1皿目 出汁巻き玉子(前)
夏の部、はじめました。
一皿目だけ少々ボリューミーなのですが、お付き合いいただけますと幸いです。
きれいに拭かれた黒木のカウンターに、椅子をきちんと並べた二名掛けのテーブルが四つ。
昼には腹を空かせたお客さんたちを迎え入れるその空間に、今はとろんと気だるげな夏の熱気だけが横たわっている。
厨房とカウンターだけ灯りを残した、夜の「てしをや」。
しんと静かなその店内に、じゅ……というフライパンの立てる音と、ほんのり甘い匂いが広がった。
「いいか、龍也くん。料理っていうのは、心技体。心意気だけじゃなくてさ、技が必要なんだ、技が」
(……うす)
響く声のうち、片方は俺のもの。
そうしてもう一つは、少しだけぶっきらぼうなニュアンスのある、青年のものだ。
ただし、青年――龍也くんの声は、正確に言えば、この夜の熱気を震わせているわけではない。
彼の声は、俺の頭の中でだけ、まるで耳元で話しているくらいの近さで聞こえているのだ。
視線を落とした先では、俺の手が体の主導権を奪い返し、使い込んだ菜箸を握りしめている。
その端先には、いまだとろりとした状態で卵液がフライパンに広がり、ふつふつと小さな泡を立てはじめていた。
「料理はしたことないけど、それでも大切な友達にとっておきの一品を振舞いたい、っていう龍也くんの想いはさ、俺としても素晴らしいと思うし、応援したいよ。でも、卵を二パックもおじゃんにされたら……いや、迷惑とは言わないけど、なんだ、こう、応援の仕方を変えたくなるわけ」
(……すんません)
偉そうに告げる俺に対して、龍也くんは低姿勢だ。
声も低いが腰も低い。
初めて会ったときは、その眼光の鋭さにびびった俺だが、彼の意外にも朴訥とした性格を知ってしまってからは、遠慮なくものを言うようになった。
そんなわけで、俺はまるで、オーケストラを前にぴしりと指示を飛ばす指揮者のように、菜箸をフライパンに差し向けた。
「ま、いいんだけど。そのために俺がいるんだからさ。さあ、巻くよ」
(うす。……すんません、お願いします)
「はは、結局手出ししちゃって悪いね。まずは見て、やり方を覚えてくれよ」
なんだか舎弟を得たような気分だ。
俺は鷹揚な仕草で頷くと、固まりはじめた卵液の縁にそっと箸先を食い込ませた。
作ろうとしているのは、出汁巻き玉子。
ふんわりと柔らかく、噛めばじゅわりと出汁の染み出る、分厚い一品に仕上げるのが目標だ。
「まあ、丸型のフライパンじゃあ、寿司屋で出るような四角い形にはならないかもしれないけど、よくお弁当で見かけるような、楕円っぽい形にはなると思うよ」
(十分っす)
神妙な相槌を返す龍也くんに、「悪いね」みたいな感じで小さく頷いてやりつつ、ぐっと箸を滑らせる。
が、まだ固まりきっていなかった卵液は、菜箸で持ち上げられた瞬間にあっさり破れ、べちゃっという音を立てて、フライパンに落下してしまった。
(あ)
「…………」
一瞬、沈黙が落ちる。
俺はぎこちない笑みを貼り付けると、さも想定内だというように軽く肩を竦めてみせた。
「……まあ、巻くといってもさ。すぐに巻きはじめるんじゃなくて、こんなふうに、慎重に卵液の様子を確かめるのが重要だ。これを卵液との対話という」
(そうなんすか。知りませんでした)
「はは、俺も最近知ったばっかだから」
そんな会話で時間を稼ぎながら、卵液が固まるのを待ち、今度こそ俺は菜箸で黄色い膜を持ち上げたのだが――。
はらり。
ぽろり。
べちゃっ。
固まりすぎた卵は、他の部分といっこうに接着することなく、つるつると箸を滑って元の位置に戻ろうとするではないか。
「お、お、……むっ!」
強引に箸で摘まめばなんとかカーブまでするものの、箸を離すとすぐに円形に戻りやがる。
なにくそと大きめに膜を持ち上げると、今度は自重に耐えきれなかったらしい卵が、ぼろっと崩れてしまった。
「ぬおっ!」
(…………)
龍也くんの沈黙が痛い。
俺はへらっと笑いながら、「フ、フライ返しを使おうか!」と、菜箸からの戦略的撤退を試みた。
そうとも、料理初心者の龍也くんが出汁巻き玉子を作れるようになるのが最終目標なのだから、なにも難易度の高い道具にこだわる必要はない。
しかし、
(……なんか、だいぶ、こう……余白が、できたっすね)
菜箸によってちぎられた破片を巻き込みながら、言うことを聞かない膜を強引に丸めていった結果、出汁巻き玉子というよりは、「なにか三つ折りになっている焼けた卵」としか表現のしようがない物体ができあがってしまった。
「…………」
(…………)
夏の夜の静寂に、男二人の沈黙が満ちる。
やがて俺はおもむろにエプロンを脱ぐと、流しの片隅にそれを安置し、尻のポケットに財布が入っているのを確かめてから、厨房の奥にある裏口に向かった。
(……哲史さん?)
龍也くんが、脳内で怪訝そうな声を上げる。
しかし、俺は黙々と歩みを進め、ガチャリとアルミ製のノブに手を掛けた。
とたんに、夏特有のむわっと籠もった熱気が体にまとわりつく。
鍵を掛け、すたすたと駅の方向へと向かう俺に、龍也くんは戸惑ったように――とはいっても、低くぶっきらぼうな口調が少々乱れただけなのだが――呼び掛けてきた。
(哲史さん? どうしたんすか? どこ行ってんすか、これ)
「スーパー。駅の近くに、二十四時間営業で日用品も売ってるところがあるから」
(は……?)
