1皿目 チキン南蛮(後)
鳥もも肉を大きめの一口大に切って、塩コショウをたっぷりと振りかける。
小麦粉をまぶして軽くはたくと、溶き卵にさっとくぐらせて。掬いあげたところを、ぽいと油を張った鍋に放り込む。
低めの温度に熱せられた油は、じゅわ、と静かな音を立ててそれを受け入れた。
「卵の衣なんですね、南蛮って。なんか唐揚げみたいに、小麦粉が外側に付いてるのかと思ってた」
(そうねえ。一般的にどうかは知らないけど、我が家ではいつもこうよ。よく味が絡むっていうんで、下の子が大好物でね)
「ああ、引き籠りの……」
なんとなく呟いてしまってから、なんと失礼な相槌だとはっとする。
慌てて「すみません」と詫びを入れれば、時江さんはもも肉を追加投入しながら、ふふっと笑った。
(いいの、いいの。事実だし。いや、もう事実じゃなくなったのか)
「え?」
聞き返すが、彼女は答えてくれない。
代わりになぜか、
(だから、どうしても今日、あの子にチキン南蛮を作ってあげたかったのよ。哲史くん、本当にありがとうね)
にこにこと感謝された。
それは一体どういう意味、と尋ねかけた、その時だ。
「すみません……」
カラ、と引き戸の開く音とともに、小さな声が響いた。
時江さん、そして俺も、はっと顔を上げる。
暗い店内をきょろきょろと見まわしながら、「お店、まだ、やってるんですよね……?」と自信無げに問い掛けてきたのは、俺より二、三年下と見える青年だった。
真新しいスーツに、いかにもリクルートの時から使っていたのだろう、ストライプの地味なネクタイ。
最近散髪にいったばかりなのだろう、こざっぱりとした髪をした彼こそは、
(ああ、敦志……!)
時江さんの「逢いたい人」――息子の、敦志くんに違いなかった。
彼を視界に入れた途端、時江さんは菜箸を取り落とさんばかりに手を震わせ、ほんの少しだけ目を潤ませた。
心臓がばくばくと高鳴りはじめる。指先にじんわりと熱が走る。
共有した体から、彼女の歓喜がダイレクトに伝わってきた。
――母親というのは、こんなにも、息子のことを想うものなのだと、それで初めて知った。
(ね、ねえ、哲史くん、ちょっと、敦志に声を掛けてやってくれる!?)
生身であったなら、べしべしと肩を叩いてきそうな勢いで、時江さんがそんなことを言う。
体を乗っ取っているわけだし、好きに話せばよいと思うのだが、なんでも神様が定めた制約とかで、唯一声を放つことだけは許されないらしい。「死人に口なしだから」と時江さんは笑って説明してくれたが、中途半端で不親切な仕様だと思う。
とにもかくにも、彼女の指摘で、「いらっしゃいませ」の一言すら告げていなかったことに気付いた俺は、慌てて彼に呼び掛けた。
「あ――いらっしゃいませ! すみません、暗くてびっくりしましたよね。やってますよ。どうぞ、カウンターの好きな席にお掛けください」
「よかった……やってるんですね」
敦志くんはほっと表情を緩めると、おずおずといった様子で店内を進み、俺の立つ斜め前あたりに腰を下ろした。
「あの……もしかして、ラストオーダー後だったりします? 看板は明りが点いてたし、まだ大丈夫かな、と思って来たんですけど……。なんか、いい匂いがしたし、急に腹が減っちゃって」
そわそわと鞄の置き場所を探しながら、彼はそんなことを言う。
看板の照明を灯した覚えのなかった俺は、きっと神様の計らいだなというのを直感的に理解した。
引き合わせる、というやつだろう。
「いえ、本当に大丈夫ですよ。ただ、なんて言うんでしょうかね、ええと……」
咄嗟に、このたった一人の客になんと説明したものかと、思考を巡らせる。
「ええと、そう、本当はね、あんまりにお客さんが少ないから、店を閉じようかと思ってたところなんです。ええと、それで、在庫も絞っちゃってんで、もうチキン南蛮定食しか出せないんですけど、それでも大丈夫ですかね?」
我ながらめちゃくちゃな説明だ。
しかし、敦志くんは、あどけなさの残る顔をぱっと輝かせて、
「チキン南蛮! ちょうどそういう気分だったんです!」
と答えたので、こっそりと胸を撫で下ろす。
これで、「なら、いいです」と席を立たれたのでは、大変なことになるところだった。
