2皿目 名前のない野菜炒め(前)
がろん、がろん。
ようやく蝉の鳴き声の静まった夏の夜。
俺は、湿気と熱を吸ってずしりと重く感じる鈴尾を揺らし、御堂に向かって呼びかけた。
「神様ー、こんばんはー」
反応はない。
だが、落ち込みはしない。
まるで、勝手知ったる先輩の家で手土産を広げるかのように、俺は賽銭箱の横に、小ぶりの瓶やペットボトル、和菓子の包みを並べ立てる。
そうして屈みこみ、ぱたぱたとTシャツの首元を仰ぎながら声を張った。
「今日はちょっと趣向を変えて、梅酒を持ってきましたよ。なんと、手作り! 妹のですけど。五月くらいから仕込んどいたのが、ようやく完成したんです。梅の新酒。なかなか粋でしょ?」
まず指し示すのは、ラベルもなにも貼っていない、小さな瓶だ。
もとは地酒が入っていたのだが、飲み終えた後きれいに洗い、梅酒を移し替えたものである。
中には、夕陽を溶かし込んだような黄金色の液体が、とろりと肩口まで収まっていた。
ほおらほら、と誘惑するように、瓶の首を掴んで揺らしてみると、
――む。手作りの梅酒とな?
さっそく、御堂がぼんやりと光り、不思議な声が響きはじめる。
本当に、なんと酒好きな御仁か。俺は笑いを噛み殺した。
「そう。甘い酒は好きじゃないかな、とも思ったから、今日は味見程度しか持ってきませんでしたけど。キンキンに冷やしてきたんで、このままでもよし、炭酸で割ってもよし。どうしましょうか?」
市販の炭酸水をもう片方の手で掴み、首を傾げてみせると、神様からはスパン! と音がしそうなほどの即答が返った。
――ストレートで。
よほど飲みたいのか、早く開けろ、早く置け、と急かしてくる。
予想以上の食いつきに、俺は少々面食らった。
「意外ですね。純米酒みたいな男っぽい酒が好きだって言うから、もしかしたら、『酒は辛口が一番!』とか言われるかな、なんて思ってたんですけど」
――たわけめ。多くの手を経て成る甘露に、私が順位付けなどするわけがなかろう。梅酒も冷酒もどぶろくも、みんな違ってみんないい。すべてが特別なオンリーワンなのだぞ。
「……さようで」
なんだろう。パーツパーツは深みのある発言のはずなのに、まるで深みを感じない。
とはいえ、ここまで期待されて悪い気もしなかったので、俺は瓶の蓋を回し開け、再び賽銭箱の隣にそっと置いた。
蒸すような夜の空気に、ふわりと甘い匂いが溶け出す。
それを上機嫌に、ぐびぐびと喉を鳴らして――というのはあくまで俺の想像だが――梅酒を飲み干す神様を、俺は口元を緩めて見守った。
龍也くんの魂を下ろされ、真琴ちゃんの出汁巻き玉子の誓いを聞き届けてから、一週間。
慣れないピクニックの疲れにやられ、そしてまた、思わぬ来客があったりして、結局定休日のこの時間にしかやってこられなかったものの、俺は先日の一件で、改めて神様への感謝の思いを強めていた。
整理を付けたつもりで、全然割り切れていなかった両親への感情。
志穂とともに途方に暮れていたところを、この神様は掬い上げてくれた。
龍也くんを助けるつもりで、結局、救われたのは俺のほうだったのだ。
うんとかすんとか、そんな軽口ばかり叩き、ひょうきんで、いい加減。
けれど、この神様は、本当はとても優しく、面倒見がいい。
――うむ。うまいぞ。いかにも梅酒という感じで、実に美味だ。
「……ふわっとした感想、ありがとうございます。妹にも伝えておきますよ」
そう、たとえ、どんなに食レポが下手であろうと、そんなの関係ない。本当にありがたい存在なのだ。
――おお、妹か。志穂と言ったな。愛い顔に、よい腕をしておる。が、ちと艶が足りぬよな。恋のひとつもすればよいものを。
「そうそう、敦志くんももうちょっと強めにアタックしてくれりゃあいいのにと俺も願って……って、それは今関係ないですよね?」
時折、おせっかいと言うか無神経な発言もするが、いやいや、それも面倒見のよさの裏返しである。……たぶん。
――なにを言う。作り手の心の機微が、酒の味を大きく変えるのだぞ。恋を知った人の子の作る梅酒か……うん。よいな。実によい。うまい酒の……間違った、ほかならぬおまえの妹のためだ、よき縁を結んでやろうか?