体を伴っていたならば、あの鋭い目を困惑に細め、きりりとした眉を寄せていたであろう龍也くんに、俺は断固とした口調で言い放った。
「玉子焼き用の四角いフライパンを買ってくる」
(え、でも、さっきは丸いフライパンでもいける、みたいなこと――)
「心技体」
首を傾げんばかりの相手に、俺はきっぱりと告げた。
「心技体だよ、龍也くん。料理はさ、熱い想いと熟練の技術だけあってもだめ。それを受け止めて、形にするための体――適切な調理器具がないといけねえんだよ。うん」
(……えーと)
「心配すんな、支払いは俺が持つから」
(……う、うす……? えーと……すんません、よろしくお願いします)
龍也くんは、諸々の疑問、というかツッコミを抱きつつも、フライパンの支払いを負担させるという申し訳なさの前に、それらを取り下げることにしたようだ。彼が素直な魂で本当によかった。
「『待ち人』が来ちまう前に、パパッと行って帰ってくるからな。練習時間も確保したいし、走るぞ!」
(うす)
そうして、俺たち――というか傍目には、俺ひとり――は夜道を駆けはじめる。
なぜ俺が、先ほどから独り言をぶつぶつ言っているのか。
脳内で声を響かせる龍也くんは何者で、なんでまた俺たちは夜の厨房で料理なんかしようとしているのか。
答えを既にご存じの方も多いとは思う。
だがまあ、なにぶん「神様の依頼」は久々で、俺も張り切っているので、ちょっとだけ我慢して聞いてほしい。
今から一時間ほど前。
初めて神社に足を運んだ日から半年以上も経った夏の夜、久しぶりに神様の声を聞くに至った経緯を。
***
「……なんっか、違う……」
定休日と定めている日曜の夕方。
翌日が祝日のため、せっかくの二連休だというのに、相も変わらずワーカホリック気味の俺たちは、結局休むでも遊ぶでもなく、昼前から「てしをや」の店内に籠もり、夏に向けての衣替えや試作を行っていた。
手塩にかけて育てた子どもたちに食べさせるような料理を、というコンセプトを持つ「てしをや」は、これでなかなか丁寧な調理ぶりがウリで、チキン南蛮や唐揚げといった固定メニューについては、季節に応じて味付けを微調整しているのだ。
汗を多くかく夏は、塩味を気持ち強く、南蛮酢も少しだけ酸味を際立たせて。
我が親ながら、よくそんなことやっていたなあと思う反面、まあ、酢をひと匙加えるくらいなら俺でもできるか、などとも思ったりする。
なのに妹の志穂のやつは、先ほどから大量に作った南蛮酢に、少しずつ酢を加えては味見し、ぐうっと眉根を寄せて考え込んでいるのである。
「酸っぱいだけじゃないんだよなあ……。たぶん砂糖も一緒に増やしてたよね。……いや、みりん? それとも米酢と黒酢の割合を変えてた?」
なまじ舌の感覚と記憶力に優れているだけに、両親が作っていた「夏の味」との差異が気になるらしい。
テーブルで夏用の箸置き――色とりどりのガラスを溶かし込んだ、涼しげなびいどろだ――を磨いていた俺は、「お兄ちゃんは砂糖とみりん、どっちだと思う?」などと聞かれて、思わず呻き声を上げそうになった。
わかるかよ、そんなの。
甘く味付けするための固形の調味料が砂糖で、液体状の調味料がみりん、二つの違いはそんなもんじゃないのか。
包丁も握らず生きてくること二十四年。
ここ半年でようやくレシピ通りのものを作れるようになった俺の喉元まで、そんな言葉がせり上がる。
「……わかりません。すみません」
が、同時にこの半年で、そんなことを言おうものなら妹の眼光に刺殺されるということも学習していたため、俺はそれをごくりと飲み下し、殊勝な答えを返すにとどめた。
それで正解だったようで、志穂は特に追撃するでもなく、「そっかあ、そうだよね。うーん……」と再び南蛮酢の味探しに没頭しはじめる。
それを横目で見ながら、俺は、いつ「とある話題」について切り出そうかと、ひそかにタイミングを窺っていた。
「なあ、志穂。おまえがそんなに味に悩むなんて珍しいじゃん。チキン南蛮にばっか、ずいぶん時間かかってねえか?」
「んー? そりゃあだって、うちの看板メニューだもん。外せないよ。……んー、みりんじゃなさそうだな……やっぱ砂糖か……」
「そうだよな、大人気メニューだもんなー。敦志くんも毎日のように頼む、絶対に外せないメニューだもんなー」
さりげなく会話に、敦志くんの話題を登場させていく。
敦志くん、というのは、もちろん時江さんの愛息子であり、チキン南蛮が大好物だという、あの佐々井敦志くんのことだ。
彼は、ゴキブリツイート事件で颯爽と事態の解決に乗り出してくれたばかりか、その後も、三日と開けず「てしをや」に通ってくれている。
そのお目当ては、看板メニューであるチキン南蛮と――俺の読みでは、看板娘である妹、志穂だった。
志穂というのは、我が妹ながらなかなか可愛らしい顔をしていて、特にくりっとした猫のような目は、男心をくすぐるなにかを持っているようだ。
きびきび動くたびに揺れるポニーテールや、にこっと音がしそうな笑みを伴った挨拶というのもポイントが高いらしく、ケンジのような厄介な男も含め、客から言い寄られることも、実は多かったりする。
まあ、気性が荒く、口も悪い本性を知っている俺としては、「騙されんなよ男ども!」と一言言ってやりたくなるのだが。
そんな俺の心の制止もむなしく、敦志くんは、ころっと志穂の笑顔にやられてしまったらしい。
ケンジのようにあけすけな態度で絡んでくることはないが、しょっちゅう志穂の姿を目で追ったり、あくまで控えめに、やつに話しかけていたりするのである。
そう、控えめ。
敦志くんのその態度は、見ているこちらが「中坊か!」と叫びたくなるようなじれったさなのだ。
忙しい昼時にはけっしてこちらを拘束することなく、ただ志穂が向ける「いらっしゃいませ!」の言葉に嬉しそうにはにかんで。会計時にはちょっと照れたように、「おいしかった」の言葉を添えてくる。
会社の同僚にせっせと「てしをや」を紹介しては客として引き連れてくれ、しかもそれを手柄のように語るでもない。
さらには、先のツイート事件をきっかけに、俺たちはメッセージアプリのグループで頻繁に連絡を取り合う間柄になったのだが、志穂からのメッセージに対してだけ、いつも敦志くんからの返答がワンテンポ遅れるのだ。
これはおそらく、好感度の高い言葉を吟味するあまり、返信に時間がかかっているものと思われた。
同じく「てしをや」の常連となってくれた薔子さんや玉城シェフに、いつだったか敦志くんのそんな様子について尋ねてみたところ、両名から「黒だね、黒」と力強い同意を頂いている。
どうやら二人から見ても、敦志くんの志穂への好意は明らかのようだった。
フランス人の夫を持っていた薔子さんには、敦志くんの迂遠なアプローチが「草食すぎない?」と映るようだが、玉城シェフは「若いねえ。まぶしいねえ」と、大層微笑ましく思えるらしい。
俺としても、健気すぎる敦志くんの姿が、同情を通り越しておもしろ――もとい、いじらしいので、できれば応援してあげたいと思っていた。
そしてそんな彼は、どうやら最近、志穂を誘って遊びに出かける口実に悩んでいるらしい。
まあ、夏といえば恋の季節だし、幸いなことに今月は志穂の誕生日も控えている。
スムーズに事が運びそうな状況にやる気を得た俺は、ひと肌脱いでやろうと、そう思い立ったというわけであった。
「やっぱ、美味しく食べてくれる人がいたら、頑張って作ろうと思うよなー。敦志くん、いつもめちゃめちゃうまそうに食ってくれるもんなー」
「んー? うーん。そうだねえ。……とはいえ、白砂糖だけじゃコクが出ないよね?」
だが、のめり込んだら一直線の妹は、俺がせっせと水を向けても、いっこうにそれに気付きやしない。
「いや、コクじゃなくてさ、おまえ。俺は告ったり告られたりの話をしようとしてんだよ」
「コク……ああ、そうか!」
無理やり軌道修正を試みる俺の努力を踏みにじり、やつはお玉を握りしめたまま、はっと顔を上げた。
