4皿目 〆の鯛茶漬け(後)
店内に足を踏み入れた青木さんは、店の方々に値踏みするような視線を投げかけると、やがて俺に向かって「ん」とでも言うように短く頷きかけ、その場に佇んだ。
夏の夜だというのに、かっちりとした長袖のシャツにスラックス。
袖なしのベストまで着用し、小脇にはなぜかブリーフケースまで抱えている。よくおじいさんが散歩のときに着けるような帽子がなければ、これからご出勤ですか、と問いたくなるような出で立ちだ。
俺の中の芳子さんが、げんなり、といった感じで、
(あなた……。地域の飲み会にまで、その一張羅で行ったの……)
と呟く。
なんでも今日は、芳子さんたちの属する自治体での集会と、親睦会があったらしい。
白髪まじりの髪や、鋭い目のあたりから、えもいわれぬ頑固オーラを醸している青木さんは、つまらなそうな顔で、再び「ん」と言うように俺を見た。
どうやら、席に案内せよということのようだ。
「あ、いらっしゃいませ! どうぞ、カウンターのお好きな席にお座りください」
慌てて声をかけて席に誘導し、腰を下ろした青木さんに冷えたお絞りと水を渡す。
その間、ただ「ん」と視線を向けるか頷くばかりで、「どうも」の一言すらない夫を見て、芳子さんがさめざめと嘆いた。
(ごめんなさい。ごめんなさいねえ。うちの人、本当に横柄で……。不愛想だし、礼の一言も言わないけどね、その……、根が失礼なだけなのよ)
フォローしているような口ぶりで、むしろ貶めている。
べつに「てしをや」のお客さんでも、こういった態度の人は多い。
一定の年齢がいった男性客など、なおさらだ。
俺は、芳子さんにだけわかるように「いえいえ」と小さく首を振ると、努めてにこやかに青木さんに話しかけた。
「いらっしゃいませ。夜になっても暑いですね」
「ん」
「あ、店の看板、点いてなかったかもしれませんけど、営業中ですんで、気にしないでくださいね」
「…………」
「はは。お客さんもほかにいないので、ちょっと気になるかもしれませんが……」
「…………」
青木さんは、特に視線を合わせるでもなく、カウンターの木目を眺めている。
ぼそっと、
「……暇な店のようだな」
と呟くのが聞こえ、俺は表情を笑顔のまま固まらせた。
(ごめんなさい。ごめんなさいねえ……! 事実を、そのまま言っちゃう人なのよ……!)
芳子さん。
気持ちは嬉しいけど、さりげなくあなたの言葉が俺の心を後輪で轢きにかかっています。
暇なんじゃなくて、本来閉店のところを、特別に開けているだけですから!
だが、そんな想いはおくびにも出さない。
接客業は感情労働。俺もそろそろこの手の客のあしらいは慣れたものだ。
俺はにこっと笑みを浮かべて、再び青木さんに話しかけた。
「実は、閉店時間が迫ってまして。お客さんが少ないのは、だからですかね。そう、そのせいで、お出しできるメニューも少々限られておりまして……」
「……ふん。暇なうえに、メニューの選択肢もないのか……」
「…………」
ぶぶ漬け、いかがどす?
京都弁で茶漬けを勧めると、「はよ帰れや」の意味になるらしい。
べつに、今ふと思い出しただけで、他意はないが。
(ごめんなさい……! ごめんなさい!)
