――終変――
週明けの朝。刻己はいつも通りの時刻に目を覚ました。身体を大きく伸ばし、首を左右に曲げると気持ちのいい音を響かせる。
四月下旬。そろそろゴールデンウィークが近づく中、刻己は久しぶりの学校に胸を躍らせた。
先日までは昏睡しており、その前はとんでもない出来事に巻き込まれていた。あまりに現実離れしていたので、実感がわかない。
朝食を摂り、顔を洗い、いつもの時間に家を出た。そのときに、改めてあの出来事が本物だと理解する。
「ここ、本当に俺んちかぁ?」
元はボロいアパートに住んでいたはず。なのに今では高級そうなマンションに早変わりしていた。そして階段しか無かったはずなのに、エレベーターまで付いているときた。
エントランスに降り、外へ出て振り返る。常日頃見ていたアパートが、こんなマンションになっているとはやはり想像できないことだ。
頭を振って通学路を歩く。いつもの時間にいつもの道。やはりこういう日常というのは安心できる。
「うーっす。はよぉ」
「おぉ、おはよぉ刻己。あまりに来ねぇから死んだと思ったぜ?」
「バーカ。んな簡単にくたばんねぇよ」
「確かに。お前はそんじゃそこらじゃ死なねぇよな」
教室に入ると顔見知った友人に挨拶をする。二週間程度休んでいたが、皆気にすること無く刻己を受け入れているようだった。
「ねぇ聞いた? 篝くん、隣地区の不良軍団を一人で殴りこみ行ったって噂」
「しかも無傷で全員ボコボコにしたって噂よ。怖いよねー」
いくらか噂が誇張され、かなり女子から怖がられているようだが聞こえていないフリをした。
「あとあとー、何か小さい女の子を連れて第二地区を歩いていたって噂よー」
「え? もしかしてロリコンなの? 流石に引くわー」
「それだけじゃないの。さらに高校生くらいの女の子も至って噂よー」
「もしかして二股。いや、もしかして三――」
「お前ら少し黙れぇぇッッ!!」
あまりの根の葉もない噂に叫び声をあげる。実際、噂通りではあるが刻己にそんな性癖は持ち合わせていない。すぐにその誤解を解かなければ、と刻己は女子たちに説明し始めた。
騒々しい朝だが、いつもの日常に戻って来られて少しうれしく感じていた。
朝のホームルームを報せるチャイムが鳴り、生徒は各々の席に座り始める。すると同時に担任の教師が教室に入り、教卓の前に立つ。
「皆さん、お早うございます。本日もいい天気で何よりです。では朝のホームルーム、を始める前に」
寡黙な担任が少し笑みを浮かべた。その様子に生徒たちも困惑な表情になる。
「本日、転校生が来校することになりました。しかも二名もです」
一瞬の静寂。続いてざわめきが広がり、終いには驚きの声が上がった。刻己は興味もなく、欠伸をして窓の外を眺めていた。
「先生! 女の子ですか!?」
「イケメンが来ましたか!?」
男女共々の質問が矢継ぎ早に投げられる。担任は「静かに!」と怒鳴ると教室中が一瞬にして静まり返る。
「あまり声を出すと転校生が入りにくいでしょう。とりあえず中に入りなさい」
「はい、先生」
「……はい」
廊下から二人分の声が聞こえた。全生徒の視線が教室前へと注がれる。刻己も例外ではなかった。
「――えぇ?」
素っ頓狂な声が出たが、それもそのはずだ。初めに入ってきたのは夜色に艶のある長い髪を一本にまとめ、勝ち気な紅い瞳が特徴的な、紅羽だった。その後に入ってきたのは、肩口くらいで切りそろえられた青い髪をなびかせ、きめ細かい白い肌が特徴で的な藍だった。その姿を見て、刻己は立ち上がる。
「なっ――お前ら何でうちの学校に!?」