「三温糖だ!」
三温糖だ、じゃねえよ。
俺は天を仰ぎ、ぐるりと目を回した。
すまん、敦志くん。
不肖の妹は、男の純情なんてかけらも理解しようとしない、女を忘れた一匹の料理馬鹿だ。
呆れた思いのまま、いそいそと三温糖を取り出している志穂に向かって、俺はついこぼしてしまった。
「ったく、なんでそこまでやるかねえ」
「え?」
「料理。っつーか、この店」
志穂の目が見開かれる。
だがそれに気付かず、俺は箸置きを磨きながらぶつぶつと呟きつづけた。
「そりゃあ、親父たちの遺志を継いで『てしをや』を盛り立てようって姿勢は感心するし、俺もまったく同意だけどさ、なんかおまえのやり方って、いっつも微妙に方向を外してる気がすんだよ」
「え……?」
聞き返す声がわずかに低くなる。
それが危険な予兆だということを、何度も学んできたはずなのに、俺は言葉を切り上げることなく、びいどろの箸置きを夕陽にかざして溜め息を落とした。
というのも、俺は俺で、料理馬鹿な妹の姿に、思うところがあったからである。
両親から託された、「てしをや」。
その「完璧な再現」にこだわるのは、いかがなものだろうかと。
「季節ごとに味付けを調整するとか、箸置きを変えるとか、親のやり方を踏襲するのもいいよ。でもさ、この店はもう俺たちのものだろ? そんなしゃかりきになって、全部が全部、親のやり方にこだわる必要あんのかなって」
念のために言っておくと、別に俺はこの店のメニューを一新してしまいたいだとか、飲食店経営に飽きてきたとか、そんなことを考えているわけではない。
むしろ志穂と同じくらい、この「てしをや」を大切に営んでいきたいと思っている。
だって、両親から「よろしく頼む」と任されたわけだから。
だが、そう。
俺は親父たちから託されたのだ。店だけではなく、志穂のことを。
この、頑固者で、いっこうに親離れしなくて、ときに向こう見ずなほどに一生懸命な、妹のことを。
俺は箸置き越しに志穂の姿を透かし見た。
「味付けの探索にしたって、もう何時間厨房に籠もってんだよ。夜になったらいつも、足のむくみが酷いとか文句言うくせに」
流しに隠れる部分から、ときどきトントンと床を叩く音が響くのを、俺は聞き逃しはしなかった。
立ち仕事に疲弊した志穂の足が、血流をよくしようと無意識に動いているのだ。
俺もこの半年ですっかり癖になってしまった動きだが、疲労感のにじむその仕草を、二十歳の妹がやるのかと思うと、なんとも物悲しい気分にさせられるのである。
せっかく見られる顔をしているというのに、こいつは化粧もおしゃれもしないで、いつものジーンズにTシャツ姿。
同年代の子たちは、女子大生として甘酸っぱい恋でも謳歌しているだろうところを、定休日まで甘酸っぱい南蛮酢の味探し。
たった一度しかない青春時代の、最後の時間まで、料理、料理、「てしをや」――。
はたして親が望んでいたのは、志穂のこんな姿だったのだろうか。
親の亡霊に囚われている志穂を見て、二人は本当に喜ぶのだろうか。
俺はもっと、こいつの肩の力を抜いてやるべきなのではないだろうか。
そんな思いが、俺の頭を占拠していたのだった。
「……別にいいでしょ、私が好きでやってるんだから」
「好きでやってるとは言ったってさ、加減があるだろ、加減が」
俺としては、あくまで志穂のことを思っての発言のつもりだった。
両親の味を追求する姿勢は素晴らしい。
親を尊敬しているのだろう姿だって、見ていて清々しいし、俺だって見習わねばとは思う。
けれど、ほかのものをすべてかなぐり捨てて、両親の方針をなぞろうとするのは、どうなのか。
ぴったり同じ夏の味を再現できたら、そりゃあ志穂もお客さんも嬉しいのだろうが、そのために、休日やほかの楽しみを全部返上する、というのは、ちょっと違うのではないかと思うのだ。
「多少去年と味が違ってもさ、いいじゃん、お客さんだって親父たちだって、許してくれるよ。母さんだって、百点満点って言ってたろ? おまえももっと、肩の力抜けよ」
「…………」
志穂が黙り込む。
ようやく相手の反応の不穏さに気付いて、俺は慌てて笑みを浮かべ、付け足した。
「いやまあ、おまえがそういう性格だってことは、百も承知だけど」
「…………」
志穂はなにも言わない。
握りしめたお玉に視線を落とし、なにか考え込んでいるようだった。
夕陽を頬に受け、じっと立ち尽くす妹を前に、俺は冷や汗を浮かべはじめた。
やばい。まずいぞ。
ここで黙り込まれると、どこが地雷なのかがさっぱり掴めない。
ひとまず、話題の目先を変えて――
「ほら、たとえば明日の祝日、おまえの誕生日も近いだろ? 定休日でもあるわけだし、肩の力抜いてさ。たまには息抜きに、誰かと遊びにでも――」
「……お兄ちゃんは」
だが、この思いやり溢れるセリフのいったいなにがいけなかったというのか、志穂は言葉の途中でぱっと顔を上げ、ぎろりとこちらを睨みつけてきた。
「お兄ちゃんは、冷たい」
目つきでわかる。
俺はどうやら、地雷を踏み抜いたらしい。
志穂はぐっと両手を握りしめて、低い声で言い放った。
「そういうのは、肩の力を抜く、って言うんじゃない。……忘れる、って言うんだよ」
忘れる。
その単語の強さに、はっとする。
思わず言葉を詰まらせてしまった俺を、志穂はその猫のような目でじっと見つめた。
「私、べつに、お父さんやお母さんに褒められたくてやってるんじゃないよ。二人が死んだ直後みたいに、『てしをや』を完璧に再現したら、日常が戻ってくるって、信じてるわけでもない。ただ……ただ、忘れたくないんだよ。それって、そんなにいけないこと?」
「志穂……」
俺は、しまった、と思った。
怒鳴られるわけでもない。物を投げつけられるわけでもない。
だが、妹のこういう反応――声が震えそうになるのを抑え込んだり、目が潤むのを堪えたりする様子というのが、実は一番ダメージが大きいのだ。
志穂は、感情の波を逃すように、視線を逸らして数度瞬きをした。
「大丈夫よ、って言ってくれたお母さんたちに応えたかったから、お兄ちゃんと一緒に、この半年頑張ってきたけど……頑張りすぎたのか、……最近、私、お母さんたちの顔や声が、一瞬思い出せなくなることがあるんだよ」
「それは……」
「びっくりでしょ? 薄情すぎるよね。二十年も、毎日一緒にいたのに、たった半年でもう、一緒に働いてた時の記憶が曖昧になりはじめてるの。私は、それが、すごく、すごく、怖いの」
なんと相槌を打てばよいかわからなくて、俺は黙り込んだ。
死者の記憶を薄れさせることは、きっと健全なことだ。
志穂は両親と特別に濃密な時間を過ごしていたぶん、その薄れ具合を人一倍強烈に感じるのかもしれないが、それでも忘却というのは、俺たちが生きていくうえで必要な措置だ。
だが、それを恐怖と捉えて、自分を責めている相手に対して、安易にそう告げることはためらわれた。
結局なにも言えずに、箸置きを握りしめたまま固まっていると、志穂は静かにお玉を置いて、鍋を片付けはじめた。
「――志穂?」
「今日中には、もう『夏の味』にたどり着けそうにないから。……先に、家に戻るね。悪いけど、箸置きとかグラスの衣替え、済ませといて」
「……お、う」
つい、返事がぎくしゃくとしてしまう。
ぎこちなくびいどろの箸置きを整列させ、夏用の背の高いグラスを磨いているうちに、志穂のやつは黙々と流しを片付け、手を洗い終えてしまった。
「……じゃ、お先に」
そうして、ぼそりと挨拶を寄越し、勝手口から去ってしまう。
後には、暮れなずむ夏の夕陽と――それに照らされながら、布巾を握りしめている俺だけが残った。
「――……う……」
しんと沈黙の満ちた店内に、詰めていた息がこぼれだす。
俺は情けなくテーブルに突っ伏すと、
「うおい、おい、おいぃ……!」
誰にともなく、嘆きの声を上げた。
なんなんだ、この緊迫感は。
いっそ罵ってくれよ、お玉でも投げつけてくれよ、こういうじっとりした後味の悪い喧嘩が一番堪えるんだよ俺はさあ!
