1皿目 チキン南蛮(前)
前編は説明回、後編で回収、みたいな構成となります。
お付き合いいただけますと幸いです。
砂糖と醤油、そしてたっぷりの酢を加えた小鍋に、小口切りにした唐辛子を少々。
弱火に掛けてしばらくすると、茶色い液面の周辺がふつふつと泡立ってきて、辺りにきゅんと甘酸っぱい匂いが漂いはじめる。
そこに、横の中華鍋で揚げていた鶏もも肉を、軽く油を切って放り込む。
じゅわ、と小さな音が弾け、卵の衣に南蛮酢がしみ込んでいくのがわかった。
きつね色だった衣が、しっとりと酢を吸って、茶色の深みを増していく。
片側にだけ味がしみ込まないように引っくり返したら、今度は付け合わせのキャベツの準備だ。
数枚剥いたキャベツの間に、きれいに洗った大葉を挟み、そのまま千切りにしていく。
まるで打楽器を叩くかのような軽快なリズムで、木のまな板がたたたたん、と音を立てた。
(は……速え……! でもって、手際がパねえ……!)
黄緑と濃い緑、二種類の千切りが勢いよく量産されるのを目の当たりにしながら、俺はごくりと喉を鳴らした。
といっても、リズミカルに包丁を打ち鳴らしているのは俺の手だし、合間を縫って、手際よく南蛮酢から鶏もも肉を引き上げているのもまた、俺の手のわけだが。
(ふふん、「速い、安い、うまい」は、なにも牛丼屋の専売特許じゃないのよ。ほら、次はタルタルソース! ゆで卵潰したいんだけど、ボウルはどこ!?)
「あ、はい、すみません!」
呆然としていると、脳裏で勇ましくおばちゃんの声が響く。
俺はそれに慌てて小さく返事をよこし、いったん体の主導権を引き戻すと、ボウル、ボウル、と厨房の棚に手を伸ばした。
いきなり独り言を始めた俺に、カウンターの客が訝しげな視線を寄越すのを、へらっと笑ってごまかしたりしながら。
そう。
今、俺のこの体は、俺のものであり、おばちゃんのものである。
なんでまた、俺がおばちゃんと体をシェアしながら、料理なんかをしているか。
それを説明するには、時を一時間ほど遡る必要がある。
「ぶえっくしょい!」
しんしんと冷え渡る石畳の上を、その時の俺は、コートすら羽織らず、長袖のTシャツとジーンズという出で立ちで歩いていた。
足元には履き古したスニーカー。安物の靴底は薄く、足元から冷気をがんがんと伝えてくる。
「さみ……」
俺はずずっと鼻を啜ると、寒さを紛らわすために腕を組んだ。
深夜の、境内。
昼でさえ参拝客の少ない、地味でローカルなこの神社には、今、静かに立ち尽くす木々と俺しかいない。
はあ、と吐き出した吐息が白くなるのを、なんとなく目で追いながら、俺は恨みがましくぼそりと呟いた。
「くっそー……志穂のヤツ……。鬼。ドSめ。万年彼氏ナシ女め……」
竦めた肩に顎をうずめるようにして、ぼそぼそと愚痴る俺の姿は、きっと傍から見たらみじめ以外の何物でもない。わかっていても、俺は妹に悪態をつくのを止められなかった。
俺――高坂哲史には、四歳年下の妹がいる。
短大卒業を目前にしたこの妹、志穂は、見た目はそれなりに可愛い方なのだが、まあとにかく気が強く、気性の荒い、じゃじゃ馬なのだ。特に、兄を兄とも思わぬ態度なのが頂けない。
