肉じゃがか、カレーか(前)
皆さまのご声援のおかげで、「神様の定食屋」3巻が刊行されることとなりました!
感謝の気持ちを込めて、秋の部の一部を、一話完結となるよう内容を改めて投稿させていただきます。
どうか楽しんでいただけますように。
多めの油を引いたフライパンに、一口サイズに切った牛肉を入れる。
じゅっ! という陽気な音に、つい調子よく肉を転がしたくなってしまうが、焼き色を付けるためにじっと我慢。
その代わりに、塩とこしょうをまんべんなく振りかけて、時が来るのを待つ。
(ああ、いい匂いだね、しーくん。豚肉派もいるけど、やっぱり私、カレーは牛肉、それも角切り派。牛肉って大好き。あ、このままサイコロステーキとして食べちゃう?)
「うん、気持ちはすごくわかるんですけどね、亜紀さん。でも、俺たちが作るのはカレーなんで、具を減らすのは我慢しましょうか」
こんがりと焼けていく肉を見守る俺の脳内では、誘いかけるように甘い女性の声が響くが、俺はそれを極力やんわりと遮って、彼女に問いかけた。
「それで、下味をつけた後に、にんにくと生姜を入れるんですっけ?」
(そう。強火のまま入れちゃうと、にんにくが焦げちゃうから、いったん火を止めてね)
「はい」
笑みを含んだように軽やかな声に従い、火を止める。
フライパンの温度が落ち着くのを待ってから、俺はだいぶこなれてきた手付きで、刻みにんにくと生姜を加えた。
再び火を入れて炒めると、サラダ油に溶け出した牛肉の脂、そこにさらに加わったにんにくが、なんとも食欲をそそる香りを立てる。
香りは白い湯気の形となって、ひんやりとした秋の夜気に紛れていった。
ぶつ切りにした玉ねぎとにんじん、そしてじゃがいも。
形を崩してしまわないよう、木ベラで優しく混ぜていると、脂が野菜に絡み、鍋全体がしっとりと色味を増す。
日頃肉にしか興味のない俺でも、野菜がうまそうと感じるほどの艶やかさだ。
早くも腹が減ってきたのを自覚しながら、我ながらなかなかの手際で調理を進めた。
「で、料理酒をたっぷり回しかけて蒸す……と。なんか、肉じゃがみたいっすね」
(ふふ、そうだね。材料おんなじだもんね。肉じゃがにしちゃう?)
「いやいや、カレー! カレーって決めたでしょう⁉ 途中で変えるのよしましょうよ」
時々、くすくすと笑いながら向けられる提案を躱しながらだ。
「申し訳ないですけど、亜紀さん。俺、途中で献立を変えられるほど器用な料理人じゃないんですよ。カレーにするつもりで材料切ってますし、もう舌だって完全にカレーになっちゃってますからね。カレーで行きましょ。ね。カレー!」
(そうだねえ。途中で変えるなんて、無理だよねえ)
「だいたい、『みーちゃん』にカレーを振る舞いたいって言ったのは亜紀さんじゃないですか!」
(ふふ、そうだねえ)
頭に響く声は、どこまでも楽しげで、穏やかで、そして掴み所がない。
(ちょっとお酒の量が減っちゃったね、しーくん。このまま蒸してたら焦げちゃうから、水を少し足して。あ……、水を足してコンソメ入れたら、ポトフになるのかなあ?)
