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神様の定食屋  作者: 中村 颯希
夏の部
16/27

3皿目 茹でとうもろこし(後)

 みのりのお父さん――蒲田さんは、一言で表すならば、いかにもデキそうな大人の男、といった感じだった。

 雑誌で粋なスーツを着こなしている外国人モデルのようとでもいおうか、オールバックにした髪や鋭い目が、少々冷たい感じがするものの、格好いい。

 年の頃は五十代前半といったところか。

 みのりいわく、世界中を飛び回る商社マンなのだそうだ。


 蒲田さんはお絞りを受け取りながら、物珍しそうに店内を見回した。


「こんなところに定食屋があったとは、知らなかった。随分遅くまでやってるね?」

「はは……、その、今日は、特別でして……」


 本当なら、とっくに店じまいしている時間だ。

 俺は曖昧に頷きながら、壁にかけられた品書きに視線を走らせている蒲田さん相手に、覚悟を決めて話しかけた。


「あの、……すみません。そのですね、実は当店、営業中ではあるんですけども、その……そう、閉店準備をしてしまってまして、すぐにお出しできるメニューに限りがございまして……」


 すぐに、と付けてしまった辺りで、中のみのりが、


(どんなに待ったとしても、茹でとうもろこし以外出す気はないし!)


 と鼻息を荒げるのがわかる。

 蒲田さんは「え」という感じで目を瞬かせたあと、すぐに軽く頷いた。


「……そうか。なら、腹はそんなに減ってないし――ビールだけもらおうかな」

「あの! ええと、それならご一緒に、茹でとうもろこしはいかがですか?」


 とうもろこし以外のおかずがいらない、というのはありがたいが、とうもろこしすらいらない、というのは予想外の展開だ。

 俺が慌てて言い募ると、彼はちょっと目を見開いた。


「……とうもろこし?」

「はい! いや、ちょうど今日、すっごく新鮮なのが手に入ったんで。今食べるのが一番うまいんで! どうですか!?」


 感情の窺えない瞳の奥に、かすかな拒絶の色が見える。

 彼が、そのくっきりとした眉をわずかに寄せて、


「いや……せっかくだが――」


 そう断りの文句を口にしようとしたとき、


 ――ピピピピピピ!


 タイマーの音が、まるでそれを遮るかのように店内に鳴り響いた。


 ピ! とストップボタンを押しながら、俺は急いで火を止める。

 そうして、ぎこちない笑みを浮かべて首を傾げた。


「その……。この通り、もう、湯がいてしまったので……」

「…………」


 蒲田さんが絶句する。

 それはそうだろう。俺が彼なら、こんな強引な接客はどうかと思う。


 だが、蒲田さんは静かに視線を落とすと、小さな溜息を漏らした。


「――そうか」


 その後に続いた呟きは、俺の耳にはこう聞こえた。


 もう、逃げられないな。


「え……」


 意味を捉えそこね、思わず首を傾げる。

 だが、それに答えることなく、蒲田さんは顔を上げ、そっと告げた。


「じゃあ、頼むよ」


 やり残していた宿題を突きつけられた子どもみたいに――気重そうな、けれどどこか覚悟に満ちたような、不思議な表情だった。





 先ほどと同じ手順でゆで上げたとうもろこしを、熱いうちに六等分する。

 涼しげな青の角皿に盛りつけ、生ビールのジョッキとともに出すと、蒲田さんは小さく、


「どうも」


 と呟いた。

 オレンジがかった黄色と、クリーム色が、モザイク模様のようにひしめくとうもろこしを、しかし彼はすぐには手に取ることなく、代わりにビールを啜る。


 ひと口。

 もうひと口。


 汗をかいたビールジョッキは、すぐに中身を半分ほどに減らしてしまったが、とうもろこしは残ったままだ。


 ふわふわと踊るようだった湯気が、少しずつ量を減らしていくのを、つい見守ってしまっていると、それに気付いた蒲田さんが気まずそうに告げた。


「……猫舌なもので」

「あ、そうなんですね。いえ、急かしちゃったようですみません。ごゆっくり、お召し上がりくださいね」


 慌てて手を振ると、脳裏ではみのりがぼそっと、


(嘘よ。表情筋も舌の神経も鈍いくせに)


