4皿目 〆の鯛茶漬け(前)
「うおぁ……っちぃ……」
ぐずぐずに溶けてしまったような滑舌で、もう何度目になったかわからない「暑い」の呟きを漏らす。
手水に手を浸しても、年季の入った賽銭箱や鈴尾に触れても、じっとりとぬるい温度ばかりが返ってくることに、俺は絶望の呻きを漏らした。
「夜になってもこの暑さって……どういうことだ……」
これまでは、この時間に神社に来れば、夜のせいか緑が多いためか、はたまた神通力か、少しばかり涼やかな空気を感じることができたのに。
お盆も差し迫った、晴れの日続きの八月。
熱は夜を経ても地面に蓄積され、外を歩くだけで息苦しい、といった具合になってきた。暑苦しい蝉の鳴き声が聞こえないのはまだ救いだが、賭けてもいい、きっと蝉のやつらだって、日中の暑さでぐったりしているのに違いない。
俺は力なく、がろん、がろん、と鈴を鳴らした。
「神様ー……暑いっすね……。今日はもう……酒って感じでもなかったんで、キンキンに冷えたお茶持ってきましたよー……」
賽銭箱の横に、ぽと、と置いたのは、ペットボトル入りの緑茶である。コンビニに寄った際、冷凍庫で販売していたのを珍しいと思って購入したのだ。
コンビニの、それも茶を供えるというのは不敬かな、などとも思ったが、考えてみればすでに缶ビールを供えた前例もあるし、俺が神様だったら今は酒より茶が欲しい。
これだけ暑いと、とにかく体に負担なくがぶがぶ飲めるもののほうが嬉しいのだ。
ビールとも迷ったが、俺個人の感想として、冷茶をぐいぐい飲むと、その後からだがすうっと冷える気がするから。
――む? 茶か? おまえにしては珍しいな。だが、うん。これもこれでよい。ささ、蓋を開けぬか。
鈴緒にもたれるようにして佇んでいると、ぼうっと御堂が光り、やけにせっかちな神様の声が響きだした。
やはりあちらの世界には、暑さや寒さなど関係なのか、いつも通りの――いや、なんならいつも以上にきびきびとした声だ。
俺はなんとなく、恨めしさのようなものを覚えた。
「元気ですね……神様……」
――そうか? というよりは、おまえの元気が足らぬのではないか。ほれほれ、気をしゃんと持たぬか。
「気とか、もはやそういう次元の問題じゃないんですよこれは……」
うだるような暑さを、精神論で雑にくぐり抜けさせようとする相手に、ぐったりとしながら抗議する。
すると神様は、まるで首を傾げるような様子で、「そこまで辛いのならば出歩かなければよいのでは」といったお言葉を寄越した。
「いや……そう。そうなんですけどね……」
――はて。また妹と喧嘩でもして、飛び出してきたのか? 家にも職場にも居場所がないとは、おまえの年齢で哀れな男よな。
「……いや。今回は、そういうんじゃ、なくてですね……」
なんだろう。
さりげなく、働くお父さんもまとめて盛大にこき下ろされた気がするぞ。
だが、それに突っ込む気力さえ暑さに溶かされてしまって、俺はもごもごと呟くにとどめた。
それに、神様がなにげなく放った言葉に、少々思うことがあったというのもある。
「神様。俺……これからは、そう頻繁に神社に来れないかも、って言ったら、どうします?」
ぽつんと問うと、怪訝そうな気配が返る。
俺は少しためらってから、実は、と切り出した。
「実は……今日、会社から、面談を受けるようにって、連絡があったんですよ……」
今日の昼すぎ、休職中の会社から一通のメールが届いていたのだ。
件名は、「職場復帰面談の日程について」。
そう。
できたての社内制度に付け込んで取得した長期休暇も、そろそろ終わりが見え始める頃合いだったのである。
もともと、俺に認められた休暇は一年。
職場復帰するには、仕事の采配の観点から、三か月ほど前には一度上司と面談をしなくてはならない。
俺が取得第一号であり、とかく前例のない話なので、面談には直属の上司だけでなく、人事部長や総務部長までもが立ち会うことになっているのだという。気の重い話だった。
――別に、どれだけ身分の高い者が来ようが、復帰を宣言することになんの問題があるのだ?
