1皿目 出汁巻き玉子(後)
ダチというのが、まさか女友達、それもこんなかわいい女の子だとは思わなかった。
道理で、「男気」とか「友達だよね?」という確認に微妙な反応を返したはずである。
つまりあれか、龍也くんは「自分、不器用ですから」みたいなことを言っておきながら、毎日女子高生と弁当を食って、いや、それどころかおかずを分けてもらっていたわけか。リア充め!
俺が内心で龍也くんの脇を小突いていると、マコトちゃん――今更の情報によれば、真琴と書くらしい――は、きょろきょろと不安そうに店内を見回した。
自分以外に客がいないのに引け目を感じたのだろう。
あるいは、ファミレスやコーヒーショップならともかく、夜の定食屋にひとりで入るというのは、女子高生からすればなかなかのハードルなのかもしれない。
俺は慌てて物思いを切り上げ、真琴ちゃんを席に通した。
「どうぞ、おしぼりです」
「あ、すみません……」
夏用に、キンキンに冷やしたお絞りとお冷やを差し出すと、真琴ちゃんはいかにも恐縮したようにそれを受け取る。ひとつひとつの仕草がなんとも小動物的だ。
華やかなタイプというわけではないが、色白の肌やさらさらとした黒髪、控えめな佇まいが、あと数年もすればすごく美人になるんだろうな、と思わせる女の子だった。
外が暑かったのだろう、真琴ちゃんは冷たい水を一口飲むと、少しだけほっとしたように息をついた。
そうして、
「あの……本当に、営業中、なんですよね……?」
遠慮がちに尋ねてくる。
実は定休日ですけどね、という事情は隠しつつ、俺が「はい。お客さんが少なくって不安ですよね、すみません」と軽く詫びると、彼女は慌てたように両手を突き出した。
「あっ、いえ、そうではなくて……! 本当はもう閉店なのに、私が来たから店じまいできないとか、そういうことだったら、申し訳ないなと……!」
天使か。
爪の垢をぜひ売ってほしい。志穂のやつに飲ませるから。
俺はそんなことを思いつつ、ふと心配になって真琴ちゃんに問いかけた。
「いや、そんなことは全然ないんで、大丈夫なんですけど……君、高校生だよね? それこそ、こんな時間まで出歩いてて、大丈夫?」
ちらりと時計を見れば、もう二十一時半を回っている。
野郎だったら気にしないが、女の子となれば話は別だ。
少々口調を砕けさせて尋ねると、真琴ちゃんは軽く首を振り、
「はい、予備校帰りは、いつもこれくらいなので」
と答えた。
なるほど、そういえば彼女たちは受験生で、今は天王山とも言える夏なのだった。
「それでも、普段は寄り道なんてしないんですけど……、なんだか、まっすぐ家に帰りたくなくて、駅の周りをぷらぷらしてたら、このお店を見つけて……」
「はは、さては模試の成績でも悪かったとか?」
あまりに申し訳なさそうに告げるので、いなすつもりで軽く返すと、彼女はちょっと目を見開き、それから小さく笑った。
「……いえ、上出来でした」
なぜだか、困ったような笑みだった。
不思議に思った俺が、そのあたりを問うよりも早く、真琴ちゃんは「あの」と眉を下げた。
「すみません、私、なんだか急にお腹が空いて、その衝動で来ちゃったものだから、定食を頼める額も持ってなくて……。失礼かもしれませんが、飲み物だけとか。単品だけとかでも、大丈夫ですか……?」
なにしろ学生だ、そんなこともあるだろう。
もとより、神様案件で儲けるつもりなどなかった俺は、ふと口実を思いつき、彼女に笑いかけた。
「ちょうどよかった。それなら、無料で新メニューの試食に、付き合ってくれないかな。サービスで飯や味噌汁も付けるから」
「新メニュー、ですか……?」
ちょっと戸惑ったように首を傾げる彼女に、俺は安心させるように「そう」と頷く。
毎日お弁当に出汁巻き玉子を入れていたという真琴ちゃん。
よほど好物なのだろうし、きっと喜んでくれるだろう。
俺は自信たっぷりに、
「出汁の味しっかり、甘みたっぷりの、絶品出汁巻き玉子」
と言い切った。
――のだが。
「…………」
真琴ちゃんは、顔を輝かせるでも、興味深そうにするでもなく、静かに息を呑んだ。
「……そう、ですか」
ややあってから、ぎこちなく笑みを浮かべる。
その態度に、こちらの方が焦ってしまった。
もしや、実は苦手なおかずだったりしたのか? そんな馬鹿な。
「えっと、……もしかして、嫌いだった……?」
「あっ、いえ! そんな! 好きです、出汁巻き玉子!」
真琴ちゃんは胸の前でぶんぶんと右手を振る。
しかし、やがてそれを緩めると、自分を落ち着かせるようにぎくしゃくと髪を耳にかけた。
「毎日お弁当に入れるくらい……大好物、で……」
そうして、軽く握った拳の甲で、きゅっと口元を押さえる。
呼吸ふたつ分ほど、その姿勢でなにかをこらえるように俯くと、真琴ちゃんはゆっくりと顔を上げた。
「大好物、なんです。……だから、ぜひ。お願いします」
どこか、覚悟をにじませたような表情で。
素早く三つ割り入れた卵を、ボウルの底に菜箸を付けたままさっくりとかき混ぜる。
加えるのは三温糖と塩、そしてたっぷりの出汁だけ。
偶然の産物もあるが、それが、俺たちが試行錯誤の末たどり着いた、最もおいしい出汁巻き玉子のレシピだった。
油を引き、うっすら煙が出るほど熱したフライパンを一度濡れ布巾で宥めてから、まずは卵液を三分の一投入。
ふくっ、ふくっ、と生まれる気泡をヘラで潰しながら、半熟の状態で素早く手前に丸めていく。ここでは多少形が崩れても気にしない。
丸まった卵を一度奥に押しやり、菜箸でちょっと持ち上げてやりながら、残りの卵液の半分を注ぐ。
それも丸めたら、油を引き直して、最後の卵液を注ぎきる。
火は強めの中火なので、スピードが命だ。
最後のひと巻きだけ龍也くんに主導権を引き渡し、この数時間で劇的に上達した手つきで――と俺たちとしては信じている――くるくると半熟の膜を丸めていくと、やさしい黄色をした出汁巻き玉子の完成だ。
ふわふわとしたそれを、形が崩れないようにそっとまな板に移し、包丁で切れ目を入れる。
大根おろしと大葉を添えて皿によそってやれば、立派な一品の完成だ。
そこに、手早く作った豆腐とわかめの味噌汁と、白飯、漬物を添えれば、まあ、定食として見られなくもない代物が出来上がる。
味の起伏に乏しいかと思ったので、飯の上にはシラスも散らすサービスだ。
俺は、いつも以上の達成感を胸に、カウンターに料理を並べはじめた。
その間、真琴ちゃんはどこかぼうっとした表情で、俺の手やフライパンを眺めていた。
「お待たせしました」
呼びかけると、彼女ははっと居住まいを正す。
そして、「いただきます」と呟いて箸を取ると、まずは味噌汁を含み、ちょっとご飯を口に運んだ。
次に漬物、そしてまたご飯。
――なかなか、玉子に手を付けようとしてくれない。