「カレー! カレーでしょう亜紀さん! 俺たちが作るのはカレー!」
なぜ俺が、脳内に響く声と、独り言を返すようにして会話しているのか。
なぜ冷え込みのきつくなってきた深夜のキッチンで、カレーなんか作っているのか。
その答えをすでにお察しの方は多いと思う。
だがまあ、「秋の夜長」と言われるほど、この時分の夜は人恋しく、長く感じるわけだから、どうかカレーを煮込むくらいの間だけ、俺の話を聞いてほしい。
つい一時間ほど前、うつろう季節にしんみりとして、しんみりと神社に赴き、しんみりと神様に弱音を吐いた結果――ちゃっかりと魂を押し付けられた俺の話を。
***
ほんの半月前まで、夜でも未練がましい暑さが漂っていたというのに、今ではすっかり、秋の虫が健気に声を嗄らしている。
最後の客を扉の外まで送り出し、看板の消灯を確認した俺は、冷たく肌を撫でていった夜風に身を震わせながら、そそくさと店内へと戻った。
L字に配置された黒木のカウンターと、二名掛けのテーブルが四つ。
俺と妹が営む定食屋「てしをや」は、相も変わらずこぢんまりとして素朴な佇まいだが、今日だけ、客席の配置がいつもと異なっていた。
テーブル四つをぴたりと寄せて、グループ席にしてあったのだ。
先ほどまでその席では、元同僚の久保田が、友人と宴会を開いていた。
「わあ、久保田さんたち、すごく気持ちよく食べてくれたね」
皿を下げていた妹――志穂が、野菜くず一つ残っていない皿を見て、嬉しそうに笑う。
たしかに、久保田たちは積極的に料理を頼み、魚の骨まできれいに舐め取る勢いで、すべてを食べきってくれた。
定食屋では注文が入りにくい生ビールや酒だって、ばんばん頼んで飲んでくれたおかげで、今日は大黒字だ。
貸し切りにしていたので、そのぶん店に元を取らせねばと考えてくれたのだろう。
久保田はそういう気の回し方をする男だった。
「光栄だよね、うちで昇進祝いと婚約祝いをしてくれるなんてさ。久保田さんも彼女さんも、煮込みハンバーグをすごく気に入ってくれたみたい。『家庭の味!』とか『これを作れる奥さんになりたい』って言われて、照れちゃった。貸し切りにしてよかったなあ」
気持ちよく料理を頼んでもらえて、完食してもらえて、しかも褒めてもらえて。
定食屋を心から愛している志穂にとっては、このうえなく幸せな夜だろう。
「ずっとみんな笑ってて、接客するこっちまで嬉しくなっちゃう席だったよね。なんか幸せをお裾分けしてもらっちゃった感じ。こんな宴席なら毎日あってもいいよね」
てきぱきと皿を流しに運び込みながら、志穂が「ねえ?」とこちらを振り返る。
床拭き用のモップを持ち出していた俺は、そこではっと顔を上げた。
「ん? ああ。そうだな」
ローラーが埋め込まれたバケツに、モップを浸す。
足でペダルを押しながら柄を引っ張ると、両側からローラーで挟まれた房糸が、じょろろ、とバケツ内に汚水を吐き出した。
「マジ、久保田のやつ、めっちゃ気前よかったよな。感謝しかないわ」
「ほんとだよー。お兄ちゃんが定食屋やってる、って聞いたから、わざわざここに予約してくれたんでしょ? 優しい」
「ま、そういう友人に恵まれるのも、俺の人徳のおかげだな」
「はいはい。次は素敵な彼女に恵まれるように、頑張ってねー、人徳」
俺が冗談で返すと、志穂は笑いながらテーブルを拭き、軽くあしらう。
そのまま上機嫌で洗い物を始めた妹をよそに、俺は黙々と床を磨いた。
頭には、つい先ほど、去り際の久保田から掛けられた言葉が、何度も蘇っていた。
『え、釣り? いいよいいよ、取っといてくれよ』
ほろ酔いなのか、顔を赤らめて上機嫌に笑っていた久保田。
支払の額が多すぎるからと、慌てて過剰な分を返そうとすると、彼は『いいから』と強引にそれを突き返してきた。
『なにせ俺、結婚前だしさ。受け取ってくれよ』
慶事を前にした多幸感から、寛容になっているのだろうか。
浮かれた友人をからかってやろうかと、俺は苦笑しながら口を開きかけたが、次の久保田の発言を聞いて、思わず言葉を飲み込んでしまった。