綱渡り的な展開に冷や冷やしていると、少し落ち着いたらしい時江さんが、途端にあれこれと注文を付けはじめた。
(ねえねえ哲史くん、お絞りってどこかしら。出してくれる? あと、この子ちょっと酔っ払ってるみたい。お冷ってあげられないかしら。あと、今、床に置いた鞄、新品だと思うから、できれば椅子の上に乗せてもいいよって言ってあげて)
お節介おばさんの本領発揮だ。
俺は「酔っ払いって本当か?」などと思いながら指示に従ったが、水を差し出した瞬間一気に飲み干した彼を見て、わずかに目を見開いてしまった。
「……喉、乾いてたんですね」
「はは、すみません。久々に飲んできたら、結構酔っちゃったみたいで」
「いえいえ。あ、よければもう一杯どうぞ」
水のお代りと、遅ればせながら温かいお絞りを差し出す。
あー酔いが覚める、と気持ちよさそうにタオルに顔を埋める彼を見て、母の愛とは偉大だと、俺はしみじみ頷いた。
「……ええと、じゃあその、チキン南蛮ひとつ、ということで。今揚げてるんで、少々お待ちくださいね」
形ばかりオーダーを通すと、敦志くんはお絞りからぱっと顔を上げ、「お願いします」と丁寧に返してくれた。
なんというか、犬のようだ。時江さんも可愛がるわけだろう。
低温でじっくりともも肉を揚げている間に、南蛮酢とタルタルソース、そして付け合わせの準備に取り掛かる。まったく、料理というのはマルチタスクだ。
時江さんは、迷いのない手つきで砂糖と醤油、酢を混ぜ合わせ――計量せずに、直接瓶を鍋に傾けて入れてしまうのだからすごいと思う――、それを煮立たせはじめたかと思うと、かたやでは茹でていた卵を引き上げて水に放り込み、更にキャベツをむしってきれいに洗いはじめた。
彼女のCPUは、デュアルコアを通り越してマルチコアであるに違いない。
俺だったら、とっくにフリーズしていること間違いなしだ。
と、キャベツと大葉を重ねた時江さんが、おもむろに包丁を握ったと思うと、たたたたたんと軽快なリズムでそれを打ち鳴らしはじめる。
(は……速え……!)
俺は、素早く上下運動を繰り返す包丁に感動すら覚えながら、己の右手を見つめた。
なるほど、千切りとはこういうものか。
(いちいち包丁をキャベツ圏外まで持ち上げるんじゃなくて、ぎりぎりのところまで引き上げるだけなんだな。で、右手はただ上下に動かすだけで、左手の指の関節で、包丁の位置をコントロールしてるんだ)
そう、こういった感覚こそを知りたかったのだ。
右手は上下運動、左手で調節。
そう俺が頭に叩き込んでいる内に、時江さんは千切りを終え、それをほぐしてふんわりと盛りつけると、横にトマトとレモンをあしらうという早技を見せた。
「あ、ドレッシングはあっちの冷蔵庫に……」
ありますよ、と小声で告げるが、彼女は不要だと告げて、今度はもも肉に南蛮酢を吸わせ、更にタルタルソースの制作に取り掛かった。
半熟に茹でた卵の殻を剥き、粗く潰す。
そこに、みじん切りにした玉ねぎと、たっぷりのマヨネーズ、ケチャップに、粒マスタードを少々加えれば、ソースの完成だ。
南蛮酢の吸い上げを完了したもも肉を掬いあげ、それを皿によそうと、上から豪快にタルタルソースを掛ける。
更には、余った南蛮酢もスプーンですくい掛け、つゆだく仕様だ。
茶色くしっとりとした衣が、そしてタルタルソースの上をとろりと流れる南蛮酢が、照明を跳ね返してきらりと光った。
賄い用にと冷凍していた余りご飯を解凍し――こればかりはご容赦いただきたい――、明日の朝、身内で食べようと思っていた味噌汁、漬物をよそうと、とうとうチキン南蛮定食が完成である。
「お待たせしました」
皿が動くのに合わせて、湯気をたなびかせているチキン南蛮を、そっとカウンターに置く。
あつあつの一品を見て、敦志くんがごくりと喉を鳴らした。
「いただきます……」
彼は丁寧な手つきで箸を取ると、まずはキャベツの千切りを攻略しだした。
これはわかる。葉っぱの処理を先に済ませて、好物を最後に頂こうというスタイルだろう。
しかし予想に反して、敦志くんは一口だけキャベツを食べて、小さく頷くと、今度は味噌汁に手を伸ばしはじめた。
(むむ? 三角食べか?)
