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二話 徳川三天王ぷらす一

 陣太鼓の音が野に山へと轟き渡る。赤に染め上げた甲冑と兜で身を覆う騎馬武者の群れが丘の稜線から駆け下っていく。勢いをつけたまま平原に布陣している足軽の塊りへ押し割って攻め立てる。

 赤い装備の武者たちを率いているのは万千代こと井伊直正。他国にまでその勇名を知られている赤備えの軍勢であった。


 馬上でその様を見聞していた徳川家康は思わず声をあげていた。

「これほどとは……」

「まさにまさに! 素晴らしきかな!」

 感嘆のこもった大声が聞こえる。齢六十を超えている老人に相応しからぬほどの声量でがなりたてている男は、佐渡(さど)こと本多正信であった。思わず横に目をやった徳川家康は本多正信と視線が交差する。


「平八郎!」

「はっ、ここに」

 平八郎こと本多忠勝のしわがれた胴間声が間髪を入れずに徳川家康の耳へと届いてくる。

「いかに見た?」

「これほどとは……」

「小平太!」

「殿の御前に」

 そう応じるやいなや、小平太こと榊原康政が徳川家康の左隣へと馬を寄せていく。


 今までに名が出てきた彼らは、世に言うところの徳川四天王である。

 ……正確に示すならば故人である酒井忠次と存命である本多忠勝、榊原康政、井伊直正の四名を指して四天王……なのだが、四年前に酒井忠次は亡くなっている。とはいえ、三天王というのもなんだかゴロが悪い。そこで空いた席に本多正信が座っている。

 もっとも、徳川家の制度として四天王という地位があるわけではない。世間がなんとなくそう思い、はやし立てているだけのことである。

 強いて言えば、徳川家康の信頼厚い者たちということになる。


「そなたはどう思う?」

「……言葉がありませぬ」


「そうか」

 と一言つぶやいた徳川家康は声を張り上げる。

「これにて調練を終える!」

 その命令をしっかと受け止めた遠巻きに控えている者たちはただちに動き始める。

 本陣からは調練終了を告げるほら貝がぶおおぶおおと辺り一面へと鳴り響く。遠くの武者たちにも分かるように、するりするりと派手な飾りを頂きに付けた旗が物見櫓から右へ左へと振られる。


「平八郎! 佐渡! 小平太! 野駆けじゃ、付いてまいれ! それと、万千代へ我らの元へ急ぎまいるように、そう伝えよ!」

 四頭の馬がそれぞれの主人を乗せて野をひた走る。関東二百五十万石を治める徳川家の主従が供をも連れずに馬上の人となり駆けていく。

 しばらく後に、周囲を見渡せる小高い丘の頂きへとたどり着く。

 その場所はつい最前に井伊家の誇る武者たち、いわゆる赤備え隊が逆落としをしかけた丘であった。馬を下り、丘の地面へと尻を降ろす徳川家康たち。

 どどど、どどどと派手な音を響かせながら井伊直正が馬を寄せていく。やがて、丘の上で車座になって座り待つ四人の輪へと加わる。



 時は慶長五年(1600年)七月の六日。所は武蔵ノ国(現在の埼玉県及び東京都多摩地区)の某所。ほどよく開けた平原での出来事である。

 この地にて、徳川家康は上杉征伐へと向かう徳川軍の総点検を兼ねた総仕上げを行っていた。いくら豊臣の諸大名を従軍させているとはいえ、彼らに派手な手柄を立てられると何かと後々で面倒なのだ。具体的には所領を大きく加増しなければならなくなる。

 主だった敵はなるべく徳川の手で以って倒すべし、という目論見であった。

 で、あったはずなのだが。



「この……糞たわけどもが!」

 平八郎こと本多忠勝が怒りで顔を真っ赤に染め上げている。


「正直に申しますと、あまり精強には見えませなんだ。どころか……」

 佐渡こと本多正信が呆れ声を発している。やはりというか、当然であろうなと徳川家康は胸中でうなづく。先ほどの一連のうかれた発言は周囲の者たちへ示した擬態。それ以外の何ものでもなかったということであろう。