声を翻訳すると、こんなところか。
俺はしばらくテーブルに頬を押し付けたまま「うあああ」とか「うおおお」とか、わけのわからぬ呻きを上げていたが、やがてむくりと顔を上げた。
だらしなく頬杖をつき、磨き終えたグラスの縁を、こつんと叩く。
「……忘れるのが怖い、かあ」
いかにも、生真面目な志穂らしい。
いつものように口や手を出してこなかったところを見るに、この物思いは、やつの中で相当深刻に燻ぶっているのだろう。
「冷たい、ねえ……」
やつの主張もわからないではない。
でも、俺にはやっぱり、そんな義務感に縛られてせっせと「てしをや」を営んでも、親父たちが喜んでくれるとは思えないのだ。
「…………」
ぐるぐると、慣れない思考が渦を巻く。
もとよりあまり理論派とは言えない俺は、とうとう布巾を投げ出して叫んだ。
「ああ、もう!」
ここ最近、志穂とはうまくやってきただけに、こういう葛藤もなんだか久しぶりだ。
己の感情処理能力では持て余すモヤモヤを得てしまったとき、人はいったいどうすべきか?
「こりゃもう、神様の出番だ!」
決まっている、吐き出すのだ。
俺は身に着けていたエプロンをテーブルに放り出すと、個人的な趣味を兼ねている酒の棚から一本を取り出し、神社への道をたどりはじめた。
***
東京の夏は、とにかく日が長い。
十九時を回って、ようやく暗くなりはじめた空を見上げながら、俺はぱたぱたとTシャツの襟もとを掴んで風を送った。昼ほどではないが、やはり暑い。
だがそれも、木々がうっそうと茂る境内に踏み入ると、少しだけ和らいだようだ。
ひんやり、とまではいかないが、わずかに涼を含んだ風が吹き渡り、それと同時に、蒸されたような緑の匂いが辺りに満ちる。
ちっぽけで古びた御堂は、俗世の暑さなど知らぬげに、今日も端然とそこに建っていた。
「お久しぶりでーす」
がろん、がろん。
ぬるくなっていた手水で手指を清め、鈴を鳴らしながら告げてみる。
一歩下がって御堂の様子を見守ったが、どれだけ待ってもそれは、光るでも声を発するでもなかった。
もう、いつものことだ。
「……今日も空振り、かあ」
無人の境内をぐるりと見下ろし、俺は静かに苦笑を刻む。
半ば以上予想していたことはいえ、何度経験しても、このすげない反応にいちいちがっかりする自分がいた。
「今日は、涼しげに冷酒を持ってきましたよー。新潟の銘酒で、もー、水みたいにさらっさら飲める、お上品なやつです。火入れしてないタイプだから、香りも抜群。きんきんに冷やして、……どうぞー……」
以前はうきうきと説明していた日本酒の能書きも、だいぶ小声だ。最後のほうには、ちょっと投げやりになっていたかもしれない。
だって、なしのつぶての相手に、半年以上熱心にプレゼンしつづけることのできる人間が、どれだけいるだろうか。
俺がそんなやつなら、とうの昔に営業部からスカウトが来ていたはずだ。
「……せめて、うんとかすんとか、言ってみてくださいよ……」
そう。
両親の魂を「下ろし」たのを最後に、神様は二度と、俺たちに声を聞かせてくれることはなかった。
志穂とともにお参りしても、好きそうな日本酒をぶら下げてきても、昼に来ても夜に来ても、無反応。
いや、厳密に言えば、気配を感じることはあったように思う。
たとえば帰り際になって、鈴の音が鳴ったように感じたり、願い事を唱えたら、たちまちその日中に巡り合わせよく問題が解決してしまったり。
だが、そうされるとかえって、神様は今も俺たちのことを見守ってくれているんじゃないか、なにかやり方を変えれば、再び神様と話せるのではないかと、期待してしまうというものだろう。
結局、両親が成仏した直後の、「神様とはもうこれきりになっても、そういうものなんだろうな」なんていう殊勝な思いは吹き飛び、俺は最初のうち、躍起になって神様の声を引き出そうとしていた。
だが、成果が得られない物事を続けることほど、人間の心を折る行為はない。
最初の一か月には三日とおかず通っていたのが、次の一か月では一週間おきになり、それがやがて、半月ごと、一か月ごと、と引き延ばされ――気付けば、もう七月である。
俺はため息をついて、涼しげな青いラベルが貼られた日本酒の瓶を、賽銭箱の横に置いた。
「――ま、いいですけどね。神様とはもうこれっきり、俺ももう前を向く。きっとそのほうが、健全だ」
ぽつんと呟きながら考えたのは、もちろん、妹と両親のことだった。
忘れるのが怖いといった志穂。
薄情だと、自分を責めているようである妹。
やつは、俺のことを冷たいと詰った。
だが、死者と心の距離を置くことは、そんなにもいけないことだろうか。
だって、俺たちは生きていて――生きて親父たちの遺志を継いでいかなくてはならなくて。
そのためには、いつまでも後ろばっかり向いていてはならない。
自転車に乗りはじめた子どものように、何度も何度も、親の手が自分を支えてくれているかを振り返って確認するのではなく、自分の足を信じて、力いっぱいペダルを踏みこまなくてはならないと思うのだ。
「……だって、そのほうが、二人も安心するでしょう? ねえ、神様?」
返事が来ることはないとわかっていても、俺は漏らさずにはいられなかった。
俺は別に、親を切り捨てたいわけじゃない。むしろ、逆だ。
二人に安心してもらいたいからこそ、俺たちは親から視線を引きはがすべきだと思うのだ。
だが――。
「……まあ、でも、……あいつの言い分も、わからないでは、ないんですよね」