「あれ? あんたここの学校だったんだ。奇遇よね、私もここに転校することになったの」
「お前、ぜってぇわざとだろぉ?」
「何のことかしら?」
追求するもとぼける紅羽。埒が明かないと思い、藍に話を振る。
「なぁ? 藍は何でここに?」
「……刻己お兄ちゃんと一緒に、勉強したかったから」
その言葉で周りがざわめく。近くの女子が「ロリコンじゃない、あれはシスコンね!」という言葉が刻己に聞こえる程度の音量で話していた。あぁ、平穏な日常はあっさり崩れ去るんだなぁ、と刻己は頭をいためていた。
学校は滞り無く終わった。変化があったとすれば、休み時間中に紅羽と藍が生徒たちに質問攻めにあっていたくらいだ。紅羽は適度に流していたが、藍は困った様子で刻己に視線を送っていた。やはり外見がよくて中学生、悪くて小学生に見られるということで注目を浴びていた。
刻己が助け舟を出そうとしたが、紅羽がフォローしてくれた。刻己自身、あまり藍に関わると学校でさらに悪い噂が流れそうだったので助かっていた。
放課後、刻己は屋上にいた。紅羽に、「放課後、屋上に来て」と誘われたからだ。
既に日は夕暮れ時だ。屋上には滅多に来ないが、こうして空を見上げるのも悪くないと思う。
「待たせたわね」
「いんやぁ。そんな待ってねぇから」
「もう少し、こう。雰囲気ってやつを読んでくれない?」
「あぁ? 何を言ってんのか分かんねぇんだけどぉ?」
首を傾げると紅羽はため息をつく。女というのはつくづくよく分からないものだ。
「それで、何の話だぁ? いきなり学校に転校してきて、どういうつもりだぁ?」
「……上層部の命令でね。しばらくここで過ごすことになったの。ほら、あんたや藍ちゃんを保護するっていう任務もあるし、あんたの監視も兼ねてるから」
「監視かよぉ。まぁ分からなくないけどなぁ」
「そういうこと。転校してきたのも、あんたと藍ちゃんの行動が見られるし、それに――」
「それに?」
紅羽はそっぽを向いて、口を閉じた。刻己からでは様子は伺えず、頭にハテナが浮かんでいた。
「なんだよぉ? はっきり言えって」
「――あんたと、刻己と一緒に学校生活を過ごしてみたいって、そう思ったの」
紅羽の言葉に息を呑んだ。紅羽は刻己に向き直ると、その表情は林檎のように赤くなっていた。
「わ、私もこんなこと初めて思ったわよ! でも、何かあんた、放っておくとどっか消えちゃいそうな感じがして」
「俺は風船か何かかぁ?」
冗談めかして言うと、「かもね」と真面目に受け取られた。
「それと、その、ありがとう。助けてくれて」
「んぁ? 何のことだぁ?」
「――全部よ。私や藍ちゃん、この都市を救ってくれたこと。感謝してもしきれないぐらいに」
「大げさだなぁ。俺はそんなだいそれたことしてねぇっつーのに」
「でも、あんたは救ってくれた。たくさんの命をだから――」
紅羽が一歩刻己に近寄る。そして、その頬に――
「これくらいは、してあげられるわ」
柔らかい感触。最初何をされたか分からなかったが、数秒後に理解した。
紅羽は、刻己の頬にキスをしたのだということに。
「な、なな、ななななぁぁッッ!?」
キスをされた箇所を押さえ、気恥ずかしさで顔が熱くなる。その様子を見て、「あんたの狼狽する顔、初めて見たわ」と嬉しそうに紅羽は笑った。
「さぁ、帰りましょう。藍ちゃんも待ってるわ」
手を差し出す紅羽。彼女自身も顔が赤くなっていたが、それよりももっと赤いだろうと刻己は自覚する。
「全く、敵わねぇなぁ」
差し出された手を握り返す。夕日が沈む少し前、二人の物語は終わり、始まろうとしていた。