「あれが赤備えだと? あんな葉武者勢が赤備えならば! 他家の武者どもは皆うち揃って鬼神なのであろうよ! 改名じゃ改名! 五月人形備えとでも、以降はきっとそう名乗れ!」

 小平太こと榊原康政が吐き捨てるように声を荒げていく。


 ちと言い過ぎではないか、と徳川家康はそう返しを入れようとしたが思い止まる。

 確かに、まことの赤備えとは似ても似つかぬ……。


 かつて武田信玄配下の重臣山県昌景の率いていた赤一色で統一された軍勢は目にしただけで小便をちびってしまいそうなほどのド迫力を有していたものだった。実際、徳川家康は三方ケ原の合戦において武田軍に完膚なきまでに敗れ、あげく赤備えに追われながら逃げる途上において馬上で糞を漏らしていた。

 別段、当時も今も全く恥じてなどいない。怖いものは怖いゆえに。

 あの織田信長にしてもその昔、東美濃(現在の岐阜県東部)で対峙した際に倍以上の兵を擁しながら戦わずに退いていた。なんでも赤備え隊が威嚇の声を発しつつゆるやかに前進を始めただけで織田軍の足軽どもが恐慌をきたし、総崩れに近い状況へ陥ってしまったらしい。

 それほどの強さを誇っていたのが、山県の赤備えなのである。

 なお織田信長が徳川家康と同様に感じえていたに違いない赤備えに対しての恐怖心は、三河の国(現在の愛知県東部)は設楽が原における織田・徳川連合軍約四万対武田およそ一万五千の合戦において、形となって示される。

 常識外の長大な柵を三段構えでこしらえ、野戦なのに実態としては篭城戦を織田信長は武田相手に仕掛けていた。人数で倍以上を擁している側が恥も外聞もかなぐり捨てて野戦築城した城に篭った。

 ところがである。人数で半分以下の武田側に攻め立てまくられたあげく、三段構えの柵を二段目まで崩されたのだ。異常というより他はない。

 赤備えを擁した武田軍の強さときたら……城を攻めるには三倍の兵力がいる、という世間一般の常識を軽く凌駕していた。

 戦いの後に開かれた祝宴において織田信長は言っていた。「あんな生ける武神が群れを成しているようなバケモノどもとまともな野戦など出来るか! 正気の沙汰ではない!」と。



 過ぎ去りし日々の思い出に浸りかけていた徳川家康は配下の者の声で現実へと引き戻される。

「なるほどお叱りごもっとも! 赤備えという名乗りはコケオドシも良いところでございましょう。そこは認めましょう! されど、ならば! 他の徳川勢のふがいなさはいったいぜんたいなんなのですか! その辺の百姓に槍や刀を持たせても良い勝負となりましょう! 違いますか?」

 万千代こと井伊直正も言われっぱなしではない。逆切れではないようだが、しっかりと言いたいことは言い返している。


「まあまあ、皆々。そう熱くなりなさるな。全てが悪しきだったわけではありますまいて。そうですな、一つだけ優れた点が見受けられました」

 本多正信が狂してしまった! 徳川家康は咄嗟にそう思ってしまう。

 全く以って優れた点など皆目見当も付かないのである。本多忠勝も榊原康政も井伊直正も口をあんぐりと空けて、いわゆる間抜けづらを晒していた。

 三人はこのご老人……今まさに(ほう)けたのではあるまいか? と言わんばかりのきつい視線を本多正信へ送っている。


「それは」

「……そ、それは?」

 頼むぞ、佐渡よ。狂しても呆けてもいない、と信じさせてくれ! 徳川家康は祈るような気持ちで言葉を発していた。


「行軍の歩調でございます」

 がくりと本多正信以外の四人の肩が落ちていった。

 何の役にも立ちなどせぬわい! 飾り武者が戦で何の用を成すというのだ!