どうかな、まだかな、と、俺の中の龍也くんが気にしているのがわかる。
せかすのはよくないとは思いつつ、つい出汁巻き玉子の皿を凝視してしまうと、それに気付いた真琴ちゃんが、またもはっとしたような表情で顔を上げた。
「す……すみません。試食ですもんね。感想、言わなきゃ……」
「あ、いや、そんな、お好きなペースで……」
慌てて取り繕うも、彼女は聞かない。
ぐっと唇を引き結び、箸を握る手に力を籠めると、慎重な手つきで一切れをすくい、そっと口元に持っていった。
小さめの唇が、すっと開く。
そのとき、――俺の気のせいでなければ、唇が、わずかに震えたように見えた。
しかし真琴ちゃんは、それが錯覚であったかのように、落ち着いた表情で玉子を噛み締めている。
ふ、ふ、と熱を逃すようにしながら飲み込むと、やがて彼女は視線を上げた。
「……おいしいです、とっても」
目元をやわらげ、そう告げる。
勝手に俺の鼓動が高鳴り、龍也くんが無言で喜んでいるのがわかった。
「三温糖、使ってましたよね。私も、自分で作るとき、三温糖を使うんです」
ずっと調理過程を見ていたためか、そんなことまで教えてくれる。
彼女はもう一切れを口に運ぶと、うん、と小さく頷いた。
「ふふ。……不思議なくらい、同じ味。お店と同じなんて、光栄だな」
同じ、というのは、彼女の弁当に入っている出汁巻き玉子と、ということだろう。
当然だ、だってそれがお手本なのだから。
そして、龍也くんが日々口にしていた弁当は、どうやら真琴ちゃん自身のお手製だったらしい。ますますリア充め。
「同じって、弁当と? けっこう甘い味付けだよね。もしかして、甘党?」
なんとなく尋ねると、しかし彼女は、思わぬ返答を寄越した。
「いえ。……私、本当は、出汁巻きは塩味派なんです」
(え?)
「え?」
龍也くんと俺が同時に声を上げる。
だって、毎日この味付けの出汁巻き玉子を食べていたのではなかったのか。
怪訝な思いがにじみ出ていたらしい。
真琴ちゃんは俺の顔を見ると、困ったように笑った。
「あ、すみません、変なこと言っちゃって……! あの、おいしいですよ、この出汁巻き。絶対、みんな大好きだと思います」
「ありがとう、いや、それは嬉しいんだけど……え? あれ? 毎日弁当に入れるほど好きな出汁巻きって、その味、なんだよね?」
「あ、と……。お弁当に、この味の出汁巻きは入れてたんですけど、……実はそれは、私のためじゃなくて……」
黒目がちの瞳が、ふいに潤む。
「私じゃなくて、その……」
彼女は震える手で箸を下ろすと、そっと口元を覆った。
「私の、……一緒にお弁当を食べてた、友達の、……好物で……」
白い頬の上を、ぽろっと涙が伝う。
突然溢れた涙に、真琴ちゃん自身が驚いたらしく、彼女は素早くそれを手の甲で拭った。
「す……っ、すみません、急に……っ」
だが、一度壊れた堰はなかなか治らないらしい。
拭っても、拭っても、ぽろぽろと零れてくる涙を持て余し、真琴ちゃんはとうとう両手で顔を覆った。
「すみませ……っ、こ、んな、泣くつもりじゃ……っ」
ひくっと、喉が引きつる。
肩を震わせる彼女を見て、俺の中の龍也くんが、静かに、けれど激しく動揺しはじめた。
(お、い……真琴……)
だが、なんと声を掛けていいのかわからないらしく、それきり黙り込んでしまう。
伸ばしかけた手を、中途半端に握りしめようとする龍也くんに、俺は心の中で頷きかけた。
これまでの経験で、なんとなくわかる。
こういうときは――吐き出させてあげたほうが、いいのだ。
「よければ……話してくれないかな」
そっと声をかける。
真琴ちゃんは、しばらくの間、ひくっ、ひくっと嗚咽を漏らしていたが、やがておずおずと涙に濡れた瞳を上げた。
「え……?」
「甘い出汁巻き玉子が大好物だっていう、友達の話。あ、いや、もしかして彼氏とかかな?」
気を回して、そんな風に尋ねてみると、真琴ちゃんはびっくりしたように目を見開いた。
「か、かれ……っ!? ち、違います!」
あれ、全否定が返ってきてしまった。
心なしか、俺の中の龍也くんの醸す沈黙が一層深まった気がする。
だが、真琴ちゃんは当然彼のそんな反応に気付くはずもなく、赤く染まった耳に髪をかけながら、わたわたと言葉を紡いだ。
「か、彼氏とかでは、全然なくてですね……」
「違うの? だって、一緒に弁当を食べるくらいの仲だったんだよね?」
「いえあの……それは、罪滅ぼしというか……。少なくとも相手のほうは、そうとしか思ってなかったというか……」
両手で顔を挟み込み、半ばパニックに陥っている。
こちらがいきなり「友達」を男だと判じてみせた違和感にも気付いていないようだ。
しかし、おかげでというべきか、それともやはり、神様の計らいなのか。
真琴ちゃんはためらいや遠慮を捨てて、やがてぽつりぽつりと、龍也くんとの出会いや関係について話してくれた。
「……その……友達というのは、たしかに男の子なんですけど。龍也くんって言って……すごく優しい人なんですけど、こう、とにかく顔が怖くて。そのせいで学校で、ちょっと浮いてて……いえ、それに私が、追い打ちをかけちゃって……」
つかえがちな彼女の話を要約すると、こうだった。
龍也くんが、親の仕事の関係で、真琴ちゃんのいる学校に編入してきたのは、去年の春の、それも連休明けのこと。
ただでさえ、すでに出来上がったコミュニティに溶け込むのは難しいというのに、彼の場合は、その常人離れした気迫ある佇まいが災いして、すっかり学校で孤立していた。
一方真琴ちゃんのほうも、受験に失敗し、滑り止めとして受けていた高校での生活を満喫していたとは言いにくく、進級を機に仲のいい友人と離れてしまったこともあり、毎日屋上でこっそりと弁当を食べていたのだという。
ふたりが出会ったのは、その屋上。
ただし真琴ちゃんが目にしたのは、いかにも不良という格好をした男子生徒たちの身体を折り曲げ、こわもての顔をすごませて、「さっさと吐け!」と叫ぶ龍也くんの姿だった。
「……恐喝?」
「……って、思ったんです、私も。それで、慌てて先生を呼んできて。でもそうしたら、それが、とんだ勘違いで……」
なんと、蓋を開けてみたら、責められるべきは不良っぽい恰好をした生徒たちのほうだった。
若気の至りというのか、屋上に酒類を持ち込み、どれだけ飲めるかを勝負していたというのだ。
勝負がヒートアップするうちに、体の許容できる酒量を越え、危うく急性アルコール中毒になりかけた。
それを、たまたま屋上で昼寝しようとしていた龍也くんが気付き、慌てて酒を吐かせようとしていたのだという。
幸い教師が救急車を呼び、事なきを得たが、そうこうしている内に学校中にあっという間に噂が拡散。