「……復帰するなら、ね」
ひょうひょうと言い放つ神様に、どこまで見通しての発言なのだろうか、などと思いながら返す。
それから、俺は小さく溜息を落とした。
復帰するならば。
そんな仮定をしてしまうあたり、俺の考えの揺らぎが透けて見えようものだ。
おわかりの通り――俺は、一年の休暇の後に「てしをや」での時間を手放すことに、ためらいというか、未練、のようなものを抱いていた。
もちろん第一には、俺が抜けて、志穂が責任者になってしまっては、立派に店を回していけるのか心配、というのがある。
小さな店とはいえ、やはり一人で切り盛りするのは難しい。
そしてそれと同じか、それ以上に俺の心を占めるのは、
「……もう少し、『てしをや』をやってたいなあ、なんて……」
単純に、こういった思いであった。
最初は、自分の人生にかかわることなど想像もしなかった飲食店の経営。
肉体労働だし、感情労働だし、その割に大儲けできるというものでもない。
調理だって不慣れで、なにが楽しいのかさっぱりわからなかった。
だが、魂をこの身に下ろして、料理をし、飯を食い。
お客さんがほっと心を緩めるその光景を何度も目にして、俺の考えは、次第に変化しつつあったのだ。
作ることは、想うこと。
食べることは、かかわること。
食事というのは生活の根幹ともいえる行為で、だからこそ、誰かを食わせるというのはその誰かを育てるのとほとんど同義だし、ともに食卓を囲めば必ず深い想い出が伴う。
そして、そういった「料理」だとか「食事する場所」を提供する定食屋の仕事というのは――とても平易な言葉だが、いいな、と。
俺は、そう思うようになっていたのだ。
「……でも、この年で脱サラってどうよ、みたいな」
だが同時に、長年のライフプランをかなぐり捨てて、自営業の世界に完全に両足を突っ込む、というのにも、実はまだためらいがあった。
志穂などは、向こう見ずな兄があっけなく会社勤めを放り投げて助けてくれた、のように思っているようだが、俺だって多少の計算はする。
福利厚生、安定した給料、そういった要素が、「休職」という命綱でしっかりこの身に繋がっているのを確認したうえで、俺は「てしをや」の厨房に足を踏み入れたにすぎないのだから。
休職期間の延長は、できない。
もうそろそろ、パソコンとにらめっこする日々に戻るのか、それともこのまま定食屋を続ける――つまり退職するのかを、決めなければならない頃合いだった。
「どうしたもんかなあ……」
うすうす、俺の中で答えは出ている気もする。
だが、それを宣言するには、今ひとつ思いきれないというか、誰かに背中を押してもらいたいというか、いや、それとも、もっと自分の中で考えつくしたいというか。
なんとも煮え切らない想いを持て余し、それを志穂にぶつけるわけにもいかず――だってあいつの困り顔は、俺の意思決定に及ぼす影響が大きすぎる――、ついつい、親しい先輩の家に転がり込むような感覚で神社に来てしまったと、まあそういうわけであった。
――難儀よなあ。自らで自らの行く末を決めてよいという、奇跡のような自由を前に、かえって苦悩するなどと。
「……うじうじと、すみませんねえ……」
しみじみとした口調に、労りというより、どことなく呆れのような感情を感じ取った俺は、ちょっと口を尖らせた。
この神様のモットーが「縋るのではなく願え」というものだということを知っているだけに、言外に叱られているような気分だ。単なる被害妄想かもしれないが。
「俺だってね、別に神様に決めてもらおうとか、そんなことは思っちゃいませんよ。ただ、ちょっと、考えを整理したいっていうか、聞いてもらいたいっていうか……いやまあ、それも甘えと言われればそれまでなんですけど、とにかく――」
――あいわかった。
「……はい?」
言い訳がましい主張を遮られ、思わず眉を寄せながら顔を上げる。