 そう叫ばなかった、口を閉じたままでいた、というおのれの忍耐力の高さを徳川家康は誇りたくなってしまう。


「どうしてこうなった……」

 徳川家康はぽつりとつぶやいた。

 もっともつぶやきにしてはいささか声が大き過ぎたようである。いい歳をした四人の大人たちが今にもめいめい勝手につかみかからんばかりないらだちを見せていたのが、一瞬にして居ずまいを正していく。何と言っても主君である徳川家康からの一言は重い。


 空ではカラスがカァと鳴いている。


「平八郎、何故だ。存念を申してみよ」

 徳川家康より指名を受けた本多忠勝はすぐ様に開きかけた口をいったん閉じていた。瞑目していた。

 こやつまさか寝ているのではあるまいな? と疑りの眼を向けかけるほどの時が過ぎていった後、ようやくコホンという咳払いとともに本多忠勝が語り始める。


「考えてもみますれば、今日の調練の結果は。至極当然なのやもしれませぬ」

 ほほう、どういうことだ? と徳川家康と他の三人は興味津々といった表情を見せた。


「我ら徳川勢。天下に強兵でもってその名を知られております。ですが、三遠駿(現在の愛知県東部及び静岡県の伊豆地方を除いた地域)及び甲信(現在の山梨県及び長野県)から関東への移封。実はこの関東の地はクセモノでございました。太閤豊臣秀吉の小田原征伐により、関東モノはおしなべて牙を抜かれております。気骨ある者どもはあの戦の折に各地で死んでおりまする」

 なるほど、言われてみれば。と徳川家康はうなずかざるを得なかった。関東の旧主北条の遺臣のうちで内政に長けた者どもは人数も多く、積極的に登用していた。だが、武ばった者たちはそれほど目に付かなかった。


「更に言えば」

「なんだ、小平太」

「我ら関東に移封されてより、ただひたすらに道普請と治水開墾に明け暮れておりました」

 そうであった。確かに兵の調練の優先順位はとても低かった。

 江戸の開発に干拓、利根川の治水、上野(現在の群馬県)から武蔵平、武蔵平から江戸、江戸から小田原までの道普請。どれ一つとってもおざなりには出来なかったがゆえに。

 おまけに関東平野は……実に開墾しがいのある地であった。

 上から下まで、譜代になればなるほど熱心に水田作りにこそ力を注いでいた。オコメに心を奪われていた。徳川家の故地である三河時代はひたすらに貧乏であった。米の替わりに稗や粟を主食で育った者が多数を占めていた。

 それが一転したのだ。

 米が増えるぞー、お米サイコーと浮かれまくりであった……。

 どれくらいの力を注いでいたか。数字でみても明らかである。

 移封時に関東二百二十万石。今では関東二百五十万石。およそ十年弱でなんと一割強も増えている。尋常ではない。

 増加分の三十万石というのは、例えば関東の甲斐や土佐一国の石高を上回るほどなのである。

 この米祭りに加え収穫した米を用いての自前の酒造りが徳川家の武将たちの間では大いに流行っていたし、徳川家康もそれを奨励していた。

 どこそこの家の酒が旨いなどと毎年のように品評会まで開くほどに。

 なおこの場にいる者たちは、皆が皆、誰それのせいとそしるわけにもいかない。

 本多忠勝家の銘酒鬼蜻蛉、本多正信家の吟醸酒弥八、榊原家の大吟醸上州錦、井伊家の蒸留米酒お虎。それぞれ過去に家康賞を、つまりは金賞を受賞したことがあった。かなり熱心に米作りに励んでいた証左である。

 徳川家康にしても竹千代と銘打った辛口米酒を専用の蔵をわざわざしつらえて作っている。家臣たちのことをとやかく言えた義理ではない。



「更に言えば」

「まだあるのか、小平太よ」

「我ら、譜代の者たち全てに言えることです……」

「なんだ、もったいぶらずに申せ。この五人の内で隠し事など意味は無し」


「ハッ、それでは。……十年前は二十の者が今は三十に。二十五歳の者が三十五歳となっております。百名以上を率いる例えば足軽大将として務める者ならばまだしも、五人や十人、三十人といった小組や中組の頭としては……戦人として用を成すに三十五歳というのはギリギリの年齢でございますな。本日の調練で思い知らされました。もっとも、彼らはまだましというもの。それより年上の者たちにいたっては何を言わんかで。恐らくは日ノ本広しと言えども四十歳以上の武者どもが隊の基幹となる各頭の過半を占めている家など、我ら徳川家のみではありますまいか」

