5皿目 てしをや名物・唐揚げ(後)
やってきたその人物を認めて、俺はつい目を見開いた。
いまだ真新しいスーツを身にまとった、爽やかそうな青年。
「すみません。今日、やってますよね?」
「敦志くん……」
いや、彼だけではない。
遠慮がちに玄関を覗き込む敦志くんの後ろには、更に見知った人物たちが佇んでいた。
仕立てのよい外国製のコートをまとった、端整な面差しの男性。
少しだけふっくらとしたお腹をさすっている女の子。
猫のような勝気な瞳が特徴的な女性。
玉城シェフに、麻里花ちゃん。そして、薔子さんだった。
「な……なんでまた、皆さん、お揃いで……」
この四人は、ひょっとして知り合いだったのだろうか。
目を白黒させる俺に、玉城シェフが代表するかのようにひょいと肩を竦めた。
「ちょっと気になって、様子を見に来たんだけど。そうしたら、同じことを考えてたらしい先客が、三人もいて。閉店の札が下がってるけど、明りは点いてるし、声も聞こえるようだから、入っていいものかなあと話し合ってたんだ。それで――ちょっとだけだから、お邪魔して大丈夫かな?」
「あ、はい! どうぞ! 寒いのにすみません!」
促されて、はっと我に返る。
俺が慌てて答えると、四人は「じゃ、失礼」とか「はあ、寒かったあ」とか、口々に言いながら店に入って来る。
なんとなく連帯感が生まれたらしい彼らは、そのままの流れで、ごく自然に、並びのカウンターに腰を下ろした。
人懐っこい麻里花ちゃんなんか、玉城シェフに「あの、もしかして、テレビの……!?」などと話しかけ、シェフも愛想よく応じたりしたものだから、一同ですっかり盛り上がってしまっている。
志穂が温かいお絞りを配ると、皆一様に、それに手を埋め、ほっと表情を緩めた。
ややあって、一番に切り出したのは薔子さんだった。
「それにしても……本当に、災難だったわね。あれからついつい追っかけちゃったけど、犯人、収まりそうになるたびになにか呟いて、せっせと拡散に励んでるみたいじゃないの」
「…………はい」
他の三人の前で、その話を持ち出したものかと、俺は一瞬ためらったが、結局頷いた。
敦志くんも、シェフも、麻里花ちゃんも、真剣な表情でこちらを見ている。
彼らは皆、例の事件を知っているのだ。それどころか、それを気にして――恐らくは、俺たちのことを心配して、ここに来てくれている。それがわかったからだった。
「ご心配をお掛けしてすみません。でも、あの……あのツイート画像みたいなことは、うちでは絶対に起こってなくて――」
「もちろん、わかってるよ」
言い訳に聞こえないだろうかと、少し緊張しながら伝えると、玉城シェフがその迷いを振り払うように力強く頷いた。
「客なら、誰だってわかってる。この店は、あんなことを起こす店じゃない」
「玉城シェフ……」
そのきっぱりとした物言いに、つい胸がじんと熱くなる。
誰かに全力で信じられ、励まされるというのは、こんなにも心強いものだったのだろうか。
畳みかけるように、麻里花ちゃんや敦志くんも口を開いた。
「そうですよお。だってこのお店、姑がいびる隙もないくらい、ぴっかぴかでしょ。それでどうして、あんなこれ見よがしにゴキブリの脚なんかって、誰だって思いますよ。あたし、自演だなって一秒で確信したもんね」
「僕も気になって、画像を拡大してみたんですけど、よく見ると、あの周辺だけほんのちょっとキャベツの色が違ってるんですよ。あれ、合成か加工かしたんじゃないかなって思って」
次々になされる援護射撃に、絶句してしまう。
だって彼らは、友人でも家族でもない、ただのお客さんで。
近くに勤める敦志くんはともかく、他の三人は、まだ一回しか、この店に来たことがなかったというのに。