なんとなく想定外で、つい彼の動きを目で追ってしまう。
と、温かな味噌汁を口に含んだ彼が、ほっとしたような表情を浮かべたので、ついついこちらまで腹が減ってきてしまった。
(……そういや、夜の部が終わってから、賄いも食わずに喧嘩して料理して、なにも腹に入れてないんだっけ)
その事実を思い出すと、いよいよ空腹が耐えがたいものに感じてくる。
次に敦志くんは、ご飯茶碗を箸のたった三往復で半分にし、――だめだ、見ているだけで、もうこちらも食べたくて仕方ない。
だって、つやつやとした飯が。あったかい味噌汁が。
なにより、じゅわっと南蛮酢を吸った鳥もも肉が、俺を呼んでいるのだから。
もとより、チキン南蛮は俺の大好物でもあった。
(……ねえ、哲史くん)
そんな時、それまで黙々と調理に専念していた時江さんが、遠慮がちに声を掛けてきた。
(もし、願いが叶うなら……おばさんも一緒に、この子とご飯、食べていいかなあ)
もしや心を読まれでもしたのかと、ぱっと顔を上げてしまう。
すると時江さんはなにを思ったか、慌てたように説明しだした。
(ほら、この子って、最近引き籠ってたじゃない? 同じ家にいても、なかなか一緒にご飯、食べてくれなくてさ。最後に一緒に食卓を囲んだ記憶が、半年前くらいで止まってるのよ。だから……どんな顔で食べるんだっけ、とか、気に入ってくれたのかな、とか……。前みたいに、一緒に食卓を囲む感じを、……ね。味わいたいのよ)
会話は、できないけどさ。
そう切なそうに付け足された時、俺は咄嗟に口を開いていた。
「あの」
「――え?」
今度は漬物に箸を伸ばしていた敦志くんが、きょとんと顔を上げる。それはそうだろう。
俺は、焦って言葉を探し、とにかく思い付いたままをぺらぺらと並べ立てた。
「あの、俺も一緒に、食っていいですかね。実は、その、ええっと、シフトの関係で、賄いを食いはぐれちまって。ぺこぺこなんですよ。本当は閉店まで我慢って思ってたんですけど、お客さんがあんまりに美味しそうに食うもんだから、つい」
「…………」
「……い、いや、やっぱ無いですよね。ていうか普通に失礼ですよね。すみません、気にしないでください。はは――」
押し黙ってしまった敦志くんに、俺は冷や汗を掻いた。
やばい、まずいぞ。
初対面の店員から、一緒に食っていいかなんて聞かれたら、俺ならドン引きだ。
しかし。
「…………どうぞ」
しばしの逡巡の後、敦志くんはそう答えた。
「っていうかアレですよね、俺が来たから閉店できなくなっちゃたんですよね。すみません、もう、全然食べちゃってください」
慌てたように、そんな言葉まで付け加えて。
(……こいつ、天使か)
なんとなくだが、彼のこういった性格は、時江さんの教育の賜物なのだろう。
きっと、すごく気配りをするやつで、すごく責任感が強くて、恐らくはだからこそ、就活に失敗した自分を許せなくて、引き籠ってしまったのだ。
「あの……ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……」
俺はおずおずと頷くと、自分のチキン南蛮の支度を始めた。
味見程度だなんて勿体ないことはしない。食うと決めたら、がっつりと食うのだ。
ただ、さすがに初めての客の隣に陣取るのは気が引けて、作業用の丸椅子を引っ張り出して、厨房の中で食べることにした。
時江さんにそれでよいかと尋ねると、それこそがよいと答えが返る。
俺は首を捻ったが、いったんその疑問を棚上げして、目の前の皿に集中しはじめた。