 一理も二理もあった。

 戦というものは負ければもちろんのこと勝ってもそれなりに死傷者が生じる。死んだり、以降の務めを果たせぬほどの傷を負った家の当主は当然代替わりする。死なぬとも傷を負わぬとも、実戦の場でおのれの体力の減少を否応なしに悟らされれば第一線からは自ら退こうとする。

 つまり、戦を経験している限り人員は自然に若返りを繰り返す。

 ということは裏を返せば戦がなければ……世代交代がはなはだしく遅れていくばかり。


 戦国の世が悪いのだ! 徳川家康は心の内で絶叫する。およそ百年に渡りあちらこちらで戦ばかりであったせいだ!

 いやもちろん、あれである。この日ノ本という国に武士が興って五百年は軽く過ぎている。その間、ただひたすらに皆で戦ばかりに明け暮れていたわけではない。

 わけではないが、この百年の戦によって興ったのが徳川家なのである。もしも室町の世が静謐(せいひつ)であったならば、徳川家は少なくとも関東二百五十万石という大封を得ていたはずもない。三河で、十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)な一万石にも満たない小領主のままであった可能性が高い。

 要するに、平時における代替わりの方法を知らないのだ。何故ならばそんな仕組みなどを考えずとも済んでいたゆえに。

 表現はいささかお下劣なのだが、徳川家は言わば糞が腸に詰まっているようなものであった。それも数日程度の便秘ではない。週単位、下手をすれば月単位での便秘であった。


「くっくっく」

「……万千代。何がおかしい?」

「こ、これは相済みませぬ。榊原殿の申されようがおかしゅうておかしゅうて。わっはっは」

 こやつ変な茸でも食べたのではあるまいか? と心配になって徳川家康は目をやる。

「おい、どうした?」

「ハッ。されば、でございます。この私めは今年で三十九となりまする」

「来年には万千代も四十となるか」

「はい。いえ、私のことはよろしいのです。が、皆々様は……その、上の者が隠居もせず、形ばかりでも家督を譲ることもしておりませぬ。それを見ている下の家の者どもが……代替わりなどするわけもございますまい」

 むぅ。これには徳川家康も他の三人も二の句がつけない。

 何せ、徳川家康五十七歳、本多正信六十二歳、本多忠勝と榊原康政が五十二歳。故織田信長が好んでいた敦盛の一節ではないが”人間五十年、下天のうちを”なのだ。

 おまけに、それぞれ立派に元服を済ませた後継者がいる。


 この話題はまずい! はよう変えねば!と思っていると言い出した井伊直正もこれはイカンと空気を読んだのであろう。慌てたように言葉を重ねてきた。

「っといささか話題がそれもうした。更に言えば」

「まだ言いたいことがあるのだな」


「はい。この十年近くというもの、我ら徳川家は戦そのものを経験しておりませぬ。もっとも最近で九年も昔。おまけに、十の人数で一を討つかのようなあの……戦と数えるのも気恥ずかしゅうなるような小田原征伐後の奥州仕置きにおける一揆の鎮圧でございます。その前は小田原征伐における後詰め。これなど物見遊山と大差ありませなんだ。それでもってその前が小生意気な真田に脅しをかけただけのつもりであったはずが戦となってしまった上田合戦。更にその前にまでさかのぼってようやく本当の戦……小牧長久手の戦い。……なんと十六年も昔となりまする。十六年ですぞ! これほどまでに戦と縁遠くなっている家は、日ノ本広しと言えどもそうは見当たりませぬ。五万石以上の大名家では我ら徳川だけでございます。振り返ってみますれば、殿。朝鮮へと渡海せずに肥前(現在の佐賀県)名護屋の地でひたすら踏み止まっていたことは、戦の経験という意味においてかなりまずうございましたな」

「今更、それを言うのか」

 思わず徳川家康は愚痴ってしまう。あの、朝鮮への徳川勢の渡海を拒むべく四方八方へと手をまわして苦労し続けていた日々のことを思い出さずにはいられなかった。指摘されてしまえば、なるほど今となっては虚しい努力の見本のように成り果てている。


