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神様の定食屋  作者: 中村 颯希
夏の部
14/27

2皿目 名前のない野菜炒め(後)

「…………」

「…………」


 呼吸三つ分ほど。

 俺たち大の男ふたりは、玄関口で無言の見つめ合いをしてしまった。

 なんともむさ苦しい()だ。


(お? どうした? おまえら知り合いか?)


 脳裏では無邪気に厳さんが尋ねてくる。

 孫を見守っていたとはいっても、やつが「てしをや」になにを仕掛けたかまでは把握していないのだろう。

 まあ、ゴキブリの画像を合成するのも、悪意あるツイートやまとめサイトを作成するのも、傍目には「パソコンに張り付いている」としか見えまい。


 ああ、なるほど。

 それで言うとつまり、「イジメみたいなもんに遭ってやつれた」というのは、逆炎上を起こしたことを指しているのだろう。

 むくみのせいでわかりにくいが、髪を切ったこともあいまって、以前よりもずいぶんと、輪郭がシャープになったように見える。


 だが、事情を知らない憲治の前で、「実はこいつ、半年くらい前にうちに嫌がらせをしてまして」などと厳さんに説明できるはずもなく、俺は代わりに、腕を組んで小首を傾げた。


「……どうも。また半年前みたいに、うちの料理写真にゴキブリの足を合成したり、それをネット上にばら撒こうとしに来たのか? それとも詫び?」

「…………」

(ええ!? なんだと!? こいつ、そんなことしてたのかよ!)


 脳裏で厳さんがぎょっと息を呑む気配がする。

 彼は、孫の顔をまじまじと見つめ、なにも言い返さない様子からそれが事実だと悟ったらしく、わたわたと謝ってきた。


(お、おい、哲史、うちの孫がすまなかったな。悪い。申し訳なかった。この通りだ!)


 祖父の欲目もあろうに、言い訳ひとつせず謝ってくるあたりが、いかにも厳さんらしい。

 彼は、「半年前ってえと……じゃあ、あれが……」などとぶつぶつ呟き、俺と同じ推理にたどり着いたようだ。


「ちょっと瘦せたみたいだけど、それは逆炎上のせい? ネット上で叩かれると、迷惑メールが来たり、ひどいときには個人情報までさらされるって聞いたけど」


 俺が補足すると、厳さんはぺしんと額を叩きかけた――すんでのところで堪えたが。


(なんてこった! あれ、自業自得だったのかよ!)


 天でも仰いでいそうな声だ。


「…………」


 憲治はなにも言わない。

 俺はひとつ溜息を漏らすと、それ以上の攻撃をやめて店内に引き返した。


 誠意には、誠意を。

 この件に関してはそう決めたはずだった。


 謝罪こそ口にしないものの、気まずさと格闘しながら店にやってきた年下の男に、これ以上敵意を向ける真似は、してはいけないと思ったのだ。

 ――それに、今の俺には、「彼を受け入れてやらねばならない事情」がある。


「……入れば」


 さすがに丁寧語を使う気にはなれなくて、ぶっきらぼうに告げると、相手はちょっと驚いたように瞠目した。


「……でも、『準備中』って」


 ぼそっと漏らすので、俺はひょいと札をひっくり返し、「ん」と片方の眉を上げた。

 憲治は小さく「……どうも」と呟いて、店の敷居をまたいだ。


 店内では、厨房と、カウンターの上しか照明が灯されていない。

 必然、やつは厨房から距離のあるテーブル席ではなく、カウンターの一席に腰を下ろす。


 無言でお冷やとお絞りを差し出すと、相手もまた黙ってそれらを受け取った。


 十秒、二十秒。

 沈黙が続く。


 その間、厳さんはおろおろとした気配を醸しながら、時折無意識なのか、耳にかけた赤鉛筆を取ろうとするようなしぐさをした。


 お冷やのグラスに浮かんでいた氷が、からんと音を立てて崩れる。

 それを合図に、俺はがしがしと頭を掻いた。


「――なんか、食ってくんだろ?」

「……え」

「だから。飯。腹は減ってんだろ? 野菜炒めなら、すぐできるから。食ってけば」


 我ながら、客に対する態度とも思えない。

 だが、相手は虚を突かれたとでもいうように、目を見開いて黙り込んだ。


 そして俯き、小さく答えた。


「……うす」


 体を共有している厳さんが、ちょっとだけ胸を撫でおろすのがわかる。

 いつになく殊勝な様子の憲治を横目に、俺は調理を再開した。


(な、なんか、悪ぃな! あんがとよ、哲史!)


