一話 先鋒大将松平元康
「今よりおよそ二刻ほど前、尾張は桶狭間の地において我ら今川勢の本隊が織田勢による奇襲を受けもうした。結果、御館様がお、お、御討ち死になされました」
陣内へと騎乗のまま駆け込むとともに崩れ落ちるかのように下馬した男は脚元の泥にまみれていた。
今川勢本陣よりの伝令の証左である赤い鳥の旗印を背負うその者の口から発せられたのは、松平元康にとっては予想だにしていなかった言葉の塊りであった。
な、何を痴れ事を言っているのだ。からこうておるのか。
思わず座していた床几から腰を浮かし、即座に立ち上がる。ところが、脚にも腰にも力が入らない。
ぽちゃりという音に続いてまず足先へ、草履と足袋より生温い感触が皮膚へと伝わってくる。すぐにどさりと別の音が続く。尻が、地へ崩れ落ちていく。
つい先ほどあがったばかりの雨によって作られた泥濘の中へと腰まで浸かっていた。目線を下へと向ければ濁りたゆたる泥水に赤もいくらか混ざって見える。
血、である。
鎧具足がところどころ赤く染まっていた。
小姓どもの手で目立つ汚れは落とされてはいるのだが、全てを、というわけにはいかない。このことについて、松平元康は別段気にもしてはいない。
平時ならばともかく今は戦時。戦見習いを兼ねている小姓には他に優先すべき務めが多々ある。連日のように新たに増えていくばかりな赤い染みに戦の最中にかまかける小姓など、賢に見えて実は愚の骨頂といえる。
このたびの今川義元公御自らが総指揮を取られていた織田家抹殺及び尾張平定作戦において、松平元康は今川軍の先鋒三大将の一人として縦横無尽に暴れまわっていた。無駄に足掻くこしゃくな織田方の者どもへ出血を強い続けていた。
下を向いていてもらちがあかぬ。
空を見上げる。青い。雨は……本当につい先刻まで降っていたのであろうか? そう思わざるを得ないほどに澄んだ青が広がっている。わずかに端、別の色がある。くすんでいる。雲、ではない。屋根瓦。揺れているかのように見えていたのは。そうか、おのれがふらついていたゆえか。
気をしっかりと保たなくてならない。ここは尾張の国の大高城。我ら今川と織田との境界。争いの最前線。
ふぅと小さく息を吐く。すぅと大きく吸い込む。肺へ空気が満ちていく。もう入る余地など。いや、まだだ。更に吸いあげる。毛一筋分すら入らないほどひたすらに。吸い続けた。吐き出す。声とともに。
「使いの役目ご苦労。相分かった。生きるも死ぬも武門のならいという。今となっては是非もなし。それで我らへの新たな命は? 御舘様の弔い戦に際してご本陣の老衆の方々は我が勢へいかにせよと?」
ただ一個の松平元康であれば、敬愛する……否、敬愛していた故今川義元公の死を悼んで少なくとも半日、出来得るならば数日ほどはお堂に篭り経をとなえたい。
だが、しかし。そういう贅沢は後にまわすより他はない。まずは、すべては敵討ちを果たしてから。
素早く意識を切り替えていく。けれども、使いの者は口をつぐんだままである。
「どうした? 貴殿は、春日殿は我ら今川家において誉れある使い番赤鴉衆の一人であろう。しかるに、その態は何だ? 泉下の義元公に対し恥ずかしいと思わぬのか?」
泥の中へ手をついたまま膝を落とし、下を向いたままふるりふるりと肩を震わせている様が目に映る。
はよう、立ちなされ。そう告げようとした。
だが、自らなどの姿勢の方がもっと酷い。尻も脚も泥水の中へと沈んだままであった。
立ち上がらなければならぬ。けれども、その気力が湧いてこない。
「ハッ! 申し訳もございませぬ。それがし、新たな命を伝えるべくの伝令ではございませぬ。実は御舘様だけではありませぬ。本隊の老衆のうちで……」
「うちで?」
そう問い返す松平元康の背筋には、つぅと一筋の汗が流れ落ちていく。
まさか、そんな。
織田方のうち、未だ今川へと靡いていないか旗幟を鮮明にしていない勢は合わせても五千かそこらでしかない。しかもこの数はやつらの本拠地清洲や他の支城へと詰めているであろう人数を含めて、である。
桶狭間という地において奇襲を受けたというからには、当然野戦となったということ。