芳子さんは、俺の身体で平身低頭の姿勢を取りそうな様子である。
それをぐっとこらえ、俺は「ははは」と若干やけくそ気味に言葉を続けた。
「申し訳ないですー。今日ご用意できるのは、鯛茶漬けくらいなんですけども」
これで嫌がられたとしても、もう無理やり話を進めて出してしまおう。
だってこれは、芳子さんいわく、料理ではなく引導なのだから。
そんなことを考えていた俺だったが――
「――……」
青木さんは、大きく目を見開いた。
「……鯛茶漬け?」
それはまるで、喉がからからに乾いているところに、思わぬ人から水を差し出されたときのような。
強い日差しに俯いているところに、ふと影を落とされたような。
驚きと安堵とが入り混じった、不思議な表情だった。
「あ……はい。それでも、いいですか?」
ちょっとびっくりしながら確認すると、青木さんは我に返ったように視線を逸らし、小さく頷いた。
「――……ああ」
なんだか、ふてくされた子どものような顔だった。
***
急須に多めの茶葉を入れて、熱湯を注ぐ。
芳子さんいわく、茶として楽しむならば、もう少しぬるいお湯のほうがいいのだが、鯛に熱を通せるくらいでなくてはいけないため、この温度でいいらしい。
お茶の苦みが立って、それがまたいいのだと彼女は笑った。
茶葉を蒸らしている間に、ほかほかの白飯を茶碗に取り、その上に、たっぷりの鯛のごましょうゆ漬けを並べていく。
小皿に刻みねぎと海苔と漬物、そしてわさびを添えて、急須と一緒に差し出せば、あっという間に鯛茶漬けセットの完成である。
「お待たせしました」
さして待たせてもいないのだが、定型句を唱えてそっと膳を差し出すと、青木さんは、しばらくの間まじまじと茶碗を見つめた。
そうして、無言で急須を取り上げると、中身をそっと茶碗に回しかけた。
と……、という静かな音とともに、見る間に鯛の切り身の縁が白くなっていく。
香ばしいごまの香りと、緑茶特有のほのかに甘い香りが、湯気となってふわんと立ち上った。
と、茶碗にたっぷり注いでなお、緑茶が余ってしまったらしい。
青木さんが急須を掲げたまま、ちらりと視線をさまよわせる。
するとまさに阿吽の呼吸、といった感じで、芳子さんが俺の手を持ち上げ、彼に空の湯呑みを差し出した。
残りはこちらにどうぞ、ということだろう。
「…………」
その挙動に、青木さんが驚いたように目を見張る。
彼は黙って湯呑みを受け取り、そこに緑茶を注ごうとしたが、しばしの逡巡の後、急須を下ろして話しかけてきた。
「――……君も」
「はい?」
声が小さくて、聞き取れない。
思わずカウンターに身を乗り出すと、青木さんはちょっとばつが悪そうに口元を歪め、それから、さらに小さな声で告げた。
「……君も、一緒に……食わないか」
まさかのお誘いだ。
ぽかんとしていると、相手は言い訳するような早口で続けた。
「茶が、もったいないし。見れば、鯛もまだあるようだ。店じまいが近いんだろう? なら腹が減ってるかと思ったんだが……まあだが、べつに、どうしてもというわけじゃない。ただ、ひとり食っているところをまじまじ見られるのもなんだと――」
(……ごめんなさいねえ、素直じゃなくて)
脳裏では、芳子さんが苦笑している。
彼女は、戸惑う俺に、そっと声をかけてきた。
(こんなおじいさんとじゃ、いやかもしれないけど……哲史くん、一緒にお茶漬け、食べてくれる?)
もとより、鯛茶漬けの味が気になっていた俺としては、願ってもない話だ。
まだ「いや、べつに、私だって普段はこんななれなれしい真似はしないが、あまりに暇そうだし」とかなんとか呟いている青木さんを遮り、俺は力強く頷いた。
「――はい」
「ほかに客もいないのならまあ、と、そう思って――……え?」
「はい。お言葉に甘えて、一緒にいただきます」
笑いかけると、青木さんは自分で言い出したくせに驚いたような顔をして、それからふいと顔を背けた。
「そうか。好きにしなさい」
「はい。ありがとうございます」
ちょっとだけ、噴き出しそうになる。
偏屈で横柄だと思っていた青木さんに、少し親しみを覚えはじめながら、俺は急須を受け取った。
先ほどと同じ手順で茶碗に白飯と鯛をよそい、緑茶を回しかける。
その上に、ねぎと海苔を散らし、茶碗の縁にちょこんとわさびを擦り付けて――
「いただきます」
俺と青木さんは、同時に箸を取った。
真っ先に掬うのは、もちろん一番大きな鯛の切り身。