 などとつっこみを入れる。

 え、と思わず蒲田さんのことをまじまじと見つめてしまうと、相手は嘘をついた罪悪感からか、視線を伏せながら、違う話題を振ってきた。


「……バイカラーか。うちのと一緒だ。粒もずいぶんぎっしりしている」


 娘とほとんど同じような発言だ。

 水を向ける意図もあり、「お家で育ててらっしゃるんですか?」と知らないふりをして尋ねると、蒲田さんは軽く肩をすくめた。


「ああ。実家が北海道でね。小さい頃からよく食べていたんだ」


 もしや、小さい頃から食べすぎて、逆に嫌いになってしまったというパターンだろうか。

 恐る恐る尋ねると、蒲田さんはちょっと目を見張り、それから苦笑した。


「――いいや」


 わずかでも表情がほころぶと、途端にぐっと人間味のある顔になる。

 彼は切なそうに、目を細めた。


「大好物だよ。昔も今も。毎年実家から届くたび、娘と取り合いをするくらい――」


 そこで、ふいに言葉を途切れさせる。

 彼は、薄い唇を歪めると、小さな声で「したくらい、か」と言い直した。


「あの……」


 俺が声をかけるよりも早く、蒲田さんはビールのジョッキを押しのける。

 そして、おもむろに、とうもろこしをひと切れ掴み――がぶりと、大きく頬張った。


 しゃく、しゃく。

 静かな店内に、みずみずしい音が響く。


 蒲田さんは無言のうちに、咀嚼したとうもころこしを飲み下し、感想を言おうとでもするように顔を上げ、


「…………」


 しかし、再び俯いた。

 息を吸い、また吐いて。


 今度こそ顔を上げて、「とても……」とまで呟くが、無理やり引き上げたらしい口角が、ぎこちなく震えているのに気づくと、そのまま口を閉ざす。


 そして、中途半端な笑みを貼り付けたまま、――じわ、と、目を潤ませた。


「――……すまない」


 慌てて瞬きをして水分を追い払い、ごまかすようにビールを煽る。

 それでも堪えきれなかった感情を抑え込むように、彼は頬杖を突いた右手で、口元を隠した。


「……娘のことを、思い出して」


 必死に皿から視線をそらす様子は、とても薄情な人物には見えない。

 とうもろこしを大好物だという発言と、みのりの言う「嫌がらせ」というのがまた繋がらず、俺は困惑しながら、思いついたことをぼそりと呟いた。


「……娘さんも、とうもろこしが好きだったんですね」

「――……ああ」


 ビールの泡が弾ける音すら聞き取れそうな、静寂に満ちた店内。

 とうもろこしからたなびく、ためらいをそっと溶かすような柔らかい湯気。

 そしておそらくは、神様の計らい。


 薄暗い空間で、ひときわ眩しく輝くとうもろこしに目を細めながら、蒲田さんはぽつりと語りはじめた。


「特に、とうもろこしの茹で方にはうるさかった。食べるのが、大好きな子でね――」


 娘が生まれたのは、彼が三十代を終えようかとする頃。

 なかなか子宝に恵まれなかったところ、ようやく授かった女の子に、蒲田さん夫婦はもちろん、そのご両親までもが夢中になった。


 花を咲かせ、豊かな、実りある人生を送っていけるように。

 彼女の過ごす日々が満ち足りたものであるように。

 夫婦とその両親は半年も考えに考え抜いて、大切な女の子を「みのり」と名付ける。

 みのりはその名に込められた祈りの通り、すくすくと元気に育っていった。


「親の欲目といえばそれまでなんだが……かわいい、よくできた子でね。勉強もスポーツも得意だったし、なにかと器用で、しょっちゅう表彰されていた」


 英語を学ばせればスピーチ大会で優勝し、工作をさせれば都の美術展で特別賞をもらう。

 北海道の祖母の家に遊びにいったときなにげなくまとめた、とうもろこしの茹で方に関する自由研究は、優秀作品として全国の大会に送られた。


 海外出張で不在のことが多かったものの、父娘の仲も良好そのもの。

 よく働く父親と、いろいろなことに精力的に取り組む愛らしい娘は、近所でも評判だったという。


 そんな、絵に描いたような幸せな家庭生活は、しかしある日、一本の電話により崩れ去る。


「出張中に妻から電話があったんだ。みのりが倒れた。検査してもらったら、白血球の数値がおかしい。いわゆる――白血病かもしれない、と」