 コンロに火をかけると、厳さんが話しかけてくる。

 俺は、俯いたままの憲治と、厨房の奥にちらりと視線をやってから、自分にしか聞こえないくらいの小さな声で、「いえ」と答えた。


 スプーンにすくったままにしていた味噌を、野菜に塗りつけるようにして落とし、フライパンを揺する。火は、もちろん豪快な強火だ。

 不要な水気を飛ばしながら、味噌の風味を全体に回したら、完成。


 塩味とも醤油ベースとも味噌風味ともつかない味付けの、肉メインとも魚介系ともつかない、不思議な野菜炒めの出来上がりである。


 特になにも考えず、生姜焼き定食などに使う白い皿によそおうとしたら、厳さんから待ったがかかった。


(おう、哲史。悪ぃが、大皿に盛ってくんねえか。やっぱ、炒め物はさ、こう、バーンといかねえとよう)

「え」


 まさか、この量をひとりに食わせるというのだろうか。

 思わず戸惑いの声を漏らすと、体の主導権を奪った厳さんは、さっさと食器棚から大皿を見つけ出し、どさどさとフライパンの中身を移してしまった。

 しかも横に、いかにも取り皿といったサイズの丸い皿を二枚と、箸を二膳添えて。


「……一緒に、食うんすか」


 嘘だろ、という俺の焦りを代弁するかのように、憲治がぼそっと呟いた。

 カウンターに並べる前ではあったが、見えてしまったらしい。


 俺だって、仲よくもない男と一緒に飯なんざ食いたくねえよ、という言葉が喉元まで出かかったが、慌てて飲み下す。

 誠意、誠意。


 引っ込みが付かなくなってしまった俺は、「悪いか」とでもいうように眉を上げ、平静を装って言い切った。


「味見しようと思って」


 そうとも、別にこいつと一緒に皿をつつくわけじゃない。

 あくまで、味見だ、味見。


 時間的に、腹が減っているのは事実であったので、俺は遠慮なく野菜炒めを丸皿に取り分け、それから大皿を、もう一枚の丸皿と一緒に憲治の前に並べた。白飯と味噌汁も用意して、ついでに自分のぶんのそれらも確保する。

 毒を食らわばなんとやら、だ。


「お好きなだけどうぞ」


 定食屋では滅多に出てこないであろう大皿を前に、じっと固まっている憲治に向かって、俺は言い訳するように告げた。

 するとやつは、立ち上る湯気をぼんやりと目で追いながら、


「……これ、なんていう料理すか」


 などと尋ねてくる。


(そりゃおめえ、「豚肉とかキャベツとかねぎとかを炒めたやつ」だよ!)


 脳裏で厳さんが勇ましく答えてくれるが――厳さん。それは、料理名とは言わない。

 だが、あんまりに自信満々な様子なので、その答えをまま告げると、


「…………」


 なぜか憲治は弾かれたように顔を上げ、まじまじと俺のことを見つめた。

 そうして、小さな声で、へえ、と笑った。


 以前目にした、こちらを攻撃してくるような、いやらしい笑みではない。

 なんだか――ずっと探していた落とし物をふいに見つけたときに浮かべるような、驚きと、安堵とが入り混じった表情だった。


 それを怪訝に思いながらも、俺の中の厳さんが、


(さあ、食え! 食え、食え! 正直、冷めちまったら味に自信はねえんだ!)


 と急かしてくるので、俺は丸椅子を引き寄せ箸を取った。

 同時に、憲治のやつも無言で野菜炒めを取り皿に移す。


 薄暗い店内に、ほかほかと白い湯気を漂わせているそれを、箸でがっとすくい取り、大きな口で頬張ると――


「……うま」


 図らずも、憲治と俺は顔を上げて、同時に呟いた。


 まず飛び込んでくるのは、カリッと表面を焦がした、豚バラ肉の旨み。

 強めの塩気と味噌のコクが合わさったところに、一瞬遅れて、ネギやキャベツの甘みが広がっていく。


 大ぶりに切った野菜は、むしろそのおかげで本来のシャキシャキした食感を残し、噛み締めるとみずみずしささえ感じた。

 かと思えば、ちくわやさつま揚げの柔らかな食感にぶち当たり、楽しい。


 けっして繊細ではないのだが、そのがつんと塩気のきいた力強い味わいが、いかにも「男の料理」といった感じで心地よかった。白い飯ががんがん進みそうである。


 いや、進みそう、ではない。

 現在進行形で進んでいる。もっと進めたい。


 俺は早くも茶碗を空にすると、無言でおかわりをよそい、その上にざっと野菜炒めを流し込んだ――多めに取り分けておいた俺、でかした。


(おう哲史、おまえ、わかってんじゃねえか)


 厳さんがにやにやとした口調で言うのに、俺は黙って頷いた。


 そうとも。

 この料理はこうして食わないといけない。


 行儀やマナーなんて関係ない。

 がつがつ強火で炒めた肉と野菜を、白い飯に乗せて、がつがつ食らう。これだ。


「…………」


 ふと、向かい席から、空気が揺れるような気配がした。

 すっかり憲治の存在を忘れていた俺は、口の中を肉と野菜でいっぱいにしたまま、慌てて顔を上げる。


 そして、ぎょっとした。


 憲治は、箸を口に突っ込んだ姿勢のまま、目を潤ませ、ぶるぶると身を震わせていたのだから。


「…………もしかして」


 やがて彼は咀嚼した野菜炒めを飲み下すと、少しだけ掠れた声で問うてきた。


「……俺のじいさん、知ってたり、しねえすか……?」


 ぎこちない丁寧語。

 威勢のよさなどどこかに置き忘れてしまったような、縋るような声だった。


「森田厳治っていう、飲んだくれで、競馬好きの、……俺の、じいちゃん。会ったこと、ねえすか」


 俺はつい、びっくりして相手のことを見返してしまった。

 まさかこんな、――大変失礼だが――毎日味が変わるのであろうラフな料理から、厳さんを連想してみせた彼に驚いたし、それ以上に、憲治の弱々しい様子に度肝を抜かれたからだ。