それなのに、こんなに親身になってもらえるだなんて、そんなことってあるのだろうか。
なにも言えないでいると、カウンターに身を乗り出しかけていた若い二人はちょっと姿勢を戻し、照れたような表情を浮かべた。
「あは……なんか、すんません、勝手に熱くなっちゃって。ていうか、お兄さん、あたしのこと覚えてます? あの、豚汁の」
「もちろんですよ」
「えへへ。やっぱ覚えててくれた? やー、なんか、あたし、あの日すっごいいろいろ楽になって。一回しか来てないくせに、気持ちだけはすっかりもー、常連みたく思えてきちゃって。たまたまあのツイート見たら、いても立ってもいられなくなっちゃったんすよ」
麻里花ちゃんがそう言えば、敦志くんも頷く。
「俺も一緒です。初めて来たときから、いい店だなって思ってて。それがこんな目に遭ってるって知ったら、なんかそわそわしちゃって。今日は僭越ながら、エールを送りにきました」
玉城シェフも、薔子さんも、横で小さく頷いている。
たったそれだけの仕草だったが、二人もまた、麻里花ちゃんや敦志くんと同じ気持ちでいてくれるのだと、それでわかった。
「あ…………」
声が、震えかける。
喉に張り付いた言葉を押し出そうとすると、うっかり、上ずった奇妙な声が出そうになった。
今日の俺はどうかしている。
たったこれだけのことで、目頭が熱くなり、こんな事態、あと百回だって乗り越えられるという気がしてきてしまった。
「ありがとう、ございます……」
流しに手を突いて、深々と頭を下げると、横の志穂が慌てたようにそれに倣う。
妹にとっては見知らぬ客がほとんどのはずだったが、それでも、てしをやの客から励まされて、相当ぐっと来ているようだった。「ありがとうございます」と呟くその声が、堪えようもなく震えている。
(……いいお客さんたちじゃないの)
(ありがたいなあ)
黙って見守っていた両親が、しみじみと言う。
親父はぽつんと、
(哲史。おまえ、頑張ったな)
そう言って寄越した。
親父に褒められたのは、もう随分と久しぶりのことだった。
咄嗟に、返答に悩む。
だって、今ここに座っている彼らを、こんなにもこの店に引きつけたのは、きっと神様の力だ。
神様が彼らを「てしをや」に導き、未練を残していた魂たちと、その温かい料理が彼らの心を解した。俺はただ、体を貸して、そこに立ち会っていただけ。
小さく首を振ると、親父はわずかに笑ったようだった。
(なあに謙遜してんだよ。どのお客さんの時も、おまえが頑張って料理して、励ましたんじゃないか。はったりきかせて、一説ぶったりしちゃってさ。……おまえが、このお客さんたちの心を掴んだんだろ)
父さん、見てたぞ。
そう穏やかな声で付け足され、俺は慌てて唇を噛み締めた。
なんなんだ、今日は。
なぜかやたら、いろんなことが、涙線を刺激してくる。
「あの」
隣では志穂が、同様に母さんに励まされ、ぐっとカウンターに身を乗り出していた。
「よかったら……ご飯、食べていきませんか」
「え?」
その言葉に、四人ともがきょとんとする。
ついで、彼らはちらりと互いを見やると、おずおずと声を上げてきた。
「……いいのかな? 閉店の札、掛かってたみたいだけど」
「でも、ほんとのことを言うと、さっきから、にんにくっぽいいい匂いが、すごーく気になってたんすけどお……」
「もちろんです」
遠慮がちに、けれど腹を空かせていることを匂わせてくる麻里花ちゃんたちに、志穂が素早く頷く。
「この通り、お客さんが全然来てくれなかったもんだから、閉店の札は掛けてしまってたんですけど。ちょっと自分たちに喝を入れようってことで、さっきからガンガン唐揚げを揚げまくってたんです」
(いいわよ、志穂! 強引な説明でこのまま押し切っちゃおう!)