「だから本音がね!? 酒を目的に縁を結ぶのやめましょうか!」
……いや、俺の認識が間違っていたかもしれない。
これは、単なる自分に正直すぎる神様だ。
ノリで妹に変な彼氏でも用意されたらかなわない、と思った俺は、慌てて話題を変えることにした。
「ま、まあ、そんなに気に入ってもらったんならなによりですよ。で、こっちの和菓子はですね、頂き物なんですけど、それっていうのがなんと――」
上品な和紙をあしらい、金箔まで押された高級菓子について説明しようと身を乗り出した俺だったが、たらふく梅酒を堪能したらしい神様は、そのトークを遠慮なくぶった切った。
――ははっ、遠慮するな、相も変わらず謙虚なやつめ。どーれ、代わりにどの魂の未練を晴らしてもらうかなあ。ひくっ。
「またも酔ってる!?」
もはや全然話を聞いてもらえそうにない気配にぎょっとする。
それどころか、妹の縁結びを押し売って、俺にまた一仕事させようとしていやがる。
事態の不穏さを素早く察知し、俺は即座に鳥居の向こうへと緊急避難態勢を取った。
話の途中だが、構っていられない。うかうかしていたら、またいつもの通り、神様のペースに乗せられるだけだ。
が、敵もさるもの。
俺が石畳を走り抜けるよりも早く、まるで通せんぼをするように、赤い鳥居の下に、すっかり見慣れた白い靄が凝りはじめた。
――うむ。このあたりがよいかな。なかなかやんちゃな男だが、なあに、苦みも雑味も人間味。いろいろ雑だが、まあ、心根は温かな男でなあ。
『よせやい、照れるじゃねえか、神さんよ』
こき下ろしているのか持ち上げているのかわからない言葉に、へへっと鼻の下をこするのは、短く刈りあげた白髪が印象的な、年かさの男性だった。
ぼんやりと輪郭を固めはじめたその人物は、よれたグレーのTシャツに、だぶだぶのジャージ、便所に行くような黒いサンダルと、いかにも「ダメそうなじいさん」といった格好だ。
にかっと笑う顔は陽気だが、頬は明らかに酔ったように赤らんでいて、ついでにいえば、尻ポケットには丸めた競馬新聞、耳には赤鉛筆まで挿していらっしゃる。
「え、ちょ、え……」
あまり接したことのないタイプの魂の出現に、俺はぎょっと足を止めた。
――死ぬ前夜まで、飲むわ、打つわ。そんな男だが、不思議と私と気が合うようでなあ。ははっ。あ、おまえが持ってきたこの菓子、後でこやつにもやっておいてくれるか?
不思議とっていうか純粋に酒好きだから気が合うんだろう、とか、ははってなんだよ、とか、お供え物のお代わりかよ、とか、突っ込みは尽きせぬ泉のように湧いてきたが、酔っぱらいと呼んで差し支えないじいさんが、満面の笑みで接近しつつあるという状況が、俺から言葉を奪った。
「うお……っ」
『あんがとよ、兄ちゃん。利息もなしに体を貸してくれるなんてさ。あんた、サラ金のやつらに爪の垢でも煎じて飲ませてやりてえよ』
じいさんは持ち上げていた両手をふと見下ろして、『ありゃ、俺の爪の垢のほうが売るほどあるわ』と呟き、かっかと笑う。
――ははっ。神の御前では禊ぎをせぬか。罰当たりなやつめ。
『はっはっ! 犬と一緒で水浴びが嫌いでよう。それで三途の川も渡れずじまいよ。いっそ川が酒でできてりゃ、俺も即座に飛び込むんだが』
――それでは結局渡っておらぬではないか。ははっ!