うっすらと汗をかきはじめた瓶を眺めながら、そう続けた。
俺が、先ほど志穂に自分の考えを伝えられなかった理由。
それは、俺自身、心のどこかでは、両親の死を過去の出来事として処理する行為に、抵抗を覚えているからだった。
いつまでも死んだ人間に囚われることは、非生産的で、甘ったれで、無責任だ。
だが同時に、ものすごく真摯で、優しくて、尊い行為のようにも思う。
それを、ばっさりと切り捨てることは、さすがに俺にもできなかったのだ。
「なーんか、うまい方法は、ないですかねえ」
俺はがしがしと頭を掻いて、そうこぼした。
「志穂のやつだって、いつもみたいにがつんと反論してこなかったところを見るに、きっと心のどこかでは、親離れしなきゃって思ってるはずなんですよ。で、俺のほうも、あいつの言い分にも一理あると思ってる。なんか、うまく折り合う地点が、ある気がするんですよねえ」
これは、いつもの兄妹喧嘩ではない。
どちらが正しいとか、正しくないとかの問題でもない。
きっと、もっと大切で、俺たちが丁寧に、二人で、答えをすり合わせなくてはいけない類のものだ。
――うん。
「ね? そう思うでしょ? でも俺たち、相手に自分の正しさを認めさせる喧嘩はしてきたけど、一緒に答えを見つける作業って、ほとんどしたことがないんですよ」
――すん。
「はは、なんすか、『すん』って――……すん!?」
俺はぎょっと顔を上げて叫んだ。
「『すん』!?」
動揺のあまり、声がひっくり返る。
だが、そんな醜態など知らぬげに、しんと建っている御堂は――ほのかに、温かな光を発していた。
光る御堂。
――おまえが言えと言うたのであろうが。
その、老若男女のどれともつかない、不思議な声。
「か……っ!」
俺は、目をまん丸に見開いた。
「神様――!?」
――あっ、こら、身を乗り出すではない。靴底が酒瓶に触れそうではないか。
心持ち慌てたように、酒瓶の安否を気遣うその声の持ち主は、間違いなく、神様だった。
「どっ、……え、ちょ、……ええええ!?」
ずっと再会を期待していたはずなのに、叶わないと思い込んでしまっていたぶん、俺は盛大に取り乱してしまった。
「神様!? え、なんで!? 嘘! まじ!? 嘘!」
――嘘なのか本気なのか、どちらが言いたいのだおまえは。
あげく、いつだったか志穂が食らったようなツッコミを受けてしまう。
俺ははっと我に返り、深呼吸をして心を整えると、それでも抑えきれなかった喜色をにじませ、日本酒の瓶を御堂に向かって掲げた。
「神様! お久しぶりです! 酒! 酒持ってきましたよ! 冷酒! あっ、もしかして、冷酒につられちゃった口ですか!? まったくもう、しょうがない人だなあ!」
どうしよう。
なんだか、すごく嬉しい。
実際には半年ちょっとだが、なんだか十年ぶりに親友に会ったくらいの気分だ。
――いや、つられておらぬし。すでにそれでは温もって、冷酒というより冷や酒だし。人ではないし。
浮かれてまくし立てると、神様はぼそぼそと反論してきた。実に丁寧な拾いぶりだ。
俺はますます嬉しくなった。
「もー、相変わらずじゃないですか。どうしてずっと声を聞かせてくれなかったんですか。寂しかったですよ、こっちは!」
つい気安く、まるで少しだけ年上の先輩に対するような態度で接してしまう。
だが、それに神様は気を悪くした様子もなく、いつもの、ぬけぬけとした口調で答えた。
――まあ、なにかと忙しくてなあ。
なんだか、肩でもすくめていそうな様子だ。
だが、半年に及ぶスルーの理由を「忙しい」の一言であっさり片付けられてしまった俺は、ちょっとむっとして、思わず顔を顰めてしまった。
「忙しいって……。そうはいっても、半年以上にわたって毎回酒を貢いできたんだから、ちょっとくらい、反応してくれてもよかったのに」
――む? しただろうが。酒をもらうたびに、ひとまず鈴は鳴らしておいたぞ。あ、いや、忘れたか? 二、三度は忘れたかもしれぬ。
「…………」
なんだろう。
神様にとっての鈴を鳴らす行為は、俺たちで言うところの「メッセージアプリで既読スルーを避けるために、ひとまずスタンプを返しとく」みたいなものなのだろうか。
しかもこの神様、それすらも結構な頻度で忘れてやがる。
「……いえ、俺としては、あなたと話したかったんですけどね。願い事がなきゃいけないのかな、って、健気に願い事をひねり出したり、せっせと、丁寧に話しかけたりしてたのに……。それもスルーするほどに忙しかったんですか? 神様に繁忙期でもあるんですかね」
久々に会えた反動で、ついそんな恨み節を口にしてしまったところ、神様からは予想以上にげんなりした反応が返ってきた。
――あのなあ。三が日に一年分の願い事を押し付けられ、それを早期に解決してやらねば「ご利益がない」と信徒離れを起こす今日日だぞ。
いわば、一年分の仕事を上半期ですべて片付けようと日々残業している、その決算が目前に迫ったさなかに、隣の席に後輩がやってきて、やれ「彼女がほしい」だの「巨乳だとなおいいです」だの言われたら、おまえ、どんな対応を取る?
「う……」
なんと身につまされる例えだ。俺は静かに視線を逸らした。
――あげくそやつは、差し入れを持ってくるのはいいが、やたら長々と、理想の彼女像について語るときた。
最初は丁寧に話を聞いていても、やがて相槌だけになり、しまいには生返事になる。それが世の常というものだろう?