龍也くんのこわもてと、不良たちがぐったりしている様子が合わさって、彼は英雄として称賛されるどころか、なぜか「編入早々不良どもを病院送りにした暴力の帝王」として、距離を置かれることになってしまったと。
「なんと……」
どこまでも見上げた龍也くんの面倒見のよさ。
そしてまた、どこまでも可哀そうな巡り合わせの悪さだ。
教師陣も、もっと丁寧に真相を生徒に伝えればよかったのにと思う。
真琴ちゃんも顔を俯けて、消え入りそうな声で続けた。
「私、申し訳なくって。次の日も屋上に行ったら会えたので、謝ったんです。でもそうしたら、彼、私の持ってたお弁当を見て、『その玉子焼き、一週間分で手を打つ』って……」
真顔で放たれた発言に、真琴ちゃんは最初、もしやこれは命を寄越せ、みたいな隠語なのだろうかとさえ考えた。
だが、恐る恐る差し出した出汁巻き玉子を口にし、ちょっと表情をやわらげた龍也くんを見て、どうやら彼が甘党であるということを察したのだという。
真琴ちゃんは、懐かしむように小さく笑った。
「言葉じゃ伝わらないかもしれないですけど……ど迫力の顔で、もごもご出汁巻きを食べる彼って、なんだかこう……すごく、かわいかったんですよ。本人には内緒でしたけど、甘ければ甘いほど、ちょっとご機嫌そうに、鼻の穴が膨らんだりして」
(え)
脳裏で龍也くんが狼狽する気配がする。
俺はとっさに笑いをこらえた。
最初の一週間が終わる日、真琴ちゃんは「もっとおいしい出汁巻き玉子を作ってみせる」と宣言し、期間が二週間に延びた。
それが終わるころにはもう一か月、二か月、半年。
いつの間にか、真琴ちゃんの作る出汁巻き玉子はどんどん甘くなり、それと同時に、ふたりで弁当を広げる時間が日常へと変わっていった。
進級したばかりのときは、嫌でたまらなかった昼休みが、気付けば一日で一番楽しみの時間になっていた。
生活に張り合いが出て、彼に憧れて自分も難関大学を目指すようになった。
毎日が、楽しかった。
好き、とは切り出さない。
単なる友達というよりは、ほんの少しだけ、近しい距離感。
それで満足していたはずなのに、時が流れ、春休みが近づいてきたころ、真琴ちゃんの中にある決意が宿りはじめる。
この関係を、もう一歩だけ、先に進めようと。
「……春休みって、結構長いじゃないですか。それまで毎日一緒にお弁当を食べてたのに、急にそれがなくなるのが、寂しいって、……そう思ったんです」
「うん」
頷きながら、ふと胸のどこかになにか引っかかるものを覚える。
一緒にお弁当を食べていたのが、急になくなる――
「あ……」
ふっと思い浮かんだ光景に、息が詰まりそうな感覚を覚え、思わず俺は呟きを漏らした。
(哲史さん?)
「…………?」
龍也くんと真琴ちゃんの両方から、もの問いたげな視線を向けられ、俺は慌てて「なんでもない」とごまかした。
「いや、そうだよな、と思って」
そう付け足すと、真琴ちゃんは苦々しい笑みを刻み、軽く首を振った。
「……でも、そんなこと、思わなきゃよかったって、今では思います」
「え?」
「……告白を、しようとして。昼の屋上じゃどうしても勇気が出なかったから、放課後に、コンビニを待ち合わせ場所に指定したら……彼」
ああ、そうか、と思った。
その続きを、俺は知っている。
「彼……そこで事故に遭って、亡くなってしまったんです」
真琴ちゃんは、せっかくほんのりと笑みを浮かべていた唇を震わせ、再び俯いた。
そうして、一度大きな波をやり過ごすと、わずかに引きつった声で、続けた。
「テレビで、見たことありませんか。コンビニに突っ込んだ車からおばあさんをかばって、亡くなってしまった男子高生の、ニュース。あれが……彼です」
じっと出汁巻き玉子の皿を見下ろす。
声が震えるのをこらえようとしているのだろう、口を開きかけては、また閉じ、――けれど結局堪えきれなかった想いが、嗚咽となって溢れだす。
ぱた、とカウンターに涙の粒が落ちるのを眺めながら、真琴ちゃんは大きくしゃくりあげた。
「……本当に……っ、ほんとに、ほんとに、優しい、人だから……。初めて、会ったときも、そのときも、きっと……無意識に、人を助けようと、手を、伸ばしたんだと、思います」
(真琴……)
彼女の泣き顔に、龍也くんが途方に暮れたような声を上げる。
残念ながらその声は、真っ赤に染まった彼女の耳に届くことはなく、だから真琴ちゃんは、ふ、ふ、と小さく息を漏らした。
「私が……あの日、龍也くんを、コンビニなんかに、呼ばなければ……っ。屋上で、さっさと、言ってしまってれば……、ううん、告白だなんて、馬鹿なこと、しようと、しなければ……っ」
小動物のような瞳を、今は真っ赤に充血させて、真琴ちゃんはぎゅっと拳を握りしめる。
下ろしたばかりのびいどろの箸置きには、いくつも涙の粒が降り注いだ。
「私……、ほんと、最低です。彼を、学校中で誤解させて、なのに、勝手に、龍也くんに憧れて。勝手に、目標にして、私ばっかり、たくさんのものを、もらって……あげく……彼を……っ、私の、せいで、死な、せ……!」
死なせて、の単語は、ひんと子犬が泣くような嗚咽と混ざって、ほとんど聞き取れないくらいだった。
ぎゅ、と心臓が引き絞られるような感覚を抱く。
それは、体を共有している龍也くんが、胸を痛めているからに違いなかった。
(こいつ……背負いすぎなんすよ)
声を上げまいと、唇を噛み切りそうなほどに引き結んでいる真琴ちゃんを見て、やがて龍也くんがぽつんと呟いた。
(俺が死んだのが、こいつのせいなわけ、ないじゃないすか。車を暴走させたのは、運転手。ばあさんをかばったのは、俺。そうでしょ? ……俺、すげえ楽しみに、コンビニに行ったのに)
彼の低い声は、ほんのわずかに、揺れていた。
(呼び出されてから、ずっとそわそわして……。たとえ、未来がわかってても、きっと、俺はコンビニに行ったと思う。それくらい、楽しみに、俺が――俺自身が、そうすることを選んだのに)
真琴ちゃんは自分を責めつづけ、龍也くんの通夜以降、けして弁当を作ることはなくなったのだという。
あんなにおいしかった弁当を、つらい思い出の塊でも見るように遠ざけて、日に日にやつれていく真琴ちゃん。
そんな姿を、これ以上見ていたくないのだと彼は言った。
龍也くんの祈るような声を聞き、俺はばっと身を乗り出す。
「あの……君は――」
これまでのように、龍也くんが「てしをや」の客だったことにして、彼のメッセージを代弁しよう。
そう思って、「君は真琴ちゃんだよね」と話しかけようとしたのだが――
「しかも……」
それよりも早く、真琴ちゃんがずっ、と鼻をすすって、彼女の本来の性格にはまったく似つかわしくない、自嘲的な笑みを浮かべた。
「その思いすら、……日に日に、薄れさせて、しまって……」
え、と思った。
こんなにも自責の念で泣き崩れている彼女が、思いを薄れさせている?