「いやいやいや……」
なにやら酒場の連れ同士であるかのように盛り上がっているが、こちらはそれどころではない。
冷や汗を浮かべ、じりっと後退したものの、それを見とがめたじいさんは、まるで獲物を前にした猛禽類が翼を広げるように、ばっと両手を掲げた。
『おう、逃げなさんなよ、若者よお!』
そして、先ほどまでの千鳥足が嘘だったかのように、こちらに向かって突進してくる。
「ちょ、わ、待っ……!」
『フュー……ジョォォン!』
ふわん。
すっかり耳慣れた音が辺りに響き、それと同時に、
(おう! こりゃあいいや、足腰もしゃんとして、視界も良好。今、馬ぁ見に行ったら大当たりしそうだなあ!)
脳裏では陽気な笑い声が聞こえだす。
すっかり酒に浮かれたような神様と魂が、「ははっ」「はっはっ!」とやたら愉快そうに笑い合うのを聞きながら、俺は思わず拳を握りしめた。
いや、わかっている。
きっと神様は今回もこんなふうにことを運びつつも、最終的にはすべて丸く収めてくれるのだろうことは。
そう信じられるくらいには、俺もこの展開に慣れているし、別に、頼まれればこちらの願い事なしで体を貸すことだって、やぶさかではない。
ないのだが。
「あんたら、二人とも……」
神様と、目上の魂相手に声を荒げてしまっても、誰にも責められないと思うのだ。
「少しは、人の話を聞けえええええ!」
夜の境内で、俺の絶叫と、なぜか愉快そうな笑い声が弾けた。
***
俺に今回とり憑いた魂は、名を森田厳治といい――厳さんと呼んでくれ、と言われた――、三度の飯より酒が好き、女の尻より馬の尻、と豪語する、たいそうバクチなじいさんだった。
なんでも、元は名の通った企業の社員だったそうなのだが、奥さんと大恋愛の末、駆け落ち同然に結婚し、小さな町工場の技師に転職。しかし娘を授かった数年後に、奥さんに思わぬ病で先立たれてしまったらしい。
それ以降、男手ひとつでの育児に対するストレスから、酒量が増えていったとのことだ。
(育児業ってえのは、もっと評価されてしかるべきだよなあ。言葉もわかんねえ小っせえ子どもによ、飯食わせて風呂入れて、クソの始末してたらよ、こっちは飯を噛む時間もねえっつうの。その点、酒ってのは流し込むだけで米の成分が五臓六腑に染み渡る、まさに命の水だぜ)
とは、厳さんの言。
さらに定年後は時間を持て余したとかで、そこに競馬の趣味が加わったのだとか。
これも、彼に言わせれば、「ほかの女の尻を追っかけたら死んだカミさんに叱られちゃうけど、馬ならいいだろうと思った」とのことだった。
「……さようですか」
店への道を辿りながら相槌を打つ俺は、ちょっと圧倒され気味だ。
常に酔っ払い状態と言えるくらいに厳さんはパワフルで、滑舌よく、まあ喋る、喋る。
社員時代に切った張ったの大立ち回りを演じた話だとか、娘さんにザリガニのことを伊勢海老と呼んで食べさせていたのがバレて激怒された話だとか、とにかく豪快な御仁なのだが、不思議とそのべらんめえな口調での語りぶりは心地よく、すぐに俺は厳さんに対してうっすらとした好意を抱くようになった。
口ではめちゃくちゃを言いつつも、なんだかんだ、奥さんや娘さんを愛していたのが伝わってきたからかもしれない。
(まあ、命の水は飲みすぎると、命が溢れちまうっつう欠点があるんだけどよ)
厳さんが亡くなったのは、ちょうど去年の夏。
数年前に肝臓を患ったのを機に一度は酒を控えたのだが、馬券が珍しく当たったのが嬉しくて、つい我慢しきれずに祝杯を上げたところ、止まらなくなってしまい、とうとう肝臓が壊れ、そのままぽっくり逝ってしまったのだとか。
(正直、あれま、ってな感じだったがな。ま、ねんねんコロリよりも、ぴんぴんコロリと死んだほうが、潔くてよろしい! 俺の肝臓、よくやった! ってなもんよ)
かっか! と笑う厳さんは、どこまでも陽気だ。
だが、龍也くんという若い魂を見送ったばかりの俺としては、その明るさに、少々救われる思いだった。
「でも、それならどうして成仏しなかったんですか? 失礼ですけど、あんまり未練なんてなさそうなのに」
相手がざくざくと遠慮なく語るので、こちらも思い切って問いかけると、厳さんはちょっとばつが悪そうに頬を掻いた。
(おう、まあ、俺のほうは正直、この死にざまで大満足だったんだがよ。残されたほうからしてみれば、ちーっとばかし、唐突だったようで。落ち込んでる子どもを横目に、そのまましゃらっと去るのも、……なあ?)
