おかわり 祝い鯛
丁寧にした処理をした大ぶりな鯛に、尻尾やひれまで化粧塩を施し、串にさす。
踊っているように身をくねらせた、縁起のいい形となった鯛を、志穂は慎重な手つきでオーブンにかけると、ひとかけらの焦げの気配も見逃してなるものかと、真剣な表情でその前に陣取った。
その間、俺はといえば、大量に買い込んできた葉欄や南天を調理台に広げている。
そうして、葉の一部を朱塗りの盆に載せてみては、ああでもない、こうでもない、と、見栄えのよい敷き方を求めて、眉を寄せていた。
夜営業を二時間後に控えた昼下がり。
暦上では秋とはいうものの、まだまだ暑いその時間帯、俺たち兄妹は会話を交わすでもなく、狭い調理台で背を向け合いながら立っていた。
「――よし、今だ」
やがて、鬨の声を告げる戦国武将のように、重々しい声で志穂が頷く。
「――うん、やっぱこの向きがベストだな」
時を同じくして、絶妙な敷き葉のポジションを定めた俺もそう頷き、俺たちはぱっと顔を合わせた。
「できた!」
なにができたかといえば――祝い鯛の準備が、である。
志穂は、ほんのり紅色に染まり、ところどころこんがりと焼き目のついた鯛を取り出すと、皿で休ませると、弾む声を上げた。
「見て! 見て見て、かなりおいしそうに焼けた! 色も形も申し分なし! よかったあ!」
「よーしよくやった! 粗熱を取った後のことはこの兄に任せろ!」
なにぶん、こんなに立派な祝い鯛を焼くなど初めてのことだったので、ふたりともちょっとテンションがおかしい。
珍しく、けんかをするでもなく、大はしゃぎしながら鯛の盆を完成させた。
まるで我が子の勇姿をカメラに収める親のように、鯛の記念撮影までしてしまう。
それほど、この鯛をきれいに焼くことは、俺たちにとって重大なミッションだったのだ。
なぜならば――
――がらっ。
「こんにちはあ」
完成した鯛を丁寧にラップでくるみ、中身がずれないようにところどころを押さえながら梱包し終わったそのとき、玄関から声がかかった。
ベビーカーを押しながら、「お邪魔しまーす」と店に踏み入ってきたのは、若い女性。
派手なメイクとは裏腹に、髪を黒くしたこともあって、すっかり大人びた雰囲気をまといはじめた――麻里花ちゃんであった。
そう。
俺たちは、彼女から依頼を受け、彼女の娘である枝里奈ちゃんのお食い初めに使う鯛を焼いていたのである。
「ごめんね志穂ちゃん、来るのちょっと早すぎたー?」
「いいえー、ばっちりちょうどのタイミングでしたよ」
麻里花ちゃんがにこやかに問うてくると、志穂も気安く答える。
憲治の事件をきっかけに、頻繁にメッセージを交わすようになった二人は、年が近いこともあり、たいそう仲良しなのである。
それでも、産後の彼女に会うのは初めてだったので、志穂と俺は手を洗い、いそいそと厨房を飛び出した。
「麻里花さん、お久しぶりですー! 髪、ほんとに黒くなってるー! あ、よければここ座ってくださいね。……って、わっ、枝里奈ちゃーん! 初めましてー! かわいいねえ」
「おー、写真で見るより全然小さいんだな。どっちかっていうと旦那さん似なのかな? ほっぺがすげえぷくぷく」
ベビーカーで眠る赤ちゃんを覗き込み、俺たちは興奮しながら話しかける。
麻里花ちゃんは、周囲のそうした態度にもすっかり慣れたような様子でそれを見守り、「遠慮なく失礼しまーす」と席のひとつに腰を下ろした。
「うん、よく旦那似って言われます。それはそうと、先日はお祝いまでもらっちゃって、ほんとにありがとうございました。今回の祝い鯛も、超感謝です」
「いやいや、こちらこそ大層なお返しを頂いちゃって。っていうか、ほんとにうちが焼く鯛なんかでよかったの?」
そんなことをつい尋ねてしまったのは、あまりに立派な内祝いから、彼女の家の裕福さを窺い知れてしまったからである。
名家・常盤家。
古くは公家にも連なり、医者や弁護士を次々と輩出してきた家は伊達ではない。
もっと、老舗料亭だとかに頼んだ方がよかったのでは、と思い尋ねたのだが、彼女は苦笑するだけだった。
「いやもー、ちょっと盛り上がりすぎなんですよね、うち。どれだけ『内輪の、小ぢんまりとアットホームなお食い初めにしたい』って言っても、ホテルの会場とか予約しようとするんですもん」
申し訳ないけど、先手を打って鯛を予約することで、旦那と親を牽制させてもらっちゃいました。