つい怪訝な表情を浮かべてしまうと、真琴ちゃんは少しだけ涙を収め、鼻声で告げた。
「今日……模試の結果が、返ってきたんです。初めて、A判定で……」
先ほど、「上出来でした」と困ったように笑っていた彼女を思い出す。
よかったじゃないか、と口にしかけたが、それよりも先に、真琴ちゃんは静かに首を振った。
「喜んじゃ、いけないと思うんです……」
彼女は、皿に横たわったままの出汁巻き玉子に視線を落とした。
「だって……、その大学に、行きたいって言ってたのは、……もともとは、龍也くんだったから」
その視線の先には、弁当をともに広げた龍也くんの姿が映っているかのようだった。
「判定の結果を見て、私、最初、喜んだんです。……でも、すぐに思った。なんて、薄情なんだろうって。……彼が行きたがってた大学に、私が代わりに行って、なにが……誰が嬉しいんだろう。龍也くんは、もう、いないのに……」
なのに、と、真琴ちゃんは再び顔を歪めた。
「龍也くんは、もういないのに、……あんなに優しい彼は、死んだのに、引き換え、私が……薄情な私なんかが、生きてて。大学に行って、就職して……、龍也くんができなかった体験を、私ばっかり、して、……彼を、置いていくなんて……っ」
今日は、ちょうど、龍也くんが初めて出汁巻き玉子を口にしてから、一年が経った日なのだと彼女は言った。
しかしそれすらも、こうして出汁巻きを出されるまで忘れていたのだと、震える声で付け足した。
季節が巡る。
彼らが初めて出会った夏が来て、受験の冬を乗り越え春が来て、――時の止まった龍也くんを置いて、真琴ちゃんは新しい環境に飛び出していく。
そのなかで、のうのうと笑い、喜び、新たに出会った誰かと思いを交わしていくのだろう自分を、彼女は悟った。
こんなにも痛む胸の傷さえ、徐々に薄らぎ、時間という名のかさぶたに覆われてしまうことを予感した。
そして、それを、ひどく薄情で――恐ろしいことだと思った。
彼女は、震える唇を右手で覆い、その小刻みに揺れる手のひらを、さらに左手で覆った。
「龍也くんが、し、死んだのは、私のせいじゃないって、親や先生は言うんです。もしかしたら、龍也くん、も、そう言うかもしれない。でも……っ、忘れるのは……、彼を、置いて、いってしまうのは……私、です。私が……悪い……っ! こんなの……、龍也くんだって、許してくれない……っ」
そこで堰を切ったように、真琴ちゃんはぼろぼろと大量の涙を流した。
ごめんなさい、と、小さく小さく呟いて。
(……んだよ、それ)
俺の中の龍也くんが、唸るように呟いた。
どすの利いた声だが、体を共有している俺にはわかる。
彼は、怒っているのでもなく、苛立っているのでもなく――傷ついているのだ。
(……好きなやつに、いつまでも泣いて暮らしてほしいって、そう願う人間なんて、いるかよ……っ!)
――だんっ!
堪えきれなかった想いが、拳の形を取って流し台にぶつかる。
鈍い音が響き、真琴ちゃんはびくっと顔を上げた。
「うお……っ!」
ちなみに、俺もびくっとした。
た、龍也くん、落ち着いてくれ!
自分の拳が立てた音に、自分で怯えるという不審な行動を、俺は冷や汗つきの笑みでごまかした。
「ご、ごめん! か……蚊! 蚊がね、いたもんで! いや、いたと思ったんだけど、気のせいでした! 話の腰を折ってすみませんでした!」
威勢よく謝ると、真琴ちゃんもつられたのか、「い、いえ!」と小さく叫び返してくる。
すっかり流れをぶった切ってしまったが、おかげで彼女の涙が引っ込んだので、俺はその機に乗じ、龍也くんからのメッセージを伝えることにした。
というのも、先ほどまでの無口ぶりが嘘だったように、頭の中で龍也くんが、一生懸命まくし立てているからである。
(哲史さん、すんません、こいつに言ってくれますか。ざけんな、見くびんなって。俺のことを思うなら、出汁巻きでもなんでも食って、笑って、生きてくれって)
体を伴っていたなら、あの怖い顔に真剣な表情を浮かべて、こちらの肩をがくがく揺すっていただろうと思うくらいの勢いだ。
俺は慌てて思考を巡らせ、覚悟を決めて口を開いた。
「あの……。切り出すのが遅れちゃったんだけど、……君、もしかして、真琴ちゃん……だよね?」
「え……」
まずは、龍也くんと俺が、生前からの知り合いであったと信じ込ませる。
「ごめんね、もしかしてそうかとは思ったんだけど……俺、そう、彼の苗字しか知らなかったから、なかなか確信が持てなくて。でも、コンビニの事故で亡くなった飯田龍也くんなら、俺も知ってるよ。彼、実はこの店の、常連だったんだ」
「そう……なんですか……?」
疑う理由もないからだろう。
真琴ちゃんは、すんなりと俺の言葉を信じたようで、「よく、君のことを話してた」と告げると、驚きと喜びと恥じらいが混ざったような表情を浮かべた。
俺はこっそりと唇を舐める。
その間にも、龍也くんは必死になって、真琴ちゃんへの想いを叫びつづけていた。
(「私なんか」とか、「薄情」とか、そのあたりも、きっぱり否定してください。だって、俺は知ってますから。薄情な人間が、こわもての男にひとりで謝りに来たりしない。毎日弁当を作ったりなんかしない。……ここまでぼろぼろになるくらい、泣いたりしねえって)
外見のせいで誤解されることの多かった龍也くんは、避けられることにも、怖がられることにも慣れていた。
せっかく苦労して築き上げた人間関係を、転校のせいで一から再構築しなくてはならなくなったとき、諦めてしまいたくなるくらいには。
「……そう。彼は、よく君のことを話してた。真琴ちゃんだけが、学校で話す唯一の相手だって、言ってたよ」
そう告げると、真琴ちゃんは縋るような視線を向けてきた。
それに頷き返しながら、俺は必死に龍也くんの主張を聞き取った。
女の子に手料理をふるまってもらうなんて、初めての経験だった。
内気そうだが、トラブルを前にしても逃げずに教師を呼んだり、ひとりで謝罪に来たり、厚かましい要求でも守り通す彼女は、きっと芯の強い人間なのだと思った。