「……す、すんません……」
どうやら俺の渾身の語りかけは、神様の心を動かすどころか、単純な負荷にしかなっていなかったらしい。
言われてみるとたしかに迷惑な話だったので、俺は口をもごもごさせて謝った。
が、
――そんな輩からは、ひとまず酒だけもらっておいて、それだけおいしく頂いておこうかと、そう思うではないか。
「結局酒は飲んでたんかい!」
続いた言葉に、がくっとその場に倒れ込みそうになる。
思わず突っ込むと、神様は真顔で――表情はあくまで俺の想像だが――、前々回差し入れた福島の純米酒が好みだと答えた。
「神様……」
相変わらずの態度に、思わず脱力してしまう。
だがそれ以上に、この久々の顕現や会話をすんなりと受け入れている自分がいて、俺は無意識に笑みを浮かべていた。
「じゃあ今度、またその酒を持ってきますよ。お疲れさまでした。久々に現れたってことは、もうだいぶ、『お仕事』も片付いたんでしょう?」
――うん? ……ああ。まあ、なあ。
だが、返答はいささか歯切れが悪い。
どうしたことかと首を傾げていると、神様はやけに遠回しに話を続けた。
――その、なんだ。人の世でも、できる人間にばかりどんどん仕事が回ってくる、という現象はあるだろう? あるいは、一回限りでやめるつもりだったキャンペーンが、予想外に好評で、翌年以降も続けざるを得なくなった、といったようなことが。
「はあ……?」
毎回思うが、神様というのは、こうも俗世の事情に通じているものなのだろうか。
曖昧に相槌を打ちながら、頭の片隅にふとある考えがよぎって、俺は「まさか」と口の端を引きつらせた。
――やはり、人に倣いたがる国民性とでもいおうか。あるいは、口上による伝播――クチコミの威力が増した世になったといおうか。まあ、なんだ、そのだなあ。
「……はっきり言ってくれませんか」
――……この神社に来たら、おまえが体を貸してくれると知った魂たちが、何十、何百という列をなして陳情しにきた。
「まじかい!」
うっすらと思い浮かべた可能性が、どんぴしゃ事実だったことに、俺は思わず叫び声を上げた。
とっさにばっと己の身体を両手で抱きしめ、顎を引いて御堂を睨みつける。
「言っときますけど、そうほいほい乗り移らせたりしませんからね! 俺は、イタコやシャーマンじゃないですから!」
そりゃあ両親の件では深く感謝しているし、頼まれたら協力するのだってやぶさかではないが、俺の身体は公衆依り代なんかではない。
見ず知らずの何十、何百という魂に体を貸しつづけるのなんてごめんである。
警戒心をマックスまで引き上げて御堂を見つめていると、
――わかっておるさ。
神様は深いため息を落とした。
――言うたであろう。私の仕事は、願いと願いを縒り合わせることだと。おまえの願いがそれに沿わぬ限りは、私とておまえに魂を下ろしたりはせぬ。魂たちにも道理を諭し、おおむね理解を得たさ。時間はかかったがな。
「そ、そうですか……」
ほっと胸を撫でおろす。
そうだ。
そういえばこの神様は、いろいろいい加減なように見えて、その実、妙に律儀なところがある。
これまでだって、無茶ぶりをしてくるようでも、最終的には俺も含めてすべてが丸く収まるように手を打ってくれていたのだ。
もしかしたら、これまで俺に話しかけずにいたのも、俺を巻き込むまいとしたからかもしれなかった。
現金にも、というべきなのだろうか、そう思うと、俺はにわかにこの神様に手を貸したくなってしまった。
「あの……ほいほい乗り移られるのはごめんですけど、その……神様がどうしてもって言うんなら、別に俺、体を貸さなくもないですよ……?」
時江さんに銀二さん、梅乃さんに、ジルさん。
これまでに出会った魂は、けっして悪い人たちではなかった。
それどころか、初心者の俺に丁寧に料理を教え、もういいよというくらい感謝を向けてくれた。
俺にとってもこれらの経験は、素晴らしいものだったと断言できる。
「神様が選ぶ魂なら、安心ですし。きっと、俺のことも考えてくれるんだろうなって、そう思えるし。それくらいには、俺、あなたのこと、信じてますから」
――おまえ……。
心を込めて告げると、神様は少し感じ入ったようだった。
しみじみと頷くように、御堂が優しく光る。
それを見て、俺はちょっとくすぐったい気分になった。
――おまえ、なかなかよい男よなあ。いや、立派。近年まれに見る、懐深い、情の厚い男であることよ。
「いやいや、そんな」
――謙遜せずともよい。私を信じる、この身を任せるからぜひ用立ててくれと言い切ったその態度、まこと天晴れな男気であるよ。
「……いやいや? そこまで言いましたっけ?」
ちょっと怪しくなってきた雲行きに、俺はえっと顔を強張らせた。
が、神様は、人の子の戸惑いになどまったく頓着せずに、上機嫌に語りつづけた。
――うむ。そこまでの信仰を捧げられては、私も張り切らずにはいられんな。柄にもなく遠慮しかけたが、据え膳食わぬはなんとやらだ。奉納品を鷹揚に受け取るのも神の品格。徹底的に使い倒……もとい、ありがたく用立てようぞ。
「ちょ! 今、本音! すごく不穏な本音、滲んでませんでした!?」
ぎょっとして叫んだが、時すでに遅し。
いつの間にか陽が落ち、すっかり夜の闇に包まれた境内に、見覚えのある白い靄が凝りだすではないか。
――こやつ、根は素直な魂なのだが、どうにも年若いぶん、未練が強くてなあ。どうしても友に会いたい、飯を振舞いたいと言うて聞かぬのよ。
「いや、ナチュラルに魂の説明に移行しないでくださいよ!」
しれっといつもの流れに乗せてこようとする神様に、俺は全力で噛みつくが、その間にも靄は形を固め、輪郭を淡く光らせた青年の姿を取った。
適当に着崩した、校章入りのカッターシャツにズボン。
上背のあるがっしりとした体に、短く刈りあげた髪。
今回の魂はずいぶん若い。高校生だ。
『――……うす』
そして彼はあまり、社交的なタイプではないらしい。
軽く目礼して、短く一言だけを告げた。
「いや、そうじゃなくて……、あ、いえ、どうも……」
のんきに魂と挨拶を交わしている場合ではないのだが、相手の、年齢に見合わぬ眼光の鋭さに、ついもごもごと答えてしまう。
なんだ、この子。
武道の達人か、そうでなければ、その筋のお方かなにかだろうか。
人相が悪い、と言ったら失礼だが、すごみがあるというか、ひどく威圧感に満ちた顔つきをしている。
高校生らしからぬ迫力に、思わず呑まれて硬直していると、神様が妙に浮かれた口調のまま話しかけてきた。
――なあに、顔は怖いし、不器用だし、口調はぶっきらぼうだが、なかなか朴訥とした愛い魂よ。悪いがこやつの未練を晴らしてやってくれ。おまえの願いについては、こちらでうまくやっておくから。
「いやだから、そうじゃないでしょ……って、願い? 俺、願い事なんてしましたっけ!?」
ああ助かった、と言わんばかりの神様の態度に突っ込みたい思いが半分、願い事などしたかと怪訝に思うのがもう半分。
御堂にちらちら視線をやりながら、鳥居の前に佇む魂に冷や汗を浮かべていると、青年の靄がすっと前傾姿勢を取った。
『……じゃ、すんません。よろしくお願いします』
意外にも礼儀正しい。
「……って、いや、そうじゃなくて!」
心の準備ができていなかった俺は、とっさに両手を突き出したものの、そんな防御態勢も視界に入らぬとばかりに、青年はいかにも学生の名に恥じない、素晴らしい勢いでこちらにダッシュしてくる。
「わ、わ、わ……!」
――よし、今回は大盤振る舞いだ。何度だって叶えてやるぞ。「うん」! 「うん」!
パニクる俺をよそに、神様はなにやらご機嫌で頷いていた。
……って、もしやこれは、「うんとかすんとか言ってくれ」という先ほどのぼやきに対する答えなのだろうか。
「いや! 違えよ! それ、願い事じゃねえよ!」
――む? 違うとな?
青年の、そのド迫力の顔が近づいてくる。
ぎろりとこちらを見据える鋭い眼光が、まるで獲物を追い詰める肉食獣のように俺をまっすぐに貫いてくる。
「うわ……っ」
俺はもはや神様への文句も忘れ、冷や汗を浮かべて目を見開いた。
――ああ、そうか。では、こちらだったか。
フュージョンなんて生易しい結果になりそうにない。このままではぶつかる。
弾き飛ばされる。破裂する。
――「すん」!
ふわん。
神様のやけに気迫のこもった声とともに、間の抜けた音が辺りに響く。
次の瞬間、
(……おお……)
感じ入ったような、当惑したような、低い呟きが脳裏に聞こえ、俺は意外にもすんなりと、フュージョンを果たしてしまったことを悟った。
(……? お兄さん、見かけより体重あるんすね。腹の辺りが、なんか……)
別人の身体に違和感があるのか、青年が不思議そうに腹をさする。
――はは、言われとるなあ!