そこにどれだけの数を織田方が持ってきたにしても最大にみて四千。現実的に考えれば三千が関の山であろう。それでも多いくらいだ。
対して、今川の本隊はおよそ一万と七千。
不意をつかれたあげくに総大将が討たれてしまった。それは分かる。分かりたくなどないが。
……例えばこうだ。偶然に偶然が重なったあげくの、流れ矢による死、というものがある。
ありえないほどの遠き距離から大きな弧を描き放たれた矢が偶然の風に乗ったあげく飛び続け、やがては頂きを極めた後に落下していく。
その終いが、たまたま兜の緒を緩め、しかも天を見上げたまさにその瞬間の誰かの額へ最適な角度で達したあげくに、骨をうがち頭蓋の中へと突き立つ。こともないわけではない。
戦なのだ。何が起こるとも絶対に起こらないとも、どちらも言い切れなどはしない。何故という思いが増していくばかりではあるが、ここは頭をわずかでも早く切り替えることこそが肝要。赤鴉衆の、春日殿の言を聞くねばならぬ。
「老衆のうち松井宗信様、久野元宗様、蒲原氏徳様、朝比奈秀詮様、三浦義就様、由比正信様。駿河衆のうち一宮宗是様、長谷川元長様。遠江衆のうち久野氏忠様、井伊直盛様、飯尾乗連様。三河衆のうち松平政忠様、松平忠良様、松平宗次様。以上の御皆様方が御大将であらせられた義元公の御馬前において御討ち死になされました」
馬鹿な! まさか織田方に寝返って偽の伝令として……いや、にしては底が浅過ぎる。
それに春日信久という名のこの赤鴉衆の者と松平元康は知らぬ間柄というわけでもない。むしろ、今川家家中において親しき仲とも言ってよいほどである。
されども……いくらなんでも、ありえるのであろうか?
一万七千がその三分の一にも満たない敵に、夜討ちですらない日中に襲われ、総大将どころか主だった将領たちが、それも今川の両の眼である松井宗信様に蒲原氏徳様、耳である久野元宗様に口である由比正信様までもが。皆、揃いも揃って討ち死になど。
織田は……いったい何をしたというのだ。
せめて先ほど名が挙がらなかったうちで今川勢本隊に属していた武将を……松平元康は春日信久に確認したかった。けれども、その問いかけをもしも口に乗せてしまえば新たに討ち死の列に加わってしまうのではあるまいか。ふと、そんな童のような浅慮が頭へ浮かぶ。そして、それを否定しきれない。
名が聞こえなかったのは、庵原元政殿、小原鎮実殿、朝比奈元長殿。それから吉田氏好殿、くらいか。主だった将としてはわずかに四名でしかない。しかも松井殿や久野殿に比べれば、地位も器量も経験もかなり下がってしまう。
織田方の兵が我ら今川勢を圧倒するほどに強い……はずもない。
何も昨日今日戦い始めた関係ではない。何十年もの昔より尾張と三河の端境いにおいて我ら今川は織田と戦火を交えてきた。しかも近年はずっと押しており、争いは国境いに沿って流れる境川を超え、尾張の国内へと移ってしばらくの歳月が過ぎている。
あえて大兵を興さずとも、圧を加えていくだけで織田の家臣団は櫛の歯を引くかのように順繰りになびいていき、後五年も経たぬうちに恐らく尾張全土は今川の領国と化したであろう。
だがそれでは、と我らが御館様はこの出師を起こす前におっしゃられたのだ。
熟した柿がただ落つるのを待つ。なるほど悪くはない。尾張を獲れはしよう。されどもそのような気概で天下など、夢のまた夢となろう。京の都まで達するのに何年かかるか知れたものではない。
出来得るならば、我が母上寿桂尼様の眼が黒いうちに、都にしっかと今川の旗を、赤鳥の旗を掲げてみせようぞ、と。そういって笑っておられた。
尾張併呑作戦において、今川軍は大きく二つに分けて進んでいた。
二つのうちの一つが先鋒勢。これは三隊。
近隣諸国にも名将と名高い岡部正信殿、戦上手で知られている朝比奈泰朝殿に加え、特に抜擢を受けたこのおのれ松平元康。各々がおよそ四千から五千の兵を率いて尾張の未だ織田方の領地へと同日異路にて侵攻。
三隊にして一隊、一隊にして三隊である。
先鋒三隊が織田勢に対して、集っては離れまた集いと翻弄し、まるで庭に積もる落ち葉をほうきで掃くかのように一掃し続けていく。