彼女が昼食を共にする期間の延長を申し出たとき、龍也くんは、内心でガッツポーズを固めるくらい嬉しかった。
彼女の出汁巻き玉子を食べるのが、学校生活の、唯一で最大の、楽しみだった。
「このレシピもね、彼の語る理想の出汁巻きを再現したものなんだ。彼は、出汁巻き玉子が本当に好きだったんだって。だってそれは、真琴ちゃんが作ってくれるものだから。彼は――君のことが、好きだったから」
「…………!」
思い切って伝えると、真琴ちゃんはひゅっと息を呑んだ。
そうして、瞬きもせず目を見開き、唇をわずかに開くと、吐き出す息に紛れそうなくらいの細い声で、呟いた。
「……うそ」
くしゃっと顔が歪み、再びぽろりと頬が涙を伝う。
涙の粒を追いかけるように俯いた真琴ちゃんに、俺はそっと続けた。
「彼のさ、性格を考えたら……好きな相手には、泣いて暮らすよりも、笑って過ごしてほしいんじゃないかな」
真琴ちゃんの肩が震えている。
龍也くんが必死に叫んでいる。
俺は、声に力を込めた。
どうか、顔を上げてくれ。
「薄情だなんて責めたりしないよ。むしろ、囚われて、苦しむ姿を見せつけられるほうが、龍也くんは怒るよ。残った側が、笑って生きていくのは、切り捨てるってことなんかじゃない。――受け継ぐってことだ」
顔を上げて、前を。
前を向いて、生きてくれ。
「龍也くんの人生を託された君が、龍也くんのぶんまで、笑って、……生きていかなきゃ、いけないんじゃないかな」
「…………っ」
真琴ちゃんがぐうっと拳を握り、黙り込む。
それを見て、俺もまたそっと拳を握りしめた。
俺なんかよりもずっと、龍也くんと長く濃密な時間を過ごしてきた真琴ちゃん。
そんな彼女相手に、龍也くんの意思を伝えるという行為には、すさまじい緊張が伴う。
傲慢に響きはしないだろうか。
傷つけてしまいはしないだろうか。
俺の言葉は、龍也くんの願った温度で、彼女に届いているだろうか。
手に汗を浮かべながら、息をつめて見守っていると、真琴ちゃんは俯いたまま、小さく問うた。
「……私が……私なんかが、託されて、いいんでしょうか」
(当たり前だろうが!)
「もちろんだよ」
脳内で声を荒げている龍也くんを抑え込み、すかさず告げる。
「彼、言ってたよ。真琴ちゃんは、こわもての男に単独で詫びを入れて、約束通り、律儀に弁当を作りつづけるような、芯の強い人間だって。真琴ちゃんの弁当だけが楽しみで、毎日学校に行ってたって」
潤んだ目を見開いた相手に、俺は頷きかけた。
「龍也くんが『すごく優しくて素敵な人』だとしたら、真琴ちゃんは、そんな彼のやる気を引き出しつづけたすごい人だよ。『私なんか』だなんて、言っちゃだめだ」
「…………」
十秒か、数十秒か。
黙りつづける真琴ちゃんの頬を、すうっと透明な涙が滑り落ちた。
その滴が、カウンターの上で握られていた拳をぱたりと打つと、それが合図だったように、彼女は手の力を抜いた。
ぎこちない動きで、置かれていた箸を取る。
そうして、ゆっくりと――顔を上げた。
「――……私」
涙でしっとりと濡れた、黒い睫毛。
真琴ちゃんはそれを乾かすように二、三度瞬きをすると、まっすぐに、こちらを見つめた。
「……食べます。食べて、……感想、言わないと」
きゅっと握りしめた箸で、ふんわりとした玉子を一切れつまむ。
わずかに震えている唇にそれを運ぶと、彼女は、大切そうな、丁寧な仕草で、それを噛み締めた。
それから、静かに微笑んで、告げた。
「おいしいです」
鼻も目元も、うさぎのように真っ赤に染まっている。眉は痛みを堪えるように寄せられ、箸を持つ手は震えている。
それでも彼女は、涙をこぼそうとはしなかった。
「自分でも、作りたいくらい。毎日……お弁当に入れて、食べたいくらい、おいしい……っ、……です」
感想の形を借りた、それは宣言だった。
これからは、きちんと食べる。
弁当作りも、再開する。
笑顔を浮かべて、龍也くんのぶんまで、生きていく。
「……そっか」
今はまだ、脆く、痛みを伴った決意。
真琴ちゃんが必死の思いで組み立てたそれを、万が一にも壊してしまわぬよう、俺はそっと相槌を打った。
「龍也くんも、きっと喜ぶよ」
真琴ちゃんは小さく頷くと、「はい」と答えた。
その後彼女は、しゃんと背筋を伸ばすと、出汁巻き玉子を黙々と口に運ぶ。
そうして、シラスの一匹、白飯の一粒も残さずに食べ終えると、箸を置き、ごちそうさまでしたと呟いた。
「あの、お代は……」
最後、立ち去るという段になって、真琴ちゃんは学生鞄の中から財布を取り出そうとする。
「いいって、本当に。感想をありがとう。それと……偉そうに語っちゃって、ごめんね」
慌てて手を振り、ついでに頬を掻きながら付け足すと、彼女は涙の気配の残った顔を赤らめ、「いえ、こちらこそ、たくさん泣いてしまって、すみませんでした」と頭を下げてきた。
三往復くらいお詫び合戦を繰り広げ、とうとう真琴ちゃんが店を去っていく。
後には、きれいになった皿と、俺、――そして、俺の中にいる龍也くんが残った。
「……よかったね。真琴ちゃん、弁当づくり、再開するって」
(…………)
話しかけるが、龍也くんはなにも言わない。
耽りたい物思いもあるよな、と考えた俺は肩を竦め、流し台に散らばっていたボウルやら皿やらを片付けはじめたのだが――
ぴとん。
洗い上げて、きれいに拭いたボウルに、温かな滴が落ちるのを見て、ふと顔を上げた。
「――……え?」
自分の目元を確かめて、思わず声を漏らす。
俺の頬を、涙が伝っていた。
「……龍也くん?」
(…………)
俺の体が――いや、俺の中にいる龍也くんが、泣いているのだ。
ぎょっとして呼びかけると、彼はぐうっと震えをやり過ごすように唇を噛み締め、やがて、低く呟いた。
(……すんま、せん……)
「え、いや、え!? どうした!?」
目を拭いながら、慌てて尋ねる。しかし龍也くんの涙は止まらなかった。
彼は、熱い涙をぽとぽと落としながら、ぎゅっと目を瞑った。
(涙、……止まんねえっす。すんません……っ)