妹の中では、母さんがうきうきと声を上げている。
どうやら、希望通りお客さん――俺たちの大切な「友人」に料理を振る舞えることが、嬉しくてならないようだった。
「あの……今回のこと、私たち、結構落ち込んでて。だから、皆さんが今こうして来てくれて、本当に、すごく嬉しいんです。唐揚げ定食なら、お代は結構ですから、よかったら、食べていきませんか? その……お礼の気持ちということで」
志穂のやつが本気で上目遣いなんかをすると、なかなかの威力だ。
俺の見立てでは、真っ先に敦志くんが陥落し、
「そんな大層なことじゃ……。でも、ちょうど用意されてるんだったら、……頂いちゃおうかなあ、なんて。腹も減ってたし……。あっ、もちろんお金は払いますよ!」
わたわたと、忙しく答えた。
すると、それを見ていた他の三人も、
「……唐揚げにビール。いいよねえ。単品でもいいのかな?」
「うああ。今、この前の反動で、やたら脂っこいものが食べたいんですよお。唐揚げとか、超食べたい……!」
「……まあ、お金を落としていくのが、客として一番の応援よね」
口々に、賛成の姿勢を見せる。
志穂は、ぱっと顔を輝かせた。
「かしこまりました! それじゃ、唐揚げ定食三つと、単品お一つですね」
それと、ビールも。
麻里花ちゃんを除く三人が、声を揃えて告げた。
***
一度低温で揚げて休ませておいたもも肉を、今度は高温の油に放り込んでいく。
ピチピチ、カラカラ――
先程よりも高い油の音が、なんだか陽気だ。
薄い狐色だった衣が、表面からじゅわりと肉の脂を滴らせ、きらきらと照明を跳ね返しながら、次第にこんがりと色合いを深めていく。
親父を中に収めた俺が、鍋の上でさっと油を切りだしたのと同時に、母さんの収まった志穂が皿を差し出してくれた。
白くて厚みのある皿には、しゃきしゃきに切ったキャベツの千切りと、真っ赤なミニトマト。
大ぶりに串切りにしたレモンを添えたそこに、揚げたての唐揚げをこれでもかと乗せれば、てしをや名物、鶏の唐揚げの完成だ。
そこに、ほかほかの飯と具だくさんの味噌汁、そして漬物と煮ものの小鉢を加えて、カウンターに並べていく。
まだふんわりと湯気を立てている唐揚げに、四人がわあっと表情を輝かせた。
揚げ物は基本的に塩で食べるという敦志くんには、塩の瓶と、レモンをもう一つ追加で。
結構な辛好みだというシェフには、七味唐辛子を差し出す。
どこまでもガッツリしたものを食べたいと叫びだした麻里花ちゃんには、チキン南蛮用のタルタルソースを添えて、逆にちょっと脂っこさを気にしていそうだった薔子さんには、大根おろしと大葉、ポン酢をセットにして提供した。
(大根おろしは、妊婦さん――麻里花ちゃんだっけ。そっちの子が頼むかと思ったんだけどなあ。逆だったか)
親父は当てを外したことに、ちょっとだけ悔しそうな素振りを見せたが、そういったことまで配慮しているあたりが、さすがだなと思う。
四人は皆、自分好みの料理が出てきたことに相好を崩しながら、一斉に「いただきます」と唱えて、真っ先に唐揚げを頬張った。
猫舌気味なのか、はふ、はふ、と口の中で肉を転がして、熱を逃しているのは敦志くん。
じゅわっと溢れる肉の脂を、「んん」と口を引き結んで閉じ込めているのは玉城シェフ。
麻里花ちゃんは、サクサクの衣がずっしりとしたタルタルソースを吸っていく過程を楽しみ、薔子さんは、ひんやりとした大根おろしと、熱々の肉の感触のギャップを、目を閉じて味わっていた。
かりっとした衣と、柔らかくほどける肉の感触。
にんにくのがつんとした風味と、醤油の香ばしい香り。
火傷しそうな肉汁、そこに閉じ込められた脂のうまみ。
今、彼らの口の中では、それらが一斉に広がっているのだろう。
もう少しだけレモンを絞って、あるいはきんきんに冷えたビールをぐいっと飲んで――。
皆、思い思いの方法で、自分だけの唐揚げを堪能している。
これまでだったら、俺もすっかり腹を空かして、「味見」と称して、彼らと一緒に唐揚げに手を伸ばしていただろう。