ぺろっと舌を出す彼女が語るには、こういうことだった。
彼女が無事女の子を出産したのは、初夏の日差しがまぶしい五月のこと。
口うるさく愛情深い姑――梅乃さんを失い、これからは家で、きっと自分だけが子育てをしていくことになるのだろうなと覚悟していたら、予想は斜め上に裏切られた。
なんと、遅くできた娘にでろでろに溶け崩れた夫・昭秀さんと、初孫に沸いた麻里花ちゃんの両親が、「この子の世話は任せろ!」と言わんばかりに頻繁に家に陣取るようになったのだ。
「秀さんはもともと優しい人だったけど、正直あそこまで溺愛するとは思わなかったし、うちの親も、なんというか……ずっと仲悪かったんで、まさかここまで初孫を喜ぶとは思わなくって」
娘愛・孫愛に燃えた彼らは、その経済力と行動力を惜しみなく発揮し、毎日のようにお祭り騒ぎを繰り広げた。
枝里奈ちゃんが目を開けたとなればポエムを刻み、微笑んだとなれば高級一眼レフを購入し、泣いたとなれば、大の大人がガチになり、あらゆる手段を講じてそれを宥めにかかる。
当然、生後百日目に行われるお食い初めの儀式は、両者が思いつく最高の素材を集め、最高のイベントに仕立て上げようと、昭秀さんとご両親は固い握手を交わしていたそうだ。
「といってもさ、うちの実家って、旦那の家とは違って超フツーの家だからね? 昭秀さんがすっごい自然に『じゃあホテルの会場を押さえますか』『じゃあ祝箸は純金平紋青貝本漆の京塗箸にしましょうか』とかセレブ発言するのを、親は孫可愛さに『うんうん』って頷いてばっかだけど、いやいやいやいや、落ち着こうよみんな! みたいな」
「箸がよくわかんないけど、なんか凄そうなのはわかった。大変だったね……」
「ねー? 結局母親のあたしが一番質素にしたがるっていう謎展開。あっ、もちろん『てしをや』さんが質素ってわけじゃないすけど!」
このまま彼らに任せていてはいけないと思った麻里花ちゃんは、そこで、お食い初めに関わる一切は全部自分が用意すると啖呵を切る羽目になったらしい。
そうして、彼らが反論を始める前に、さっさと俺たち「てしをや」に、「おいしい鯛の焼き方教えてくれませんか? というかむしろ焼いてくれませんか?」と助けを求めたと、そういうわけなのだ。
麻里花ちゃんのこういう、嫌味なく人を頼れるところは、本当に美点だと思う。
俺は、なるほどね、と相槌を打ちながら、ふと彼女の姑――梅乃さんのことを思い出した。
「梅乃さんがいたら、『常盤家の威信にかけて、祝い鯛もほかの品も、全部私が作ります』、とか言い出しそうだよなあ……」
梅乃さん。
かつて俺にとり憑いて、豚汁の作り方と、想いを表す仕草について教えてくれた女性。
料理が得意で、あらゆる物事を丁寧にこなす彼女がもし生きていたならば、きっと初孫のお食い初めも、張り切って用意するに違いなかった。
縁起物の鯛に、汁物、赤飯、煮物に香の物。
おせち料理と同じで、添えられる梅干しにまで願いの籠もったそれらの料理は、きっと梅乃さんの得意分野だと思うから。
なんとなく呟いてしまったら、それを拾った麻里花ちゃんは、なにかを思い出したようにふふっと笑った。
「哲史さん、鋭い。実は、かなりそれに近いことが、すでに起こってるんすよ」
「へ?」
まさか、俺の知らぬ間に、また神様が彼女の魂を誰かにとり憑かせて、料理でもさせたのだろうか。
ぎょっとして聞き返すと、麻里花ちゃんは、「これ見てください」と、スマホに納めた画像を見せてきた。
そこにあったのは、素人目にも美しい、黒塗りの漆器。
家紋のあしらわれた膳と、蒔絵の施された四つの椀から成る、見事なお食い初め用の器だった。
「これは……?」
「これね、枝里奈が生まれて数か月したころ、いきなり家に送られてきた、お食い初め膳セットなんです。お値段、なんとン十万。それもびっくりですけど、……これね、どうも、梅乃おかあさんが、亡くなる前に手配してたみたいなんですよ」
「ええ!?」
志穂と二人、目を見開くと、麻里花ちゃんは神妙な表情で頷いた。
「あたしの妊娠がわかったときにね、どうも梅乃おかあさんが、顔をじろじろ見てくるなあってことがあったんですよね。で、小さく『女の子ね』って頷いて、どこかに電話を掛けてたんです。そのときは、親戚に報告でもしてるのかな、気が早いなってくらいしか思わなかったんですけど……たぶん、あれが注文だったんでしょうね。ちゃんと、女の子用の黒い膳だったから」