 ええと、と、言葉を探しているうちに、やつは自嘲するように「……んなわけねえか」と呟いた。


「あ、いや……」

「忘れてください。……この、野菜の切り方とか、肉の多すぎる感じとか、……いい加減な名前とか、食い方とか……妙に懐かしかったんで、つい」


 自分の中でそう完結させて、さっさと黙り込んでしまう。

 その沈黙と、憲治らしくない悄然とした態度が気づまりで、俺はしばしの逡巡ののち、早々に事情を白状してしまうことにした。


「……知ってるよ」

「え?」

「厳さん。うちの……じゃなくて、いや、そう、競馬で知り合ったんだ。意気投合して、飯食ったりして、仲よくなった。この野菜炒めも、厳さん直伝」


 魂や神様云々のことは話せないので、いつも通り店の常連だったことにしかけたが、そういえば憲治のやつも常連だったことに気付いて、慌てて取り繕う。

 俺の趣味に競馬なんていう架空の設定が付け加わったが、この際無視だ。


 優しく話しかけるのも妙な気がして、ぼそぼそと口早に告げると、それを聞いた憲治は、ぽかんと口を開けた。


「…………」


 ついで、じわっと涙をにじませ、小さく首を振る。


「まじかよ……」


 やつは、そんな自分を恥じるかのように素早く瞬きをすると、さりげなく鼻を擦って、下を向いた。

 そんな彼を見て、俺のほうが戸惑ってしまう。


 なんだかこれでは、じいさんっ子の純情な青年みたいではないか。

 志穂に構ってもらえないというだけで、キレて卑劣な真似をしでかす人物と、目の前で涙ぐむ男とが一致せず、俺は気付けば尋ねていた。


「おまえ……なんで、あんな真似、したんだよ」


 今のこいつには、攻撃性だとかいやらしさがまったく見えない。

 代わりに、ぼろぼろに傷ついて、途方に暮れた子どものような、弱々しさがあった。


 眉を寄せて様子を窺っていると、やがて憲治は、ふと顔を上げ、まだほのかに湯気を立てている野菜炒めを見つめた。


「俺……」


 ぽつん、と、とっかかりを探すように呟く。


「俺んち……親も、親戚も……エリートの、集まりで」


 これも、神様の計らいなのか。


 憲治はとげとげしい態度や頑なな表情を、すとんと落としてしまったように、一生懸命言葉を手繰り寄せながら、語りだした。


 憲治は、大手企業のなかでも出世頭である父親と、語学堪能で美人と評判の母親の間に、たった一人の子どもとして生まれた。

 父親の家系は、みな一流大学を出て、ある者は医者に、またある者は官僚にと、そろって羨望の的のような職に就いているのだという。


 例外はせいぜい、母方の祖父くらい。

 町工場で現役生活を終え、定年後は酒とギャンブルに溺れて、いつも顔を赤らめている彼のことを、親族はみな、社交的な笑顔の下で煙たがっていた。


 小さい頃はたいそう優秀であったという憲治も、当初、厳さんのことを快くは思っていなかったらしい。

 というよりは、距離を置くように父親から言い渡されていた。


 実の娘であるはずの母親さえ、しょっちゅう「ああなっちゃいけないわよ」などと小言を言う。

 幼心に、「じいちゃんは、仲よくしちゃいけない人なんだ」と刻み込まれ、手狭で小汚い祖父の家に遊びに行くのも、最初は控えていた。


「でも……不思議と、じいちゃんのことは、嫌いになれなくて。よくこっそり、遊びにいってた」


 振舞われる料理は、塩っ辛くていい加減な野菜炒めばかり。

 肉じゃがとか、オムライスとか、そういう「名の通った」家庭料理はついぞ出たことがなく、いつも「ひき肉と豆腐となすを炒めたやつ」とか「ベーコンと玉ねぎとしいたけを炒めたやつ」とか、そんな名もない炒め物ばかりが食卓に並ぶ。


 ただ、がつがつとそれらの皿を平らげ、さっさと洗い物を片付けてしまった後に、厳さんと遊ぶのが、幼い憲治にはなによりの楽しみだった。


 ザリガニ釣りに、任侠映画の真似っこ、大きくなってからは、ともに競馬だって見に行った。

 それが、塾や習い事に追われた生活の、唯一の彩りだった。

 口では文句を言う母親だって、厳さんの前では生き生きとした表情を見せていたのに、憲治は気付いた。


(こいつ、賢いからよ。俺ァ競馬なんて馬の顔で決めちまうんだが、確率やらなんやら計算して、万馬券だって当てたことあるんだぜ)


 厳さんが、どこか誇らしげにそんなことを言う。

 憲治もまた、その当時を思い出したのか、少しだけ口元を和らげていたが、すぐに「でも」と表情を曇らせた。


「俺が、受験に失敗して。親戚中じゃ、誰も名前も知らないような高校に通いはじめたころから、……少しずつ、いろんなことが、かみ合わなくなってきて」


 初めての挫折、しかも、思春期のそれは、憲治の心を大いに傷つけた。


 どんなに「これから挽回すればいい」と自分に言い聞かせても、やれ従弟は名門校で主席だっただの、模試で全国三位になっただの、そんな情報ばかりが飛び込んでくる。

 親はしきりに励ましてくれたし、毎日のように「チャンスはまだまだある」と言ってくれたが、大学受験、就職活動が、立て続けに不本意な結果に終わると、とうとうそれも重苦しく感じるようになった。