ものの見事に、はめていた。寄せてくる織田勢を文字通り蹴散らしていった。野戦はもちろん城ですら数日と経たぬうちに落とし、尾張の各地へ今川家の赤鳥の旗を立てていく。
その後方を本隊一万七千が堅実に着々と進み糧道をも確保。
尾張の者どもへ格の差を見せつけながら、織田を滅ぼす。否、織田の家臣団が織田家を見捨てる。見捨てざるを得ない。
どこに負ける要素などがあったのだ? 微塵もなかった……はずなのである。
「く、くわしゅう。御舘様の御最期の御様子を」
ようやくの思いで振り絞った末に喉からひり出した音は、かすれにかすれていた。松平元康が長年慣れ親しんでいたはずの自らの声は、まるで初めて耳にする音のように錆びた蝶番のようにきしんでいた。
「いや、待て。待つのだ、春日殿。我一人だけでこのような報せを耳にするのは今後を考えればはなはだよろしくない。隠しおおせるものでもなし。ここは我に付けられている三河衆の主だった将たちとともに御舘様の御最期の御様子をうかがうとしよう。きっとその方があらぬ混乱を招かずに済む」
「なるほど、確かに。その方が良き思案かと思われます」
ようやくにして松平元康は泥の中から立ち上がる。太刀の鞘を杖代わりにして這い上がる。
さ、春日殿も、と声を添えつつ腕を前へと伸ばし、泥へと沈んだきりの男を引っ張り上げていく。
「なんという間の抜けた様であろうか。泥まみれではないか、我も貴殿も」
ほんの束の間であったが、笑いを得る。声に出して笑ったわけではない。
けれども、ようやく、ようやく。ほんのわずかではあったが、人心地がついてくる。
「誰ぞある!」
呼びかけに応じて陣幕の端がめくれ、小姓の一人が顔をのぞかせた。
「酒井、石川、大久保、牧野、内藤。それぞれの家の頭へこう伝えよ。義元公ご本陣より赤鴉衆がまいられておる。至急、馳せ参じるように、と」
「ハハッ。酒井様、石川様、大久」
「復唱はよい。分かったならば、はよう行け!」
後に、松平元康はこの判断に至ったおのれを責め、後悔にさいなまれることとなる。
三河者の狂気、その発露の懸念を、あろうことか失念していたのであった。
松平家の基礎を築いたとされている曽祖父信忠は、ある日突然血を吐いて死んだと伝えられている。身体中に紫色の染みを残して。祖父清康と父広忠は居城の内で凶刃に倒れた。 自らにしても六歳のみぎり、今川家へと人質として送られる途上で織田へ売られている。
これ全て、松平家へ忠誠を誓っているはずの者どもの手によって成されていた。
主家に対し、主君を弑逆してのけたいほどに不満を募らせているのであれば、叛旗をひるがえせばよいではないか。または隣国の大名家に城ごと寝返れば、一族郎党引き連れて逐電してもよいではないか。そこまでの決心がないのであれば、隠居するなり手はあるのではないか。
だが、三河者はその道を選ばない。それでは忠義にもとる、とうそぶく。
松平元康は三河の生まれである。生まれではあるが、三河という国より連想することといえば、家臣の手で売られたことと父を家臣に殺されたこと。その二つが過半を占める。優しき記憶はもちろんある。されど、何年経とうが凶事も頭から消え失せななどしない。
なお一度は織田へと売られたものの今川家が織田家との交渉の末に当時の松平元康を取り返していた。
それからおよそ十一年の歳月が流れた。父の死後も、六歳の時分より駿河は今川館において学び鍛えられ今日に至る。
名目上でこそ、松平元康こと幼名竹千代は今川家の人質として成長していく。
けれども、実情はかなり異なっている。
今川家の本拠地において、凡なる者の手で育てられたわけではない。
どころか、この時代の日ノ本において五本の指に入ることは間違いないであろう最高峰の師より、軍学を始めとして領内統治や外交術、家臣掌握の方法など実に多岐に渡り学び、そして修めていた。
師の名は崇孚。太原雪斎という名の方が世間的には通っている。
彼の成した業績は多々あれど、最も人の口の端にのぼる仕事は三国同盟であろうか。
地理的にも、過去の経緯からもどうしようもない三すくみで脚を引っ張り合うだけの間柄であった駿河今川、甲斐武田、相模北条。その関係をいっきょに反転させた三国同盟の締結。これは太原雪斎の影に日なたにの活躍を抜きにしては語れない。