「梅乃さん……」
「すごい……」
その肩の力の入り方が凄まじいとともに、妙にその姿はありありと想像できてしまい、俺たちはしみじみと呟いた。
「顔を見ただけで子どもの性別を当てるとか、もはや神がかった力だな……」
だがそれも、彼女ならありえそうと思わせるところが、梅乃さんの梅乃さんたる由縁であった。
と、俺の言葉に深々頷いていた麻里花ちゃんが、ベビーカーに眠る娘の頬を撫でながら、「神がかったと言えば」
ふと口を開く。
「二人とも、駅の向こうの、万福寺ってお寺……っていうか神社、知ってます?」
「えっ!?」
俺たちはまたまたぎょっとした。
知っているどころか、大層お世話になっている神社だ。
わけもなくどぎまぎして「知ってるけど、なんで?」と問うと、麻里花ちゃんはカウンターに身をかがめ、内緒話をするように声を潜めた。
「実はね。この子が生まれたとき、ちょっとした奇跡があったんですよ」
「奇跡?」
「そ。題して、歯固め石の奇跡」
歯固め石。
お食い初めを儀式をするときに、歯が丈夫に生えるようにとの願いを込めて用意する石のことだ。
怪訝な顔になってしまった俺たちに、麻里花ちゃんは説明してくれた。
「あのね、うちの旦那さん、医者のわりにすごく信心深くて、この子が生まれる前、近所の神社全部回って、お守りを大人買いしてたんですけど――」
麻里花ちゃんの夫・昭秀さんは、遅くなってできた娘に、生まれる前からめろめろだった。
そこで、激務の合間に方々の神社を訪れては、安産祈願のお守りを買い集めていたらしい。
めぼしい神社のお守りはすべて揃えおおせ、最後に彼が足を向けたのは、看板の墨まで薄れ、全体に古びた、小さな小さな神社だった。
神職の姿も言えず、お守りなど売っているはずもない、小ぢんまりとした神社。
しかし、なんとなく――本当になんとなくお参りをし、俯いたときに、足元にあったつるりと丸い石が、彼の目に飛び込んできたのだという。
歯固めには、神社の境内から取ってきた石を使う。
そんなことを、そのときの彼はまだ知る由もなかったのだが、妙に心惹かれて、昭秀さんはそれを家に持ち帰った。
ただし、スーツのポケットに入れたそれを、うっかり一緒にクリーニングに出してしまい、以降、取り出すのを忘れていたのだという。
「で、予定月に入った時、ちょうど秀さん、学会で出張の予定があって。予定日にはまだ二週間あるから大丈夫だろうって、あたしも余裕で送り出したんだけど――その夜、産気づいちゃったんすよね」
バイトも休業し、広い家でひとり過ごしていた麻里花ちゃん。
慌ててタクシーを呼び、なんとか冷静を保ちながら病院に向かったものの、昭秀さんのほうはとても落ち着くどころではなかった。
慌てふためいて学会後の打ち上げを抜け出し、ホテルに戻っていい加減に荷物を詰め込み――そのときに、気付いたのだ。
着替え用と思って持ってきた、クリーニングの袋が掛かったままのスーツ。
そのポケットの辺りに、「ポケットに入っていました」のメモとともに貼り付けられていた、つるりとした石の存在に。
それ以外のお守りは、すべて家の神棚に置いてきていた。
昭秀さんは藁にも縋る思いで、始発の新幹線に乗るまでの間ずっと、その石を握りしめていた。
「するとね、ある時からいきなり、じわーってその石が、あったかくなったって言うんですよ。手の熱が移ったんじゃなくて、石の内側からじわーっと。秀さんによれば、それが明け方の五時くらい」
次の麻里花ちゃんの一言に、俺たちは息を呑んだ。
「この子が生まれたのも、五時」
絶句する俺たちに、彼女は小さく笑った。
「ほんとかよって思うでしょ? あたし、あんまそういう話信じないほうだから、普段なら笑い飛ばすんだけど――でも、あたしのほうにも、ちょっと奇跡があって」
深夜病院に駆け込み、激しい陣痛を経て分娩台に運ばれた麻里花ちゃん。
初めての出産、すさまじい痛み――そしてこの場には自分しかいないのだという事実に、そのときとうとう彼女の感情は堰を超え、涙が溢れ出た。
「もー、後から後から涙が出てくるんすよ。助産師さんが、いきみましょう、大丈夫ですから、泣き止んで、ほら! とか言うんですけど、もう、全然だめで。助けて、助けて、誰か助けてって、それだけで頭がいっぱいになって――」