 耳を疑った。

 そんな、ドラマや映画でしか見ないような病気が、まさか自分の娘に降りかかるとは思いもしなかった。


 一か月は帰れないと言われていた海外での仕事を無理やり切り上げ、病院に駆けつけ――そこで、彼は言葉を失った。


 いつもくるくると表情を変えながら、活発に動き回っていた娘は、無菌室でぐったりと横たわっていたから。


「私が行ったときには、もう化学療法が始まっていてね……」


 蒲田さんは、震えを押し殺すように、低い声で話した。


「ひどい……状態だった。顔色は悪くて、全身がむくんで……」


 抗がん剤を投与することの副作用は、情報として知っているつもりだった。

 だが、自らの目でとらえた娘の姿は、あまりに強烈だった。


 弱々しくて、痛ましくて。

 目の前の光景が信じられなくて、ただ涙がこぼれた。


「妻が……」


 切り出す声が、掠れる。

 蒲田さんは小さく咳ばらいをすると、再び淡々とした口調を取り戻し、続けた。


「妻が、言うんだ。あなたが泣いてどうする。みのりはもっと辛いの、辛いのはみのりなのよと。私たちは、穏やかでいましょうと」


 泣いていいのは自分たちではない。

 ただでさえ病身の娘を、さらに不安がらせてはならない。

 かといって、明るく振舞うのもわざとらしい。それではかえって気が詰まる。


 だから――穏やかに。

 傍にいて、信じて、支えていることを伝えながら、ただ穏やかに接しましょうと。


「妻が……正しいと思った。実際娘は、手本を示すように、私よりよほど落ち着いた振舞いを見せていた。だから私も、穏やかにと……。だが、それはとても……とても、難しくて」


 朗らかな姿しか知らなかったから、青褪め、苦しんでいる様子を見ると、それだけで胸が掻きむしられるようだった。


 仕事をやりくりして、なんとか確保した見舞い時間。

 穏やかに、と何度も自らに言い聞かせたけれど、笑みを浮かべようとすれば唇は引き攣り、油断すると喉が震える。

 結局、仕事先からの電話を言い訳にして、すぐに病室を飛び出た。

 そして、扉のすぐ外で、――大の男が、携帯電話を握りしめながら泣きじゃくった。


 次からは、病室に踏み入ることすらできず、いつも扉の前で笑顔の失敗作を浮かべながら、ただただ、嗚咽をこらえていた。


 そうして、顔も見せられずに引き返すことを繰り返し。

 今度こそと思っていた、ある麗らかな春の日――娘は合併症がもとで、急逝した。


 結局、見舞いと呼べる見舞いができたのは、一回限りのことだった。


(……ダメダメでしょ)


 じっと話を聞いていたみのりが、小さく鼻を鳴らす。


(表情筋の鍛え方がなってないのよ。私みたいに、完璧なスマイルを浮かべられるようじゃなきゃ)


 まあ、私も扉のこちら側じゃ、泣いてたけど。

 ぽつんと付け足した声は、細く消え入るようだった。


 蒲田さんとみのりが、扉越しに背中を合わせて、泣きじゃくる様子が目に浮かぶ。


 演技が下手な父親と、演技上手な娘は、扉を一枚隔てないと、素直な感情を表せなかったのだ。


「……自慢の、娘だった」


 蒲田さんは両手を組み、その中に鼻をうずめた。

 目が、少し赤くなっていた。


「聡くて……人の気持ちに敏感で。後から聞いた話では……私がこんなざまだったのとは裏腹に、娘は、まるで女優のように、相手に合わせて態度を変えていたらしい」


 医師や看護師に対しては朗らかに。

 自分より年下の、同じ症状の患者には「こんなの大したことないよ」とでもいうように泰然と。

 母親に対しては、ちょっと甘えん坊で、わがままに。


 そこでわがままになるのか、と少しだけ意外に思っていたら、まるでそれを読み取ったかのように、


(難病の一人娘が健気だったりしちゃ、ますます救いがないじゃない)


 と肩をすくめる。


「…………っ」


 今更ながら。

 ようやく、みのりという女の子の本質に触れた気がして、俺は喉を詰まらせた。


「それくらい、よくできた……私たちには、もったいないような子だった。……引き換え私は、……親の私は、あの子に、なにをしてこれただろうと……思わずにはいられなくてね」