 母親は、成果を出せない自分を励まそうとしているのだろう、毎日豊かな食卓を整えてくれる。

 手本のような肉じゃが、完璧な温度でサーブされたオムライス、写真映えしそうな鮮やかなサラダ――。

 来る日も来る日も、テーブルはいつも端然としていた。


「でも、俺は……っ、飯のたびに、『完璧じゃなきゃいけない』って、毎日毎日、責められてる気がした……っ」


 手をかけ、時間をかけ。

 美しく、丁寧に作られた、完璧な料理。


 こうでなくてはいけない。

 こんなに親は手をかけているのに――なぜ、おまえはできない。


 憲治は、箸を握りしめたままの掌を、ぐっと握りしめた。


「まだやり直せる、おまえならできる、って……、親が言うたびに、俺の今の人生は、やり直さなきゃいけないものなのかって……今は、できてないのかって……痛感して……っ、情けなくて……っ」


 厳さんは、いつも大らかだった。


 料理は、母親のそれと比べると驚くほどいい加減。

 野菜炒めといいながら肉しか入っていなかったこともあったし、隠し味だという味噌が全然隠れていないときもあったが、そんなときも「これはこれで、アリだな!」と笑っていた。

 そんな彼に、無性に会いたかった。


 なのに――就職先がなかなか決まらず、失意の日々を過ごしていた夏のある日。


 厳さんは突然、死んだ。


 俯いていた憲治の瞳から、ぽたっと、涙がこぼれる。

 彼は震える手で箸を置くと、ぐいと手の甲で頬をぬぐった。


「そこから俺、どうしたらいいか、わかんなくなって……なにもかも、うまくいかなくて。目指してたのと、全部が、全然、違う……。頑張っても、頑張っても、うまくいかない。こんな……、こんなはずじゃなかった。そればっかり、ぐるぐるぐるぐる考えてて、……苦しくて……っ」


 せっかく拭いても、涙がじわりと滲みだす。

 憲治は、厚い右手で恥じるように顔を覆うと、


 ――じいちゃん。


 絞るような声で、厳さんを呼んだ。


 しばらく黙って嗚咽をやり過ごした憲治は、お絞りに顔をうずめて、少しだけ落ち着きを取り戻す。

そうして、震える声で「それで……」と続けた。


「それで……ずっと、むしゃくしゃして。会うやつ、会うやつ、みんな、俺のことを馬鹿にしてるように……軽蔑してるように、思えて。こっちが強く出ねえと、一瞬でぼろぼろにされて、倒れちまう気がしたから、……ずっと、虚勢を張ってた」


 志穂に好意を抱いたのは事実だった。


 ふと入った定食屋。

 店主が変わったばかりだとかで、オペレーションがうまくいっていないのか、注文が通るのがやけに遅かった。

 付け合わせの内容が乱雑にちぎったキャベツだったり、注文自体が間違っていることもあった。


 だが、そのたびに厨房から強気そうな女の子が飛び出てきて、ポニーテールをぱっと振りながら、勢いよく謝ってくる。

 心底申し訳なさそうなのに、しかし、その態度はどこかカラリとしていて、憲治はなぜだか、「これでいいっすよ」と鷹揚に答えることができた。


 そして、その言葉に、自分自身が救われていることに気付いた。


「……あの日――ツイートをした、あの日は……」


 憲治は、ぐっと唇を噛み締めてから、目を伏せた。

 そうして、切れ切れに、語った。


「前日に、たまたま、親戚に会って、……酒を、おごってもらったんすけど、……始終同情されて。昔はみんなの憧れだったのにね、なんて言われて……すごく、みじめだった」


 そのときのことを思い出したのか、憲治はくしゃりと顔を歪めた。


「それで、二日酔いのまま……志穂ちゃんの声が聞きたいって、そう思って……。待たされてもいい、注文を間違われてもいい。志穂ちゃんが、あの清々しい口調で、すみませんって言ってくれて、自分は、いいっす、って笑って……、そしたら、その言葉の通り、どんな、失敗も、受け入れることが、……きっとできる、って……っ」

