全ては霧の中
視界が悪い。
丘を上る街道、道路の白い線も、ガードレールもどんどん霧に包まれ見えなくなっていく。
対向車さえすれ違う直前まで軽なのかトラックなのかさえ判然としない。
お互いのライトの光は拡散するばかりで。
目の前を照らすどころか、自分の位置と大きさ、距離を知らせる、と言う役目まで放棄し今やお互いを幻惑させようとさえしている。
「これほどとはね。……少し休むか」
だいたいが。
今日は夜半にかけて視界が悪くなる、彼はそれは仕事中にラジオを聞いていて初めから知っていた。
それでも今日、彼には夕食の後、――ちょっとタバコ買いに行ってくるわ。
そう言ってエンジンに火を入れざるを得ない事情が出来たのだ。
「あなたの唯一の趣味みたいなものだからあまり、……言いたくないんだけど」
彼の妻は食器を洗いながら話を始めた。
――通勤にだって使うのだし、もう少しだけ燃費の良い車には出来ないものかしら。
――税金だって毎年7万円以上でしょ? ……ううん。それは良いんだけど、でも聞いたら伊藤さんちのクルマはうんと税金が安いんですって。
――それにあなたのクルマ、車検だって交換の部品とか整備代が普通のクルマより高いし。
初年度登録から既に20年以上経つ大排気量の、彼曰く元高級車。
その辺の費用が安くなる道理などある訳が無い。
彼が結婚する前から既に年代的には元高級車だったクルマである。
手に入れたときはちょっとイタい感じの改造が成されていて当初はただ、元に戻すのにはなかなかに弄りがいがありそうだ、としか思わなかったクルマ。
――凄いクルマに乗っているんですね、あの、ヤクザとか暴走族みたいなことでは無い、んですよね?。当時付き合うことになった女性には、おずおずとそう言われた。
――私の軽でも十分広いし100キロ以上出すトコって無いし。……でしょ?
――あぁ、違うの。……ね、きいて? 私、なにも軽にしろとか言ってるわけじゃ無いんだよ?
まだ高級車であった時代にいろいろと改造された部分を結果、丸1年かけて戻した元高級車。
後に彼の妻になる女性とも、会うときは必ずこのクルマだった。
その後。
新婚旅行の飛行場へも、息子を家に迎えるために病院に行ったときも、孫の顔を見せに実家に行ったときも。家族揃って初めて行った海水浴も。必ずこのクルマだった。
――そろそろ幼稚園だし、学費的なものも積み立てなきゃだし、それにあの子だって年末にはお兄ちゃんだし……。
――あのね、どうしてもって言う話じゃないの。それにあなたがあのクルマ好きなの、私一番良く知ってるよ? あなたの相棒なんだって。
――それに私だって大好きなんだ、ホントだよ? あのクルマにはいっぱい思い出だってあるもの。
彼女と入れ違いに台所に立った彼は、レンジフードの下でタバコに火を付ける。
そしてその仕草を見て彼の機嫌が悪いことを彼の妻は悟った。
――ごめんなさい、怒んないで。えーと、あのね? 私はただ……。
彼は妻が言葉をつなぐための間を嫌い、タバコを水につけて缶の中に放り込んで蓋をすると、そのままリビングを抜け玄関へと向かう。
「別に怒ってやしない、ちょっとタバコ買いに行ってくるわ。ついでにその辺一回りしてくる。――あぁ、すぐに戻る」
「確かに最近は修理代がかさみすぎる。ヘタすりゃ年間50万超えるし、これ以上は金持ちの道楽だよな、お前に言われなくてもわかってる。……俺が一番良く知っているよ」
山道の中に薄ぼんやりと明かりが浮かぶ。
彼はその明かりの方向へウインカーをあげ、ハンドルを切る。道の横、砂利を敷き詰めた駐車場、色のさめたプラスチックのベンチが二つ。
そして霧の中へ光を放つ、型の古い自動販売機。
若いときからの、彼にとっての避難場所、「いつもの販売機」。である。
クルマから降りてドアを閉める。辺りには静かなエンジン音と偶に回るファンの音。
「この10年でいちご炭酸が販売終了したくらい、ラインナップ変える気ないのか……」
その色あせたサンプルさえ、自販機の目の前に立たなければ判別さえ出来ない程に、霧は濃くなっていた。
「まいったね、一晩中って事もあるまいが……。しばらく足止めだなこりゃ」
缶コーヒーのプルタブを引きつつ、湿ったベンチに腰を下ろす。
辺りを照らすのは自動販売機とクルマのスモールランプのみ。
……そこへ聞いた事のあるエンジン音が近づいてくる。