 蒲田さんは、黄色いとうもろこしに視線を落とすと、ぐっと眉を寄せた。


「もっと……なにかができたはずなんだ……」


 冷たい印象のあった瞳に、ふわりと涙の膜が張る。

 すうっと一筋が流れ落ちると、彼は恥じるように顔を組んだ手に押し付けた。


「もっと……もっと……してやりたいことが、……したい、ことが……っ、たくさん、あったはずだ。なのに……っ」


 夏物のシャツに包まれた喉から、激しい嗚咽が漏れる。

 彼は、震える声で、情けないんだと漏らした。


 娘は毅然と病に向き合っていたというのに、自分はただ怖気づいて。

 仕事を言い訳に、見舞いすら一度しかできなかった。


 いや、発病してからだけではない。

 彼女が健康だったときも、自分は特になにを考えるでもなく、仕事を優先していた。

 なにより愛しいはずの娘との時間に、あまりに無頓着だった。


 もっと、交わせる会話があるはずだった。

 作れる思い出があるはずだった。

 実家の畑でたった一度、一緒に取り組んだとうもろこしの自由研究。

 そんな、朗らかで食いしん坊な娘が楽しめる物事を、本当はもっともっと用意してあげたかった。


「なのに……なにひとつ、できずに……っ。あっという間に、人生を終えてしまった娘が、……かわいそうで、……申し訳、なくて……っ!」


 夜の店内に、途切れ途切れの涙声が響く。

 みのりは無言でそれを見守っていたが、すっかり湯気を収めたとうもろこしをちらりと一瞥すると、やがて口を開いた。


(――ねえ、哲くん。悪いんだけどさあ、私の代わりに、伝えてくれない?)


 静かな声に、はっとする。


 そうだ、代弁。

 みのりは、彼に訴えたい想いがあって、今ここにいるのだ。


 一度しか顔を見せに来られなかった父親に――それほどまでに娘を愛し、追い詰められていた蒲田さんに、メッセージを届けるために。


「嫌がらせに近い」とみのりは言っていたが、近いというのはつまり、違うということ。

 きっと彼女は、耳に痛い、だがそれでも言わずにはいられないことを胸に秘めているのだと、ようやく俺は理解し、慌てて唇を湿らせた。


「あの……蒲田さん……」


 まずは、呼びかける。

 蒲田さんは、名乗ったはずのない苗字を呼ばれ、怪訝そうに顔を上げた。


「蒲田さん……ですよね。なかなか切り出せなくてすみません。実は……その、俺、娘さん――みのり、さんと、知り合いなんです」

「え……?」


 切れ長の瞳が見開かれる。

 さすがに中学生になったばかりの女の子が定食屋の常連だったというのは無理があるだろう。

 俺は、必死につじつまを合わせながら話を続けた。


「実は……ええと、俺の友人が、同じ病院に入院してて。それで、見舞いに行ったときに、よく話すようになったんです」

「……個室だったが?」

「えーっとその、共有スペースでの出会いでして……っ」


 白血病患者の病院での過ごし方を俺は知らない。

 ずっと隔離されていた状態だったならどうしようと、と言ってから思ったが、幸いその説明で、蒲田さんは納得したようだった。


「そうだったのか……」

「はい。お話の途中で気付いたんですが、なかなか言い出せず、すみません」

「……いや」


 蒲田さんは気まずそうにお絞りで顔を拭うと、「私が取り乱したものだから」と呟いた。


(ねえ、まずはこう言って。どうせバレてないと思ってるんだろうけど、お父さんが本当は何度も病院に来てたことなんて、私のぱっちり大きな目にかかれば、まるっとお見通しだった、って)


 脳裏で、そんな切れのよい声が響く。

 あえてなのだろうその軽やかな言い回しを、極力そのままに、「よくそう言っていた」と告げると、蒲田さんはまじまじと俺を見つめ、それから力なく笑った。


「……みのりが言いそうだ」


 俺も小さく笑って、頷く。

 そうして、独特な節回しで話すみのりの、代弁を続けた。


「彼女はこう言ってましたよ。お父さんは自分を薄情だと思っているのかもしれないけど、そうじゃないことなんてお見通しだ。申し訳ないと思っているのかもしれないけど、私はそうは思わない。なにもできなかったと思っているのかもしれないけど、……そんなことはない、と」