まず箸を伸ばしたのは、敦志くんと同じキャベツの千切りだ。こういった葉っぱ類は、早々に殲滅してしまうに限る。
しかし、一口食べてみて、予想外の味わいに目を見開いた。
――うまい。
限りなく細く切られたキャベツは、たっぷりと空気を含んでいて、しゃくしゃくと瑞々しい食感がする。
コンビニのサラダではまず味わえない、澄んだ甘みがあった。
しかも、時々混ざる大葉の香りが、口の中をさっと爽やかにしてくれる。
(それ、ちょっと塩を掛けてね、レモンを絞ると美味しいわよ)
時江さんがアドバイスしてくるのに、無言で頷いて塩の瓶を取る。
と、向かいのカウンターで全く同じ動作をしている敦志くんと目が合った。
「あ……」
俺が塩とレモンを手にしていることに気付くと、彼はちょっとだけ目を見開く。
そして、照れたように笑った。
「やっぱ、こうするの、うまいですよね。外じゃあんまりやらないんですけど、……大葉入りのキャベツの千切りって、家と同じだったもんだから、つい」
「いえ」
言葉に窮した俺は、「そうですよね。うまいですよね」と曖昧な相槌を打った。
(それにしても……)
改めて、こんもりと盛られたキャベツの山を見下ろす。
前菜として機能しうるこの千切りだが、しかし、この爽やかさは、チキン南蛮本体を食べる時にも少々取っておきたかった。
そこで、俺はいったんキャベツから撤退し、トマトを頬張ると――気付けば、すっかり先程の敦志くんと同じ順序だ――早々にご本尊にありつくことにした。
箸に重みを感じるほどに、どっしりとタルタルソースをまとわせた、鳥もも肉。
持ち上げると、つやつやと黄身がかったソースの上を、飴色の南蛮酢が流れ落ちていく。
口許に近付ければ、それだけでつんと酸味だった香りが食欲をそそる。
粗く潰された茹で卵の塊を取り落とさないよう気を付けながら、そっと口に運び――
(んん!)
噛み締めた瞬間、衣からは南蛮酢が、肉からは脂のうまみを閉じ込めた肉汁が、じゅわっと溢れだした。
(うめえ!)
ひんやりとしたタルタルソースの下、衣の内側では、まだ肉汁が舌を焼きそうなほどの熱さで渦巻いている。
その温度差が、たまらない。
いや、ギャップがあるのは温度だけではない。
きゅんと甘酸っぱい南蛮酢の味わいと、こってりとしたタルタルソースの濃厚さが、絶妙に互いを引き立て合っているのだ。
塩コショウで味付けしたもも肉自体も、ふんわりと柔らかく、肉そのものの丸い甘みを帯びている。
そこにちょっとレモンを絞ってみたりすると、また爽やかな酸味が加わって、至福だ。
俺はしばし、恍惚の面持ちで肉を頬張った。
(ねえねえ、哲史くん! おいしく食べてくれるのはいいんだけど、もうちょっとこう、うちの子と会話とかさ、してくれないかなあ!)
もはや本能のままにチキン南蛮をむさぼっていると、時江さんからそんな注文が飛ぶ。
はっとした俺は、慌てて顔を上げ、その視線の先にいる敦志くんを見て、はてと首を傾げた。
敦志くんは、箸でチキン南蛮を一切れ持ち上げたまま、じっとそれを見つめていたのだ。
それはまるで、思い詰めたような、なにかに戸惑っているような――いろんな感情を、ぐっと堪えている顔だった。
彼は、ゆっくりと箸を持ち上げ、恐らくは南蛮酢の甘酸っぱい匂いを吸いこみ、そこでまたぐっと口を引き結ぶと、とうとう、鳥もも肉を頬張った。
そして。
「――……っ」
肉を噛み締めるのと同時に、じわっと目を潤ませた。
「……っ、……ぅ、……」
咀嚼しながら、は、は、と口から息を逃している。
それは、揚げたての肉の熱を追いだしているようにも見えたが――、
(……泣いてる?)