『ほら、自分が幸せなときほど、大変な人に手を差し伸べなさい、ってよく言うじゃん』
声には、同情、とでも呼ぶべき感情が込められている気がした。
言葉に詰まった俺をどう受け止めたのか、久保田は少し表情を引き締め、声を潜めるようにして告げた。
『ここ、会社からは遠いから、毎月とかは無理だけどさ。なるべく俺も使うようにするから。頑張れよ』
彼は親しげに婚約者と肩を並べると、友人たちに囲まれながら去っていった。
陽気な熱をまといながら歩く集団を、冷えた店先で見送った後、俺は何度も、最後に掛けられた言葉を反芻していた。
『頑張れよ』
善意に満ちた言葉のはずだ。
相手の幸運を願い、励ます言葉。
だが励ましには、わずかな哀れみが込められていたと、そう思うのは僻みなのだろうか。
今のは自分の優位を確信し、相手の劣位を見て取ったからこそ、自然に口をついてきた言葉だったのではないかと、そんなことを思うのは。
それを皮切りに、ふと、久保田の目にはこの店はどう映ったのだろうかと気になった。
金曜の夜、普通なら最も客で賑わう時間帯に、すんなり貸し切りにできてしまう店。
こぢんまりとした店。
「家庭の味」――家庭で出るのと大差ない食事を提供する店。
床を拭き、モップを再びローラーに掛ける。
じょろろ、と言う音とともに濁っていく水面を、俺はぼんやりと見つめた。
昇進し、結婚を決めた元同僚。
脱サラして定食屋を継いだ友人のために、値段も見ずに酒を注文してくれる彼。
かたや、この時間まで妹と二人で立ち尽くし、客の踏みしめた床を磨き――「大変そうな」俺。
「……あー」
俺は込み上げる衝動のまま、何度も何度もモップをローラーに掛けた。
汚れた水は、どれだけ絞っても、後から後から零れだしてくる。
べつに、悪意に晒されたわけではない。
攻撃されたわけでもない。
誰も悪くないのに、なぜこんな、もやもやとした思いをせねばならないのか。
「あー……!」
「お兄ちゃん?」
いつまでもモップを絞っている兄に、志穂が訝しげな視線を寄越す。
俺はバケツを掴むと、つかつかとスロップシンクに歩み寄った。
「明日の仕込みはもう終わってんだよな? もう、テーブルセットの補充だけだよな?」
「え? うん」
「なら悪い、任せるわ」
ザバッと勢いよく、汚水を排水口に流し込む。
上から水を掛けて、シンクのタイルが白さを取り戻すのを確認すると、俺は手を洗い、ショーケースからワインボトルを一本掴んだ。
そうして、きっぱりと言い放ったのだ。
「俺、神社に行ってくる」
と。
***
がろん、がろん。
手水で指を清め、鈴から垂れた紐を揺らす。
人気のない、暗く静まり返った境内に、鈴の音はやけに大きく響いた。
「神様ー。いるんでしょう? ちょっと出てきてくださいよー」
真顔で御堂に話し掛ける男の姿というのは、傍からはさぞや不気味に映るだろう。
だが俺は、その不都合な事実を頭の外へと追い出し、勝手知ったる様子で、ゆさゆさと鈴緒を引っ張り続けた。
「ねえねえ、忙しいんですか? つれないこと言わないでくださいよ。こっちは寂しいんですって。ちょっと話しましょうよ。ねえー」
名誉のために言い訳しておくが、何度神様と会話を持っても、無機物に話しかけるというのは、毎度それなりの勇気を要するものなのだ。
スマホに向かって、「ヘイ、最寄りのコンビニを調べて」と声をかけるときの気恥ずかしさに、少し似ているだろうか。
いや、目的があるわけだし、この先に応答する相手がいると確信しているからこそ話しかけているわけだが、それでも無人の空間に向かって、「ヘイ」ってどうよ、みたいな。
相手が答えてくれなかった場合、すごく恥ずかしいよな、みたいな。
俺がつい、過剰に馴れ馴れしく話しかけてしまうのは、そんな照れを隠すためなのだ。
べつに、俺の性格がうざいとか暑苦しいとか、そういうわけではない。断じてない。
「ねーねー神様ー。神様ったらー。話しましょうって。前回からいつぶりですっけ。あれ、まる一月くらい空いてる? あー、会えないなんて寂しいな。会いたくて震えちまうな。せっかくお高いワインまで持ってきたのになー」