が、神様は、俺のそんな困惑など知らぬげに、どこか陽気に御堂の光を強めた。
――半ば結論は出ている物思いに、確信を持たせてほしいと。承知、承知。
「は……」
いや、その通りなのだが、そうまとめられると、どうも身も蓋もないというか、俺の意気地のなさが目立つというか。
だが、神様は「はいはい」と手を打ち鳴らしそうなくらいの勢いで、ちゃきちゃき話を進めていった。
――なあに、人の子の悩みなどたいていはそのようなものよ。よくある、よくある。
「え、あの……」
――さあて、代わりと言ってはなんだが、今回顕現させる魂はだな――
「いや、その流れ自体にもはや異存はないんですけど、ちょっとラフすぎっつか……進行早くねえ!?」
なんだか、終了間際の生放送番組の司会者みたいな粗っぽさだ。
――うん? そんなことはない、ない。私はいつでも人の子とその想いに、真摯に向き合っているとも。で、魂なのだがな――
「いや、あからさまにおざなりでしょ!?」
どこかで聞いたことがあるが、「わかる、わかる」とか「好き、好き」とか、人が同じ言葉を二度繰り返すのは、たいてい嘘をついているときであるそうだ。
俺が噛みつくと、神様はじれったそうに告げた。
――暑いし、盆も近い忙しなさだし、手早くいきたいのだ。時間がないのに、ついでに言えば展開もわかりきっているくせに、混ぜ返す真似をするな、無粋なやつめ。
「なにそれ!?」
神様に粋を諭されたぞ。というか、暑いと進行が雑になるのか。盆っていうのはどちらかというと寺や仏様の管轄じゃあないのか。
無数のつっこみが頭をもたげたが、それが言葉になるよりも早く、視界の片隅で見慣れた白い靄が凝りはじめた。
魂の顕現だ。
「ちょ、ちょっと……!」
見る間に輪郭をくっきりとさせたそれは、どうも女性の魂らしい。
ゆったりとしたチュニックに黒のパンツ、白髪を隠すように明るい茶色で染めた、軽いパーマのかかったショートヘア。
おっとりとした目元には皺が寄っているが、表情は全体的に若々しい。
おばちゃんと、おばあちゃんの、中間といったくらいの年齢か。
彼女は、俺の姿を認めると、とたんに人の好さそうな眉を下げ、ついでにぺこぺこと頭をも下げた。
『ああ、どうもどうも、このたびは本当にお世話をかけまして……。私みたいなおばあさんの未練なんて、それはもう全然、たいしたことないんですけど、でもせっかく体を貸してもらえると聞いたので、お言葉に甘えてしまいまして……』
演技という感じでもない。
なんというのか、かつて俺の母親がご近所さんに向けていたような、社交性と愛想をただマックスに出力したような姿だ。
それにしたってこんなに腰の低い魂、初めて出会った。
「あ、いえ、そ……そんな、かしこまっていただくほどのことでは……」
先ほどまでの神様への文句も忘れ、ついそんなことを言ってしまう。
すると相手は、ますます申し訳ないというようにお辞儀の角度を深めた。
『そんなふうに言ってもらえると、こちらとしても、ええ、本当にほっとするというか、助かるんですけども。でもねえ、やっぱり、若い人の貴重な時間を奪うのが申し訳なくって。あなた、大学生? 夏休み? あ、いえ、社会人よね、定食屋のご主人ですものね。それでも、夏だし、きっとお出かけの予定なんかもあったでしょうに、ごめんなさいねえ……』
「いえ、そんな……。予定なんて皆無ですし」
この細やかな配慮。
自分だって、成仏を拒むほどの未練を持っているくせに、若輩者の俺をしきりに気遣うこの様子はどうだろう。
たぶんこの人、大荷物を抱えながらも、自転車で懸命に蟻の行列を避けようとするような人なんだろうな、などと、なぜかそんな印象を抱いた俺だった。
『あら、付き合ってる人もいないの? 寂しい夏だったのねえ。かわいそうに……』
「…………」