だが、今回ばかりは、不思議とそうしたいとは思わなかった。
だって、俺は既に、何度も何度も、この唐揚げを味わってきたから。
それに、彼らが無心に、にこにこしながら唐揚げを頬張るこの光景を見て――すっかり、こちらの腹も心も、満たされてしまったようだったから。
好きだな、と思った。
この光景が、すごく好きだ。
ほかほかの料理で、お客さんを胃の底からあっためて。
みんな、うまい、うまいと、にこにこしてくれている。
ぼうっと見つめてしまっていると、ふと体が傾いだ。
いや違う、親父が、俺の体でお辞儀をしているのだ。
(……ありがとうございます)
横で志穂――いや、母さんも、小さく俯いている。
両親は、こっそりと、客に向かって礼を述べていた。
(ありがとうございます。こんなに美味しそうに食べてくれて。これからも、てしをやを……うちの子たちを、よろしくお願いします)
どうか、よろしく。
その声には、今までに聞いたことのないような切実な祈りが込められていて、俺は性懲りもなく、目頭を熱くしてしまった。
見れば、志穂のやつも、俯いたまますっかり目を潤ませている。
(――わかったよ、親父。母さん)
よく、わかった。
二人が、どれだけこの店を愛していたか。
どれだけ、俺たちのことを気にしていたか。
(任せろよ)
てしをやも、志穂のことも。
俺が密かに拳を握ると、中にいる親父はそのことに気付いたようだった。
俺の手を動かし、握った拳同士をごつんとぶつける。
どちらも自分の手で、奇妙な感覚だったが、それは紛れもなく、男同士の約束だった。
「ああ、おいしいなあ」
「いいなー、あたしもビール飲みたかったあ!」
「ダメですよ、妊婦さん」
程よく酒も回り、すっかり打ち解けた様子の四人が、やがて会話を始める。
自己紹介から始まり、料理の感想や、この店に来たきっかけ。
話はあちこちに広がったが、巡り巡って、今回の事件のことに戻ってきた。
その頃には、志穂もすっかり四人と馴染んで、ところどころで相槌を打ちはじめる。
そして、玉城シェフの穏やかな、そして薔子さんのきびきびとした進行に気付けば乗せられ、俺たちは今回の経緯を、洗いざらい白状してしまっていた。
「なにそれ、完璧逆恨みじゃない。思い詰めたオタクどもの方が、よっぽど礼節を守ってるわよ」
「断定できないとはいえ、もし犯人が本当にその男なら……料理人としては、許せないよね」
大人二人組は、苦々しい口調で眉を寄せる。俺より年下の麻里花ちゃんや敦志くんは、もっとぷりぷりと怒りを露わにしていた。
「やーっぱ、そんなことだろうと思った。うわサイテー。なんなのそのクズ」
「普通に犯罪だと思いますよ、それ」
訴えたっていい、と語気を荒げる敦志くんに、志穂が小さく笑みを浮かべた。
「ほんと、そうですよね。でも……なんかもう、いいんです」
「志穂?」
妙にさっぱりとした口調で語る妹に、俺は首を傾げる。
すると志穂は、口許に笑みを残したまま、きっぱりと言い切った。
「皆さんが、あんまりにそうやって怒ってくれるので、なんだかすっきりしちゃいました」
そこに、なんの虚勢の色もないことは、明らかだった。
いつの間にか、姿勢がしゃんと伸びている。黒目がちの瞳は生き生きと輝き、勝気そうな表情が戻っている。
すっかり、以前の志穂だった。
「だって、やってないものは、やってないし。信じてくれるお客さんは、ありがたいことにちゃんといるし。泥仕合を始めるんじゃなくて、そういうお客さんに、きちんとした料理を出して応えることが私たちの仕事だなって、思えたので」
少しだけ照れくさそうに言う妹の、その言葉も、きっとこの光景が紡がせたものなのだろう。
親父も母さんも、なにも言わないが、静かに微笑んでいるのがわかる。
ただ、調子を取り戻したあまり、つい口汚い本性までもさらけ出して、
「うん、おかげで元気が出ました。もし今度そいつが店に来ることがあったら、正面きって、『このクソ野郎!』って罵ってやりますよ」