がろん、がろん、と眠たげだった鈴の音が、がろがろがろ……と高速になりはじめた、そのときのことだ。
――あー……っ。
じわ、と輪郭を滲ませるようにして御堂が光る。
若男女のどれとも付かない、少し苛立たしげな声が、周囲に響き渡った。
――せっかく! 気持ちよく酔っているところに、おまえなあ! そんな、借金取りのように騒がしくやって来る者があるか。
神様だ。
酒盛りを中断されたのか、ぷりぷり怒っているようだったが、それでも呼びかけに応じてくれた神様に、俺は満面の笑みを浮かべた。
「神様! よっしゃ、来た来た!」
姿は見えないものの、なんとなく御堂に向かって両手を広げたら、即座に「神を当たりくじのように扱うでない」とツッコミが入る。
だがすぐに、ちょっとそわそわした様子で、「して、お高いワインとは?」と続いたので、俺はますます嬉しくなった。
この神社で神様と出会って、もう一年近く。
神様は相変わらず、俗っぽくて、酒好きで、そしてノリと面倒見がいい。
俺はいそいそとワイン瓶を賽銭箱に置こうとして、ふと、すでに置かれている日本酒の瓶の存在に気付いた。
誇らしげに、「ひやおろし」のラベルが貼られた一升瓶だ。
「先客だ、珍しい……。もしや、『気持ちよく酔っている』って、これですか?」
――ああ。夏の間寝かせに寝かせ、ようやく最近出荷されたのだ。待ちかねた秋の味ぞ。
尋ねれば、神様は「くぅーっ」と眉根でも寄せているような素振りで答えを寄越す。
ひやおろしとは、夏の時期に寝かせて熟成させ、肌寒くなる秋頃に火入れをせずにそのまま瓶詰めして出荷する日本酒のことだ。
出荷している期間内にもどんどん味わいを深めてゆくものが特徴で、秋の味として楽しみにしている酒好きも多い。
もちろん神様もその部類であるらしく、今夜は御堂で、ひやおろし祭りが執り行われていたようだった。
――飲みたい飲みたいと思っていたら、ちゃんとそれを供えてくれる者が現れるのだものなぁ。願いには願いを。うむ、やはり世界というのはそういう風にできているのだ。
「神様が、そんなところに世界の真理を感じ取らないでくださいよ」
このこぢんまりとした神社に、いったい誰が供え物をしたのだろう、と首を傾げながら、ひやおろしの隣にワインを並べる。
今日はワインはいりませんかね、と尋ねると、スパンと音が鳴りそうな速さで「いる」と答えがあった。
――それはそれ、これはこれ。おまえがワインを持ってくるなど、珍しいではないか。おお、確かにこれはなかなか年数の経った代物だ。高そうだな。
「まあ、高いと言っても、日本酒と比べて、ワインの値段って天井知らずですから。特に高いって言うほどでもないかも……」
いざ神様に高級そう、と言われると、急に腰が引けてしまう。
何を隠そう、これは先ほどの久保田の宴席に、お祝いとして出そうと仕入れていたものだった。
自分では奮発したつもりだったのだが、先に久保田に「え、一番高い酒でもこの値段?お得!」と日本酒を次々頼まれ、すっかり出鼻を挫かれて、出せずじまいだったのだ。
店で一番高い日本酒を「お得」な値段と見る、そんな相手に一万円のワインを出したところで、相手をしらけさせてしまうだけだろう。
せめて土産に持たせようと考えたのだが、釣りを巡るやりとりで、それもできないままだった。
「たまには、神様とワインを飲むのもいいかなー、って。……開けますね」
俺は曖昧にごまかし、持ってきていたオープナーで栓を開けた。
きゅぽん、とコルクが小さな音を立てるのと同時に、豊かな香りが夜気に広がる。
神様は、ワインを供えられるのは珍しかったのか、しばらく「おお」とか「ほほう」とか、はしゃいだ様子で味わっていたが、しばらくすると、微妙そうに切り出した。
――うーむ。うまいが、なんだ。ワインというのは、恋人たちが夜に飲み交わす、しゃれた酒なのではないのか。なぜむさ苦しいおまえと私が、境内で啜らねばならぬ?