いや、きっと、前輪で避けた蟻を後輪で踏みつぶしていくタイプだ。
思わずひくっと口の端を引き攣らせてしまった俺をよそに、女性は低姿勢を崩さず、しかしながら滑らかに前傾姿勢へと移行した。
『本当に申し訳ないわねえ。ごめんなさいねえ。でも、せっかくのご厚意をお断りするのも失礼な話だし、やっぱり、ありがたく体を貸していただく、というのが筋よね』
「え、ちょ……」
ちょっと待ってくれ。総じて展開が早いぞ。雑だぞ。
いや、最終的には受け入れざるをえないというか、もはや慣れっこの展開だが、せめてあと二往復くらいお伺いの会話がほしかったぞ。
『ああ、申し訳ないなあ。でも感謝でいっぱい。じゃあ行きますよ、フュー……――』
「ちょ……っ!」
『――ジョン!』
言葉と同時に、シニアな女性の魂がこちらに向かってダッシュしてくる。
ふわん、という、こちらもすっかり耳に馴染んだ音がした、その次の瞬間には、
(――ああ、無事に入れた、よかったわあ)
脳裏に、おっとりとした声が響きはじめていた。
「…………いや、だからですね?」
今、俺は声を大にして言いたい。
(大切な体を貸してくれて、どうも――ん? あなた、ちょっぴり汗臭いわね?)
「…………っ」
神様を助けるのも、個性豊かな魂に、時々ディスられながら体を貸すのも、もう嫌とは言わない。
言わないさ。
言わないが――
「だから、一回くらい、俺の意思を尊重する展開はないのかあああああ!」
俺は、がしがしと汗をぬぐいながら絶叫した。
が、
(まあ、まあ、落ち込まないで。若いって証拠よ!)
――む? 毎回尊重しているではないか。欲張りめ。
結果は、双方向から、それぞれ望んだのとは違う答えが返るだけに終わった。
***
このたび俺の身体に下ろされた魂は、青木芳子という名の女性のものだった。
芳子さんは、享年六十五歳。
仕事の関係でほとんど家にいなかった旦那さんの代わりに、家事と育児を一手に引き受け、三人の子どもを育て上げてきたという、いわゆる、「ザ・専業主婦」のような人であった。
ちなみに旦那さんは同い年で、五年前に仕事を退職した後、同じ企業のシニア雇用で働いていたが、それも先月で終了。
さて、いよいよ世で言われる「定年後の夫婦生活」が始まると思っていた矢先に、芳子さんが脳梗塞を発症し、旦那さんは最後のあいさつ回りに出ていたとかで帰宅が遅く、発見の遅れた彼女は、残念ながらそのまま亡くなってしまったとのことだった。
(年齢的にねえ、そろそろ気を付けなきゃとは思ってたんだけど、まさか自分がそうなるとは思わないじゃない? 気分はいつまでも、若いままだったのよねえ。突然死んでしまって、子どもたちにもずいぶん迷惑をかけたと思うの。申し訳ないことをしたわ……)
とは、芳子さんの言。
死してなお、そしてお子さんたちに対してまで、低姿勢な人だなあと思うのだが、
(私も子どもたちも、絶対主人のほうが先だと思ってたもの。正直、かなり予想外)
「…………」
ときどき後輪で、颯爽と旦那さんを轢いていくのは、もはやご愛敬である。
俺は乾いた笑みを貼り付けながら、芳子さんに尋ねた。
「ええと……じゃあ、料理を振舞いたい相手というのは、お子さんということでよろしかったでしょうか……?」
慰労を兼ねたものだろうか、と思い問うと、彼女はちょっと微妙な反応を寄越した。
(子ども。……そうねえ、子ども。違うけど、まあ、子どもといえば、子どものような……)
「ええと……?」
首を傾げると、芳子さんは苦笑する。
そして、いたずらっぽく告げた。
(主人よ。夫。……六十五にもなって、いまだに目玉焼きひとつ作れない、手のかかる旦那さん)
仕方ない、といった口調だが、声にはたしかに優しさが込められていて、俺はなぜだかほっと胸を撫でおろした。
「そうですか。旦那さんのこと、愛されてたんですね」
(え……?)