今こうして俺が神社なんかで頭を冷やそうとしているのも、十分前に、「この馬鹿!」とヤツにキャベツの玉を叩きつけられたからだった。
「あげく、『千切りもできないニートめ』だと? ニートじゃねえよ! 休職中だよこの野郎!」
つい叫んでしまい、それが意外に境内に響いちゃったりしたもんで、慌てて声を潜める。
ニートも休職中も、あまり声高らかに主張すべき属性ではないだろう。
「……んだよ。人の気も知らないで」
トーンダウンした独り言は、悪態というよりは、傷心の呟きに近い響きを帯びた。
俺が先日、二年勤めたそこそこ名の知れた会社のSEから、「休職中」だなんて身分にジョブチェンジしたのは、多くは志穂――というか、家業のためだった。
我が家は、ごくごく一般的なサラリーマン家庭だったのだが、五年程前に、なにを思ったか親父が一念発起。脱サラして定食屋を開いた。
昼は十種類くらいの定食を、夜はそれにプラスして惣菜をいくつかと、ビールやら地酒やらを提供する、まあどこにでもあるような店だ。
手塩にかけて育てた子どもに食べさせるような料理を、という想いを込めて名付けられたらしい定食屋「てしをや」は、冷ややかな俺の評価とは裏腹に、地元にしっかりと定着し、特に昼はなかなかの繁盛ぶりを見せるようになった。
駅から五分くらいのところにあるのだが、ちょうど最近、駅周辺に大企業のビルが誘致されたため、その社員たちが食堂代わりに愛用しているらしい。
妹は高校生の時から店の手伝いを始め、あげく調理師だか栄養士だかの資格を取ると言い張り短大に入学し、俺を除く三人は、和気あいあいと、「地元の人情派食堂」を地で行くような生活を続けていたのである。
そんな日常が崩れ去ったのは、二カ月前。
久々に休暇を取った両親が、そろって旅行に出かけ――そのバスを運転していた大馬鹿野郎が居眠りをしたせいで、親父もお袋も、永遠の眠りにつく羽目になったのだ。
いつも、いつまでもいると思っていた二人が、あっけなくこの世を去ったことに、俺は愕然とした。愕然としながら、葬式を終え、骨を焼き、四十九日を済ませた。
だが、大学入学時からずっと一人暮らしをしていた俺よりも、毎日親と一緒に暮らし、働いていた妹の方が、更にダメージは大きかった。
呼吸するように人を罵り、瞬きするように人を睨み付けてくる志穂が、しばらくの間、ずっと口を利かず、ただぼんやりと宙を眺めていたのである。
それは、マスコミが居眠り運転事故を知り、騒ぎ立て、やがて飽き、次の事件に食いつく頃になっても、ずっと続いていた。
「ねえ、お兄ちゃん」
志穂が久々に俺に呼びかけてきたのは、四十九日を済ませた夜のことだった。
「私、『てしをや』を継ぐから」
継ぎたい、でも、継いでもいいか、でもなく、継ぐ。
その言葉を聞いた瞬間、ヤツの中ですべての決心は、もう引き返せないところまで固まっていることを俺は理解した。
常識的に考えて、その時俺は止めるべきだったのだろう。
だって、二十になったばかりの小娘が、どうやって定食屋を切り盛りしていける?