外交手腕のみを得手としていたわけではない。戦における采配にも優れ、内治においても欠点がなく、全てが抜きん出ていた万能人故太原雪斎。
それほどの大人物が松平元康の師であった。そして故今川義元公の師でもあった。
世情で、主に三河の多くの者たちが口を揃えて言うように松平家を傀儡として三河を今川家が支配する為におのれを、竹千代を預かったのなら……今川家のやりようは道理が通らないのだ。
父である松平広忠が三河半国の大名として健在なまま今川家へ従属している。その長子であり後継者を人質として預かる。
これは理解出来る。
だがしかし、父はおのれが八歳の時に家臣の手にかかり殺害された。
この時点で、竹千代は望む望まないに関わらず松平家の当主となっていた。ならば、そのまま駿河より三河へ戻されていたとすればどうなっていたであろう。
十中八九ではなく、十中十の割合で家臣筋の誰かの手にかかりおのれは殺されていたに違いない。
松平元康はこの件について何度も何度も繰り返し考えていた。されども同じ結論以外に達したことは一度もない。
ではもしも、この混乱へ乗じる形で駿河・遠江の今川勢が三河へと押し出していたならばどうなったであろうか。
こちらについては笑止というより他はない問いである。青洟を垂らしている童にすら分かる。
とうの昔に松平家など消えてなくなっている。当然、おのれも人知れずこの世より退場していたことであろう。
けれども、実際はそうなってはいない。
いかに考えを重ねても、人質としての扱いと言えるものではなかった。
人質扱いするならば、凡なる師を付けて凡なる学びを与えればそれで済んでいたのだ。少なくとも、三河を今川家が欲していたのであれば、太原雪斎ほどの大人物をおのれの師として充てる必要は全くない。
もっと割り切っているのならば、凡なる師に加え、例えば欲しがる物を全て与え続ければよい。元服する年齢となる頃には自我抑制を知らない立派な暗愚者と成り果てていたであろう。
その愚か者と化したこのおのれをまずは送り込み、当然起こるであろう混乱に乗じて軍を発すさえすれば、三河は今川の旗の下にひれ伏したのではなかろうか。
けれどもおのれの身に起こったことは、逆も逆であった。松平元康は単なる人質ではなく、破格の待遇を今川家より受け続けていた。
幼少期を望み得る最高の師の下で過ごしただけでなく、元服に際しては元の字を義元公から拝領し、更には義元公の妹の娘を、つまりは姪御を正室として娶らせてもらっていた。
これにより松平元康は今川家の席次において、外様衆ではなくご親類衆へと転じている。今川家の内治はもとより征事においても頭の一人として堂々と加われる地位を得ていた。実際、こたびの尾張侵攻において先鋒三隊の一つを任されるという大変重要な務めに就いている。
齢わずか十七にして、今川の左右の腕と称えられている名将二人、岡部元信殿と朝比奈泰朝殿に肩を並べる先鋒大将の一角。
能力はもとより心根も信用されていなければ、その両者を備えていても外様衆のままであったならば就ける地位ではない。
父親の代から従属したばかりの家の子としては、望み得る中でも最高の扱いである、というより他はなかった。
松平元康にとって今川義元公は大恩人なのである。
今川家には今川家なりの思惑があって、松平元康へ最高の学びを授け身分も地位も正室さえ与えた。
それは承知している。されど、どう頭をひねっても帳簿の勘定が合わないのだ。
益が、松平元康が十を受けているとすれば今川家は三にも満たないであろうほどに。恩のみがひたすらに超過していた。
今川義元公が凡庸な男であればまだしも、紛うことなき名君であらせられた。
今川家の家臣団が愚者で占められているのであればともかく、太原雪斎殿亡き後も松井宗信殿や蒲原氏徳殿、久野元宗殿と綺羅、星の如く人材はいた。
第一、当主と家臣が少々秀でている程度では甲斐の武田晴信、相模の北条氏康と互角以上に渡り合えるはずもない。
なお三河に在している国人領主たちにとっての今川家は、織田家とは旗の印が異なるだけでしかない。他国者に過ぎない。多くの者たちがそう考えていた。