「なんであなたってそう、発想がいちいち俗っぽいんですか……」
どうやらこの神様は、シチュエーションを大切にするタイプらしい。
むさ苦しい男と寂れた境内でワインを飲む、という状況が不満だったようだ。
――だっておまえ、どう考えてもこの流れ、ワインを飲みながら弱音を吐きはじめるつもりだろう? やれやれ、ワイングラスを傾けながら、おまえの愚痴の一つも聞いてくれる恋人はおらんのか。寂しい男よの。
いや、単に俺の愚痴を聞くのが面倒だったようだ。
出会って一年、この神様もどんどん俺に対する遠慮がなくなっている。
だが、だからこそこちらも遠慮なく、「いいじゃないですか、付き合ってくれたって」と反論できるわけではあるのだが。
神様はまるで、口では無遠慮に突き放しながらも、結局は「それで、どうしたんだ」と飲みに連れ出してくれる、兄貴分のようだった。
「どうせ、彼女とは一年前に別れたきりですよ。仰る通り、寂しいんです、俺は」
案の定、神様は、ワイン分の愚痴は付き合うことに決めたらしく、「ほう」と耳を傾けてくれる気配がする。
それに勇気を得た俺は、今日店であったことを、ぽつぽつと語りはじめた。
「久保田に悪気がないのはわかってるんです。俺が勝手に、僻んでいるっていうか、こう、焦っているだけで」
――焦る?
「そう。昇進とか、結婚とか……着実に人生のコマを進めてる同期を見てると、俺、大丈夫なのかな、これからどうなるのかなって……いろいろ」
考えをまとめながら、俺は、「もうすぐ一年になるんです」と切り出した。
「両親が死んでから。俺が、定食屋を継いでから。たぶん今、ちょっとした、節目で」
突然もたらされた訃報。
いきなり嵐の海に投げ出されたような、不安定な時期を、俺と志穂は、歯を食いしばるようにして駆け抜けてきた。
少しでも足を止めたらその場に崩れてしまいそうだったから、とにかく必死で。
妹は重圧に潰されそうになりながら、俺もまた未知の定食屋経営に右往左往しながら、慌ただしく日々を過ごしてきた。
だがそんな日常にも、やがて慣れる日はやってくる。
ちょっとずつ仕事を覚え、ペースを掴み、客にも恵まれて。
「てしをや」に、愛おしさまで覚えるようになった。
そうしてふと顔を上げ、自分が見覚えのある風景を歩んでいることに気付いたとき――ぐるりと、すでに季節を一周したと気付いたとき、俺は、言いようのない不安に駆られたのだ。
俺は、繰り返していくのか、この日々を。
数日先、一ヶ月先くらいまでしか見通しの立たない生活を、この先もずっと。
安定した給与、伴侶や家族、そんなものを得ながら、まっすぐ人生を歩んでいく同期たちとは異なり、同じ場所を、ぐるぐると。
「お客さんの笑顔を見るのは、嬉しいんですよ、もちろん。でも、もうそれは、初めての体験、初めての感動ってわけじゃなくて、よくも悪くも、いろいろと、慣れてきて……」
それ以上続けると、取り返しのつかない発言をしてしまいそうで、口をつぐむ。
代わりに、唇を苦笑の形に歪め、物思いを無理矢理、型枠の中に押し込めた。
「定食屋を優先して、会社を辞めたのは、俺です。今聞かれたって同じ選択をするし、復職したいわけでもない。ないけど……時々、どうしても気になっちゃうみたいです」
もし、あのまま会社員を続けていたら。世間が言うところの「安定した生活」を送って、昇進して、ひょっとしたら結婚なんて、していただろうか。
「元カノとは去年別れちゃったけど、もし続いていたら、とかね」
彼女――夏美とは、ちょうど一年前に別れた。
いつもサバサバとして、活動的で、大きな口を開けて笑う彼女が、ある日電話越しに、「ごめん、別れよ」と切り出してきたのだ。
あっけらかんとした口調に、俺は最初冗談だと思って笑い飛ばした。
数日置いて本気だと気付いて驚き、さらに数日後、夏美の意志が固いのを知って困惑し、戸惑って対応を決めあぐねているうちに、不測の事態が起こった。