醤油の色を吸ったごまが、どっしりと鯛にまとわりつくその量といったら、箸に重みを感じるほどだ。
熱々の緑茶に触れて、わずかに先端を白く反らせたそれを、薬味や白飯とともに口に運ぶ。
「……おお……」
とたんに、思わず感嘆の声がこぼれた。
口にふわりと広がる、うまみ、うまみ。
ごまの香ばしい味わいに、醤油のこく、なにより鯛の、丸みのある甘さが合わさって、重厚さすら感じる風味が、口いっぱいに満ちていく。
そこに、ねぎのつんとした辛みや、わさびの清々しい刺激が加わって、豊かだ。
生臭さなどかけらもなく、飲み下せば緑茶の渋みと、ほんのりとした甘みだけがわずかに残る。
繊細で、軽やかで、まさにさらさらと、腹に流し込めるようだった。
しみじみ、うまい。
ごまと醤油の味付けだけで、こんなに味が出るなんて、と感心しながらぺろりと茶碗を空にしてしまった俺だが、ふとカウンターに座す青木さんを見て、あれっと思った。
「…………」
彼は、箸を持ったまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「あ……あの……?」
怒っている、という感じではない。
感動に打ち震えているわけでも、もちろんない。
ただただ、静かにどこかを眺めていた青木さんは、やがて、ぽつんと呟いた。
「――ああ……」
疲れたなあ、と。
そうして、唐突に、――本当に突然に、ぽろりと、涙を流した。
「あ、あの……!?」
俺は思わずぎょっと肩をいからせた。
いや、これまでの流れで、思い出の味に再会した人々が泣き出すことにも十分慣れていたはずだったが、いかにも偏屈そうな――失礼――青木さんが、まさかこんな風に素直な涙を見せるとは思わなかったのだ。
青木さんは、ぐっと口を引き結んで嗚咽をかみ殺すと、静かに涙だけをこぼし、やがて感傷を追い払うようにお絞りで拭った。
「……すまない」
掠れた声で、詫びられる。
俺は「いえ」とおろおろして返しつつ、なんと声をかけようかと、素早く思考を巡らせた。
もし彼が鯛茶漬けに芳子さんのことを思い出して涙したというのだったら、それは彼女のレシピによるものなのだと告げて、励ましてあげたい。
だが、青木さんの突然の涙の正体がいまいち掴めなかったこと、また芳子さんの引導発言の真意が理解できていなかったこともあり、俺は、いつメッセンジャー役として名乗りを上げるべきか悩んだ。
「……お疲れ、なんですね」
ひとまず、先ほどの呟きを拾ってそう声をかけると、青木さんは自嘲するように、
「……いいや。今はもう、疲れるようなこともない、暇な生活だ」
と答えた。
なんだか、矛盾している。
困惑した俺が眉を寄せると、青木さんは茶碗に視線を落とし、しばし黙り込んだ。
そうして、
「――……私は、先月、退職したばかりでな」
ぽつん、と、見えない手にそっと背中を押されたように、話しはじめた。
青木さんが入社したのは、今から四十年以上も前。
勉学に励み、一流の大学を出て、第一志望の大手銀行に就職した。そしてそこで、自らの人生の一番長い時間を捧げることになった。
働くのは楽しかった。
高度経済成長期こそ終わってしまったものの、乱世のような合従連衡をスリリングに駆け抜け、取引先と丁々発止で渡り合い。働けば働くほど業績は伸びる。
土日返上、毎日午前様、みたいな時期が長く続いたが、それでもなお、毎日が刺激と充実感に満ちていた。
私生活でも、同期入社の芳子さんと結婚し、三人の子どもにも恵まれる。
忙しさのあまり、家ではさっと茶漬けを啜るのみ。
家庭のことはほとんど妻任せだったものの、そのぶん誰より働いて、かつて自分に与えられていたよりも数段恵まれた環境を、家族に提供できたと自負している。
定年後も、関係会社に再就職し、忙しく張りのある時間を過ごす日々。
人生は、誇りと豊かさに満ちていた。
が――。
「そのセカンドキャリアの最終出社の日、……家内が、死んでな」
あまりに突然の出来事だった。悲しむというよりは、とにかく呆然とした。
順番も、時期も、なにもかもが予想外だった。
目まぐるしく終えた葬儀に、唐突に始まった、ひとりきりの定年後生活。
がらりと音を立てたような、あまりに大きな人生の変化に、心がついていかなかった。
「……わからなかったんだ。なにもかもが」
ゴミ出しの曜日は? わからない。
印鑑の場所は? わからない。
米の炊き方は。味噌汁の作り方は。目玉焼きの作り方は。すべてわからない。
息子たちと交わすべき会話は?