必死に涙を堪えているようにも、見えた。
突然のことに、固まってしまう。
俺の不躾な視線に気付いたらしい敦志くんは、慌てて箸を置くと、おしぼりを取り、額を拭くふりをしながら、こっそりと目尻を拭った。
だが、涙は止まらなかったらしく、しばらくお絞りを目に押し当てる羽目になっていた。
「――……すんません。驚きますよね」
結局偽装は諦めたらしく、お絞りに顔を埋めたまま、湿った声で呟く。
「……なんか……すごく、……っ、懐かしい味が、したもので」
懸命に、声が震えないように努力しながら紡がれた言葉に、俺ははっとした。
――伝わったのだ。
敦志くんに。時江さんの、味が。
(敦志……!)
俺の中にいる時江さんが、つられて目を潤ませはじめる。
勝手に涙を流そうとする体に慌て、俺は咄嗟に目に力を込めた。
だって、俺がここで泣いてしまっては、自分の芸に笑ってしまうお笑い芸人みたいだと思ったから。
「そんな懐かしい味が、しましたか?」
気を逸らすつもりで質問を投げかけてみたところ、敦志くんはお絞りを目に押し当てたまま、こくりと頷いた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、目を赤くしたままぎこちなく微笑むと、ぽつぽつと語ってくれた。
「実は、……チキン南蛮って、俺、すごい好物なんですよ。それで、……母親も、俺にいい事があった時とか、逆に落ち込んでる時とか、よく、……作ってくれて」
BGMすら掛からない店内。薄暗い照明。程よく酔いのまわった体。
あとはきっと、神様の計らいとやらが上手い具合に作用して、敦志くんは、素直な思いを吐露してくれる。
俺はなるべくそれを邪魔しないよう、静かに耳を傾けた。
「姉貴が結婚してからは、俺と母親の二人で、飯を食うことが多くって。うちの母親、台所で作業しながら食べるような人だったから、ちょうど……こういう距離感で、食べることとか、多かったんですけど」
俺は、先程時江さんが「それこそがよい」と請け負った理由を、ようやく理解した。
キッチンに立つ時江さんと、カウンターに座る敦志くん。
これこそが、二人の「定位置」だったのだ。
「うちの母親、ほんとおしゃべりで、お節介で……。飯の時は、ほぼ一人でずっとなにかしゃべってましたね」
敦志くんは、自分を落ち着かせるためかお冷をすすると、ちょっとばつが悪そうに唇を噛んだ。
「実は俺、就活がうまくいかなくて、半年くらい……いわゆる、引き籠り、しちゃって。母親とのちょっとした会話も耐えられなくて、飯の時も、ずっと部屋に籠ってたんですよ」
全ての発言が、詮索に思えてしまったのだと、彼は言った。
自分が恥ずかしくて、全てが苛立たしくて、どうしようもなかったのだと。
それは、母親が心配そうな、困ったような表情を浮かべるたびに、度合いを増していったのだと。
「顔も見たくなかったんじゃない。合わせる顔が無かったんです。それで、いつも母親が寝てから、こっそりと飯を食ってました」
でも。
敦志くんは、またなにかを思い出したように、ぐっと歯を食いしばった。
「毎日、毎日、カウンターには絶対に料理が置いてあって。どうしてか、本当に辛い日には、必ずといっていいくらい、チキン南蛮が、……っ、あって。メモとかも付いてるんですよ。でも、恥ずかしくて、……本当は嬉しかったくせに、ぐちゃぐちゃに丸めて、……結局捨てられずに、部屋に持ち帰ったり、して」
姉には、帰省するたびに「母親に甘えるな」と叱られた。
自分でもわかっていたし、そう思ってもいた。しかし、変えられなかった。
部屋から、家から再び足を踏み出すのが、怖くてしかたなかった。
しかし、そんな幼稚な葛藤の日々は、ある日突然、強制的に打ち切られる。
――母親の、死によって。
「信じられなかった。そんなことって無いと思った。あんな……突然世界が変わるようなことって、無いですよ」
低く呟く敦志くんに、俺は沈黙を守った。
その気持ちは、痛いほどにわかったから。
相槌を打つのが辛くなる程に、わかったから。