なぜだか、芳子さんは怪訝そうな相槌を打つ。
え、って、と思い、なんとなく気恥しくなりながら「いえだから、愛……」ともごもご繰り返すと、彼女は俺の目を細めて、生温かい、としか表現できないような笑みを浮かべた。
(……若いわねえ……)
「いえ……その……」
(ふふ。……私が上ふたりの子どもを寝かしつけながら陣痛に耐えてたとき、主人がいかに平然と働いていたか、とか、聞きたい? それとも、三人同時の反抗期がきたとき、主人がしれっと単身赴任してた話とか、興味ある?)
「……た、大変、申し訳ございませんでした……」
なんだろう。
俺には、昨年子持ちになった仲良しの先輩がいて、彼が奥さんと喧嘩したと嘆いていたとき「キスでもすれば機嫌なんて直るんじゃないんすか?」と首を傾げたら「馬鹿野郎、おまえは上司が不機嫌になったらキスすんのかよ!」と叱られたことがあったのだが、ふとそれを思い出したぞ。
穏やかながら、逆らえない気迫のようなものがにじみ出ているのを察して、俺はひとまず謝罪による撤退を図った。
四十年以上連れ添った夫婦の心の機微というのは、どうも俺のような若輩者が理解するには難しすぎる。
いやだって、ジルさん夫婦という前例があったもんだから。旦那さんに料理を振舞いたいって言うから。
そんなことを心の中でもごもごと言い訳をしていると、芳子さんが小さく笑う気配がした。
(そうねえ。よく、熟年夫婦のことを愛じゃなくて情だ、なんて言うけれど。それが近いのかしら。義理っていうか……、「生き物は、責任持って最後まで」っていうか……)
「は……はあ」
なんだか、芳子さんの旦那さんが、「拾ってください」と書かれた段ボールに入れられた犬のような扱いになってきた。
まごつく俺に、彼女はゆっくりとした口調で言い切った。
(私、あの人に――引導を渡してやりたいのよ)
「い、引導」
(そう。「〆」にふさわしく、お茶漬けでも作ろうと思って)
「し、締め……?」
店が、熟年離婚だとか締め上げの現場になってしまったらどうしよう。
熱帯夜すら凍り付かせる、そんなうすら寒い懸念を抱いたそのとき、とうとう「てしをや」の暖簾が見えてきた。
***
鯛茶漬けを作るのだ、と言い出した芳子さんが、最初に取り掛かったのは、大量のごまを炒ることだった。
平底のフライパンを取り出して、白ごまをどさどさと注ぎ込む。
そして、軽くフライパンを揺すりながら、熱が均等に通るように火にかけた。
ぱち、ぱち、と粒が陽気な音を立ててしばらくしたら、すり鉢に移し、思いのほか力強い仕草でごりごりとすり潰していった。
(いつもは、すりごまなんて既製品を使っちゃうんだけどね。今日はちょっと、サービス)
芳子さんはそんなことを言って笑う。
それから、鯛のさくを取り出して、小さめのひとくちサイズに切り分けていくと、粗熱を取った先ほどのごまをたっぷりとかけ――かけるというか、ごまの中に鯛をうずめるくらいの大量さだ――、さらにととと……と醤油を注いだ。
それを、醤油の味がまんべんなく行き渡るように混ぜたら、準備は完了。
あとは冷蔵庫で味をなじませて、白飯に乗せて茶を注げば、お茶漬けになるらしい。
「お茶漬けって、こんな簡単にできるんですね……」
恥ずかしながら、俺はお茶漬けなんて、それこそ既製品のふりかけを使ったものしか食べたことがない。
難しそうと思っていたわけではないが、単純に作り方を想像したことがなかったために、ついそんな呟きが漏れたのだったが、芳子さんはちょっとばつが悪そうに肩をすくめた。
(老舗の料亭とかなら、そりゃあもっと手をかけるんでしょうけどね。うちはこんなものよ。深夜の食事に、そこまで手間をかけてはいられないもの)