「いや、それはいいんだけど……どうしたんだよ!?」
(……哲史さん。俺……)
震える声で答えかけ、龍也くんはふと口をつぐむ。
彼は、わけわかんねえ、と首を振ると、自嘲するように息を漏らした。
(俺……、人をかばって死んだことは、ほんとに……後悔、してないんす)
「あ……ああ……」
彼の発言に嘘がないことは、体を共有している俺にはわかる。
話の流れが掴めないながらも、俺は曖昧に頷いた。
「本当に、すごいことだと思うよ」
(この年で死んだことも、葬式上げてもらって、……いっぱい、悔やんでもらって、納得、したはずなんす)
「……うん」
(……あいつに、笑っててほしいことも、……うまい弁当をまた作ってほしいことも……、…………っ、嘘じゃ、ないんす)
「うん」
ぱたたっ、と、続けざまに涙が落ちる。
透明な滴は、銀色のボウルの上を静かに滑り、やがて止まった。
(でも……っ)
盛り上がった液面には、ボウルを覗き込む俺が映り込んでいる。
俺は――龍也くんは、ぐしゃぐしゃに顔を歪め、泣いていた。
(忘れられたくねえ……っ!)
まるで、絞り出すような声。
彼は、本音を曝け出した自分を恥じるかのように、両手で顔を覆い、流し台に屈み込んだ。
(さっきは、かっこつけ、ましたけど。……いや、本気なんです。うじうじ俺のことで悩まれつづけるなんて、ごめんだ。でも……、でも、俺、……忘れられたく、ねえ……っ)
「…………」
(あいつに、……また、笑って……うまい、料理を作ってくれって、心の底から、思うのに、……あいつの出汁巻き玉子を食べるのは、もう、俺じゃないんだって、思うと……たまんねえんです……!)
彼は、握りしめた両の拳を、だんっと流し台に打ち付けた。
(……ちくしょう)
込められた力は、関節が白く浮き出るほど。
全身を震わせ、とめどなく涙を溢れさせる、それほどの激情を、二つの手のひらに閉じ込めるように、彼は、強く強く拳を握り締めた。
(ちくしょおおお――っ!)
血を吐くような叫びを聞いて、俺は、彼の死に対して「イケメンすぎて泣ける」などと、呑気な感想を抱いていた自分を殴り倒してやりたくなった。
なにがイケメンだ。
なにが泣けるだ。
これまで俺に憑いてきた魂が、寿命を受け入れきった人たちばかりだったから、すっかり忘れてしまっていた。
死者が、残された俺たちのほうを気遣うなんて、簡単にできることではない。
突然生命を絶たれた自分自身を、嘆き、なんとか折り合いを付けるだけで、普通は精いっぱいのはずだ。
人がひとり――まだ成年にもならない、夢も未来も溢れていたはずの青年が、死んだのだ。
それは、美談として安易に消費していいものなんかではなかった。
立派だね、と誉めそやして、それで済ませていいものなんかでは、けっしてなかったのに。
「……龍也くん」
声をかけ、けれどなにも言えなくて、結局口を閉ざす。
無力だ、と思った。
俺が覚えているよ、と請け合うことは容易い。
だが、彼が覚えていてほしい相手は俺じゃない。
慰めの言葉をかけることはできる。
だが、俺は真の意味で、彼自身の肩を叩いてやることもできない。
いったい、どうすれば――。
俺が、途方に暮れて立ち尽くした、そのとき。
――ガラッ!
勢いよく玄関の扉が開いた。
「――あのっ!」
同時に、夏の気配とともに、澄んだ女の子の声が響く。
真琴ちゃんだ。
彼女は、急いで引き返してきたのか、髪を汗で額に貼り付かせ、息を荒げていた。
「あ……わ、忘れ物、かな?」
慌てて涙を拭い、鼻声にならないよう気を付けながら振り返る。
幸い、というべきなのか、彼女はこちらの涙には気付かない様子で、ぎゅっと学生鞄の取っ手を握りしめたまま立ち尽くしていた。
「あの……すみません。唐突なんですけど……聞いてもらっても、いいですか?」
真琴ちゃんは、射抜くようにこちらを見つめる。
小動物を思わせる黒い瞳に、ひどく真剣な表情を浮かべ、必死に言葉を紡いでいた。
「お弁当の約束も、受験勉強も、私、宣言したら、守れるので。私の……出汁巻き玉子の誓いを、お兄さんに、聞いてもらっても、いいですか?」
出汁巻き玉子の誓い。
彼女自身の言う通り、なんとも突飛な発言だ。
だが、俺にそれを笑う気なんてまったく起きず――むしろ、心のどこかにすとんと落ちてくるような、ずっと待ち焦がれていた言葉をようやく聞かせてもらえたような、奇妙な感覚を抱いた。
そして、直感する。
神様だ。
きっと神様が、俺では拾いきれなかった二人の想いを、今、結び合わせようとしているのだ。
一度店を出た真琴ちゃんが、ふと顔を上げる様子が目に浮かぶ。
踵を返し、まるで夏の風に押されるように、「てしをや」までの道を駆け抜けてきた、そんな光景を思いながら、俺は彼女に続きを促した。
「は……い。お願いします」
夜の定食屋、俺たち以外に無人の店内。
しんと静かなその空間に、夏の匂いと、張り詰めた覚悟だけが満ちる。
真琴ちゃんは、凛と顔を上げると、まっすぐこちらを見つめて、「……私」と口を開いた。
「私、これからも、お弁当を作ります。お昼ごはんもきちんと……三食きちんと食べて、龍也くんに恥ずかしくないように、いっぱい笑って過ごします。……出汁巻き玉子も、作るし、食べます」
「……うん」
俺の中の龍也くんは、やはりなにも言わない。
けれど、大切な音をそっと胸にしまうように、真剣に耳を傾けているのがわかった。
「――でも」
そこで、真琴ちゃんは一度、きゅっと口を引き結んだ。
それから、続けた。
「でも、甘い出汁巻きは、もう、作りません。……あれは、龍也くんのための、出汁巻き玉子だから。覚えていたいから。……なににも、上書きさせたくないから、作りません」
すっと、龍也くんが息を呑む気配がする。
まるでそれが見えているかのように、真琴ちゃんは微笑んだ。
「いつかほかに好きな人ができても、その人のためにお弁当を作ることがあっても。甘い出汁巻き……龍也くんの出汁巻き玉子だけは、――作りません」
俺の中で、龍也くんが震えた。