 家にいないことも多かったけれど、賞を取るたびに必ずお祝いの言葉をくれた。

 自分でも見逃すようなことまで、必ず気付いて褒めてくれた。


 出張先ではいつもはがきを送ってくれた。

 返信はすべて保存してくれているのだと聞いた。それを自慢しているのだとも聞いた。


 仕事の合間を縫って、夏には必ず祖母の家に連れて行ってくれた。

 好きだろう、と、とうもろこし畑に連れていってくれて、二人で馬鹿みたいにとうもろこしを食べつづけた。

 茹で方の研究のために同じ鍋を十個も買って、母親に怒られた。

 すごく楽しかった――


「…………っ」


 蒲田さんの目が、再び潤む。

 俺も、少し喉が震えそうになりながら、必死でみのりの言葉を拾った。


「英語を教えてもらった。工作を手伝ってもらった。一緒にご飯を食べた。……短かったかもしれないけど、それ以上に、楽しさがぎっしり詰まった、日々だった」


 脳裏で滑らかに言葉を紡いでいた彼女が、ふいに口を閉ざす。

 それから彼女は、俺の目にじわりと涙を浮かべた。


(――……なのに、だめなの?)


 それは、初めて聞く、彼女の弱々しい声だった。


(短いからっていうだけで……全部、全部、悲しい想い出に、……「それしかできなかった」ってことに、なっちゃうの……?)


 俺は、思わずはっと息を呑む。

 みのりは、涙をこらえながら、茹でとうもろこしを見つめていた。


(時間をかけなきゃ……いけないの? お父さんのしてきてくれたことは……私の人生は、残念って扱いに、なっちゃうの?)


 茹でるだけの、とうもろこし。

 時間も手間もかけない、その料理に彼女がこだわった理由を、俺はこのとき初めて理解した。


 みのりは、ぐっと歯を噛み締めてから、言ってよ、と続けた。


(そんなことないって、言ってよ。自分も、娘も、ベストを尽くした。時間は短かったけど、……最高に濃厚で、ぎゅっと詰まった、誰にも負けない素敵な人生を過ごしたって……言ってよ――!)

「……あの……?」


 目を潤ませたまま、立ち尽くしてしまった俺を不審に思ったのだろう。

 蒲田さんがそっと尋ねてくる。


 俺は震えそうになる拳を必死に抑え込み、しわがれた声を喉から押し出した。


「……時間や手間がかかっていないから、かわいそうだなんて、言わないでほしい、と……」


 だめだ。

 俺が泣いちゃ、だめだ。


「それしかできなかったんじゃない。蒲田さんのしてきたことや……自分の人生はけっして、残念なものなんかじゃない。短かったけれど、ぎゅっと詰まった、……最高の人生だって……言ってほしい、と……っ」


 蒲田さんがはっと顔を上げた。

 俺はなんとか涙を押し戻し、彼に頷きかけた。


「その茹で方、覚えがありませんか。……みのりさんに教えてもらったんです」


 皮を剥くだけ。

 水から放り込んで、沸騰してから茹で時間はたったの三分。

 ただ、それだけ。


 なのに、それが特別、おいしい。


「彼女と俺が知り合いで、たまたま今日、蒲田さんが店に来て、たまたま、新鮮なとうもろこしがあって……。すごい巡り合わせですよね。だから俺は、思うんです。これって、奇跡なんじゃないかな、って。みのり、さんが……蒲田さんに、さっきのことを伝えたくて、それで、俺にとうもろこしを、茹でさせたんじゃないかなって」