「…………」


 聞きながら、俺はあの日の憲治の様子を思い出していた。


 彩りを添えるためのパセリを、不機嫌そうに引き裂いていた憲治。

 幼稚ないたずらと思っていたが、もしかしたらあれも、完璧な盛り付けから逃れようとする、必死の足掻きだったのかもしれない。


「でも、怒鳴りつけられて……それで、かっとなっちまって。こいつも俺のことを、馬鹿にしてる、ふざけんな、……ふざけんな、って、思って……」


 悪意あるツイートをばら撒いて、まとめサイトまで作って。

 自分のささやかな嘘に人々が煽動されるのを見て、最初は胸のすく思いがした。見返してやった気分だった。


 だが、すぐに逆炎上を起こすと、メールのアカウントには続々と迷惑メールが届くようになる。

 どこで知ったのか、自分の学歴までさらされて、「挫折野郎」だとか「カス」といった嘲笑が次々に投げ込まれた。


 幸い、就職先や家族にまでは知られることはなかったものの――一番の急所を、何度も何度も殴られるかのような思いだった。


 憲治は、ぽたぽたと涙を落としながら、力なく続けた。


「今日……じいちゃんの、一周忌だったんす。集まった親戚は、相変わらずエリートばっかで……そこでも、さんざん、虚仮にされて」


 もう、それに怒ったり、当たり散らしたりする気力は残っていなかった。

 ただ、なにをやっているんだろう、と思った。


 馬鹿にされたくないと、そう思ったばかりに、犯罪まがいのことをして。

 結局、自分が落ちこぼれの状況は変わらない――いや、いっそうひどく、その状況に苦しめられている。


 かっか、と陽気な笑い声がしそうな遺影を、まっすぐに見ていられなかった。


 苦手な酒を逃げるようにして飲み、それでも居心地の悪さに耐え切れなくなって。

 母親の制止も聞かず法事の席を飛び出して、ふらふらと街を歩き、夜になってすっかり腹が減り――気付けば、「てしをや」に足を向けていた。


 玄関越しでも聞こえる、じゅうじゅうと肉の焼ける音。

 静かな夏の夜に似つかわしくない、がつがつとフライパンを雑に揺する音を聞いて、彼は思ったのだ。


 ああ、そうだ。

 俺は、じいちゃんの野菜炒めが食いたかった。


 思ったのと違っても、手本通りにいかなくても、これでいいと、言ってもらいたかった。

 一度でいい。

 じいちゃんみたいに、……親からも、『これでいい、よくやった』と、言ってもらいたかっただけなんだ――。


「……ま、せん……っ」


 名前もない野菜炒めの傍に、ぽたっと涙の粒が落ちる。

 カウンターに額が付きそうなほど、憲治は深々と頭を下げた。


「あのときは、本当に……すみません、でした……っ」


 そうして、両の拳を握りしめ、肩を震わせながら、――やつは、初めて、謝罪の言葉を口にした。


(……すまねえな、哲史)


 じっと話を聞いていた厳さんは、ぽつんと詫びを寄越した。


(こいつ、……根はまじめなやつなんだよ。期待に応えたくて、一生懸命、ずうっと、教本とにらめっこばっかしてきたんだ。手本通りのごちそうを作ろうって、頑張って、頑張って。でもうまくいかなくて、わんわん泣いてる、ガキなんだよ)


 そっと細めた瞳は、カウンターに俯く孫のつむじを見下ろしている。

 その頭を撫でようとするように、静かに俺の右手を持ち上げ、しかし彼は、それが自分のものではないと気付いて、代わりに肩をすくめた。


(人生を投げ捨てて一緒になった女が死んじまったりさ、そういう……、肉じゃが作ろうとしたのに肉が途中でなくなっちまった、みたいなこと、人生じゃ、ザラよ。でも、人間、食わなきゃやっていけねえ。今ある手持ちの材料で、なんとかしのいでいくしかねえんだ。それで、おいしく食ってくしか、ねえんだよ。……それを、こいつだって、わかってはいるんだがなあ)


 苦く笑う厳さんに、俺は小さく頷いた。


 そうだね、厳さん。

 こいつだって、わかってる。

 ただ、言ってもらいたかった。確認したかったんだ。

 自分に言い聞かせて、次の一歩を踏み出すためのエネルギーを――名前のない、いい加減な野菜炒めを、厳さんに食わせてもらいたかったんだ。


 俺はちらりと厨房の奥に視線をやりながら、小さく息をついた。

 それから憲治に向き直り、


「――……いいよ」


 短く、告げた。


「…………、……え」


 どこかぼうっとしたような表情で、恐る恐る顔を上げた憲治と目が合う。

 俺は、気恥ずかしさに視線を逸らしてしまいそうになるのをなんとか堪え、きっぱりと言い切った。


「許す。……水に流すよ」


 憲治が、信じられないというように、ぽかんと口を開ける。

 俺はわざと仏頂面を作って、「ん」と野菜炒めの皿を顎で指した。


「代わりに、それ、全部食ってけよ」


 周囲(・・)からも、本人からも謝られて、これで許さなかったら、鬼畜の所業だ。

 志穂のやつにも後日、きちっと詫びを入れさせて――それで、この件は落着、ということでいいだろう。


「で、もしまたむしゃくしゃすることがあったら、ゴキブリツイートをばら撒くんじゃなくてさ、この、厳さんの野菜炒めを――」


 食いに来いよ、と言おうとしたその瞬間。


 ぺちん。


 俺は、自分の口を手で塞いでいた。厳さんの仕業だ。


「…………!?」


(あんがとよお、哲史。だが悪ぃ、俺ァな、そこまでこいつを甘やかしてやるつもりもねえんだ)


 彼は気合を入れなおすようにふうっと片頬を膨らませて、ほんの少し首を傾げた。


(悪いが、今から俺の言うことを、うまいこと、こいつに伝えてやってくんねえか)


 突然の展開にびっくりしつつも、憲治に気取られないように小さく頷く。

 すると厳さんは、名前の通りの厳しさを混ぜ込んだ声で、孫に向かって語りかけた。


(なあ、ノリジよ。おめえ、知らねえだろ――)