彼が必死で抑え、それでもこらえきれなかった感情が、俺の目に涙の膜を張る。
(――……ありがとう)
龍也くんは、掠れた声で呟いた。
(ありがとう、真琴……)
けっして、鼓膜を揺らすことのない言葉。
しかし、真琴ちゃんはちょうどそれが聞こえたように、気恥ずかしそうに頬を赤く染めた。
そして、ばっと音が鳴りそうなほどの勢いで、深々と頭を下げた。
「突然、すみませんでした! 聞いてくれてありがとうございます」
相当の勇気がいったのだろう。
学生鞄を握りしめた彼女の両手までもが、小刻みに震えている。
それでも彼女は顔を上げると、ちょっとだけ笑ってみせた。
「……でも、これで、頑張れます」
ああ、と思う。
彼女はなんて素敵な女の子だろう。
きっと彼女は、龍也くんの願う通り、凛と前を見つめて、これからの人生を歩んでいくのだろう。
その胸に、やさしい思い出を刻みつけながら。
「……応援してるよ」
「え?」
気付けば、声が漏れていた。
「応援する。真琴ちゃんの誓いを聞き届けたから、立会人として、真琴ちゃんの頑張りを、応援する」
彼女の誓いに対して、俺が「ありがとう」と言うことはできない。
だってそれは、あくまで龍也くんに向けられたものだから。
ただ、真琴ちゃんの決意を、見守って、応援することはできる。
「……もし、くじけそうになったら、また店においで」
そう付け足すと、真琴ちゃんはびっくりしたように目を見開き、
「――はい」
にこっと笑って、再び頭を下げた。
「よろしくお願いします」
その黒目がちの瞳は、ちょっとだけ潤んでいたが、どちらもなにも言わなかった。
そうして今度こそ、彼女は「てしをや」を去っていった。
無人となった店内で、俺は黙って厨房に引き返す。
水滴がついてしまったボウルを拾い上げ、なんとはなしに銀色の底を覗き込むと――俺の顔は、ほんのりと火が灯ったような、優しい笑みを浮かべていた。
(俺……)
脳裏で、龍也くんが呟く。
(あいつを好きになって、本当に、よかった)
俺は静かに頷いた。
「そうだね。俺も本当に、そう思う」
ボウルを、流しに向かってそっと傾ける。
「頑張ったね。龍也くん――」
ぴとん。
水滴は、まるで温かな涙が頬を伝うように銀色の表面を滑り、静かに流し台を叩いた。
龍也くんはそれを見守りながら、しみじみと礼の言葉を唱え――やがて溶けるように、消えた。
***
学生たちはそろそろ夏休みが始まろうかという、七月の祝日。
照り付ける日差しは厳しいものの、からりとした風は心地よい、まさに行楽日和。
それらの条件を掛け合わせた結果、広々とした緑地公園はピクニックやバーベキュー客でごった返していた。
「うお……あちー……」
陽気以上に、人込みの熱気というのがまた暑い。
肉の焼ける香ばしい匂いと、むわんと籠った煙とを体にまとわせながら、俺は顔を顰めて敷地内を進んだ。
五年以上前の記憶を引っ張り出しながら、人波をくぐり抜け、なんとか目的地にたどりつく。
探していた人物は、すぐに見つかった。
「おー、いた、いた」
酒に酔った若者や家族連れの歓声が左右から聞こえるなか、張り出した枝が影を落とすベンチに、ひとり座っている人物――志穂。
妹は、所在なさそうに膝の左右に手をつきながら、隣に置いた弁当箱をぼんやりと見つめていた。
俺はその姿を見て、嘆息する。
そしておもむろに背後から近づくと、冷えたビール缶をやつの頬に押し付けた。
「うわあ!」
ぎょっと肩を揺らした志穂が、勢いよく振り返る。
やつは頬を押さえながらこちらを見上げ、缶の持ち主が俺だと気付くと、まん丸に目を見開いた。
「お兄ちゃん……!」
「辛気くせえ顔してんじゃねえよ。いや、顔っつーか、ことっつーか」
「え、なんで、え……」
ぶつぶつと突っ込む俺を前に、志穂はただ呆然となにごとかを呟いている。
よほど、俺がここに現れたことが信じられないのだろう。
その瞳に、驚愕と――わずかな喜びがにじんでいることに気付き、俺は小さく肩をすくめた。
「なんだよ。来ちゃ悪かったかよ」
「いや、だって――」
「毎年、海の日には緑地公園でピクニック。親父が酒買って、母さんが弁当詰めて、ついでにおまえの誕生日も祝う。――だろ?」
仏頂面で告げると、今度こそ志穂は絶句した。
「……覚えて、たの?」
「……まあ」
厳密に言えば、思い出したのだが。
物心ついてから恒例の家族イベントだったはずが、大学進学を機にひとり暮らしを始めた俺は、かれこれ六年も参加を見送ってきた。それで、すっかり忘れてしまっていたのだ。
だが、俺が参加しなくなった後も、志穂は親父たちと、毎年海の日が来るたびに、こうして弁当を携えてこの公園までやってきていたのだろう。
一緒にお弁当を食べていたのが、急になくなる――
真琴ちゃんのその言葉をきっかけに、俺は、この日の外出を勧めたとたん、なぜ志穂が怒り出したのかを理解したのだった。
「俺も悪かったけどさ、おまえだって一言言ってくれりゃいいじゃん。俺が来なかったら、その弁当、ひとりで食う気だったわけ?」
視線の先には、ひとり分というよりは明らかに大きすぎる弁当箱、というか重箱が鎮座している。
よく両親が運動会に持ってきてくれていた、正方形をしたそれ。
もとは三段重だったのを、辛うじて一段に減らしてはあるようだが、それでも女ひとりが食うには多すぎるだろう。
志穂はばつが悪そうに目を伏せると、「べつに、食べてないじゃん」と答えた。
「意地でお弁当は作ってきたけど、……この中で、ひとりお弁当をつつく勇気は、さすがに出なかった……」
と、ぼそぼそ付け足す。
そりゃあそうだろう。
家族連れで陽気に賑わう公園で、若い女がひとり、涙でも浮かべながら重箱を開いていたりしたら、辛気臭さマックスだ。
なにも言わずに肩だけ竦めると、志穂は口の端を歪めた。
「それに結局、お母さんの夏の味は再現できなかったし、ね」
「…………」
俺は黙ったまま妹の隣に腰を下ろし、弁当の蓋を開けた。
いなり寿司に、唐揚げ。
つくねの串に、出汁巻き玉子、ポテトサラダ、ピクルス。