けれど、ふと。
ちょうど分娩室のブラインドから覗く空に赤みが混ざりだした頃。
パニックに陥っていた彼女の耳に、声が届いた気がしたのだ。
――大丈夫。
その、凛とした、落ち着いた、芯の通った声。
幻聴かもしれない、自分の無意識の独り言が聞こえただけかもしれないが――そのときの麻里花ちゃんには、それが、梅乃さんのものに聞こえた。
「声がね、言うんですよ、あたしに。大丈夫、大丈夫って」
――大丈夫。大丈夫です。自信を持ちなさい。
あなたは素敵なお母さんに、なるのだから。
それはずっと以前、「てしをや」で聞いた、義母の言葉。
心を奮い立たせるそれは、あくまで俺――彼女の知り合いだという店員から「伝え聞いた」もので、直接梅乃さんの口からその言葉を聞いたことはなかった。
けれど不思議と、まるで梅乃さんが、今すぐ傍で話しているかのように、ありありと、息遣いまで伴って、その声は麻里花ちゃんの耳に響いたのだった。
「……で、その声を追いかけてるうちに、涙が止まって。しかもちょうどそのとき、留守電のメッセージに気付いたうちの両親も駆けつけて、分娩室の傍で『麻里花ー! がんばれー!』とか叫び出して。なんか……一気に肩の力が抜けたっていうか……思ったんですよね。ああ、大丈夫だ、って」
大丈夫。
大丈夫だ。
無事にこの子を産んでみせる。
だって私は、梅乃おかあさんの自慢の嫁で、――この子の、素敵なお母さんなのだから。
そうして、息を吸い、大きく吐き出し。
いきむこと、たった二回で、麻里花ちゃんの娘はこの世に生まれ出た。
元気な泣き声が周囲に響き渡ったそのとき、部屋には昇りはじめた朝陽が差し込んでいた――
「――…………っ」
黙って話を聞いていた志穂が、ぐすっと鼻を啜る。
目を潤ませた妹は、さっと瞬きをして、ぱたぱたと慌てたように顔を仰いだ。
「ご、ごめんなさい、なんでだか涙が……」
「えー、むしろ嬉しいよ。聞いてくれてありがとね」
麻里花ちゃんはにかっと笑って姿勢を戻すと、「だからね」と再び枝里奈ちゃんの頬を撫でた。
「あたしはこう思うことにしたんすよ。これはもう、奇跡だ。あの日の豚汁のときみたいに、梅乃おかあさんと神様が、あたしに頑張れって言ってくれたんだ。だったら、あたしはもうそれを疑ったり馬鹿にしたりなんかせずに、この日のことを、大切に大切に覚えておこうって」
だからこそ、彼女は、お食い初め膳の品のひとつを、俺たち「てしをや」に頼みたかったのだと言った。
かつて、義母と自分の想いを繋いでくれた、「てしをや」。
梅乃さんの用意した膳に、「てしをや」で焼いてもらった鯛を載せ、夫を支えてくれた神社の石で歯固めをして。
そうやって、自分を守ってくれた奇跡、そして奇跡を思わせるあらゆるものたちを、この娘の晴れの日に取り入れたかったのだと。
「はは、気付けばあたしも、梅乃おかあさんばりに験担ぎする人間になってるっていう」
「――いいと思うよ」
ちょっとだけばつが悪そうに鼻の辺りを掻いた彼女に、俺は静かに告げた。
「すごく、素敵なことだと思う」
頷いてから、ベビーカーですやすやと寝息を立てる赤ちゃんの指に、そっと触れる。
桜貝のような爪を載せた指は、小さく、温かかった。
「……張り切って焼いた鯛だから、いっぱい食って、大きくなってな。枝里奈ちゃん」
想いは巡る。
知らぬ間に自分に注がれている温かな眼差しや、栄養。
それをこの手でたくさん掴んで、たっぷり取り込んで、大きくなってくれるといい。
そしていつか、枝里奈ちゃんが大きくなったとき、彼女の大切な誰かにそれを注げますように。
そんなことを思った。
「……枝里奈の『枝』の字はね、梅乃おかあさんの『梅』の意味なんだ」
愛おしげに娘の前髪を払った麻里花ちゃんが、ぽつんと呟く。
俺は「そうなんだ」と頷きながら、梅乃さんから麻里花ちゃん、そして枝里奈ちゃんへと、優しさが受け継がれていく様を思い描いた。
励ましが、愛情が、栄養が、どうかひとかけらも零れることなく、彼女のもとに届きますように――。
調理台に置かれた盆の上では、焼き上がった鯛が、まるで「任せろ」とでも言うように、堂々と横たわっていた。
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