それも、――わからない。
これまで、人生のすべてを掌握しているはずだった。
自分はそこらへんの、よぼよぼと散歩ばかりしている老人とは違う。
会社で一番有能で、人から頼られるのが当たり前で、だから一度定年を迎えても、会社が手放してくれなかった。
なのに、今。
世の中の流れに取り残され、その目まぐるしさに怯える老人そのものの姿で、自分はたったひとり、佇んでいる。
「今日は……自治体の集会があって。家内が資料をまとめていたファイルだけ、なんとか見つけ出して、参加したんだが……これがまた、場違いで」
地域の友人など、いなかった。
遠慮がちに話しかけてくる人々の名前がなにで、どこに住んでいるかなど、皆目見当が付かなかった。
見れば、服装も浮いている。どうもかっちりとしすぎたらしい。
灼けるような羞恥を押し隠し、なんとか不慣れな笑みを貼り付けて、会話に加わる。
しかし、彼らが持ち出す話題のことごとくが、自分の今までの人生にかすりもしなかったようなものばかり。
興味が持てず、鼻白んだ表情を浮かべてしまったところを、相手にも敏感に察せられて、気付けば距離を取られてしまっていた。
その後開かれた親睦会では、安い酒をひたすら舐めつつ時計を睨み、一時間ほどもすると、「用事を思い出した」と告げて席を立った。
そのまま帰宅して、近所の住民に見つかるわけにもいかず、ふらふらと夜の街を歩き、気付けば「てしをや」の暖簾をくぐっていた――。
「……頭で、わかってはいるんだ。これが、これからの私の過ごすべき場所で、人生なんだと。だが……あまりに、唐突で。どう、踏ん切りを付けたものか……わからない」
青木さんは、情けなそうに口元を歪めると、再び茶碗を見つめた。
「家内が……」
と、弱々しく呟き、それを恥じるように軽く咳払いをした。
「家内が、よく、これとそっくりの、鯛茶漬けを作ってくれてね」
声はそれでも、かすれていた。
ぐっと寄せた眉は、涙をこらえるかのようだった。
「残業の後。徹夜の後。大掛かりなプロジェクトの、打ち上げの後。体はぼろぼろで、とにかく寝たくて、でもどこか気が立っていて……そんなときに、それを食うと、『ああ、終わったんだ。疲れたなあ』と……すとんと、眠れるような、気がしたものだった」
青木さんはぐっと唇を噛んで、さりげなく、震える息を逃した。
「家内も、その時間にはたいてい疲れ切っていて……。私は茶漬けを啜って、あいつはあいつで、食いはぐれた夕飯代わりに、握り飯なんかを黙々と食って。大した会話もせずに……それでも、お疲れさまと……そう言われているように思えた」
だが、と、彼は俯いた。
「だが、今はもう……家に帰っても、誰も、いなくて。顔を見せに来てくれる息子たちとも、なにを話していいのか、さっぱりわからない。毎日が、違和感だらけで、唐突で……。飯も……まずくて、自分では作り方なんてわからなくて……なにを食いたいかすらも、よくわからない。ああ、違う。違うんだ、私は――」
夜の店内に、一回だけ。
押し殺した嗚咽が響いた。
「私は……家内の……あいつの作った鯛茶漬けを、……食いたかった……っ」
そうして、本音を隠し込むように、箸を持ったまま拳を握り、口元に押し当てた。
静かに肩を震わせる青木さんを見下ろしながら、芳子さんがそっと溜息をつく。
(……これだから、男の人っていうのは)
呆れたような、愛しむような、ひどく優しい声だった。
(もうおしまいよ、って言ってあげないと、いつまでも、いつまでも、やめられないのよね)
引導。
その言葉を思い出す。
なるほど、芳子さんは旦那さんに、たしかに引導を渡そうとしていたのだ。
長い長い会社人生。
その「〆」にふさわしい鯛茶漬けを用意して、彼がこれまでの生活に別れを告げるのを、手伝ってあげようと。
(ねえ、哲史くん。この人に、こう言ってくれる?)