「いえ、そうではなく。事実は事実として認めねばなりませぬ」


「それはそうだな。憶測や希望にすがるばかりで天下が獲れれば苦労はせぬな! それほど甘いわけもなし。忌憚無く申してみよ、我が徳川勢八万。例えば、相対するにいくらであればお主たちならば勝てる?」


「そうですなあ。小牧長久手の頃の三万もいれば……。かつての武田信玄や勝頼と相対していた頃の徳川勢の強さであれば二万もいれば……。その、こう申してはなんですが今の我らに比べれば姉川の戦いの折の朝倉勢の方が余程に精強でありましょう。言いにくくはありますがあの程度の者たちにすら軽く一蹴されてしまうかと」

 本多忠勝の、余りにも歯に絹を着せぬ発言に一同唖然としていた。

 姉川の戦い時は朝倉勢をおよそ半分の徳川勢で打ち破っていた。それも敵前で渡河をして、である。その程度の弱兵であった朝倉勢にも今の徳川では歯が立たないというのか……。

 言いにくいと言うのであれば! 何もそこまで言わなくてもかまわないだろうに……。と、徳川家康はそう思わざるを得ない。


「小田原征伐の頃の我らであっても四万もいれば余裕でお釣りがきましょうな」

 おお、倍に増えたではないか。いや……倍に増えても八万の軍勢を相手にして半数で勝てる、と。井伊直正はそう述べているのであった。その冷厳すぎる指摘に徳川家康はがっくりとうなだれてしまう。


「甘いのう、まるで砂糖菓子をアンコと蜂蜜で煮立てたようではないか。いいか、万千代。殿は、忌憚の無い意見をこそ求めておられるのだ。それが言うに事欠いて四万だと? 本心から申しているのであれば早々にこの場より立ち去れい! 貴様と戦の話などする意味もなし。正直に申してみよ」

「……三万で充分かと」

「だろうよ。我にしてもこのような弱兵どもの相手であれば二~三万で充分であろう。夜討ちにはめるのであれば一万でも多過ぎるのではあるまいかと、そう思うておる」

 もはや乾いた笑いしか出てきそうもなかった。

 容赦ないな、小平太よ。と、榊原康政の口元へ目を向けつつ徳川家康は最早笑うしかなかった。


 フゥという息を抜く音が、次いでハァという明らかにため息を。誰ともなしに漏らしていた。


 と、その時であった。

「はなはだ、まずうございますなあ」

 あっけらかん、とでも言い表したくなるようなそんな能天気な調子の声が徳川家康の耳へ届いてくる。

「ここは思い切って……」

 いい所で口をつぐんでいた。一人一人へと目を送っている。

 ……なんだ、そのためは!

「もったいぶるな。佐渡よ、申してみよ」

 この際、何でも聞くだけは聞いてやろう。半ばヤケッパチな気持ちな徳川家康であった。


「不戦の策でございます」

 本多正信の発言に対し、徳川家康も本多忠勝も榊原康政も井伊直正も驚愕の表情を隠せないでいる。

 次いで頭へ血がのぼっていく。激怒しかける。

「こらあ弥八郎(本多佐渡守正信の幼名)! ひよったか! 今更和睦を殿にすすめておるのか! 返答次第では許さぬぞ!」

 鬼の形相と転じた本多忠勝が早くも腰を浮かしており、今すぐにでも飛び掛らんとしていた。

「阿呆が! 誰がそのようなことをいつ申したか! 最後まで聞けい!」

 本多正信も臆することなく返しを入れている。


「不戦とは、徳川のみが不戦、でございまする」

「どういうことだ?」

「まず上杉とは戦をしませぬ。当初の予定ではあと十日もせぬうちに集まっている諸大名の軍勢とともに会津(現在の福島県)の上杉領内へと押し出すはずでございましたが……」

「もったいぶるな。先を申せ」

「だらりだらりと関東に居続け、上杉とは戦いませぬ。謙信公以来の尚武の家にして、小田原征伐においても我らとは異なり関東各地の城で血を流し、更には渡海して朝鮮でも武勲を挙げております。更に加えて、こたびの会津征伐。手の者の知らせによりますれば広く浪人を募集し腕に覚えありの名将たち、例えば前田慶次郎や車斯忠などがはせ参じておるらしく」