「……どうか、したんすか?」


 言葉の途中で突然口を塞いだまま、じっと立ち尽くしている俺に、憲治が恐る恐る問いかけてくる。

 俺は、つじつまの合う言葉を探し出しながら、切り出した。


「……いや。厳さんがよく語ってたことを、急に思い出して。今、それを伝えといたほうがいい気がしたもんで」

「え……」


 我ながら強引だ。

 しかし、幸いにも憲治は神妙な表情になると、「……うす」と居住まいを正した。


 俺は内心で胸を撫でおろし、厳さんの言葉を代弁しはじめた。


(おめえは、今でこそ立派な体してるが、腹ん中いたときは、ずっと小せえ、小せえ、って言われててよお。そのうえ逆子で、生むのにゃ、美佐子もまあ苦労したんだ)


「おまえ、お腹の中にいたときは、小さい、小さいって言われてたんだって? そのうえ逆子で、お母さんもずいぶん生むのに苦労したって」

「……そんなことまで、話してたのかよ」


 憲治がちょっと戸惑ったような顔をする。

 俺は気にせずに続けた。


「お産には丸二日かかって、一時は母体も危ぶまれた。なんとか無事に生まれたけど……、お母さんのほうは、少しの間、意識不明になったって。それでも、意識を取り戻してすぐ、彼女……美佐子さんは、こう言ったらしいよ」


 ――お母さんが、助けてくれたの。


「…………」


 静かに、憲治が息を呑んだ。


(カミさん……死んだ母親がよう、自分と、子どもを助けてくれたって、あいつは言ってたんだよ。送り返してあげるから、ちゃんと育てなさいよって笑ってたって……、そう言ってたんだ)


 自分の身体だってぼろぼろなのに、美佐子さんは「しんどい」と漏らすでも、縋るでもなく、ただ涙を流して、厳さんに宣言したという。


 ――私、……ちゃんと育てる。立派に、大きく、この子を育ててみせるから。

「…………っ」


 憲治の喉が、小さく引き攣るような音を立てた。

 その間にも、真剣な口調で語る厳さん。

 その言葉をひとかけらも漏らさぬよう、俺は懸命に話しつづけた。


「美佐子さんは、言葉通り、熱心に子育てをした。特に、体が大きくなるよう、料理には並々ならぬ熱意を注いでたって」


 ただし美佐子さんもまた、いわゆる「おふくろの味」とは無縁だった。

 だから彼女は、教科書通り、レシピ通りの料理を作ることにこだわった。

 そうすればきっと、息子がすくすく育ってくれると信じて。


(俺の飯で励まされるってのァ嬉しいぜ。嬉しいが……、美佐子のやつは、俺の何倍も、おまえを育てよう、励まそうって、頑張ってきたんだよ)


 それこそおまえが格闘してきたように、「母の味」を手探りしながら、料理本とにらめっこしてきた。

 それを、重苦しいなんて、言ってくれんな――。


 時系列の調整に苦心しながら、なんとか厳さんの言葉を伝え終える。

 憲治のがたいのいい体は、かたかたと震えていた。


「……そんな、こと……俺、…………っ、一回も……っ」


 声を詰まらせる彼を一瞥して、俺はとうとうある決意を固め、厨房の奥へと向かった。

 そうして、冷蔵庫の脇に置いておいた、開封済みの箱を取り出し、カウンターへと戻った。


(……哲史?)


 厳さんが怪訝そうに眉を寄せる気配がする。

 これは、彼にも――そして神様にも伝えそびれていたことだ。


 俺は厳さんにも聞こえるように、憲治に話しかけた。


「これ、なんだかわかるか」


 手にしているのは、上品な和紙をあしらった菓子箱だ。

 開封してしまったその中には、先ほど神様に供えたのと同じ、涼しげな生菓子が収まっている。


「さっき――今日の夕方、おまえのお母さんが、店に詫びに来たんだ。この菓子を持って」

「…………!」

(へ!?)


 憲治と厳さんがそろって絶句した。

 憲治は自分のことで、そして厳さんは孫のことで手いっぱいで、憲治が街をさまよっている間、美佐子さんがなにをしていたのか、まったく知らなかったのだろう。


 俺は菓子をひとつ取り出して、憲治の前に置いた。


「ネットにはあまり詳しくなくて、今まで事件を知らなかったって、そう言ってた。たまたま今日、親戚の子どもに会って、くだんのツイートとアイコンを見せられて……自分の子どもが、この事件の犯人じゃないかと聞かされたって」


 タシロケンジの母です、とだけ名乗った彼女は、始終申し訳なさそうにしていた。

 恥ずかしながら息子と連絡が取れない、しかし必ず事情を聞き出して、詫びに来させると、何度も頭を下げていた。


「今更数日遅れたって変わらない。息子と……おまえと話してから来ればよかったのに、矢も楯もたまらず駆けつけた、って感じだった。すごくまじめな人なんだなって、思ったよ」

「…………」

「もういいです、思い出したくないんです、って菓子を返そうとしたら、おまえのお母さん、ものすごく困った顔をしてた。俺みたいな若造に何度も頭を下げて、無理やり菓子箱を持たせて――それでも、きっと事情があるはずだ、って、言ってた」


 憲治の唇が震えた。


「本当に申し訳ない、でもきっと、なにか事情があるはずだから……どうか、お詫びと、説明をさせてくれって。美佐子さんは、おまえのこと――信じてたよ」

「…………っ!」


 とうとう、しゃくりあげるような嗚咽が漏れる。

 カウンターに両の拳をついて、うう、と唸る憲治を見て、俺は、「野菜炒めを食いに来い」と言う代わりに、厳さんが言いたかったのだろう言葉を理解した。


「今度むしゃくしゃすることがあったらさ。いい加減な野菜炒めを――おまえが(・・・・)作って(・・・)、美佐子さんに食わせてやれよ」


 慰めを、ただ待つのではなく。

 支えられ、励まされるだけではなく。


 育てられる側から、育てる側へと、試行錯誤しながら渡っていった美佐子さんのように、今度は憲治が、野菜炒めを作る番だ。


(……それだよ、哲史。……あんがとな)