敦志くんはぐいっとお絞りで顔を拭くと、仕切り直すように口調を立て直した。
「それで、こうしちゃいられないってことで、俺もようやく、就活を再開したんですよ。なんでもいいから、がむしゃらに取り組めるものがほしかったのかも。でもおかげで、このたびようやく、就職が決まったんです」
契約社員からのスタートですけどね、今日がちょうどその歓迎会で、と彼が名前を上げたのは、最近駅近くに誘致された大企業だった。
俺は、時江さんが今日この日にチキン南蛮を作ることにこだわっていた理由を、ようやく理解する。
思わず「すごいじゃないですか」と言うと、彼は照れたように笑った。
いや違う。
彼は、笑おうと、努力していた。
「……やってみたら、些細なことだったんです。家から出るのも、就活するのも。母親が突然いなくなってしまうことに比べれば、全然、なんにも、怖くなんてなかった。なのに、……っ」
笑みの形に細められていた目から、ぼろりと涙がこぼれ落ちる。
彼は、「すんません」と目にお絞りを押し当て――とうとう堪えきれず、嗚咽を漏らした。
「なのに、どうして……っ、俺は、母さんが、生きてる間に、それができなかったのかな、って……。生きてる間に、就職して、飯も、ちゃんと、向かい合って食って……、一言くらい、感想を、……うまいって……ありがとう、って……! ……ぅ」
敦志くんは、手の甲が真っ白になるくらいの力で、お絞りを握りしめていた。
新品のスーツに包まれた肩は細かく震えている。
時江さんのことを、「母親」ではなく「母さん」と呼んでいる自分にも、気付いていないようだった。
(敦志……!)
俺の中にいる時江さんは、泣き崩れる息子を前に、自身もまた鼻を啜っていた。
(敦志、敦志……! 大丈夫よ! お母さん、今ちゃんと、聞いたから!)
大丈夫よ。大丈夫。
そう唱え続ける口調の、なんと優しいことだろう。
俺は居ても立ってもいられなくなって、いっそもう、時江さんは今俺に乗り移っているんだよと――そのチキン南蛮は、本当に時江さんが、君のために作ったんだよと、伝えてしまおうかと口を開いた。
が、言葉が出ない。
不思議なことに、乗り移りの経緯を話そうとすると、途端に喉から声が掻き消える感触がするのだ。
これが、時江さんの言っていた、神様が定めた制約というやつだろうか。
ぞっとするよりも、焦燥が先に立った。
だって、伝えなくては。
俺と――そして妹と同じ想いを持て余している敦志くんに。
「ああすればよかった」「こうすればよかった」と自分を責めつづけ、自らを追い込むようにして号泣する彼に、「大丈夫だよ」と。
この際、嘘でもいい。なんでもいい。俺は頭をフル稼働させて、声を上げた。
「――もしかして君は、佐々井敦志くん、かな?」
「……え?」
敦志くんが、すっかり赤くなった目を瞬かせる。
戸惑ったように、「そうですけど……」とこちらを窺う彼に、俺は持てる全ての演技力を掻き集め、なるべく自然に話しかけた。
「それなら、よかった。実は、このチキン南蛮はね、時江さん……君のお母さんに、教えてもらったレシピなんだ」
「え……」
涙が止まり、代わりに目が大きく見開かれた。
よし、信じている。俺は一気に攻勢を掛けた。
「時江さん、実はこの店の常連でね。仲良くなって、教えてもらったんだよ。君の話もよくしてたよ。自慢の息子だって」
店の常連、という辺りは真っ赤な嘘だが、それ以外はほぼ事実だ。
俺の意図を悟ったのか、時江さんが食いつくように補足をしてくれた。
(ありがとう、哲史くん! あっ、ねえ、この子、チキン南蛮のほかに、メンチカツとか、コロッケとか、そういう揚げものが好きなのよ。で、絶対ソースよりも塩派。それも伝えて! それで信じると思うから)
「君、メンチカツとか、コロッケとか、揚げものが好きなんだって? ソースじゃなくて、絶対塩で食べる派とか」
「母さん、そんなことまで……」
敦志くんは顔を赤くしたが、それですっかり、話を信じてくれたようだった。
続きを促すように見返される。
時江さんが、祈るように囁きかけてくる内容を脳裏で拾い上げ、俺は口を開いた。
