法で献立を決める魂は初めてだ。
というか亜紀さん、会話の端々から、清楚な佇まいとは裏腹な、ずぼらさを感じるぞ。
俺の心を読んだわけではなかろうが、亜紀さんは軽く首を傾げ、髪を摘まんでみせた。
(髪も染めずにいたからかなあ。私、どうも周囲からは、料理上手とか、家庭的だとか、おしとやかな人間に見えるみたいで。実際は、全然そんなことでもないんだけどね)
なんでも亜紀さんは、コーヒーを淹れるのが面倒だからと白湯を啜り、ランチに出るのが面倒だからと親に弁当を詰めてもらっていたら、「意識の高い、和食が得意な女性」と周囲に誤解されてしまったらしい。
しかも、その手のことは初めてではなく、周りはなぜか、やたらとこちらを優良誤認し、憧れの視線を向けてくるのだそうだ。
妹からも同様にして慕われていたのだが、きらきらした目で姉を仰ぐ妹はとても愛らしかったので、あえて誤解を解くことなく放置していたと、亜紀さんは言った。
「放置……」
(髪もねえ、切るのが面倒だから伸ばしてただけなんだ。みーちゃんも褒めてくれるし、まあいっか、って。あ、しーくんは、ロングとショート、どっちがタイプ?)
「し、しーくん!?」
(うん。哲『史』だから、しーくん)
亜紀さんの独特な間合いとネーミングセンスに、俺はもうたじたじだ。
だが不思議なことに、亜紀さんの、そのちょっとズレたテンポや感性というのは、どうにも憎めないものがあった。
(ねえねえ、しーくんって、どんな子が好きなの? お姉さんタイプ、妹タイプ? わがまま、健気、ひねくれ者、うーん、あとは……)
「な、なんで俺の好みを聞き出す流れになってるんですか……!」
(だって、気になるんだもの)
体を伴っていたなら、ぐいぐいと顔を近付けていそうな詰めっぷりだ。
しんと冷えた秋の夜道を歩く間、亜紀さんからの質問攻めは延々と続いた。
***
さて、カレーである。
スパイスから調合して、三日煮込んで、みたいな品だったらどうしようと少々危惧していた俺であったが、亜紀さんはあっさり――もはや案の定と言うべきか――、「え? 市販のルーを使うよ」と言い放った。
料理がそこまで得意でない俺としては安心したが、いやいや、大切な妹さん相手に思いを伝える料理としては、果たして市販のルーに頼っていいのか悩ましいところだ。
ほら、こう、識別性というか。
過去の事例を思い出しながら、「もう少し、亜紀さんらしいこだわりや、特別な作り方があってもいいのでは」と遠回しに伝えると、彼女は小首を傾げ、こう答えた。
(こだわり……? うーん、あえて言うなら、ルーを二種類以上、混ぜてたかな)
ルーを数種類混ぜるというと、いかにもこだわりがあるように聞こえたが、このときの俺にはすでにわかりはじめていた。
亜紀さんはきっと、家に転がっていた半端なルーを掻き集めただけだろうと。
推論を伝えると、亜紀さんは「すごい、どうしてわかったの?」と目を丸くし、一方の俺は肩を落とした。
このカレー、無事に再現できるのだろうか。
「過去の傾向を考えるに、妹さんは、『亜紀さんがかつて作ってくれた』カレー、ってところに励まされると思うんですよ。なにかもっとないですか、こう、思い出に関わる要素は」
(うーん。一回、あまりに適当な私の作り方を見かねて、みーちゃんが手伝ってくれたことがあったな。下味を付けるとか、ちょっとした差なんだけど、すごく美味しくて)
なんでも「みーちゃん」は料理が得意らしく、カレーを作るにも、煮込む前に野菜をにんにくで炒めたり、酒で蒸したりしていたらしい。
俺が「それだ!」と身を乗り出すと、亜紀さんは「私の、っていうより、みーちゃんのレシピってことになるけど、いいのかな」と首を傾げながらも、最終的には「まあいいか、盛り付けに籠もる私らしさもあるよね」と頷いてくれた。
やはり、いろいろ無頓着な人だ。
幸いにして、店の厨房にもカレールーは常備されている。念のため、もう一種類のルーをコンビニで買い足してから、俺たちは「てしをや」の裏扉をくぐった。
志穂はすでに、店を出た後だった。
ぴかぴかに洗い上げられた食器から、ぴとん、と滴る水の音が響くほどに、店内は静まり返っている。
厨房とカウンター席にだけ灯りを入れると、俺たちはいよいよ調理を開始した。
牛塊肉を角切りにし、玉ねぎとにんじんとじゃがいもの皮を剥く。
下味を付けた肉と野菜を炒め、酒で蒸す。
鍋底の水が減ったら、焦げない程度に、少しずつ水を足してゆく。
亜紀さんの記憶を手掛かりに、調理は順調に進んでいたが、彼女が合間合間にぶつけてくる捉えどころのない発言に、俺は翻弄されっぱなしだった。
(ねえねえ。この材料の組み合わせって、たぶん、炒めても普通に美味しいよね?)
だとか、
(ルーを変えたら、シチューにもなるのかな?)