俺の両親が死んだのだ。
そこから俺はすぐ、自分と妹のことで手一杯になってしまい、結局、夏美を引き留めることも、事情を問いただすこともしなかった。
一度連絡を躊躇ってしまえば、次にはいっそう、声を掛けられなくなる。
すべてをうやむやにしたまま、俺たちは別れた。
「はは、秋だからですかね。人恋しいっていうか、いろいろ考えちゃうんですよ」
――うんうん、秋だからな。寂しいな。おまえに引き留める度胸がなかったばかりにな。よくあるよくある。
しんみりとする俺に対し、神様の相槌はどこまでもラフだ。
「なんか、いつもに増して対応が雑じゃないすか」
俺が恨みがましく御堂を見上げると、神様は「あのなぁ」と肩でも竦めそうな素振りでそれに応じた。
――この時期になると、人の子はやたらと「寂しい」だとか「しんみりする」と言い出すのだ。深刻な顔をした者どもに、一様に未練がましく「寒いの」「人恋しいの」とメソメソうじうじ縋られてみろ。多少対応も雑になろうが。
「う……、す、すみません」
もしかして神様は、不定愁訴を聞き続ける医者や、クレームの電話を受け続けるお客様相談室スタッフのような気持ちなのだろうか。
それはたしかにげんなりしそうだと思い至り、もごもご詫びる。
神様は、まあ秋だからなぁと、苦笑するような気配を見せた。
俺もまた、つられて苦い笑みを浮かべた。
「秋って、実りの季節なのに、なんでこんな寂しくなっちゃうんでしょうね」
――実るからさ。
ぼやきのような呟きに、神様から返ったのは意外な言葉だ。
――秋とは愁。秋とは飽き。熟し切った果実が自然に枝から落ちるように、秋はものが満ちて、衰えはじめる時期よ。熟え、落え、飽く。自然の摂理さ。
つい先ほどまで、日本酒に「くぅーっ」となっていたのが嘘みたいな、静かな声だった。
――おまえはこの一年、よく頑張った。新たな日々に全力で挑んで、ひとつの実りを迎えたのだろう。満ちたからこそ、飽いたのだ。少しな。悪いことではないし、よくある。
恥ずかしいことに、神様のその言葉を聞いただけで、なぜだか俺は涙ぐみそうになってしまった。
ああ。
まったくこの神様ときたら、日頃はちゃらんぽらんのくせに、どうしてこう、すべてを見透かしてしまうのだろう。
なにもかも許してくれるのだろう。
「……やっぱ、神様って、神様なんですね」
――おうとも。我こそは、人の子の悩みを見通し、千の願いをより合わせる神よ。
照れ隠しに、ひねくれた物言いで持ち上げてみせると、神様は重々しく頷く。
楽しくなってしまって、俺はそのまま、神様を褒め称えた。
「いや本当に。願掛けをしたわけでも、叶えてもらったわけでもないのに、すごく心が軽くなりましたよ。いやー、神様ってのは偉大だなー」
――そうであろう、そうであろう。ちなみに、もっと心が軽くなる方法があるぞ。
だがそのあたりから、風向きがにわかに怪しくなる。
ん? と戸惑う俺の前で、まるでこちらを威圧するかのように、御堂の光がじわりと強まっていった。
――毒をもって毒で制す。願いには願いを、未練には未練を。淡い未練が胸を占めるというなら、それよりもっと強い未練で体を埋めてやれば、気にならなくなるものだ。
まさか、この流れは。
これまでの付き合いで、今後どうなるかを瞬時に察した俺は、冷や汗を滲ませた。
だって、魂を受け入れるのにもはや不満はないが、今夜はさすがに疲れた。
俺はさっと御堂から視線を外し、踵を返した。
「あー、いやー、その必要はないっていうか。もうすっかり、物思いなんて解決しちゃいましたよ。じゃっ、今晩はこれにて失礼を……」
――まあ遠慮するな。おまえも心の奥底ではこの展開を願っていたはず。憑いてほしくて憑いてほしくて震えるのだろう? 私にはわかる。なにせ、願いを見通す神だからな!