「それで、ええと……時江さん、よく言ってたよ。敦志くんは、いつも自分の料理を残さず食べてくれる。それが本当に嬉しいって」
脳内では、時江さんが忙しく捲し立てている。その内容を、即座に伝聞の形に置き換えて語るというのは、なかなか骨の折れる作業だ。
俺は唇を舐めて、とにかく、代弁人の役回りを演じつづけた。
「正直、味付けをやっちまったな、って思った時でも、三日くらい同じおかずが続いても、朝になったらお皿は必ず空になって、流しに置かれてた。自分でもちょっと無理かもって思ったくらい、塩っ辛い明太パスタが空になってた時は、むしろ感動したって」
「……あの日は、一晩で水を二リットルくらい飲みました」
敦志くんが、泣き笑いのような表情を浮かべる。
俺はしたり顔で頷いた。
「やっぱりさ、作り手にしてみれば、残さず食べてもらえるだけで、……それだけで、『ごちそうさま』『うまかった』ってことなんだよ」
少しだけ幼さを残した顔が、口を引き結んで俯く。
俺は声に力を込めた。
伝われ。
「だから、大丈夫。敦志くんの想いは、きっと、いや、間違いなく、時江さんもわかってると、思うよ」
どうか、伝わってくれ。
しん、と沈黙が落ちる。
針の落ちる音さえ響きそうな静寂の中、俺はひとり冷や汗を浮かべた。
出過ぎたことを言っただろうか。
余計だったろうか。
しかし。
「――……いただきます」
敦志くんは、ずっと鼻を啜ると、小さくそう呟いて、食べかけだったチキン南蛮に再び手を伸ばした。
勢いよく鳥もも肉を、キャベツを、白飯を、味噌汁を、平らげていく。
「……うまいです。……やっぱ、この味は、何度食べても、うまい」
時折、唇の端を震わせ、ぐっと言葉を詰まらせながら。
そうして、タルタルソースの一滴すら残さず完食すると、静かに箸を置いた。
それから、丁寧に手を合わせた。
「……ごちそう、さまでした」
無理矢理笑みを浮かべた頬には、まだ涙の跡が残っている。
けれど、その赤く充血した瞳には、ほんの少しだけ、晴れ晴れとした表情が宿っているように見えた。
「……頑張ってね」
ごちそうさま、という言葉に対して、なんと返すのが適切なのかを、俺は知らない。
でも、時江さんがそう呟いたので、俺はなんとなくその言葉を反復した。
食べてくれてありがとう。就職おめでとう。置いていっちゃってごめんね。
お父さんや、お姉ちゃんをよろしく。
大好きよ。
そういった想いが、その一言には、ぎゅっと込められている。
敦志くんは「はい」と頷くと、興奮が冷めてきたのか、少し照れたような笑みを浮かべた。
食事も終え、なんとなく話題も切れた俺たちは、特にそれ以上の会話を交わすこともしなかった。
ややあって、敦志くんが身支度を整えはじめ、料金ぴったりを支払ってくる。
「ちょうどお預かりします」
硬貨を掲げ持ったまま軽く会釈すると、彼は再び「ごちそうさまでした」と小さく唱え、店を出て行こうとした。
「あの!」
ふと思い付き、俺は声を掛けてみる。
振り返った敦志くんに、
「あの、差し支えなければ、名刺ってもらえませんか。……せっかくなんで」
「ああ、ぜひ」
恐る恐る提案してみたところ、彼は例の人を疑うことを知らない表情で、こちらへと引き返してきてくれた。
どうやら、彼の方も、この出会いになにかしら感じるものがあったらしい。
敦志くんは「今日もらってきたばかりなんですよ」と、ぎこちない手つきで名刺を取り出すと、新社会人そのもののぎくしゃくした動きで、俺にそれを差し出した。
四角い紙の上では、大企業のロゴが誇らしげに光っている。
「就職おめでとうございます」
俺がそう言うと、敦志くんは照れたように耳を掻き、そして今度こそ店を出ていった。
また来ます、と付け加えて。
足音が遠ざかり、やがて消える。
ぽつんと明りの灯された厨房で、俺はしばらく佇んでいた。
――大量の涙を、流しながら。
「ちょ、……と、時江さん……、そんな、激しく、泣かないでくださいよ……! ううっ」
(だってええ! もう我慢できないわよおー! 哲史くんー! ありがとお! 本当にありがとおお!)