だとか。
しきりと路線変更を促すかのような質問を向けてくるのだ。
その都度俺は、「大きく切り分けちゃったから、もう炒められないです」とか、「いや、もう米も炊いちゃいましたから」と答えて、外れそうになる軌道を修正していた。
煮込む頃になっても質問が続いたため、俺は最後には、鍋を守るようにして叫んだ。
「カレー! もうこの子はカレーを目指してるわけですから! 今さらほかに変身できませんよ。頼むから、この子にカレーとしての本分を全うさせてやってください!」
ただでさえ男ってのは、二つのことを同時にこなすのは苦手だし、カレーを作るとなったらカレーを作ることしか念頭になくなる生き物なのだ。
あっちこっちに話を持っていかないでほしい。
だいたい、もう二種類のルーも入れてしまったので、後戻りなんてできない。
情けない俺の悲鳴を聞くと、亜紀さんは目を瞬かせ、それからなぜか、上機嫌に笑った。
(……しーくんって、面白いねえ)
そうして聞くのだ。
(ねえ、しーくんって、どんな子がタイプなの? 女の子にモテるでしょう)
と。
「残念ながら、モテた試しなんてないですよ」
俺は、唐突な褒め言葉と質問に、照れと困惑を半々にしながら唇を歪める。
ただでさえ、元カノと別れてちょうど一年だ。
その手の質問は、苦い記憶を呼び起こして仕方がなかった。
「付き合ったことがあるのも、二人だけで……いや、一人は中学の頃、ままごとみたいなデートをしただけだったから、実質一人か。その実質一人にも、さくっと振られましたし」
(振られちゃったの? どうして?)
「いや、わからないんですよ。一週間くらい連絡取ってないなーっていう時期があった後、いきなり電話がきて、別れようって言われて……」
元カノ――夏美は社交的なタイプで、友達が多く、彼氏の俺を放って旅行に出るなんてザラだった。
俺も、彼女のさっぱりした性格が好きだったし、実質初めての彼女で、どれくらい互いの行動を把握しあうべきかもわからなかったから、踏み込みすぎるのを恐れてもいた。
だから、唐突に別れを突き付けられて、俺は固まってしまったのだ。
感情のまま取り乱すべきなのか、鷹揚に笑い飛ばすべきなのか、冷静に受け止めるべきなのか。
どれが最適なのだろうと考えている間に、状況がめまぐるしく変わり、それに押し流されるようにして別れてしまった。
でも、こうして折に触れて彼女を思い出すということは、俺の中で夏美との関係は、全然決着が付いていないのだろう。
「もし、あのとき……」
俺はぽつんと呟いてから、そんな自分に気付いて首を振った。
もう、遅すぎる話だ。
ルーを入れてしまったカレーと同じで、今さら事態を取り返すことなんてできない。
ちょうどそのとき、炊飯器が炊き上がりを告げるメロディーを鳴らしはじめたので、俺はそそくさと飯を混ぜ返した。
見れば、弱火で煮込んでいたカレー鍋のほうも、いい頃合いである。
汗を掻いた蓋を持ち上げると、あの、誰もの食欲と郷愁を誘ってやまないカレーの匂いが、厨房いっぱいに広がった。
ひと匙味見してみれば、野菜のうまみを閉じ込めたスパイシーな味わいが、とろりと舌の上を流れて、飲み込んだそばから涎が出そうになる。
「うん、ばっちり」
頷くと、脳裏で亜紀さんも頷く気配がする。
(うん、ばっちり)
ただし、俺の中に入った彼女は、鍋ではなく、玄関に向かって耳をそばだてていた。
(来たよ、みーちゃん。でも、扉の前で迷ってる。開けてもらっていいかな、しーくん)
どうやら、亜紀さんの待ち人はすでに店の前まで到着していたようだ。
俺は慌ててお玉を置くと、ガラガラと引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ。すみません、わかりにくいですよね。これでも店は営業中――」
途端に吹き込む、冷えた夜風。
だが、俺が言葉を飲み込んでしまったのは、なにも寒さのせいではなかった。
「え……?」
こちらを見た途端、はっと息を呑む相手。
ほっそりとした体つきに、くりっとした目が印象的な、意志の強そうな顔。
「なんで、夏美が……」
「なんで、哲史が、ここに」
店先に立っていたのは、なんと一年前に別れた彼女――夏美だったのだ。
驚いたのは相手も同様であったらしく、大きな瞳を丸く見開いて、ショルダーバッグの肩紐を握り締めた姿勢のまま、ぽかんとこちらを見上げている。
一年前に比べてずいぶん髪が伸びた彼女の姿は、ふわりと裾の広がったスカートとも相まって、神社で見かけた亜紀さんと、奇妙なほど似て見えた。
……ああ。
そうか。
俺はこのときになってようやく、亜紀さんの名付けの法則を理解する。
哲史だから、しーくん。
夏美だから、みーちゃん。
亜紀さんの妹、「みーちゃん」とは、夏美のことだったのだ。
「あ……」
夏美がぎこちない笑みを浮かべて、一歩後ずさる。
「ごめん。いい匂いがするなと思って、ちょっと立ち止まっただけで――」
――おまえに引き留める度胸がなかったばかりにな。
なぜかその瞬間、脳裏に神様の言葉が蘇り、俺は弾かれたように身を乗り出した。
「待って」
無意識に、相手の腕を掴む。
目を見開いた夏美の顔、夜気に包まれた服の冷たさ、細い腕の感触。
押し寄せる情報に声を上擦らせながら、俺は辛うじて告げた。
「寒いから。ひとまず、入って」
そうして、肌寒さを口実に、夏美を店へと引き入れたのだった。