脳裏で芳子さんの声が響く。俺はその後に続いた言葉を整理しながら、まずはそっと青木さんに話しかけた。
「あの……青木、さん」
「――……?」
知らないはずの名前で呼ばれ、怪訝そうに顔を上げる。
もう、この流れも慣れたものだ。
俺がよどみなく、芳子さんが「てしをや」の常連で、よく青木さんのことを話していたという架空の設定を伝えると、彼は大きく目を見開き、それからどこか呆けたような表情で頷いた。
「……そうか」
「はい。それで、いつだったか言ってたんです。私の主人は――青木さんは、きっと退職しても、すぐにはそれを受け入れられないだろう。だから、退職するその日には、私がとびきりおいしい鯛茶漬けを作って、会社人としてのあなたの日々は、もうおしまいなんだよ、って、きちっとわからせてあげようと思っている、と」
「…………」
「それで、お疲れさまでしたって、伝えるんだと」
「…………」
青木さんはふいに目を潤ませると、それを隠すように再び下を向いた。
俯く夫に、芳子さんはゆっくりと話しかけ続ける。
声は、どこまでも優しかった。
(いろんなことが、あったわねえ。子どもたちが生まれて、育って、毎日いろいろやらかして……。私がしんどいときも、あなたは働いてばかりで、ずいぶん恨んだこともあったけど……あなたは、あなた自身がしんどいときも、弱音ひとつ吐かずに、ずうっと私たちのために働いてくれてたわね)
体を壊したときも、業務でいわれのない責任をなすりつけられそうになったときも、腐らずに、ただ真剣に働きつづけた。
(大丈夫。あの子たちもね、ちゃあんと、あなたの背中を見せて育てました。ううん、あなたが育てさせてくれたのね。あなたがしっかり働いてくれたから、私はしっかり、あの子たちを育てられたの)
お疲れさまでした。
本当に、お疲れさまだったね。
――あの日に言ってあげられなくて、ごめんね。
最後の一言だけは、胸の内に秘めて、代わりに俺は「そう伝えるつもりなんだと言っていました」と締めくくった。
「…………っ」
箸を下ろした青木さんが、とうとう顔を右手で覆う。
俺が、「今日こうして、偶然鯛茶漬けを振舞うことになったのも、芳子さんが引き起こした奇跡なのかもしれませんね」と付け加えると、しかし彼は、絞り出すような声で、こう言った。
「――……できすぎだ」
どきり、とする。
まさか、これが単なる偶然ではないと、勘付かれてしまったのだろうか。
「え、あの――」
「私にはできすぎた、妻だ」
だが、違ったらしい。
青木さんは、くしゃくしゃに歪めた顔を上げると、芳子、と名前を呟いた。
そうして、ずっしりと鯛の漬けを載せた茶碗を、宝物のようにそっと両手で包み込んだ。
「……なぜだろう……」
皺が目立ちはじめたその両手は、小刻みに震えていた。
「あいつは、いつも、いつも、私のことをねぎらってくれていたのに……なぜ、私は……それができなかったんだろうなあ……」
ぽた、と、力なく涙が頬を伝う。
もはや青木さんはそれを隠そうともせずに、ただ、茶碗を握る手に力を込めた。
「あいつは、……あいつだって、家庭という場所で、ずっと必死に働いてきていたというのに……なぜ、私は……っ、子どもが自立したとき……あいつが『定年』を迎えたとき……っ、『お疲れさま』の一言すら、言ってやれなかったの、か……っ」
最近になってようやく知ったのだ、と、彼は震える声で続けた。
料理を毎日、三食整えるというのが、どれだけの労力を必要とするものか。
家を清潔に保つことが、どれだけ煩雑な仕事のうえに成り立っているものか。
三十近くも年下の人間と言葉を交わし、その動向に目を配り、叱り、褒め、笑顔を引き出すことが、どんなに難しいことであるものか。
「息子たちは……、話こそ弾まないが、私に敬意を持って、接してくれる。それが、伝わるんだ。芳子が……家内が、そうしてくれたんだと、わかるんだ」
自分がほとんど育児にかかわってこれなかった息子たち。
幼い子どもだとばかり思っていたのに、いつの間にか背丈は自分を超え、礼儀も身に着けた、いっぱしの大人になっていた。
青木さんは、ぐっと肩をいからせ、そこに顔をうずめるようにしながら、泣いた。
涙はとめどなく溢れ、そのうちのいくつかが、ぱた、ぱた、と、黒木のカウンターを叩いた。