にこっと笑って言い放ったので、四人は一斉に表情を固まらせた。
「そ……そっちのほうが、泥仕合なんじゃ……」
「なんという追加燃料の投下を……」
「大草原通り越して乙としか……」
玉城シェフが強張った笑顔のまま呟けば、敦志くんや薔子さんも唇の端を引き攣らせる。
「あっ! すみません、私ったら、食事中に汚い言葉を……」
志穂が斜め上の方向に謝罪するのをよそに、敦志くんと薔子さんはふと顔を上げ、まじまじと互いを見やった。
「大草原……。もしかして、結構ネットとかやったりします?」
「……まあ、前の職場がちょっとアレだったし、最近まで暇だったし。……いわゆる鬼女、といいますか」
「まじですか。俺も、一時期ちょっと引き籠ってたんで、割と……」
微妙にぼかしながらの会話だが、彼らはそれだけで、諸々を通じあったらしい。
二人はなにかを考え込むような表情になると、再び視線を交わし、頷き合った。
「あの」
やがて、敦志くんが切り出す。
「百パーセントうまくいくとも限らないですけど……今回の件、ちょっと、俺たちにも手伝わせてもらえませんか?」
「え?」
「今の時点で充分炎上――悪い噂になっちゃってますけど、そいつのツイートを見てる限りじゃ、この先もなにか仕掛けるつもりかもしれないですし。お店としては、大人の対応を取ろうとしても、相手がそれをさせないかもしれない」
真っ直ぐにこちらを見つめてくる敦志くんに、薔子さんが付け足した。
「少なくとも裏目には出ないよう、手を打つから。ちょっと私たちに、任せてくれないかしら」
「え?」
突然の展開に、頭が付いていかない。
戸惑って「え」「え」とばかり声を上げる俺たち兄妹をよそに、何事かを察したらしい玉城シェフや麻里花ちゃんまでもが、「いいね」と身を乗り出してきた。
「僕も、力になれることがあったら協力するよ」
「あたしの旦那、弁護士の知り合いとかいっぱいいるから、仮に失敗して派手に炎上させても大丈夫っすよ」
目をきらきらさせて、子どものように無邪気に語るが、その内容は全然穏やかじゃない。
「え……? ええと……?」
はたしてこれは、スタミナたっぷりの唐揚げのせいなのか、ビールのせいなのか、はたまた神様の計らいなのか。
すっかりやる気を出し、意気投合したらしい四人は大いに盛り上がり、その場で連絡先の交換まで始めてしまった。
そうして、思うさま唐揚げを食らい、ビールを流し込み、なにやら楽しげにあれこれと打合せを重ね。
「それじゃ、また連絡しますね!」
「ごちそうさまでした」
最後には、なぜか玉城シェフが皆にご馳走するという形で会計を済ませ、四人はうきうきとした様子で、店を後にした。
「――……よ、よかったのかな」
「……まあ……これも厚意だし、ありがたく受け取っておけば、いいんじゃねえか」
急に静かになった店内に、俺たち兄妹の呆然とした呟きが響く。
脳裏では、両親もちょっと気圧されたように、
(哲史、おまえ……)
(すごいお客さんを捕まえたのねえ……)
と溜息をついていた。すごい、という単語に込められた感情については、詮索すまい。
やがて、きれいに空になった皿を見ながら、母さんがふと笑みをこぼす気配がした。
(本当に、言うことなしだわ)
「……母さん?」
妙に静かな口調が気になり、母さんが収まっている妹の方に視線を向ける。
すると志穂も、ちょっと不安そうな表情を浮かべて、こちらを見返してきた。
それで俺たちは悟る。
もう、時間が、迫ってきてしまったのだ。
「お母さん――」
(ありがとね、志穂。あんたたちの大切なお客さんを、この目で見られて、料理も作らせてもらって、お母さん、大満足よ)
有無を言わせない、口調。
親父も俺の中で、「うん」と頷いた。
(安心したよ。店も、おまえたちも、大丈夫だな)
「親父……」
思わず呼び掛けて、口ごもる。
だって、なんと言えばいい。
そんなことはない、二人がいなきゃ、俺たちはやっていけないとでも?
行かないで、とでも?