社会にも出たことがなく、諸々の手続きだって知らないで。
定食屋と言うと「料理を出す」のが仕事のようだが、実際には「店の経営」がその本分だ。
仕入に会計、廃棄の圧縮、そういった「ビジネス」の側面を、本当にこの妹は理解しているのだろうかと、俺は咄嗟に言い返しかけた。
が。
「だから、助けてよ、お兄ちゃん……」
志穂が、その大きな目にいっぱい涙を溜めて、そんな風に言うものだから。
パーカーの袖から覗く手が、寒さや寂しさをこらえるように、一生懸命握りしめられていることに、気付いてしまったから。
昔から、強気な妹の、この手の涙にだけは逆らえなかった俺は、つい、
「――わかったよ」
と、そう頷いてしまったのだ。
神様。あんた、ただでさえ口が達者で強かな女という生き物に、なんでまたこんな、涙なんていう最終兵器を与えちまったんですかと――まあ、愚痴りたくもなる。
それからは、早かった。
俺は、それまでの残業百時間生活に終止符を打ち、ちょうど会社の人事部が打ち出し始めた「長期リフレッシュ休暇」なるものを取得した。なんでも、あまりにブラックすぎて労働局から刺されそうになったために、急遽作った制度らしい。
「どうせ誰も取得しないだろう」ということで――ひどい話だ――、大層大盤振る舞いの制度だったのだが、従順な羊のように社畜生活を送っていた俺が、ある日颯爽と休暇届を突き付けたことで、社内は一時騒然になったとか。
とにもかくにも、俺はこうして一年の休職期間をもぎ取り、突っ走る妹のフォローに回ることになった。
それが先週のこと。
「向こう見ずな妹のために、仕事を擲って家業を支える男とか……超アツいじゃねえかよ。平成の世になかなかない美談だぜ。俺って超いい兄貴」
誰も褒めてくれないので、ぼそぼそと自分を褒めてみる。
――この華麗なるジョブチェンジには、しかし二つの誤算があったのだ。
(……営業再開まではよかったんだよな。俺が必要な資格とか調べまくってさ、初期費用を出してやったりしてさ、志穂だって「お兄ちゃんすごい!」とか言ってて……)
一つは、「妹は俺が守る!」なーんて張り切って、店の切り盛りに身を乗り出したはいいものの、意外にも志穂の方が、商売のフローだとか取り回しに詳しく――なんてったって、ヤツには五年近くの経験がある――、経理番としての俺は、早々に用済みになってしまったこと。
そしてもう一つは。
(だいたいさ、男に包丁握らせんなってんだよ。こちとらマウスより重いものは、長らく握ってねえっつーんだよ)
俺が、料理がからきしダメで、調理補助の「ほ」の字もこなせないことだった。
いや、俺とて最初に「まったく料理できねえからな」と主張はしたのだ。
志穂だって、「そんなのお兄ちゃんに期待してないよ」と答えた。
だがしかし、定食屋下積み経験五年の志穂の「期待なしレベル」と、昼も夜もコンビニで食生活を賄ってきた俺の「期待なしレベル」の間には、マリアナ海溝よりも深い断裂があったのである。
だって考えてみてほしい。
「落し蓋」だなんて概念、いったい男の人生のどこに登場する機会があるだろうか。「みじん切り」のあるべき大きさなんて、誰も定量的に定義していなかったはずだ。
そんなわけで、俺は志穂に「そこの鍋に落し蓋しといて!」と言われて、ひとまず蓋を上空から落下させてみてはドン引きされ、玉ねぎのみじん切りを頼まれて、涙ぐみながら切り刻んだ結果を「木端微塵にしろとは言ってない!」とディスられ、といった具合に、失意の日々を送っていた。
あげく今日なんて、看板メニューのチキン南蛮定食に添えるキャベツの千切りを切らした、と志穂が大騒ぎしていたもんだから、よかれと思って、適当にちぎったキャベツの葉っぱを添えてやったところ。
「ふざけんてんの!?」
と、顔を真っ赤にした志穂に、昼間っから怒鳴られた。
ふざけるどころか、至極まじめである。
彩りやバランス的に、キャベツを添える必要性は理解していたから、添えた。まんま一枚じゃ食べにくかろうと思ったから、ちぎった。
そのどこに問題があるのか、逆に問い質したいところだ。
だがまあ、俺は大人であって、妹がきゃんきゃん吠えるのにいちいちキレても仕方ないので、そこはぐっと我慢の男の子だ。