 言い切った俺を、彼はまじまじと見つめた。


 数秒か、数十秒か。

 冷蔵庫の立てるかすかな振動音と、互いの息遣いだけを残して、沈黙が満ちる。


 やがて、蒲田さんは静かに頷いた。


「――……そうか」


 その拍子に、すうっと涙が一筋こぼれ、青い皿のすぐ横に落ちた。


「……そうだな」


 おもむろに、すっかり冷めてしまったとうもろこしに手を伸ばす。

 ひとくちぶんだけ齧り跡を残したそれに向かって、彼はそっと目を細めた。


「――娘の自由研究の、最後の感想に、書いてあったよ。……個人的にも科学的にも、とうもろこしは時間をかけて調理するより、さっと茹でただけが一番おいしいって」


 懐かしむように、微笑む。

 その笑みは、まだ涙の余韻を残していたが、もう引き攣ってはいなかった。


 彼は、じっと手の中のとうもろこしを見つめ――なにかを思い切ったように、がぶりと頬張った。


 目を閉じて、味わう。

 口いっぱいに広がる甘みと塩気を堪能し、飲み下すと、彼は「ああ」と呟いた。


「本当だ。やっぱり……これが一番だ」


 最高に、おいしい。


 その声は、彼自身にだけでなく、みのりに向けられたもののようだった。


「……そうですよね」


 穏やかに。

 涙するのではなく、無理やり明るい笑みを貼り付けるのではなく。

 ただ、しみじみと告げる蒲田さん。


 それを見届けたみのりは、ずっと鼻をすすった。


(――……よくできました)


 まるで、やっと夏休みの宿題を終えた子どもを前にした、親か教師のようだった。


 その後、蒲田さんはとうもろこしを一粒残さず食べつくし、丁寧に「ごちそうさま」と唱えると、会計を済ませた。

 打ち解けると、ぐっと気安く接してくれるタイプなのか、とうもろこしの保存方法や目利きの仕方まで教えてくれる。

 厨房に積んであるともろこしを、なにげなく指さしている彼を見て、ああ、もう大丈夫だと思った。


 そうして蒲田さんは暖簾をくぐり――後には、芯だけを残した皿と、空のビールジョッキが残った。


「なあ、みのり――」

(ねえ)


 俺がいたわりの言葉をかけるよりも早く、みのりがふと思いついたように声を上げる。

 彼女は、体の主導権を奪ってちゃきちゃきとカウンターを片付けながら、ひょいとビールジョッキを掲げた。


(ビールって、どんな味かな?)


 そこに涙の気配はない。

 ただただ、純粋に気になる様子だった。


 話を逸らされた気のする俺は、小さく溜息をついたが、大人しくそれに乗せられておくことに決める。

 流し台に伏せてあった自分用のグラスに、サーバーから少しだけビールを注ぐと、内側にいるみのりに話しかけた。


「少しだけ。舐めるだけだぞ? 未成年の飲酒は犯罪だからな?」

(いやいやいや。体は大人だし、中身は死人だし、どこに違法性が?)


 いけしゃあしゃあと言い返すみのりに苦笑して、ちょっとだけ金色の液体を啜る。

 とたんに、生意気な中学生はうえっと悲鳴を漏らした。


(まっず。にっが。なんで大人ってこんなの飲むんだろうね)

「……なんでだろうな」


 答えをたぶん、俺は知っている。

 苦い想いを飲み下す、その練習をするためだ。


 だが、気取った答えを口にして、ぼこぼこに叩かれてもかなわないので黙っていると、みのりがふふっと小さく笑みをこぼした。


(完璧)

「なにが?」

(ぜんぶ)


 彼女は上機嫌だった。


(親に説教してやったしー、お酒も飲んだしー、男の人と身体的に結ばれる経験も、しちゃったしー)

「……誤解を招く表現はやめようか」


 ぼそぼそとつっこむが、彼女は笑って取り合わなかった。


(これで、いっぱしの大人がすることまで、軒並みぜーんぶクリアしちゃった。……哲くんの、おかげだね)

「…………」


 やめろよ、と思う。

 生意気で傲慢な性格を演じると決めたなら、最後までそれを貫いてほしい。


 そう。

 彼女の不遜な言葉選びや、人を小馬鹿にしたような口調は、ほとんど演技なのだということに、もう俺は気付いていた。


 だってみのりはあのとき――俺が彼女に同情し、この役回りに抵抗を示したのを見て、急にふてぶてしい態度を取りはじめていたから。


(ねえ、哲くん。……哲史さん。ロリコンなんて言って、ごめんね)

「…………」

(あれって、嘘だよ。いろいろ失礼なこと言って、ごめんなさい。協力してくれて、ありがとう。……怒ってる?)