「戦わぬ、というのは分かった。だがそこから先はいかがするのだ?」

「機を見て西へと転じます。もっともこれは当初の予定通り。上杉を討たずに、というのが変更点でございます。なあに、恐らく今頃は石田や毛利、宇喜多などが西の地で色々と画策しておりましょう。待てば一ヶ月も経ないうちに何らかの報せが届きましょう。それまでは……理由は何とでも作ればよろしい。日が悪いだの、西が気になるだの、腹が痛いだの。いくらでもございます。西からの報せを受けて後、秀頼様が危ない! という趣旨で諸大名をまとめ上げて」

 なるほど、と徳川家康はうなづいていく。


「大丈夫か? それで?」

 本多忠勝のその口ぶりには様々な意味が含まれていた。


「ならば! 各々方は勝てるのか? いや、勝てはするであろう。数は力でもある。しかも福島や細川、それに黒田といった朝鮮出兵帰りの猛将どもが率いる活きの良い軍勢も我らの旗下に加わっておることであるしな。だが、上杉の主力との決戦となれば……当然数の上からいっても徳川勢が前に押し出さないわけにはいくまいて。そしてそうなれば……同時に徳川の弱兵ぶりが天下に広く知られてしまうこととなるのは必定。このこと火を見るよりも明らかぞ! そうなってしまえば、今も続々と江戸へ向けて集まっているあの勝ち馬乗り目当ての大名どもは……それこそあっという間に消えていなくなるぞ! やつらは徳川は強い、それも圧倒的なまでに。そう信じているからこそ頭を垂れているにすぎぬ」


「確かにそうだが、佐渡殿よ。上杉を放置しておいて大丈夫なのか?」

 榊原康政の懸念はもっともであった。

「そこは……殿のご運の強さよ! 幸いなことに上杉勢、やつらは会津領内をそれこそハリネズミのごとく要塞化しておるとか。つまりは誘い込んでの戦に全てを賭けておるのでしょう。そのような気概の者たちがかの地においていったん勝利をおさめた後にならまだしも、一戦も経ずに一転して関東へ逆進など。なかなか出来得ることではございますまい」


「確かにな。篭城の準備を万端整えた。ところが敵は一向に攻めてはこない。ならば、こちらから敵地に討ち入ってみよう。などとはなかなかに決断出来ることではあるまいて。罠であろうと疑ってかからざるを得ない」

「で、あろう忠勝殿。とはいえ、これがかの軍神上杉謙信公であればほぼ勝ち目の乏しい博打めいた危うい賭けとなったに違いない。切れ者として名を馳せている直江兼続が総大将であったとしても懸念はいくらか増しましょう。ですが、当主は上杉景勝。きゃつは実のところ、領内より自ら押し出した戦の経験が乏しゅうございます。ゆえに、十に八つはまずもって大丈夫かと」

「なるほどのう、佐渡よ。残りの二つのうち一つ程度の押さえとしては伊達と最上が上杉の北から圧をかける、と。そう申しておるのだな」

(しか)り、でございます」


「ふうむ、それでも十に一つは懸念が残る、か……。誰ぞ、良き思案はないか?」

 徳川康は順繰りに目をやっていく。本多正信、本多忠勝、榊原康政、そして井伊直正。四人の者たちの中で一人だけは何かを言いたそうに見えなくもなかった。

「万千代、存念あらば言うてみよ」


「ハッ……」

 勢いよく返事を寄こしてはくるもののそれだけである。次の言葉が聞こえてこない。

 快活な井伊直正らしからぬ逡巡をみせていた。

「遠慮することはないぞ」


「……それでは申し……上げます。怖れながら殿の御子のお一人を関東総大将として残しておくのでございます。それも在陣位置は江戸ではなく、あえて北の地に。そうですな、宇都宮あたりに」


 ごくり、と唾を飲み込む音が徳川家康の耳へと伝わる。自らは唾を飲んでこそいないものの井伊直正が言いよどんだ理由がすぐに知れる。

 つまり、餌を置けと言っているのだ。

 軍事的に見てワケの分からぬ位置に徳川の、このおのれの息子を残す。戦の采配に長けた者であればあるほど、道理が不明であろう。

 そして理に聡い直江兼続ならば必ず裏を探ろうとする。やつの主である上杉景勝を関東へ逆進させるに足るだけの理由を求めて。ところが、いくら探られても根拠など出てくるはずもない。何せ、井伊直正の策そのものに軍事的な意味など全くないのだから。