 脳裏で、静かに厳さんが笑う気配がする。

 憲治は、涙に濡れた顔をゆっくり上げると、


「…………い」


 はい、と、小さく頷いた。

 そうして、顔をくしゃくしゃにして、もう一度答えた。


「はい……っ」


 夜の店内に、嗚咽が響く。

 ひとしきり泣いて、徐々にそれが収まってくると、憲治はがしがしとお絞りで顔を拭いた。


 それから、おもむろに箸を取った。


「……冷めちまう」


 ばつの悪さをごまかすように、鼻をずっと啜る。

 彼はしばし野菜炒めを見つめると、やがて大皿をがっと掴み、ご飯茶碗の上で傾けた。

 そして、どさどさと飯の上に、中身を乗せた。


「作ってもらう野菜炒めは、……これが最後だから。ありがたく食わねえと」


 そんなことを呟いて、茶碗に箸を突っ込む。

 そこから、見ていて気持ちよくなるくらいの勢いで食べ進め、数分後には、すべての皿が物の見事に空になった。


 彼は不慣れな様子で「ごちそうさま」と手を合わせると、ちらりと俺のほうを見上げた。


「……あの」

「ん?」

「……すんませんでした。それから、ごちそうさまでした。……うまかった、っす」


 ぎこちない口調。

 だが、素直な感情が詰まった、素朴な声だった。


 やがて憲治は立ち上がると、ごそごそと尻ポケットを漁り、千円札を二枚取り出した。

 なぜ二枚、と首を傾げると、


「野菜炒めと……あの日の、生姜焼き定食のぶん」


 などと、ぼそぼそ告げてくる。

 俺は思わず笑みをこぼし、定食ふたつ分の金額に対するよりは、少し多いくらいの釣りを返してやった。――おまけに、頂き物の和菓子も添えて。


 暖簾をくぐる間際、小さな声で「また、来ます」と呟いて、とうとう彼は去っていった。


(――……うちの孫がすまなかったなァ、哲史)


 カラ、と静かに閉じた扉を見守りながら、厳さんが言う。

 俺はちょっと肩をすくめた。


「いえ。俺こそ、お孫さんに偉そうに説教垂れてすんませんでした」

(なに言うんだよ。俺が言いたかったこと、どんぴしゃ言われてびびったぜ。それを言ったら、美佐子がすでにおまえに会いに来てたってのにもびびったけどよ。先に言ってくれよなァ)

「いやだって、タイミングが……まさか、厳さんの言う孫があいつだったなんて、思わなかったから。判明した後は、なんだか怒涛の展開だったし」


 そう、怒涛だった。

 ありあわせの具材を、ぶつ切りにして、がつがつ炒める。肩の力が抜けるような、名前もない野菜炒めは、本当にすぐにできてしまったから。


 子どもが泣き出してしまわないように、手早く作る料理。

 あるいは、栄養を染み込ませるように、せっせと手間暇をかけて作る料理。


 どちらがいいという話ではなく――どちらも、切ないくらいの愛情が込められているんだ。


「みんな違って、みんないい、かぁ……」


 つい、そんなことを呟いてしまってから、ふと苦笑が漏れる。

 妙に耳に残っていると思ったら、もとは神様が得意げに口にしていたセリフだったと気付いたからだ。


 まったく――あの神様は、どこまで見通して行動しているのだか。

 しみじみする俺をよそに、厳さんは、うーんと大きく伸びをした。


(いやァ、いい仕事したぜ! ほんとにあんがとなァ、哲史)


 かっか! と笑う彼は、いつもの朗らかさだ。

 あんまりに陽気に「よっしゃあ、一仕事終えたぜ」と叫ぶものだから、打ち上げに酒でも飲みます? と尋ねたところ、厳さんはちょっとだけ考え、やがて首を振った。


(うんにゃ。かわいい姉ちゃんとは言わねえが――かわいい娘から、甘いもんをお裾分けしてもらったからな)


 そんなことを言って、箱にいくつか残っていた菓子をひょいとつまむ。

 これで十分、と笑う彼に、俺は、またも神様の言葉を思い出して嘆息した。


 ――おまえが持ってきたこの菓子、後でこやつにもやっておいてくれるか?