「息子たちは……私が初めて焼いた、ひどい目玉焼きに対してさえ、『ごちそうさま』と、手を合わせてくるんだ。……私じゃない。芳子が教えた。あいつが、そう育ててくれた。私だけが、言えていなかったんだ。ごちそうさま。お疲れさま。そういった言葉を……私が……私こそが、あいつに……言わなくちゃならなかったのに……っ」
まるで番を求めて鳴くような、細く長い嗚咽が、店内に響く。
芳子さんは、ちょっと驚いたようにまじまじと青木さんを見つめ、それから小さく、首を振った。
(……まったく、もう)
苦笑、というには、優しすぎる笑みだった。
(たまにこういうことを言ってくるから、甘やかしちゃうのよね)
彼女は意識を切り替えるように軽く息を吐くと、俺に向かって声をかけた。
ねえ、こう言ってあげてくれる、と。
「――……青木さん」
俺はその言葉を拾い、ぽたぽたと涙を流す青木さんにそっと話しかけた。
「『ごちそうさま』の反対って、なんだと思いますか」
「…………?」
目を真っ赤に充血させた青木さんが、怪訝そうに顔を上げる。
俺は、「芳子さんがよく言っていたんですけど」と補足しながら、ゆっくりと頷いてみせた。
「それは――『めしあがれ』、なんですって」
俺の脳裏で、芳子さんがそっと語りかけている。
その熱を、ひとかけらでも漏らさないようにと、俺は声に力を込めた。
「『ごちそうさま』っていうねぎらいの言葉を、本当は、作ってくれた相手に、言いたかったですよね。……でも、もし、言い逃してしまったら。言いたい相手を、失ってしまったら、今度は、自分が誰かに『めしあがれ』って言ってあげる。それで丁度いいってことにするんだって……芳子さんが言っていました」
想いは巡る。
優しさを注いでくれた相手に、同じだけのものが返せなかったとしても、それなら今、目の前にいる人にそれを注いであげればいい。
らせんを描くようにして、くるり、くるりと想いを循環させるうちに、きっと自分のもとへと戻ってくる優しさも、あるはずだから。
俺はふと思いついて、冷蔵庫へと踵を返した。
アルミ製の扉には、時折イラストも交えた手書きのメモが、びっしりと貼られている。
おいしいお米のとぎ方。
味噌汁の作り方。
魚の焼き方。目玉焼きの作り方。
鯛茶漬けの作り方――。
レシピというには簡単すぎるものも混ざったそれは、もちろん、芳子さんの手によるものだ。
巡り合わせのよさに、なんとなく神様の存在を感じ取る。
やれやれ、今回もまた、どこまで掌の上にいるものやら。
苦笑しつつ、俺は付箋紙を剥がし、それを再び束に戻して、青木さんに差し出した。
「これ、よければどうぞ」
「これは……?」
「レシピです。以前、料理ができない俺でも簡単に作れるように、って、芳子さんがまとめてくれた」
そう告げると、青木さんは今度こそまん丸に目を見開く。
そこまでの常連だったのか、という驚きと、それを自分がもらっていいのか、という困惑が、ありありと伝わってくる表情だった。
「それは……ありがたいが、しかし――」
「いいんです。今は、俺よりも、青木さんのほうが必要だと思いますし。芳子さんも、きっとそれを望んでいると思うので」
俺は青木さんのためらいを遮り、彼の手にしっかりと付箋紙の束を握らせた。
「『ごちそうさま』と言えなかった回数のぶん、今度はぜひ、息子さんたちに『めしあがれ』と言ってあげてください。……きっと、すごくやりがいのあることだと、思うので」
青木さんは、まじまじと付箋紙を見つめた。
それから大切な宝物に触れるように束をめくり、鯛茶漬けの文字を見つけると、じわりと瞳を潤ませた。
「――……そうだな」
唇が、震える。
「……これでしばらく、息子たちとの話題にも、事欠かなそうだ」
しかしそこには、ほんのりと、笑みのようなものが浮かびはじめていた。
青木さんは、ずっと鼻をすすると、付箋紙の束を胸ポケットにしまう。それから、改めて鯛茶漬けの茶碗に向き直った。
「これが手本だからな。よく味わわなくては」
そんなことを呟き、神妙な顔つきで、鯛茶漬けを口に運ぶ。
うまいなあ。ああ、うまいなあ。
時折そんな感想を漏らしながら、米粒ひとつ残さず流し込み、――最後には箸を置いて、そっと手を合わせた。
「……ごちそうさまでした」
目を閉じて、静かな声で。
まるで祈りのような、誓いのような、言葉だと思った。
お絞りで顔も拭い、すっかり冷静さを取り戻したらしい青木さんは、会計の準備をしながら、ちらちらと俺のほうを見てくる。