「…………っ」
からからと陽気に笑う神様に、怒りを覚えた俺を、誰も責めることはできないだろう。
――こやつの待ち人は、よき時に店に向かわせるからな。よろしく頼んだ。すん!
「す……っ」
別に、落ち着いて考えれば、これまでのように魂に体を貸すこと自体は、なんら問題はない。
使い倒す、だなんて言ったって、結局この神様はそんなことしやしないだろう。それくらいはわかっている。
だが、もう少し心を整えさせてくれよ、ということとともに、一つだけ叫ばせてほしい。
「『すん』じゃねえええええええ!」
夏の夜の境内に、俺の叫びが虚しく響いた。
***
このたび俺の身体に乗り移った青年の魂は、見立て通り高校生。
名を飯田龍也くんといった。
あまり口の滑らかでないタイプの彼から、店へ向かう道すがら苦心して事情を聞き出したところ、どうやら、春先――ちょうど彼が三年生に進級するタイミング――に、交通事故に遭って亡くなったのらしい。
高校近くのコンビニで友人と待ち合わせをしていたところ、アクセルとブレーキを踏み間違えた車に突っ込まれたとのことだった。
「あ、それ、ニュースで見たことがあったかも……。その……、災難だったな」
(うす)
龍也くんのすごいところは、近づいてくる車に異変を察し、とっさに隣で本を立ち読みしていたご老人をかばったところだった。
結果、死者は龍也くんひとり。かばわれた女性は、膝に擦り傷を負っただけで済んだ。
事件を思い出しながら、俺がなんとも言えずに黙り込んでいると、龍也くんは淡々と、
(まあ、死者が俺ひとりで済んだのは、まだ幸いでした)
と続けた。
祖父に憧れて警察官を目指していた龍也くんは、人をかばっての死については、特別無念に思うことはないのだそうだ。
どうしよう。龍也くんがイケメンすぎて泣ける。
俺が勝手にぐっときていると、彼はわずかに眉を寄せるそぶりをした。
(ただ、それでマコトのやつ……あ、俺の……まあ、ダチ、なんすけど、そいつが、すっかり参っちまってて)
龍也くんによれば、その日、待ち合わせ場所を指定したのは友人――マコトくんというようだ――のほうであったらしい。
そのために、龍也くんが死んだのは自分のせいだと、その人物は夏の今になっても憔悴しきっているとのことだった。
(……俺、見た目がこんなだし、口も、あんまりうまくないんで。学校で話してたのって、そいつくらいで。そいつがろくに飯も食わないで、日に日にやつれていくの、見てられないんす)
こんなに素敵な人柄の龍也くんだが、その筋の方顔負けの容貌と――黙っているとそれだけで「お怒りですか……?」と恐れられるのだとか――、一年前に転校してきたばかりという事情も手伝って、学校ではほとんど友人がいなかったらしい。
唯一、毎日会話をし、昼食をともにしていたというマコトくんの物思いだけは晴らし、しっかり飯を食って頑張れよと励ましてやりたいのだと、彼の主張をまとめるとそういうことだった。
「…………っ、わかった……! わかったよ……! 友達の物思い、絶対晴らしてやろうなあ……っ」
龍也くんの話を聞いただけのこの時点で、俺はもううるっときそうな思いだった。
だって、龍也くんも、マコトくんも、互いを思う友情が素晴らしすぎる。
龍也くんのこわもてにもめげずに、彼と友情を築き上げてきたマコトくんとやらも、きっと男気に溢れた、いいやつなんだろうなと思い尋ねると、しかし彼は少し首を傾げた。
(……いや、いいやつとは思いますけど。男気……?)
「え? 違うの?」
俺の脳内では、すっかり武闘漫画ばりの、タイプの異なる筋骨隆々とした男たちが握手を交わすシーンが浮かんでいたのだが、そういう感じではないらしい。
龍也くんは少々困惑したように、どちらかといえば、内気で繊細ですねと答えた。
「……よく、龍也くんと友達になったね?」
(うす。そいつ、俺にちょっと借りがあって。それを、いっそ食い物で返してくれないかと持ち掛けたら、毎日弁当を持ってきてくれるようになったんす)
「…………ううん?」
どうしたことだろう。
麗しき友情の図が吹き飛んで、代わりに、気弱な委員長タイプの生徒からカツアゲして弁当を奪い取る龍也くんの図が浮かんできたぞ。
「……と、友達、なんだよね?」
(……たぶん?)
言葉少なに答える龍也くんからは、真意が読み取れない。
が、ちょうど「てしをや」の裏口についてしまったことも手伝い、俺は頭を振って、強引に思考を切り替えた。
なにせ神様の選んだ魂。
亡くなった経緯や話しぶりからしても、龍也くんがいいやつであることは間違いないし、少なくとも、飯をふるまおうとすることが、害意によるものであるはずがない。
「よし! やろう! それで、なにを作るんだ?」
なんといっても、久々の神様の依頼だ。
ドアノブに手をかけながら、張り切って俺が尋ねると、龍也くんはやはり低い声で答えた。
(玉子焼きを。……いつもそいつの弁当の中で、一番うまかったんで)
「ああ、思い出の一品ってことか。いいねえ。龍也くんも、料理が得意なんだ?」
(いや……)
しかしそこで、彼は消え入るような声で続ける。
(俺……料理、したことないっす)
「え!?」
俺は思わずぎょっと目をむいた。
これまでにない展開だ。
一瞬絶句してしまっていると、龍也くんは言い訳するように付け足した。
(すんません。でも、神様が、玉子焼きくらいなら初心者でもいけるんじゃないかって……。まずは自力でやってみて、だめそうなら哲史さんにやり方を教えてもらって、それで、振舞えばいいって)
「俺が教えんの!? ……あ、ああ、そう。そう、だな、うん」
神様め、なんという無茶ぶりを、と内心で思わないでもないが、考えてみれば、半年以上定食屋をやっているのに、玉子焼きひとつ作れないというのもアレな話だ。
俺はこっそりと尻ポケットの中のスマホ――に落としてあるレシピアプリを手で探りながら、鷹揚に龍也くんに頷いてみせた。
「そうか、じゃあ頑張ろうな。いざとなったら、俺がばっちり、作り方を教えてやるからさ」
大丈夫。
この前とうとう、このレシピアプリの有料会員に登録したばかりだ。
一番簡単で一番うまい玉子焼きの作り方が、ものの数秒で検索できるはずだ。
大人は、金の力を使って無双するのだ。
俺は、「うす」という龍也くんの返事を聞きながら、エプロンを身に着けはじめた。
***
結論から言おう。
金の力は、圧倒的無知と経験不足の前に早々に膝を突き、俺たちは満足水準の品を作り上げるのに、二時間近くの時間を要した。
「長かった……!」
俺は、ちょこんとまな板に鎮座する出汁巻き玉子を横目に、がくりと流し台にもたれかかった。
広々としているはずの厨房には、殻が入ったままのボウルが重ねられ、ところどころ、片栗粉やら牛乳やらべったりとした黄色い卵液やらが飛び散っている。
惨憺たる、と称して差し支えない厨房。
それが、俺たちの努力の軌跡だった。
厨房に入って、真っ先に龍也くんが悩みはじめたのが、材料はなにかということ。
卵を使うというのはわかる。
だが、何個? 調味料は?