その答えを聞いて、ああ、と思う。
無鉄砲でいい加減なような厳さんだが、その朗らかさを慕う人だって多かったろう。
娘さんや、それ以外の家族だって、さぞ突然の死を悔やんだだろうと思い、そう告げると、しかし意外にも彼は「いやいや」と首を振った。
(恥ずかしい話、飲んだくれのじじいなんて、親戚一同の鼻つまみ者でな。やつらだって、俺と同じく「ぽっくり逝ってくれてよかった! ありがとう、肝臓!」くらいなもんよ)
「え? でも、料理を振舞いたい相手って、娘さんじゃないんですか?」
たしかさっき、厳さんは「落ち込んでる子ども」といったはずだ。
当てが外れたことに首を傾げていると、厳さんはんー、と、わずかに唇を突き出すようなしぐさをした。
(まあ……ミサコのほうも、――あ、娘な? あいつのことも、気に掛かってはいるがよう。だがあいつは、俺っつー反面教師がいたぶん、とにかくしっかり者だからさ。気落ちはしてるが、まあ、同時にしゃんと気が張ってもいるのよ。俺が心配してるのは、ノリジ……孫のほう)
「お孫さん、ですか」
厳さんによれば、お孫さん――ノリジくんというようだ――は昨年大学を卒業した、ピカピカのフリーター一年生。
ただ、フリーターというのは、彼の目指したところではないらしい。
(まあ、こういっちゃあなんだが、不器用なやつでよ。根はまじめだし、一生懸命なんだが、なーんかうまくことが運ばねえのよな)
娘のミサコさんは、ラフな父親への反感からか、勉学に励み、一流企業に秘書として就職。
そこでまじめなサラリーマンである旦那さんをゲットし、たいそう「きちんとした」家庭を築いてきたのだという。
そこに生まれたノリジくんもまた、親の期待に応えて、小さい頃は神童ともてはやされるくらい、オツムの出来もよい、大人びた子どもだった。
が、高校受験に失敗した後、挽回を目指した大学受験はインフルエンザで失敗。
就職活動で日の目を見るかと思いきや、それもうまくいかず、すっかり腐ってしまったのだとか。
(引きこもりとは言わねえが、一時期はパソコンにべったりでよ、なんかそこで、イジメ? みたいなもんにも遭ったみてえで、ずいぶんやつれちまったし、まあ心配でさ)
時江さんを失ったばかりの、敦志くんのようなものだろうか。
就活のことといい、二人にの境遇には少々似たところがあるようだ。
俺は、脳裏に、爽やかで生真面目な敦志くんがしょんぼりと項垂れているところを思い浮かべ、まだ見ぬノリジくんに同情を覚えた。
(野郎は厳しく社会で揉んでもらえってのが、俺の本来の方針よ? だがまあ……喝を入れがてら、飯を食わせてやるくらいは、許されんじゃねえかと、そう思うんだ)
「そうですね」
孫を思う祖父の気持ちというのが、温かい。
とうとうたどり着いた「てしをや」の裏口に回りながら、俺は素直に頷いた。
「ノリジくんに喝を入れられるような、うまい飯を作りましょう」
(へへっ、あんがとよ)
厳さんは、照れたように鼻を擦る。
だが、「で、なにを作るんですか?」という俺の問いに対しては、
(あん?)