味をなじませている間、ねぎや海苔を刻む以外には、特にすることもない。
時間を持て余した芳子さんと俺は、流れで昔話に興じた。
旦那さん――青木さんは、仕事の関係で頻繁に飲んできていたこと。
最初のうちは食事を整えて待っていた芳子さんも、やがて一品、もう一品と品数を減らしていき、気付けば、平日に夫の食事を作るのはやめたこと。
というより、子育て中は、自分の食事すらろくろく口にできていなかったこと。
(子どもっていうのが三人とも男の子で……家に三匹、怪獣を飼っているようなものでしょう? 学校に行ってくれている間も、なんだかんだで立て込んでるし、帰ってきてからなんて、ほぼ毎日なにか事件が起こって。寝かしつけた後、片付けて、洗濯して、明日のお弁当の準備をして……気付けばそれでいつも、十二時近く)
それくらいの時間になっても青木さんが帰ってこないとなると、「あ、今日も飲み会だな」と察する。
そこで、慌てて鯛のさくを切ってごまと和えて、お茶漬けの準備をしていたと、そういうことだった。
そうして、一時近くになって就寝して、五時過ぎにはまた起き出して……その繰り返し。
「なんていうか……ハードですね」
(そうかなあ? そうかもねえ。まあでも、子どもを育てるって、そういうことだと思ってたから)
なにげなく告げられた言葉に、思わず目を見開く。
芳子さんの口振りには、気負ったところなどかけらもなかったが、代わりに、いくつもの困難をくぐり抜けた人だけが持つ、淡々とした凄みのようなものがあった。
人の命を預かる医師だとか、何百年の伝統を守る職人だとか、そういった人たちとはまた異なる、けれどそのくらい重大で、尊い仕事をこなしてきた――そんな静かな誇りに裏打ちされたような声だった。
「そうですか……」
時江さんに、梅乃さん。厳さん、そして芳子さん。
我が子に料理を食べさせ、育ててきた魂に、俺はこれまで多くかかわってきた。
彼らの掲げる方針は様々であったが、共通して感じるのは、人に飯を食わせるというさりげない行為が持つ、ずしりとした重みだ。
なんとなく圧倒されて、曖昧な相槌しか返せないでいると、芳子さんは空気を変えるようにぱっと顔を上げた。
(そうだ。哲史くん。悪いんだけど、なにかメモ帳みたいなもの、ないかしら)
「メモ帳、ですか?」
(ええ。チラシの裏紙でもなんでもいいんだけれど)
ノートではないが、電話を受けるときのメモ用に、A7サイズの付箋紙を用意してある。
用途もわからぬまま、これでいいですかと掲げてみせると、
(あらあ、そんな立派なものでなくてもよかったんだけど……ありがとうね)
芳子さんはしきりと恐縮しながら、それを受け取った。
まあ、傍目には、右手から左手に持ち替えただけだが。
なにをするのか、と見守る俺の身体を使って、彼女は調理台に付箋紙を広げ、そこにさらさらと迷いなく書き込みをしていった。
滑らかな筆跡で書かれた文字は、「鯛茶漬けの作り方」。
「これは……?」
(お礼になるかわからないけれど、私の知ってるレシピで、簡単そうなものを伝えようと思って。神様によれば、哲史くん、料理が苦手なんでしょう?)
「えっ、俺にですか!?」
てっきり旦那さんやお子さんにメッセージでもしたためるのかと思いきや、俺にレシピをプレゼントしてくれるらしい。
こんなもので悪いけど、と眉を下げる芳子さんに、「いや、嬉しいです!」とぶんぶん手を振ると、彼女は照れたように笑って、いくつもレシピを書きだしてくれた。
そうして、冷蔵庫に貼られた付箋紙が、十枚を超えたころ――
「……どうも」
カラ、と引き戸が開いて、彼女の待ち人がやってきた。