ところが志穂のやつは、夜の部の閉店後になってもまだ、ぷりぷりと怒ったまんまで――どうやら、千切り事件以外にもいくつか地雷はあったようだが、ヤツは怒りんぼうなので特定はできない――、立ち仕事で疲弊しきった俺に向かって、キャベツの玉をずいと突き出してみせたのである。
「お兄ちゃん。改めて聞くけど、なんであの時、キャベツをまんま出したの?」
「いや、だから、――……悪かったって」
無いよりはあった方がいいと思ったから、とか、客を待たせるのもよくないと思ったから、とか、いろいろ事情は説明できたはずだが、俺は面倒になって適当に謝った。
別に妹に逆らえないわけではなく、そう、議論というコストを避ける、合理的な選択だ。
しかしその棒読みの謝罪に、志穂はますます眉を吊り上げた。
「ねえ、キャベツは確かに付け合わせにすぎないけど、添えればいいってもんじゃないんだよ? 他の盛り付けだってそうだよ。お兄ちゃんには、その日ある材料を適当に盛り付けただけにしか見えないかもしれないけど、違うんだからね! メニューも、付け合わせの内容も形も、盛り付け方やお皿の柄だって、全部全部、お父さんやお母さんが、悩み抜いて決めてきたものなの! これが、『てしをや』の定食なんだよ! わかってる!?」
親父とお袋が悩み抜いて決めてきたもの。「てしをや」の定食。
それが、ここ最近の志穂の口癖だ。
おそらく、志穂のやつも、自分を相当追い詰めてかかっているんだろう。それはわかっている。
でも、俺だって、疲れてもいたし、くさくさもしていた。
二十四歳。
そりゃ社会に出はしたけれど、世間を見回せばひよっ子の部類だ。
それがある日両親を失って、自分の意思とはいえ職を変え、モニターに向き合っていたのをまな板に向き合うようになり。慣れない立ち仕事で足はパンパン。
妹には、得意でない愛想笑いを日々強要され、罵られて。
「……別に、いいだろ」
まあ、そういった発言が出てしまっても、仕方なかったのではないかと、俺としては自分を擁護せざるをえない。
「は?」
「定食屋のさ、肉や魚ならまだしも、キャベツの切り方に誰が期待してるってんだよ。ちぎってありゃ、それで十分じゃねえか。ある日キャベツの千切りが一口サイズにリニューアルされたところで、誰も死にやしねえし、売上だって減らねえよ」
論理的に、どこにも問題のない主張のはずだ。
しかし、俺が油の飛んだスニーカーを睨み付けながら言い捨てた途端、志穂のやつは、
「――……この、馬鹿……!」
ポニーテールにした髪を振りかざしたかと思いきや、
「千切りもできないニートめ!」
キャベツの玉を、いっそ惚れ惚れするようなフォルムで投げつけてきたのだ。
「うお!」
「馬鹿兄貴! 食材を床に落とすな!」
「いや、おまえが投げんな!」
あげく、キャッチしそこねた俺を罵る暴虐ぶりだ。
「馬鹿! もうほんと馬鹿! お兄ちゃんなんて大っ嫌い! 千切りの仕方も料理屋の心も、なんなら女心もわからないままに、生涯を一人さびしく閉じてしまえこの馬鹿!」
「さりげなく彼女と別れたばっかなこと抉ってくんじゃねえよこの貧乳!」
「貧してない!」
まあ、そこからは、幼少時を彷彿とさせる兄妹喧嘩だ。
とはいえ、女という恐ろしい属性を持つ妹に、口で敵うはずもなく。
俺は「出掛ける!」と吐き捨てて、「てしをや」の厨房を後にし、――妹と住みはじめた実家に帰るのも、煌々と明るい中央通りに出るのも、なんとなく気が引けた結果、帰路の途中にあった神社に、ふらりと立ち寄ってみたと、そういうわけである。
「あー……ある日いきなり、料理が得意になったりしねえかなあ……」
両腕を組み、無人の御堂を眺めながら、俺はなんとはなしに呟いた。
志穂にはいろいろ言い返したが、まあ、根っこには「料理が苦手だ」とか「なるべくなら包丁に触りたくない」といった意識があったのは事実だ。
そして、そういった態度が、料理すなわち両親であると思い込んでいる妹の癇に障るのも、きっと事実なのだろう。
「ましなコードを書けるようになるだって二年掛かったのにさ、いきなり畑違いのスキルが身に付くかってんだよなあ」
言葉は、声に出すとともに、白い息になって消えていく。
なんとなく寂しくなって、俺は賽銭箱に紐を垂らしている真鍮の鈴を、ゆらゆらと揺すってみた。