「……怒ってねえよ」


 短い言葉しか発せられないのは、それ以上話すと涙がにじみそうだからだ。


 穏やかに。

 蒲田さんがこなしたみのりの課題は、俺にはまだまだ難しい。


 かろうじて、「うまいとうもろこしの食い方、教えてくれて、ありがとう」と言い添えると、みのりは嬉しそうに笑った。

 そうして、握りしめていたグラスをサーバーのもとに持っていき、不慣れな手つきでなみなみとビールを注ぐ。


(一杯どうぞ。……お疲れさまでした)


 そっと、調理台に残していた茹でとうもろこしの、最後の一切れも片手に持たせ、めしあがれと呟くと――彼女は、溶けるようにして消えた。




 みのりが目利きしたとうもろこしは、ぎゅっと身が詰まってどこまでも甘く、注いだビールは、どこまでも苦かった。





***





「日替わり肉と、生姜焼き、注文いただきましたー!」


 昼の「てしをや」。

 冷房を強めにきかせているはずの店内は、それでも料理と人の熱で、動き回ると汗ばむくらいだ。特に厨房は暑い。


 俺は、流しにかけているタオルで汗を押さえながら、志穂に向かってオーダーを叫び、ついで御膳の準備を始めた。

 煮物の小鉢に、漬物、味噌汁に、飯。このあたりまでは、どのメニューでも共通なので、あらかじめ俺が用意しておくのだ。


 普段ならばそこまで整えると、コンロを陣取る志穂のもとへと運んでいくのだが、今日この日だけ、俺はもうひとつ、膳に小皿を載せた。


 涼しげな藍色の器に、陽気な黄色をした茹でとうもろこしを一切れ。

 俺なりの、「とうもろこしを使ったとっておきの一品」である。


 鮮やかな黄色の粒が、昨夜と同じくふっくら汁気を含んでいることを確認し、「よし」と頷くと、俺は今度こそ、それらの御膳を志穂のもとへと運んでいった。


「ほい。日替わり肉と生姜焼きな」

「はーい。――……茹でとうもろこしにしたんだ、結局」


 混ぜながら焼きながら揚げながら、と、三つくらいの作業を同時にこなしている志穂が、ちらりと小皿に視線を落とす。

 大口叩いておきながら茹でただけかと、そういった発言が続くのだろうと踏んで、俺はとっさに口を開きかけたが、それよりも早く、志穂はちょっと意外そうに首を傾げた。


「……いいじゃん」

「――へ?」

「茹でとうもろこし。私も、出すならそれがいいなって思ってたから」


 なにかと凝り性の妹にしては、珍しいことである。


「そ……そうかよ。てっきりおまえのことだから、ポタージュだとか、ゼラチンで固めてテリーヌ風とか、そういうことしなきゃ、提案性がねえってダメ出しされるかと思ってた」


 意表を突かれ、もごもご言うと、志穂は軽く笑った。


「傾向として、否定はしないけど。でも……夏野菜だからさ」

「夏野菜は茹でろみたいなルール、あったっけ?」


 思わず首を傾げる。

 すると志穂は、「あくまで私のイメージだけど」と前置きして、なにげなく言った。


「トマトとかとうもろこしとかナスとかさ、みんなカラフルで、太陽がいっぱい! って感じでしょ? 生命力がぎゅって入ってそうだから、なるべくそのまんまの形で、出してあげたいなあって思うの」

「…………」


 フライパンを揺すりながらの、言葉。

 だがそれに、驚くくらいに胸がいっぱいになって、俺は思わず黙り込んだ。


 さんさんと輝く太陽のもと、力強く鮮やかなとうもろこしが育つ様子が思い浮かぶ。

 ぎゅっと詰まった黄金色の果肉を見て、嬉しそうに笑うみのりの姿が、脳裏をよぎった。


 溢れんばかりの光を、――命を。

 ひとかけらだって、こぼしたくないから。

 だから俺たちは、太陽の色をしたその野菜をせっかちに茹でて、大きく頬張るのだ。


「はい、お待ち! 日替わり肉と生姜焼きね。配膳お願い」

「……おう」


 目が潤みかけたのを、汗をぬぐうふりをしてごまかし、完成した膳を両手に取る。

 そうして、


「――お待たせしました。今日はサービスでとうもろこし付きです!」


 腹をすかせた客に、太陽の力がぎゅっと詰まった夏の味を届けるために、俺は厨房を飛び出した。

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