どれも我が家の定番で、飽きるほど食べていたものだったはずだが、今の俺にはわかる。
おそらくこれらは、夏仕様に味付けを調整したメニューの、試食を兼ねたものだったのだ。
その証拠に、唐揚げは、いつも目にしているものよりほんの少しだけ醤油の色が濃い。
俺はそれをつまんで口に放り込み、ついでに缶ビールを一口煽って、目を閉じた。
強めの塩気と、たっぷりの胡椒に包まれた、脂の旨み。
身体がほしがる、夏の味だ。
「――……あのさ」
やがて、俺はコンビニ袋に突っ込んでいた小ぶりのシール容器を取り出すと、それを志穂の前で開いてみせた。
「これ」
「……なにこれ」
「弁当。……の一部。出汁巻き玉子、作ってきた」
そこにぎっしりと収まっているのは、薄黄色をした出汁巻き玉子。
ただそれだけだ。
箱状の器への盛り付けというのがどうにもわからなかったので、ひとまず大葉だけ添えてみたが、それも玉子の熱にやられて、へにゃりと底にへばりついてしまっている。
弁当というには、あまりに貧相なそれを、志穂はまじまじと見つめた。
「……作ったの? お兄ちゃんが?」
「おう。甘めの味付けだが、結構いけると思うぜ」
昨夜、龍也くんが去ってから、さらに試行錯誤を繰り返し、ほんのり甘い、けれどじゅわっとした出汁の旨みが後を引く、個人的ベストレシピを完成させたのだ。
真琴ちゃんたちに申し訳ないので、「龍也くんの出汁巻き」とはちょっとだけ砂糖の分量を変えた、哲史ズ・スペシャルである。
「へえ、甘くしたの? でも、うちっていっつも――」
「なあ、志穂」
不思議そうに首を傾げる妹を、静かに遮る。
俺は、出汁巻きの入った容器を掲げたまま、まっすぐに志穂の目を見つめた。
「俺は、両親の味の完璧な再現なんて、しなくていいと思うんだ。……というか、むしろ、しないほうがいいと思うんだ」
「…………」
幼さを残した顔が、きゅっと引き締まる。
相手に誤解される前に、俺はさらに言葉を重ねた。
「忘れるためじゃない。忘れるために再現を諦めるんじゃない。そうじゃなくて……覚えておくために、親父たちのレシピには、手を付けずに、しまっておきたいんだ」
「……どういうこと」
周囲の喧騒が遠ざかる。
俺の脳裏には、真琴ちゃんの誓いの言葉が、ぐるぐると駆け巡っていた。
覚えていたいから。……なににも、上書きさせたくないから、作りません。
「俺たちが、親父の味を完璧にコピーしちまったら、それって、成り代わるってことだろ。それだと、親父たちのレシピは生き残るけど……代わりに、親父たちが、消えちまう気がするんだ」
だって、俺たちはあくまで両親とは別の人間であって、親父たち本人じゃない。
なのに味だけ揃えるなんて、その味を生み出すまでの、親父たちの努力や経緯、思い出、そういったものを、塗りつぶしてしまうように俺には思えたのだ。
黙って耳を傾けている妹を前に、俺は必死に言葉を探した。
「だから、残しておきたい。永久欠番みたいに。親父たちの味は、親父たちのものとして」
「…………」
「でも、じゃあ、海の日の弁当とか、箸置きの衣替えとか……親父たちが残したものを、まったく作らない、守らないのかっていうと、それも、なんか違うと思う。やっぱりしたいんだ、二人がしてきたのと、完璧には同じじゃないけど、同じようなことが。……大切にしたいんだ」
言っていて、我ながら訳がわからなくなる。
もどかしさに胸を焦がしながら、俺は妹の弁当をちらりと見やり、それから再び、志穂と視線を合わせた。
「これからも、海の日には公園に来て、家族でピクニック、しようぜ。弁当作ってさ。……いい年して、お互い彼女や彼氏ができても、この日だけは、ロマンもへったくれもなく、バーベキューの煙にまみれて弁当を食うんだ」
「…………」
志穂はなにも言わない。
ただ、その勝気そうな瞳が、静かに潤みだした。
「俺が酒を買ってきてさ、おまえが弁当詰めて。まあ、時々は逆でもいいけど。で、そのおかずは、親父たちの味と、すごく似てるけど、ちょっとだけ違うんだ」
「――……うん」
「出汁巻きは俺好みに甘くなってさ、唐揚げはおまえ好みに、衣が薄くなったりしてくわけ」
「……うん」
季節が巡る。
気温が変わって、求める味が変わるから、俺たちは、味付けを調整していかなくてはならない。
凍える冬ではなく、日差しが溢れる夏にふさわしい、俺たちの味へと。
わずかに鼻の先を赤くする妹を見て、俺の声まで、少しかすれはじめた。
「いつかさ、おまえが彼氏を連れてきて、そいつ好みにポテトサラダがマスタード入りになったり、俺が彼女を連れてきて、その子好みにピクルスが奈良漬けになるかもしれねえけど。でも、それでも、弁当自体は変わらず、毎年食ってく」
それが、と続ける声は、ほんの少しだけ震えてしまった。
「それが、受け継ぐ、ってことじゃないかと、俺は思うんだ」
成り代わるのではなく、受け継ぐ。
その違いが、妹には伝わるだろうか――。
「…………」
志穂は、ぐっと口を引き結んで、俯いた。
「…………うん」
そして、小さくぽつんと、こう答えた。
「そうだね」
ゆっくりと上げた顔は――目が涙で潤んでいたものの、微笑んでいた。
やつは素早く鼻をすすると、「ていうか、ピクルスより奈良漬けを好む彼女って、どんな女子なの」などと突っ込み、俺の持つ箱からひょいと出汁巻き玉子を一切れ取り出す。
そして、それを口に運ぶと、
「……おいし」
意外そうに目を瞬かせた。
「いやいや、不思議そうに言ってんじゃねえよ、しみじみ噛み締めるように呟けよそこは」
「いやいや、驚くでしょここは」
「いやいや」
しばらくそうやって、言葉遊びのような応酬を続ける。
なんとなく会話が途切れると、妹はぽつんと、それこそ噛み締めるように独白した。
「これが、新しい夏の味かあ……」
「……おう」
今更になって気恥しさが込み上げ、ごまかすようにビールを啜る。
早くもぬるくなりはじめた缶の向こう、きっぱりとした青い空には、暑さを約束するような入道雲が、生き生きと浮かんでいた。