がろん、がろん、と、低く眠そうな音が辺りに響く。
「神様ー、なんかうまい手はありませんかねえ」
とうとう神頼みだ。
賽銭もないのに、ねだるだけなのはアレかなと思い、ちょっぴり釈明もしてみることにする。
「俺だってね、レシピ教材とか読んでみたんですよ。でももう、材料が十個以上ある料理とか、材料欄見るだけで頭が痛くなってきて。だいたい、『適量』とか『少々』とかあるのを見ると、結局は勘の問題かよ、って突っ込みたくなりません? かといって、きっちり計ってると、妹にとろいってどやされるし……」
いかん、これではただの愚痴だ。
がろん、がろん。
俺は、なるべく建設的であろうと、神様に提案してみることにした。
「なんか、とにかく実践を求めてくるじゃないですか、料理って。やれ、勘とか、加減とか、経験とか。テキスト読んでもだめなんすよ。だからそういう……料理のコツみたいのを、体感的に学べる方法ってのは、ないもんですかねえ?」
体感的。
そう言いながら、俺はそうだよと膝を叩きたくなる思いだった。
これがプログラミングの世界なら、後輩がバグったとき、モニターの操作権限を乗っ取ってソースを書き替えてやれる。マニュアルなんかを読ませるよりも、実際に画面を変遷させて、操作を見せた方が、圧倒的に早くスキルが身に付くのだ。
どうして料理ではそうはいかないのか。
「こっちの業界にも、そういう親切なシステムがあったっていいじゃないですか。うん、いいと思うな。もっとこう、付きっきりで指導してくれる優しい先輩がいて、こっちがテンパった時には代わりに作業してくれて……」
できればその先輩は巨乳の美女で、でもって俺に気があって。
そこまで言いかけたが、残念ながら、その願望は、声になる前に喉の奥で消えた。
神様相手に不謹慎だと、自らを制したからではない。
――あい承知した。
不意に、鈴の向こう――神社の御堂の中から、うわんと不思議な響きを帯びた声が、聞こえたからである。
「……は?」
思わず、俺がそう呟いてしまったのは無理からぬことだろう。
しかし、「いったい……?」だとかの言葉を紡ぎおおせるよりも早く、
――カッ……!
「うわ!」
今度は、御堂から鋭い閃光が炸裂するではないか。俺は目を庇うように腕を上げたまま、どしんと尻餅をついた。
――そなたの願い、聞き入れよう。
男とも、女ともつかない声の持ち主は、淡々と続ける。
叫んでいるわけではないのに、体中を揺さぶってくるような、奇妙な声だった。
(ま、まさか……)
夜の神社。
無人のはずなのに響く声。突如光った御堂。
「神……様……?」
――いかにも。
口の端を引き攣らせながらの問いは、いとも平然と肯定された。
「う、嘘……」
地についた掌や尻に、冷えた石畳の感触が伝わる。どうやらこれは夢ではないようだが、それにしたって、こんなことってあるだろうか。
しかし、神様とやらは、戸惑う人の子の感情になど全く頓着なさりやがらず、ちゃきちゃきと話を進めた。
――料理を、体感的に、指導してもらいたいとな。
「へ……」
――憑きっきりが望ましいと。
「……待って、待ってください、なんか、漢字変換が不穏なことになってたりしませんか?」
――時には、体を乗っ取ってすらほしいとな。見上げた向上心だ。
「いや待って!? まま、待ってください!?」
俺は盛大にどもった。だって、明らかに不穏すぎる展開だろう。
慌てて立ち上がり、境内から逃げ去ろうとする。
しかし一歩踏み出すよりも早く、ふわっと目の前になにか白い靄のようなものが立ちふさがり、
「うわあ!?」
それは見る間に人型をまとったかと思うと、女性の像を結びはじめた。
――はじめは、この者あたりがよかろう。ちとお節介だが、そのぶん親切な魂だ。体感、親切、憑きっきり。そなたの願いを全て叶えてやったぞ。感謝せよ。
靄は凝り、あっという間にリアルな人間そのものに変化する。
いや、輪郭が淡く光っているあたりが、いかにも「魂」といった感じだろうか。
軽く当てたパーマに、ふっくらとした頬。まあ、そこまではいい。
だが、笑い皺の目立つ目尻や、色気よりも懐かしさを感じさせる、ばいんと張ったおっぱい。恰幅の良い立ち姿。
彼女はけして巨乳美女なんかではなく――
「普通のおばちゃんじゃんかー!!」
なぜそこだけオーダーミス!