俺は、嗚咽しながら泣きやもうとし、しかしその傍から号泣するという、よくわからない状態に陥っていた。
(ううう……! 敦志い、おめでとう! よかったねえ。よかったねええ!)
時江さん、というか、俺の体は、先程彼から入手した名刺第一号を、宝物のように握りしめている。
彼女はそれから三十分近く泣きつづけ、ついで、もういいよと叫び出したくなるくらい、俺に対して御礼を述べつづけ、――やがて、溶けるようにして姿を消した。
不思議なことに、もらったはずの名刺も、忽然と手の中から消え失せていた。
***
チュン、チュン、と雀の鳴く声がする。
店の玄関から差し込む陽光と、裏戸の鍵が回る音で、俺は瞼をこじ開けた。
「――あれ? なんで明りが……って、お兄ちゃん!?」
「う……?」
志穂がぎょっとしたように叫ぶ。
俺はくあ、と伸びをした。
二十四にもなる大人が、テーブルに突っ伏して寝たりするもんじゃない。
「な、……どうしたの? まさか、一晩中ここにいたわけ!?」
きゃんきゃんと騒ぐ志穂の声が、うるさい。
一体なんでまた、だとか、なにしてたのよ、だとか、腰に手を当てて詰問しはじめた妹に、俺は親指で厨房を――というか、その中に座す、業務用冷蔵庫を指した。
「ん」
「ん、ってなによ、んって。せめて単語の一つも発してよね」
ぷりぷりと怒りながら、それでも興味はあったのか、志穂が冷蔵庫を開ける。
そして、その中に収まっていたものを見て、やつは絶句した。
「なに、これ……」
そこにあったのは、緑の中身を溢れさせた、巨大なボウル。
時江さん直伝の、隠し味に大葉を混ぜた、キャベツ一玉分の千切りだった。
「まさか、これ、お兄ちゃんが……?」
「おう」
俺は、いまだ腫れた感じのする右手をぷらぷらと振り、答える。
コツは掴んだとはいえ、そもそも包丁を握る力すら乏しかった俺は、相当な苦行を強いられたのだ。それもまあ、一玉分も刻み続ければ、だいぶ慣れたが。
「一晩で、どうしてこんな急にうまく――」
「なあ、志穂」
不審げに目を細める妹を、俺はのんびりとした口調で遮った。
「悪かったよ。やっぱ、キャベツは千切りにしなきゃ、ダメだよな。特にチキン南蛮は」
「は……?」
その時俺の脳裏にあったのは、甘酸っぱい味わいの南蛮酢が、キャベツにしっとりと絡みつく様子だった。
大葉入りの千切りは、こってりとしたチキン南蛮の口直しだ。
だが、シャキシャキだったキャベツが甘酢を吸って、まるでピクルスのような味わいを呈するのも、実に美味だった。
そしてそれが実現するためには、味の絡みやすい、細い千切りでなくてはならないのだ。
――メニューも、付け合わせの内容も形も、全部全部、悩み抜いて決めてきたものなの!
志穂の言葉が蘇る。
そう、俺はその意味を、昨日よりほんのちょっとだけ理解していた。
息子の好物だからと、いそいそと南蛮を揚げていた時江さん。
なるべく、できたてのものを、熱々のうちに。
満足できるようにタルタルソースはたっぷりかけて、でも、口直しも忘れずに。
酔っていたら水を飲ませて、辛そうだったら、あったかいもんを食わせて、胃の底からあっためて。
口幅ったいことを言えば、――料理というのは、想いなんだ。
付け合わせの一つを取ったって、それがなにかしらの意図や、思いやりに溢れているのだということを、俺はようやく理解したのだった。
「とりあえず、そんだけありゃ、今日の昼営業の分くらいは、足りんだろ」
「お兄ちゃん……」
志穂が、戸惑ったような、驚いたような顔をして、黙り込む。
しかしやがて、物思いを振りきるように顔を上げると、やつは不敵な笑みを浮かべた。
「なによ、やればできんじゃない。次は、みじん切りも頼むね。木端微塵じゃないやつよ!」
「は!?」
ぎょっと身を起こす俺を尻目に、志穂は鼻歌を歌いながら準備を始める。
「てしをや」の開店まで、あと三時間ほど。
外は、客入りに恵まれそうな、からっとした冬晴れだった。