と怪訝そうな声を返した。
「え? あん、って……」
まさか、またも俺がリードするパターンなのだろうか。
一瞬冷や汗を浮かべた俺だったが、彼は肩をすくめながら、意外な発言を寄越した。
(なにを作るかなんて、冷蔵庫の扉を開けるまで、わかるわけねえよ)
と。
***
(おお! 肉も野菜もいっぱいあんなァ……)
店内の照明と冷房をオンにして、エプロンを身に着ける。
巨大な業務用冷蔵庫を興味深げに見まわしてから、厳さんが真っ先に取り出したのは、大量の豚バラ肉だった。
子どものように、肉、肉、と相好を崩し、その奥に豚ロース肉を見つけて、ちょっと迷うような表情を浮かべる。
(うーん。基本、野菜炒めでいこうと思うが、バラにするか、ロースにするか……。いっそ、混ぜるか? お、牛肉もある、こいつも入れるか?)
「……待ってください。野菜炒めですよね? なんで肉ばっか見てる……ってか、肉が入る前提なんですか」
(そりゃおめえ、「ネギトロ」はネギとトロしか言ってねえが、シャリがねえなんて誰も思わねえだろ? 寿司にシャリがあるのは当たり前。野菜炒めに肉が入ってんのも当たり前。あえて言うぞ、肉のない炒め物なんて、炒め物じゃねえや!)
なんと口の達者な御仁だ。
俺は呆れるよりも面白くなってきて、はいはいと流れに身を任せた。
厳さんはその後もうきうきと、冷蔵庫や棚から食材を引っ張り出す。
玉ねぎ、長ねぎ、ピーマン、キャベツ、しいたけ、にんじん。
ねぎが二種類入っている点を除き、そこまでは納得だが、さらにちくわ、さつま揚げ、鰹節――。
「……なんか、多すぎません?」
この時点で、味の方向性が想像つかない。
だが厳さんは栄養、栄養! と笑うだけだった。
(なあに、炒めちまえば、不思議と味がまとまるもんよ)
「そんなもんですか?」
(おう)
自信たっぷりに、今度は調味料を並べだすが、それもまたずいぶん種類が多い。
塩にみりんに料理酒に、鶏がらスープ、醤油に味噌――……味噌?
「……なんかもはや、カオスな味にしかならない気がするんですけど」
(そうかあ? 味噌をちょっと加えると、なーんでも味がまとまるんだけどなあ)
厳さんは自信満々だ。
そうして、すちゃっと包丁を取り出すと、ざくざくと食材を切りはじめた。
豚バラ肉は、ぶつ切りに。
にんじんは薄めのいちょう切り。
ねぎを筆頭とした野菜はぶつ切り、ちくわもぶつ切り、さつま揚げもぶつ切り――
「軒並みぶつ切りじゃねえか!」
(うっせ、ぶつ切りは男のロマンなんだよ!)
ちなみに、にんじんはあまり好きではないが、彩り的に入れざるをえないので、やむを得ず、いちょう切りにするとのことだった。
材料をすべて切り終えると、今度は深めのフライパンを取り出す。
家庭用のものではもはやはみ出そうな量なので、業務用の大ぶりのものだ。
厳さんは豪快に油を注ぎ入れて熱すると、そこに豚バラ肉を放り込んだ。
(おらよっと!)
焼く、というよりは、揚げる勢いだ。
肉の脂と旨みを閉じ込めたまま、表面がカリッと焼けたのを確認すると、厳さんは神妙な顔つきでそれを皿に移し、軽く塩を振った。
(豚肉様だけはな、火が通らねえと腹にかかわるから、慎重に扱わなきゃいかん)
ほかほかと湯気を立てているそれを、味見がてら一つまみ。
「うまっ」
思わず、はふはふした口から小さな声が漏れた。
焼きたての肉に、塩を振って食う。
ただそれだけなのだが、ものすごくおいしい。
非常に男好みというか、もうこれだけでつまみになりそうだ。
(な? 肉、うまいだろ? 脂の多い豚肉はよ、焼くより揚げて旨みを閉じ込める、に一票だな)
「俺からももう一票」
(はっは!)