(だめだろ、そんなの……)
さっき、俺は親父と拳をぶつけたばかりだ。
任せろと。
この先どんなことがあったって、「てしをや」と志穂のことは任せてくれと、俺はそう言わなくてはならないのだ。
「――……やだ」
だが、甘えん坊で、時に素直すぎる志穂のやつは、目を潤ませていやいやと首を振る。
せっかく先ほどまでで取り戻した、勝気な表情もなにもかなぐり捨てて、情けなく眉を下げた。
「やだよ。お父さん、お母さん。まだ行かないで」
ぼろっと涙をこぼし、顔を真っ赤にして。
意地を張るしかない俺の分まで、みっともない本音を、ひっくひっくと喉を詰まらせながら漏らす。
「せっかく……せっかく、会えたのに……っ。まだ、いてよ。もう少し一緒にいてよ! そんな、何度も……っ、置いてかないでよ!」
一目逢えたら、という願いのはずだった。
ちょっとでいいから逢って、一言でも声が聞ければと。
なのに、それが叶うと、俺たちはどんどん欲張りになってしまう。
それじゃあさすがに約束が違う。神様だって面倒を見きれまい。
わかっているのに、――それでも願わずにはいられない。
(……ごめんなあ、志穂)
ぐすぐす鼻をすする志穂の頭を、親父が俺の腕を持ち上げて、ぽんぽんと撫でた。
志穂の腕が、ぎゅっと自身を抱きしめる。
(ごめんね。あんたたちのこと、突然置いていっちゃって……ごめんね)
その声が震えているのを聞き、ああ、母さんが志穂を抱きしめているのだと、わかった。
(でも、……大丈夫だから。こんなの、勝手な言い草だと思うけど、あんたたちは、大丈夫だって、私たち、わかったからさ)
「大丈夫じゃない……っ。全然、大丈夫じゃないよ……!」
(大丈夫)
幼い子どもに言い含めるように、母さんが何度も繰り返す。
(志穂。あんた、うまいこと、ちゃあんと、この店を切り盛りできてるじゃない。お母さん、ちょっとびっくりしたわよ。変な客がいても、一緒に怒ってくれるお客さんに恵まれて。百点満点よ)
「…………っ、そん、な」
きっとそれは、志穂が心の底から欲しかった言葉のはずだった。
けれど今、それをぽんと寄越されて、やつは途方に暮れたような顔をした。
(ほら、そんな顔しないの。大丈夫よ。あんたには、頼りになるお兄ちゃんもいるでしょう?)
「頼りになる……お兄ちゃんなんて、いたことない……」
(こら。泣きながら生意気なこと言わない)
母さんがちょっと笑う。
それから、無理矢理志穂の顔を上げさせて、今度は俺に向き直った。
(哲史。志穂と、お店のこと、よろしくね)
「…………おう」
鼻の先がつんとする。それ以上長い言葉を話そうものなら、声が震えてしまいそうだった。
現に、唇の端はちょっと震えてしまったが、それに気付いたはずの親父は、なにも言わなかった。
俺は黙って、両の拳を握りしめた。
(ああ、寂しいなあ。でも、よかった。本当に、いい夜だった)
そうして、母さんは細めた目でぐるりと店内を見渡して。
(お疲れ様、哲史、志穂。ありがとな)
親父は満足げに、天井に向かって溜息をついて。
大丈夫だから。
よろしく頼むな。
最後にそう言い残し、――すうっと、体中から波を引かせるようにして、消えていった。
***
がろん、がろん。
澄みきった冬の青空の下、重い鈴の音が響く。
俺と志穂は同時に下から手を離すと、二礼二拍手をして、御堂に向かって深々と頭を下げた。
「神様ー。今日は昼に来てみましたよー。お酒もたんまり持ってきました。でも昼だと神職さんがいるんですね。ぜーんぶ預けちゃいましたよ。後で飲んでくださいねー」
「……神様。うちの兄が本当にいろいろ失礼で、本当に申し訳ありません。先日はありがとうございました」
昼だというのに、境内には俺たち以外に誰もいない。たまたま鳥居の近くを履き掃除していた神職さんも、預けた酒を持って早々にどこかに消えてしまい、そんなわけで、俺たちは憚りなく、声を出して神様に話しかける。
返事は、なかった。
「神様ー」