絶叫する俺に、おばさんは全く頓着せず『やだもう』と笑いかけた。
『時江さん、って呼んで』
あげく、微妙にエコーの掛かった声とともに、両目をつぶってしまうウィンクを寄越してくる。
『急にごめんなさいねえ。でもありがとう。体を貸してくれるって? 助かるわあ』
「え、ちょ、え」
『若い男の子とフュージョンだなんて、おばさん、ちょっと照れちゃう。あなたも照れるわよね? ごめんなさいねえ。彼女には内緒にしておいてね』
「え……!」
でも、時間がないから、ごめんね。
言うが早いか、おばちゃん、もとい時江さんは、まるで闘牛のように、こちらを目掛けてダッシュしてくる。
フュージョン。体を貸す。
突進の目的が、俺の体であることは誰の目にも明らかだ。
「ひ……っ!」
かくして。
ほわん、という、衝突音にしてはソフトな音とともに。
(ああよかった! うまく入れた! あなた、背が高いわねえ)
脳裏におばちゃんの声が響くようになり。
「う……」
(さ、行きましょ。時間がないのよ。台所はどこ?)
あげく、自らの意志に反して、くるりと足が動きだし。
「嘘だろおおお!?」
――おばちゃんと俺は、体をシェアするに至ったのである。
***
佐々井時江、と名乗ったおばちゃんの魂は、俺の体を「てしをや」に強制連行する道すがら、諸々の事情説明を買って出てくれた。さすがは、親切な先輩気質というところだろうか。
それによれば、彼女は隣町の住人で、二ヶ月前に交通事故で亡くなったのらしい。
(仲のいい友達同士でバス旅行に行ったんだけどね、そのバスが事故っちゃったのよ。友達は助かったみたいだけど、私は運悪くサヨウナラ。ニュースでも結構取り上げられてたんだけど、あなた、知ってる?)
「……よく、知ってます」
いやなご縁だ。
彼女が俺に「とり憑いた」のは、もしかしてそういった繋がりがあってのことだろうかとも思ったが、初対面のおばちゃんに、自分の両親の話をする気にもなれず、俺は沈黙を選んだ。
(でもねえ、なにせ突然のことだったから、もう私、未練たらったらで。旦那はまあいいとしても、置いてきた子どもたちのことは気になるし、追いかけてたドラマの最終回も見たかったし、カラオケ大会も近かったし。絶対このままじゃ天国になんていけない、なんとかして、もうちょっと地上にとどまれないもんかと踏ん張ってたのよ)
「……それは」
いわゆる、地縛霊だとかになりかけていたのではないだろうか。
だが、この朗らかなおばちゃんを、「霊」だとか「怨霊」だとか表現するにはあまりに違和感があったので、俺はやはり沈黙を貫いた。
押し黙る俺にお構いなしに、時江さんの舌は絶好調だ。
彼女には二人の子どもがいた。
既に結婚している姉の方は、しっかり者だからさして心配していないが、弟の方は、就職に失敗してから家に引き籠っており、それがとにかく気懸りだったということ。
特に、自分の死をきっかけに、一層落ち込んでいるようであったので、なんとか励ましてやりたいと思うのに、どんなに声を掛けても届かず、もどかしさを持て余していたこと。
こうなりゃ神頼みだと思い、近隣の寺社仏閣を行脚しまくっていたら、ちょうどこの神社の神様に「ここによい体があるぞ」と声を掛けられたことなどなど。
(神様は言ってくださったのよ。望みどおり、逢いたい者に逢わせてやる。その代わりに、あなたに乗り移って、料理をしなさいって。料理が出来上がる頃に、逢いたい者を引き合わせてやるから、いっしょにしっぽり飯でも食って、さっさと成仏しなさいってね!)