なんだろう、と思い視線を向けると、彼はばつが悪そうに口元を歪め、
「その……見苦しいところを、見せたな」
もごもごと詫びてきた。
むしろ、微笑ましい。
俺は噴き出しそうになってしまいながら、「いえいえ」と答えた。
「奥さんへの愛が伝わってきて、嬉しかったですよ」
ちょっとからかう気持ちも出てきて、ついそんなことを口にしてしまう。
しかし青木さんは、ちょっと目を見開いたあと、いかにもこちらを馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「ふん。愛だと?」
おっと。
芳子さんに続き、またもや地雷を踏んでしまった。
いかんいかん、とフォローの言葉を入れようとした俺だったが、それよりも早く、青木さんが続ける。
「愛なんて、甘っちょろいもんじゃないさ。家内はな、……――」
そこで彼は、ふさわしい言葉を吟味するように口を引き結び、やがて「うまい言葉が見つからないが」と眉を下げると、そっと呟いた。
「……誰より大切な、家族だ」
「え……?」
「同志で、友人で、親で、教師で。愛なんて単語じゃまとめられない……そういう、かけがえのない、女性だ」
俺の中で、芳子さんが静かに息を呑む。
彼女は、しばらく黙り込んだ後、やはりいつものおっとりとした口調で、やだ、とこぼした。
(やだわ、もう。……最後の最後に、そんなこと言うんだから)
そして俺の目に、じわりと温かな涙をにじませた。
ああ、まったく。
四十年以上連れ添った夫婦の心の機微というのは、どうも俺のような若輩者が理解するには難しすぎる。
そのとき俺の脳裏には、ふたりが無言で、深夜の食卓を囲む光景が浮かんでいた。
子どもたちの寝静まった、静かな夜。
ふたりともくたびれて、ただひっそりと、お茶漬けやおにぎりを口にしている。
会話はない。
笑みもない。
けれど、穏やかな沈黙の中に、そっと互いの背中を預け合うような、たしかな信頼だけが横たわっている。
ごちそうさま。
お疲れさま。
それぞれの「仕事」をまっとうし、疲れ切ったふたりが、それでも充足感と静かな誇りを胸に、そっとねぎらいの想いを交わす。
そんな優しい時間が、ふと見えた気がした。
(ありがとうね、哲史くん。本当にどうも、ありがとう)
母親、という存在を思わせる深みのある声で、俺の中の芳子さんが告げる。
いいえ、と、こっそり首を振ると、彼女が照れ臭そうに笑う気配がした。
そうして、会計を済ませた青木さんが、ちょっと恥ずかしそうに「ありがとう」と呟き、店を去っていったその瞬間。
芳子さんはまるで、青木さんを追いかけるようにして――消えていった。
「はー、やれやれ……」
無人となった店内で、俺はうーんと大きく伸びをする。
引導を渡す、だなんて不穏な発言があったから心配していたが、芳子さんの、そして青木さんの想いが無事に通い合ってよかった。
どれ、皿の片づけを、とカウンターに身を乗り出して、しかし俺は目を瞬かせた。
「あれま」
青木さんが掛けていた、ひとつ隣の椅子。そこに、中身のファイルを覗かせた、ブリーフケースが残っていたのだから。
自治会の資料とやらを納めたものだろう。
なぜこんな大物を忘れるのか、とつっこみたくもなるが、いやいや、財布を尻ポケットに入れるタイプの男性客だと、時に信じられないくらい大胆に、荷物を忘れていくことがあるのである。
まあ、今から走って追いかければ、間に合うだろう。
「レシピのほうに気を取られちゃったのかな……っと、おわ!」
ちゃんとカウンターに回り込めばよかったものを、横着して厨房から取り上げようとしたものだから、持ち手がつるりと手から滑って、ブリーフケースが床に落ちてしまった。
「うお!」
しかも、角度が悪かったらしく、開いたままだったクリアファイルから、どさどさと資料が滑り出てしまう。
俺は慌てて厨房を飛び出し、誰にともなく「すんません!」と謝りながら、あたふたと書類を拾い上げた。
が。
「――……」
ぎっしりと文字の詰まった資料から、ふと視界に飛び込んできた単語に驚いて、思わず掻き集める手を止めてしまった。
「これ……」
見知った神社の名前。
かっこ書きで併記された「万福寺」の文字。
表題にあたる部分には、こうあった。
「どういうことだよ……」
――合祀に伴う夏祭りの廃止、および神社の取り壊しについて。
次話で完結となります。