いつもの癖で、続けざまに鈴を揺すろうとすると、志穂にぱっと腕を押さえられる。
「お兄ちゃん。居留守の住人を叩き起こす取り立て屋じゃないんだからさ」
俺よりもよほど信心深い妹に窘められ、俺は、
「だって、せっかく報告に来たのにさ」
と大人げなく唇を尖らせた。
両親の魂と再会し、四人の常連客を店に迎えてから、一週間足らず。
あれだけ俺たちを苦しめた事件は、あっけなく収束を迎えていた。
あることないことを書き連ね、まとめサイトまで作ってさんざん「てしをや」を罵っていたそのアカウントが、ある日突然、逆炎上を起こしたのだ。
きっかけは、ゴキブリの脚だというその画像が、どうも不自然だという一つのコメント。
すると、なぜかそれが元のツイートを上回る勢いで拡散され、たまたまテレビで著名人が、異物混入の自演事件についてコメントしたタイミングだったこともあり、かなり世間の注目を集めることになってしまった。
結果、「ゴキブリツイートは自作自演」というように一気に風向きが変わり、そのアカウントは、激しい非難に晒されることになったのである。
その間、メッセージアプリのグループでは、「シェフ、やりすぎなんですけど!」とか、「大丈夫。主婦は基本イケメンに甘いから」とか、「絶望しながら調整しました」とか、慌ただしくメッセージが飛び交っていたが、詳しい経緯を俺たちは知らされていない。
ただ、敦志くんや薔子さんが中心となって、「調整」をしてくれたのだということはわかった。
「これも、神様の言うとおりってことかなあ……」
ふと、以前神様が言っていたことを思い出してしまい、つい呟きが漏れる。
横で志穂が、ちらりと視線を向けてきたが、俺は小さく肩を竦めて、それをやり過ごした。
願いには、願いを。呪いには、呪いを。
過剰に悪意を煽ったケンジは、巡り巡って、自らも煽られた悪意に晒されることとなった。
世の中というのは、きっとそういうふうにできているのだ。
だとすれば、俺たちがすべきことというのは、ざまあみろと溜飲を下げることでも、逆に相手に対して妙に罪悪感を抱くことでもなく、こういったことがあっても店にやって来てくれるお客さんに対して、できうる最高の料理を、きちんと提供しつづけることだろう。
誠意には、誠意を。
「……出てきてくれないなあ」
しばらく待ってみても返事が無いので、俺たちはやがて鈴を見上げるのをやめて、一歩後ろに下がった。
あんまりに人気のない神社だから、神様も油断して、この時間は昼寝でもしているのかもしれない。
あるいは、もしかしたらもう、俺たちの前には現れてくれないのかもしれない。
そのどちらでも、俺は受け入れられる気がしたし、でも同時に、これからもこの神社には、酒を持って来てしまうかもしれないな、とも思った。
「もう、いいの?」
「うん。なんか、返事してくれないし。夜営業の仕込みもしなきゃだろ」
ちょっと拗ねながら答えると、志穂は小さく笑った。
「やる気満々じゃん。まじ、頼れるお兄ちゃんだわー」
「うっせ」
わざと渋面を作り、ポケットに手を突っ込んで踵を返す。
志穂は丁寧に一礼した後、小走りで追い掛けてきて、隣に並んだ。
「お兄ちゃん」
「んー?」
「頑張ろうね」
視線も合わせないで、まっすぐ前を向いてそう言う妹に、俺は短く「おう」と答える。
するとやつは、小さな小さな声で、
「……ありがとう」
そう囁いてきたので、俺はちょっと唇の端を持ち上げたまま、それにも「おう」と答えた。
石畳は昼なお冷えきって、歩く俺たちの体温を奪っていくが、朱色の鳥居をくぐり抜けたその先には、清々しい冬の青空が広がっている。
一度だけ振り返り、
「また来ます」
そう告げてから、敷居を踏み越えると。
――がろん。
風もないというのに、たいそう満腹気な鈴の音が、背後で響いた気がした。
以上で完結となります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。