「…………えええ」
霊が寺社仏閣に参拝ってするものだろうかとか、神様が「成仏」って言っちゃっていいのだろうかとか、「しっぽり飯でも」って、仲人を買って出るおじさんかよとか。
突っ込みどころは既に溢れんばかりだったが、なんというか、神様のちゃっかり具合が一番気になった。
賽銭レスで願掛けした俺も悪いのだろうが、いかにもその願いを叶える振りをしながら、さまよう魂の成仏要件を俺に押し付けてこようとは。
(いや、でもまあ、とにかくこのまま料理をして、神様が連れてくるとかいう人にそれを食わせれば、時江さんは成仏してくれるわけだから、……まあ、いいのか?)
一生この状態が続くわけではなさそうだと知って、俺はこっそり胸を撫で下ろした。
もともと、誰かに体を操りでもしてほしいというのは俺の発案だし、作った料理を人に食わせること自体は定食屋として当たり前のことのわけだから、まあ、総じて大きな問題は無い……はずだ。
すっかりこの状況を受け入れはじめた俺は――だって、そうせざるをえない――、「こうなりゃ主婦の料理術をマスターしてやる」と意気込んで、「てしをや」の暖簾をくぐった。
L字型に配置された黒木のカウンターに、二人掛けのテーブルが四つ。
壁はざらりと土の感触を残した仕上げで、ところどころに手書きのお品書きが張られている。
カウンターの上には塩と醤油、テーブルには更にメニュー用のスタンドが加わる。
客の訪れを待つように等間隔で並ぶ、陶器製の箸置きに、八角の箸。
それが、「てしをや」の装備のほぼ全てだ。
営業時間外ということに配慮して、厨房と、その向かいのカウンターの照明だけをオンにすると、まるでその一角だけが、舞台のように闇に浮かびあがる。
無人だった定食屋は、しんと冷えきっていた。
(ここね、あなたのお城は! まあ、素敵な定食屋さんじゃないの。こんな店があるなんて知らなかったわ)
「いやまあ、俺のっていうか、両親の城だったんですけどね。今は実質、妹の城ですし」
脳裏に響く声に独り言で返す、という会話方式にすっかり慣れた俺は、時江さんに、家が定食屋を営んでいるということも伝えていた。
最近になって後を継いだはよいものの、料理がてんで出来ずに困っている、ということも。
(わあ、大きなコンロねえ。火力すごそう。鍋も大きいし……私、家庭用のやり方でしか料理できないけど、大丈夫かしら)
「あ、それなら、賄いとか練習用に、家庭用の調理器具一式があるんで、その右奥の方を使ってください。妹も、よくそれでメニュー開発とかしてるんで」
(ああ、はいはい、これね)
そんな遣り取りをしながら、時江さん、を中に収めた俺の体は、ずんずんと厨房の中を突き進む。
彼女、というか俺は、きょろきょろと周囲を見回し、きれいに使ってるわねえ、と感嘆したように頷いてから、よし、と腕まくりをした。
(それじゃ哲史くん、始めさせてもらうわね)
「よろしくお願いします」
なんとなく頭を下げてしまってから、俺はふと目を瞬かせた。
「……って、ええと、何を作るんですっけ」
俺の体を使って料理をしてもらい、来るべき待ち人に食べさせる。
そこまでは理解したが、そういえばなんの料理を教えてもらえるのかは、聞いていなかった。
今更ながら問うてみると、時江さんは、ふふっと笑った。
先程から俺の顔は、怪訝そうに瞬きしたり、含み笑いをしたりと忙しい。
彼女は、志穂お手製の「当店いちおし!」の壁掛けメニューを見て、宣言した。
(あのね。ここの看板メニューでもあるみたいだし――チキン南蛮を作ろうと思うの)