 幸いなことに徳川家康は野戦の上手として世に名が通っている。

 意図が読めぬ。だが必ず意味はある。と、直江兼続ほどの戦巧者ならば十中十そう思い込む。


 徳川家康が頭の中でそのように考えをまとめ終えた頃、本多忠勝と榊原康政がコクリとうなづいていた。少し遅れて本多正信も目をゆるやかに伏せ納得の意を示していた。


「となれば。殿のお子のうちで」

 誰も同意と口には乗せていないにも関わらず、この場に居る五名全てが同意見であるかのような口ぶりで本多忠勝が話し始めている。

「結城秀康様、秀忠様、忠吉様、武田信吉様の誰か、となろうな。辰千代(後の松平忠輝)様は未だ八つ。この役目は無理であろう」


 それはそうに違いない。これは餌なのだ。餌ゆえにこそ、少なくとも元服してもいない童では釣り餌にはならない。

 井伊直正が言いよどんでいた理由が徳川家康には分かった。忠吉の正室は井伊直正の実の娘なのである。

 まず、病弱でもって知られている武田信吉では童よりかはマシな程度。となれば餌にはなり得ない。

 次に、曲がりなりにも後継者として扱っている秀忠を餌として置くわけにもいかない。信吉とは逆の理由で。

 餌にしては大き過ぎるのだ。道理を探ろうともせずに、衝動に突き動かされて上杉景勝が動いてしまう危険性を無駄に無意味に高めるだけ。

 つまり、餌として相応しいのは秀康か忠吉。

 どちらに転んでもこの役目はきつい。

 餌として騙しきって機能すれば戦にはならず、当然ながら武功をあげようもない。

 餌に喰らいつかれてしまうと待っているのは恐らくは死しかない。

 何故ならば、今回の調練で明らかとなった弱兵徳川軍のうちでも更に最も頼りにならない兵どもとともに関東へ残されるのだ。ひとたび戦となってしまえば、無残にそれもみっともなく散るより他はない。


 やはり、と今更ながら徳川家康は思う。井伊直正は大した者だ。(おとこ)だ、と。

 ここに集っている五名のうち、一人井伊直正だけがこの策に気がついた。ならば、黙しておれば済んだのだ。

 こんな奇策は長き時間を費やして多勢が頭をひねったとて思い浮かぶものではない。井伊直正が進言しなければ恐らくは無難に……江戸へ関東留守居の兵を集中させておくという話となったことであろう。

 口をつぐんでさえいれば、井伊直正の娘婿でもある忠吉はこれまでの方針で定めていた通り西へ向かう軍に加われていた。

 そこをあえて、徳川という家そのものの大事をおもんばかり、忠吉との間柄を私事であると割り切りをつけてまで、釣り餌の策を披露してのけたのだ。


「万千代……殿」

 榊原康政が井伊直正の幼名を殿付けで呼んでいた。それぞれとは何十年来の付き合いであるが、井伊直正に対してへりくだる榊原康政を初めて徳川家康は耳に、目にしていた。

「直正……よう申してくれた!」

 本多忠勝の唇がふるふると震えていた。

 無言のまま姿勢を正した本多正信が井伊直正へ頭を下げている。


「決まり、だな。これほどの献言。用いぬならば、わしは愚鈍の大将よ」

 そう言うと徳川家康は一度息を切った。

「秀康を残そう。万千代よ」


 瞬時、シンと静まりかえる。やがて、がしゃりという音が鳴る。赤い兜の頂きが徳川家康の眼に映っていた。


「ハッ!」

「今後、忠吉の軍勢は丸ごとそちに預ける」

「ハハッ! 命に代えましても!」

 つい寸前まで口から発しようとしていた言葉とは異なっていた。我ながら意外でもあった。だがこれで良いのだ、と。徳川家康はそう思っている。済まぬな秀康、と心の内で詫びを入れる。