 これもまた、掌の上というわけだ。


 厳さんは実に満足そうに、俺の身体を使って和菓子を頬張ると、最後に一言だけ「俺のかわいい娘と孫をよろしく」と残し――

 溶けるように、消えた。




***




「いらっしゃいませ」


 昼のてしをや。

 照り付ける太陽から逃れ、店内に入ってほっと息をつく客を認めて、俺は下げものをしながら声を張った。


「今、ちょうどカウンターの奥の席が空いたんで、少々お待ちを」

「今日も大盛況ですね」


 清潔な白いシャツのような、爽やかな笑みを浮かべる青年。敦志くんだ。

 彼は、厨房にいる志穂にも、控えめな視線を向けようとしたが――そこで、少し目を見開いた。


「うめえ。この唐揚げまじうめえ。ぱねえよ。志穂ちゃん、天才!」


 カウンターの一席に腰かけ、勢いよく唐揚げ定食を頬張りながら、熱心に志穂に話しかける男を認めたからである。


「……あのお客さんは……?」

「えーっと……」


 妙になれなれしい見慣れぬ男、しかも志穂が迷惑顔をしているのが気になったらしく、敦志くんがちょっとだけ眉を寄せて尋ねてくる。


 貴方様に以前懲らしめてもらったゴキブリツイート野郎です、というのを、こそっと、なるべく大人にふさわしい言い回しで伝えると、敦志くんは小さく「えっ」と叫んだ。

 面識はなかったものの、かつて志穂たちを大いに追い詰めた存在だと知って、やつを敵認定したらしい。

 優しげな顔をみるみる険しくさせて、低い声で尋ねた。


「まさか……性懲りもなく、店に嫌がらせでも……?」


 やはり鎮火などさせず、息の根を止めるべきだったか……などと呟く彼は、そこはかとなく黒い。

 敦志くん。君のその暗黒面はそっとしまっていただいて、いつもの爽やかな青年に戻ってください。

 俺は慌てて手を振った。


「いやいや。なんかすっげえ反省して、謝りに来てくれてさ。志穂に対しても、菓子折り持って詫びを入れに来たから、……まあ、許したんだよ。そしたらもう、その日から連日通っちゃって」


 そう。

 憲治のやつは、あの野菜炒めとともに、すっかり自身の抱えるコンプレックスや葛藤を片付けてしまったらしく、翌日早々、詫びを入れにやってきたのである。


 今回の件で体重を落とし、酒のむくみもすっかり取れ、髪もきちんと整えた憲治というのは、イケメンとは言わないまでも――まあ、そこそこ、見られる男になっていた。


 言動についても、その端々に、図々しさや甘ったれたニュアンスは残るものの、裏を返せば、なついた相手のことは全力で慕う性格というわけで。

 キレてテーブルの脚を蹴飛ばすのと同じか、それ以上の勢いで土下座し、「本っ当に、すみませんでした!」と腹の底から叫んで謝るものだから、志穂のやつもすっかり毒気を抜かれてしまったのだった。


 憲治を見るなり条件反射で掴んでいた塩の瓶を、まき散らすこともなく収めてくれたのには、俺もほっとしたものである。


 せっかく協力してもらったのに、ご報告もできてなくてすんません、と謝ると、


「いえ……それはいいんですけど……」


 敦志くんは少し瞳を揺らし、不安そうにカウンターのほうを見つめた。

 そこでは、飽きもせず憲治のやつが、「うまい、最高! こんな料理上手が彼女だったら人生バラ色! 唐揚げ、味濃くなってる? 夏にぴったりな味付けに、細やかな愛を感じる!」などとほざいている。


「愛じゃないですけど、……そう、ちょっと焦がしにんにくを加えてみたんです。醤油も増やして。よく気付きましたね?」


 いや、単純に喚いているだけのようにも聞こえるセリフは、料理馬鹿である妹のツボを、実はぐいぐいと押しまくっていて、志穂は踵を返そうとしていたのを中断し、つい、といった感じで答えてしまっていた。

 よく見れば、仏頂面を維持している顔も、唇の端がほころんでいる。


「――……こ、こんにちは!」


 ふいに、敦志くんは声を張り上げると、カウンターの一席――憲治の隣に勢いよく腰を下ろした。

 ちらりと見える横顔は、いつになくきりりと強い意志で引き締まっている。


「あ、敦志さん。いらっしゃいませ!」


 志穂がぱっと笑顔になって挨拶を寄越すと、敦志くんはひとつ頷き、それから真剣な顔で告げた。


「チキン南蛮で。――いつも同じでアレだけど、すごくおいしいから」

「あはは、嬉しいです」

「いや、本当に。最近、タルタルソースにピクルスが入ったよね。あれがまた、すごくおいしい。南蛮酢も、なんか味付け変えた?」

「えっ、すごい! 砂糖の種類を変えたんです。初めて見抜かれた!」


 ぱあっと顔を輝かせる妹に、敦志くんは照れたように「いやいや」とはにかんだ。

 それから、ちらっと隣の憲治を見る。


 一瞬、二人の間に、目には見えぬ火花のようなものが散った気がした。


「あ……敦志くん……?」


 これまで見たこともなかった、肉食モードの敦志くんに、俺は思わず目を瞬かせる。

 そして、ふと神様と交わした会話を思い出した。


 ――そうそう、敦志くんももうちょっと強めにアタックしてくれりゃあいいのにと俺も願って――


「……あー……」


 ああ、なるほど。

 なーるほど。


 たしかにそんな「願い」を口にしたんだった。はい。


「……そう来たか……」


 今回は珍しく「ただ働き」だな、などと思っていたら、神様はそこにもしっかりと手を打っていたというわけだ。

 一本取られた、という不思議な口惜しさと、勝手に憲治あたりと「良縁」を結ばれてしまわなくてよかった、という安堵で、俺は思わずそっと息を漏らす。


「すみませーん、お会計をー」


 そのとき、テーブル席から声がかかり、


「あ、はい! ただいま!」


 俺は物思いを切り上げて、客のもとに走りはじめた。

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神様の定食屋4
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