「勝手に人の願いを捏造しないでくれませんかね!」
神様め、いよいよいつもの強行突破に出やがった。
俺はワインボトルを掴むのも諦め、だっとその場から走り出す。
だが、足が石段に差し掛かるよりも速く、鳥居の下に、見慣れた靄が凝りはじめた。
ほっそりとした、女性のようなシルエットだ。
――喜べ。人恋しいとめそめそ愚痴るおまえにぴったりの、年頃の娘だぞ。声がきれいで黒髪ストレート、よく笑い、ちょっとドジっ子。おまえの好みど真ん中だ。
「べつに魂とお付き合いしたいわけじゃないですから! ってか、なんで俺の好みをそこまで詳細に把握してんだよ!」
くわっと歯を剥くが、もう遅い。
靄は見る間に質量を増し、ワンピースを着た、俺と同い年くらいの女性の姿になった。
『あの……突然、ごめんなさいね。でも、みーちゃんにご飯を食べさせてあげられるって聞いて』
胸の前で両手を組み、申し訳なさそうに眉尻を下げるのは、いかにも育ちの良さそうなお嬢さんだ。
肌は白く、肩をさらりと滑る黒髪は艶やかで、目鼻はすっと整っている。
ここ最近、高齢の魂ばかりを迎えていた俺は――だって死者って、やはりご老人のほうが多い――、ついどきりとして、足を止めてしまった。
「えっ、いや、あのー」
『本当にごめんね。私も、男の人の体を借りるのって、どうかとは悩んだんだけど、でも、やっぱりみーちゃんのことは気に懸かるし』
女性はおろおろと視線をさまよわせていたが、やがて、なにかを吹っ切るように顔を上げ、ぱっと微笑んだ。
『というわけで、お邪魔します』
「え――」
俺が体を強ばらせてしまったのは、なにも若い女性が、急に身を寄せてきたからというだけではない。
彼女の笑みが、記憶のどこかを妙に刺激したからだ。
なんだっけ。
なんだっけ、なんだっけ――。
『フュージョン!』
だが、答えにたどり着くよりも早く、「ほわん」という間の抜けた音が上がり。
(わあ! うまくいった! 今夜はどうぞよろしくね!)
「あー……っ」
以降脳内で響くようになった女性のはしゃぎ声を聞きながら、俺は頭を掻きむしった。
べつに、今さら嫌とは言わないけど。
愚痴だって聞いてもらったけど。
「もう少し、心の準備ってもんをさせてくださいよ! 特に女性のときー!」
こっちだって、臭くないだろうかとか、むさくないだろうかとか、いろいろと気にする繊細さがあるんだよ!
(あっ、私、あんまり身だしなみとか気にしないほうだから。鼻とかも遠慮なくほじっていいし、トイレだって行ってもらって大丈夫よ)
「うぅ! うぅうー!」
そんな風に言われてしまうと、もう鼻くそなんて絶対ほじれない。
トイレもしかりだ。
半泣きになった俺に、神様はぬけぬけと頷いたようだった。
――うむ。酒盛りを中断したことは、これで手打ちとしてやろう。