甘みがあるからには砂糖を入れるのだろうが、ではどのくらい?
ここらへんの懊悩ぶりは、同じく料理下手の俺には、よくわかる。
そこで俺は、すかさずレシピアプリの使用を提案した。
俺もやり方がわからないと思われるのは気まずいので、あくまで、「参考に見たければ、自由に俺のスマホをいじっていいよ」という態で、だ。
しかしすると龍也くんは、「玉子焼き」と「出汁巻き玉子」の違いに翻弄されることとなった。
特に深く考えるまでもなく、「玉子焼き」だと思っていた彼は、一生懸命玉子焼きのレシピを検索していたが、それだとどうも、単に甘い卵料理に仕上がりそうな気配がするというのだ。
甘いだけではなかったのかと尋ねると、龍也くんはちょっと考えたのち、
(……しっかり甘いんすけど、こう……じゅわっと、しょっぱい? 感じもするんす)
そんな曖昧な答えを寄越した。
彼が口にしてきた弁当は、いつもその友人が持ってきたものだったので、作り方が見当もつかないのだという。
おかげで、もしやそれは「玉子焼き」ではなく、出汁の入った「出汁巻き玉子」なのではないかという仮説に行き当たるまで、俺たちは三十分の時間を費やすこととなった。
そして照準を「出汁巻き玉子」に絞ってからも、困難は続く。
アプリ内のレシピは掲載数が多すぎて、どれを信じればよいかがわからなかったのだ。
一番人気のレシピは弱火でじっくり焼けとあり、念のため調べた二番目のものでは強火で一気に、とある。マヨネーズを入れろというもの、水を加えろというもの、いや片栗粉だ、牛乳だ、いやいやバターだ、と、出汁巻き玉子をふんわりと仕上げるコツにも諸説あって、俺たちは完全に、集合知に翻弄される哀れな情報弱者となりつつあった。
結局しびれを切らした龍也くんは、やがて無言でスマホを置くと、
(……ひとまず、やってみます)
と、なにか覚悟を決めた面持ちで、卵を手に取ったのであった。
だが、勇ましく調理を始めた龍也くんの、不器用なこと、不器用なこと。
卵を割ろうとしたらもれなく殻ごと粉砕し、かき混ぜようとしたら卵液を跳ね飛ばす。
塩をボウルに振り入れるつもりで瓶ごと突っ込み、フライパンに油を少量敷くつもりで大量に注ぎ込み。
それでも無理やり、
(やってみます)
の一言のもと、調理を進めた結果、数十分後には、調理場一面の地獄絵図が完成していたと、そういうわけであった。
「よ、よし、龍也くん。君はよく頑張った。バトンタッチしよう!」
自力での調理を試みる龍也くんを見守っていた俺だが――そしてまた、下手に手を出して事態を悪化させるのを恐れていた俺だが――、これ以上状況が悪くなることもあるまいと判断し、いよいよ助力を申し出る。
すると龍也くんは申し訳なさそうに、体の主導権を俺に引き渡した。
そうして、俺は偉そうに心技体のご高説を垂れ、まあ途中で玉子焼き用のフライパンを買いに行くというハプニングはあったものの、そこからの猛練習を経て、なんとか見目も美しい、出汁巻き玉子を完成させるに至ったというわけである。
「やっぱ出汁巻きって言うだけあって、出汁はたっぷり入れて正解だったな……」
(うす。あいつの弁当のまんまの見栄えっす。さすがっす)
最初は砂糖の分量すら想像のつかなかった俺たちだが、「しっかり甘い」という龍也くんの証言を信じて思い切りよく砂糖を加え、バランスを取るために塩もきちんと加えてみた。
出汁については、風味を増す程度しか入れないつもりだったのが、手元が狂い、ざばっと入ってしまったのを、龍也くんの手前「これでいいんだ」とごまかしたのだ。
卵液が水っぽくなったぶん、巻くのは大変だったが、箸で押さえただけでじゅわっと出汁が染み出るような、ふわふわの食感に仕上がったと思う。
料亭で出てくるような出汁巻き玉子は、巻き簾で締めるのが一般的のようだが、龍也くんが目指しているのはお弁当に入っている一品なわけなので、そこは割愛だ。
「よ、よし。味見してみよう」
(うす)
ここに至るまでの失敗作ですでに腹いっぱいだが、やはり人様に出す以上、事前に確かめずにはおけない。
それに俺の勘では、今度こそ、うまい出汁巻き玉子に仕上がっているはずだった。
いまだ湯気を立てている薄黄色の塊に、そっと包丁の先を食い込ませる。
すっと切れ目を入れたとたん、わずかにとろみを残した断面が現れた。
ここまでは、上出来だ。
一口サイズに切った熱々のそれを、恐る恐る口に運び――
「……んん!」
俺はかっと目を見開いた。
「ふまい!」
はふはふ言ってしまったのは、玉子が予想以上に熱かったからである。
ちん、と歯が焼けそうな熱を経た後には、口いっぱいに広がる出汁の風味。
焦げた玉子特有のもそもそ感などかけらもなく、半熟ならではの、ただ絹のように滑らかな感触が、そっと舌に伝わってくる。
じゅわ、と出汁がこぼれ出るのとともに、三温糖のこっくりとした甘みが口内に満ちて、至福だ。
俺が静かにガッツポーズを固めていると、脳裏でしみじみと龍也くんが感動の声を上げた。
(すげ……。まんま、これだ)
どうやら、彼が弁当で日々食してきた出汁巻き玉子と、無事同じような味に仕上がったらしい。
(そうっす。こう、甘くて、でもちょっとしょっぱいっつーか、菓子っぽくない、深みのある甘さで……)
「出汁と、あとは三温糖がよかったのかね。白砂糖よりもコクが出るんだ」
志穂から聞きかじったばかりの知識を披露すると、龍也くんは敬意が溢れるしぐさで頷いた。
(哲史さん……すげえ)
なんていい子なんだろうか。
熱々の出汁巻き玉子と温かな龍也くんの反応で、心身ともにすっかり元気の出た俺は、「へへっ」と鼻を擦り、それから腕まくりをした。
これで出汁巻きの練習は完璧だ。
あとは、白飯に味噌汁の準備でも、と、片手鍋を取り出したその瞬間。
「――……あの」
玄関がからりと開き、とうとう龍也くんの待ち人がやってきた。
「いらっしゃいませ。暗いですけど、営業中なんで、どうぞ奥に――」
すっかり定型句となりつつある挨拶を口にしかけて、しかし俺は思わず言葉を途切れさせてしまう。
なぜならば。
「あ……やってるんですね、よかった……」
おずおずと店内に踏み入る、革靴に包まれた小さな足。
濃紺のハイソックスに、カッターシャツとチェックのスカート、リボンタイ。
「ちょっと持ち合わせが少ないんですけど……軽くでいいので、食べられますか?」
小さめの声で、そう問うてきたのは、筋骨隆々のライバルキャラでも、ガリガリ眼鏡の文系男子でもなく、――小動物のような黒目が印象的な、女子高生だったのだから。