厳さんは豪快に笑うと、旨みを吸った油を一部だけ残し、今度は野菜や揚げなどの具材を投入しはじめた。それも、どかどかと音がしそうなくらいに、一斉にだ。
「か……固いものから入れる、とかじゃなくていいんですか?」
(ちゃんとレンジでチンしたもん。大丈夫、大丈夫)
そう、彼は豚肉を揚げ焼きにしながら、「ここで裏技な?」などとお茶目に言い放ち、キャベツや玉ねぎを軽くレンジにかけていたのである。
ぶつ切り、レンジ、一斉投入。
おかげで、かつてないほど調理がスピーディーだが、仮に豚汁の梅乃さんが見ようものなら、「そこに直りなさい!」と眉を吊り上げそうな光景だ。
「なんつーか……『手塩をかけたおふくろの味』みたいなのとは、対極にあるような料理ですね……」
(んー? まあなあ)
厳さんはガツガツとフライパンを揺すりながら、なんの気なしに答えた。
(手をかけるって愛情ってのも、もちろんあるけどよ。俺ァ、そんな料理できねえもん。ちんたら台所に立ってたらさ、子どもは寂しがって、「抱っこお」って膝に抱き着いてくるわけ。それなら、苦手な料理をねちねちやるよりさ、さっさと片付けて、抱っこして、一緒に遊んでやりてえじゃんよ)
「…………」
俺は思わず目を見開いた。
愛した奥さんを失い、酒に走るくらいの負荷を抱えながら、不慣れな育児をこなした厳さん。
「イクメン」だなんて言葉も存在しないその当時、男手ひとつで小さな子を育て上げるというのは、今以上に困難なことだっただろう。
仕事から帰って、へとへとになりながら、大慌てでフライパンを揺する厳さんの姿を思い浮かべて、俺は不用意な発言を恥じた。
「……すんません」
(あん? んや、んや。こういうのって、正解のねえ話だし。料理も愛情も、みんな違ってみんないい、ってな)
かっか、と笑って言われると、ますます肩身が狭くなる。
すっかり委縮してしまった俺をいなすように、厳さんは、
(あー、ビール飲みてえ。酒が欲しい。料理酒飲んじゃだめかな。だめだよな)
などとぼやきはじめた。
「……さすがに料理酒を、俺の身体で飲まれるのはちょっと……」
(おうおう、ケチなやつめ。まあ、体が違うからか、言うほど欲しくもねえしな、諦めるよ。この体ならどっちかっつーと、かわいい姉ちゃんと甘いもんでも食いてえや)
からからと笑って、代わりというように鍋の中身に料理酒を浴びせはじめる。
じゅっ、という音と湯気を立てたそこに、みりん、塩、醤油、鶏がらスープ。
もちろん、目分量での投入だ。
味見はしないのかと尋ねたら、
(大丈夫! 三百六十五日、違う味と具の野菜炒め、ってのが俺の売りだから)
とよくわからない答えで請け負われた。
そうこうしているうちに、野菜がしっとりと鍋肌に吸い付いてくる。
油を弾いてきらりと光る野菜たちのもとに、先ほどの豚肉を返してやると、厳さんはおもむろに味噌をスプーンでひとすくいした。
(さあて、仕上げにこの味噌を入れりゃあ――)
が、そこで、彼はふと顔を上げる。
手を止め、まじまじと玄関のほうを見やると、彼は「仕方ねえなあ」と言わんばかりに苦笑を刻んだ。
「……厳さん?」
(哲史。悪ぃが、玄関、開けてやってくんねえかな。あいつ、ずいぶん長く、あそこで立ち尽くしてるみてえだわ)
「あ、ノリジくん、もう来てたんですね!」
本日、定休日。
魂の待ち人たちは、神様に導かれて迷わずこの店に来ると決め込んでいたから、ついつい看板の灯りすら入れずにいた。というか、「準備中」の札も掛けっぱなしだったかもしれない。
俺は慌てて厨房を出て、玄関の戸を引き、
「いらっしゃいませ。すみません、わかりにくいですけど、店はちゃんと営業――」
していますよ、と言いかけて、ものの見事に固まった。
なぜならば。
「……どうも」
がっしりとした体つきに、酒でむくんだ顔。
髪は以前と異なり短く切られ、くしゃくしゃのジーンズの代わりに、珍しくジャケットなしのスーツ姿ではあったが、その男の正体は。
(おう、言い忘れてたが、ノリジってのはあだ名でよ。「厳治」と響きが似て紛らわしいから、ノリジって呼び分けてたんだが、こいつ、正しくは憲治ってんだ)
かつて、「てしをや」を窮地に追い込んだ、ゴキブリツイート野郎だったのだから。