「さてと。更に一策を加える」

 どういうことであろう? と四人が徳川家康へ問いの目を向ける。

「分からぬか。良いか、徳川のみが不戦、を貫くにはちと足りぬのよ。東海道と中山道で徳川軍を分ける。これは当初の予定通り。だが、ここからが異なる。中山道へ向かう軍へこそ徳川の主力を、それも過半を超えて七割以上を集めることとする。されどわしは東海道を行く。そして中山道の大将は秀忠」


 徳川家康の言を受けて四人がそれぞれ考えこんでいる。しばらく後、「なるほど。確かにそれは妙手。否、それしかございますまい」と声が上がる。佐渡こと本多正信であった。


「分からぬ!」と叫んでいるのは本多忠勝。声にこそ出さぬものの榊原康政と井伊直正も同様の態を見せている。


「佐渡。もったいぶらずに説明してくれ」

 という本多忠勝の声に応じた本多正信が口を開く。


「よろしいですかな。敵は、西の軍勢がどこまで進んでくるのかは不明なれど間違っても木曽路、つまりは中山道の方へやつらの主力が至る可能性は皆無。美濃か尾張か三河か。どこで決戦となるにしろ東海道こそが大本命」


「おお! そこまで言われると我にも分かる。こういうことだな? 間違っていたならばなおしてくれ」

 と本多忠勝が後を継いでいく。

「いざ決戦。しかれども殿こそ在陣なものの徳川軍はせいぜいが一万と数千。となれば、徳川勢は後詰めの位置での戦となりましょうな。殿は総大将でもありますしな。そして後陣に控えている限り、徳川勢はボロの出しようがありませぬ。殿が諸大名を家臣のごとく動かしての戦という形ならば」

「なるほど。少なくとも徳川家の負けはありませぬな」

 榊原康政がうんうんとうなづいている。


「そういうことよ。勝てば良しだが、徳川家についた大名どもが負けるかもしれぬ。だがそれは徳川の負けを意味しない。危うし、と見れば退けば良いだけのこと。そして三河は我らの故地。どうとでもなる」


「しかもこれは! ハメ手ですな」

 井伊直正がそう言ってにやりと笑った。

「三河まで退く軍勢を追うことなど出来やしませぬ。何せ、中山道から美濃へと別働隊がなだれこんでいるのですから」


「そういうことだ」

 徳川家康は随分と気が楽になっていた。

 天下の弱兵と徳川軍が化していようとも徳川は強兵という虚像ある限り大丈夫だ、と。

 徳川軍が弱くともかまわぬ。戦わなければ良いのだ、と。

 そういえば調練において、見てくれだけは、行進だけは立派だったな、と。

 飾り武者。けっこうではないか。このコケオドシを充分に活用してみせようぞ、と。


「やれやれこれは決まり。ですな」

 榊原康政がぼそりとつぶやいている。いくらか以上に残念そうな表情をしている。

「東海道を殿と忠吉様、そして直正殿。となれば残り一名は当然……」


 うなづいた本多正信が言を継いでいた。

「当然、忠勝殿となろう。いや、そうするより他はなし、か。この本多正信は秀忠様とともに中山道をまいりましょう」

「仕方があるまいて。悔しいが忠勝殿の名声の方が我よりも高いゆえ。我ら四名を二名ずつに割るのであれば、必然そうなる。この天下獲りの大戦。殿とご一緒出来ぬのはひたすらに残念なれど是非もなし」

 そう言って笑みを浮かべつつも榊原康政が寂しそうに小さく一息ついている。


「そうだな。お前たちの言上のままに分けるとしよう」

 徳川家康は同意の意を示す。当初の心づもりとは随分と異なることになるが、今はこれが最善といえた。



 時は慶長五年(1600年)の七月。

 これは、後の世に天下分け目の大戦として伝わる関が原の戦い。そのおよそ二ヶ月ほど前の話である。

 まさか尾張での決戦どころか美濃の岐阜城を味方の諸大名が落としてしまい、近江で戦うことになるなど。

 まさか中山道の徳川本軍が真田の挑発に乗ってしまい大遅刻をしでかしてしまうなど。

 徳川家康はこの時点で知るはずもない。

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