「――水平対向? あの音がするのはだいぶ古いやつだなぁ、良い音だ。今時、良く手を入れてるよ、好き者なんだろうかね? それこそ金もかかるだろうに……」
彼の予想に反してその特徴的なエンジン音は、そのまま回転を落とすと彼のクルマの隣へと乗り入れてくる。細かい部分までは見えないがシルバーの車体は、ほぼ彼の思った通りのクルマである。
「スゴいコンディションを保っている、たいしたもんだ。霧でよく見えないのが残念」
そしてそれを運転してきた若い男もまたクルマの運転を諦め、炭酸飲料の缶を手に彼の隣のベンチへと腰を下ろす。霧でその顔さえよく見えない。
「やぁ、こんばんわ。……スゴい霧だ。こうなっちゃあ、いったん避難する方が正解だね」
「あ、どうも。……そうですね視界3m弱じゃ危なくて運転できませんよ。まだ廻る所があるってのに」
どうやら彼も白線で視程距離を測っていたらしい。運転が好きなんだな。と彼は思う。
「ところで、アレはキミのクルマかい?」
「えぇ、そうですけど」
「アイドリングからして良い音だ、メンテが良いね。新車みたいだ。燃費が悪かろうが水平対向はやっぱりこうだな。僕も昔乗ってたよ。ただ僕のはオイル漏れが酷くてね」
燃費が良くなろうが、パワーが上がろうが彼にはいかにも機械である事を主張する、このエンジンの音が非道く愛おしいものに思えた。
「そうなんすか。先輩っすね。……学生の時、新車で買ったんですけど、実際に乗ると想像以上に燃費、良くないですね。コイツもオイル漏れが止まらなくて、もう諦めてます」
若者は自分の乗ってきたクルマを親指で指さす。
「……へぇ、新車で?」
「えぇ、昼は学校、夜はバイト。危うく何度か単位を落としかけました」
「――なるほど。……まぁ安くは、ないだろうしねぇ」
「更に多少いじってるんで、もう燃費とか言え無いっすよね。だいたいパワーあげようとするとどうしても……」
彼は若者が始めた自分の車の故障自慢をしばらく聞くことにした。
「ところで。……いきなりなんだけど、キミは占いとか予言とか、そう言うものは信じるタチかい?」
「……は?」
「あぁ、嫌いならそれで良いんだ。聞き流してくれ。……僕の脳もオイル漏れだ」
「いえ、構わないですけど。……なんです、唐突に?」
彼にとっては全く唐突ではなかったし、このやりとりは必然でさえあった。
それでも一応最初にそう尋ねなければならなかった。背中に汗が伝う。
「ならば二つだけ、僕の話を聞いてくれ」
そう、彼が伝えるべきはったった二つで良いはずだった。
「災い転じて福と成す、と最初に言っておこう」
「え? 何か、悪い事があるんですか?」
彼はコーヒーを飲み干し、ベンチに挟まれたゴミかごに放り込む。
少し霧が晴れてきたようだ。胸のポケットをまさぐる。
「キミのクルマは多分。そう遠くない将来に、……壊れる」
「え、直せないんですか? ……まだ今年いっぱい燃調のローンが」
「まぁ、換えの車はすぐに見つかるだろうから心配は要らない」
――僕に換えの車は要らないですよ、意地でも直します。そう彼が力説するのを横目に見ながらタバコをくわえて火を付ける。霧の中赤い光が小さく拡散していく。
「二つ目、車を換えた辺りから人生の転機が始まる、だけど」
「……だけど?」
「それはクルマのせいじゃない。それだけは忘れちゃいけないよ」
ふぅ、と彼はタバコの煙を吐き出す。霧と混ざってもタバコの煙は自己主張をしているように見えた。
「あはは……、それは予言、なんですか?」
「あるいはおっさんからのアドバイスかもな。結局クルマは道具だよ、ってね」
「あんな凄いクルマに乗っててそう言われると、なんかカッコイイっスね」
「言う程割り切れるもんじゃない。それこそ未練たらたらさ……。お、風が出てきたね」
「霧も晴れてきました。――じゃ、行くトコあるんで僕はコレで」
――気をつけてな。彼の言葉にハザードランプで答えると、その独特なエンジン音を響かせながら、銀のクルマは霧の中へと消える。
「確かこんな感じだったはずだが、十年も前の話だからなぁ。……ま、理解しようがしからまいがそんな事はどうでも良いんだな。今になって漸くわかった」
タバコをもみ消すとベンチに針金でぶら下がったカンに放り込んで彼は立ち上がる。
いつの間にかある程度視界が開けた自販機の先、おざなりに木で作った柵の向こうに、霧で煙った街の灯が見える。
「せめてお前が解体屋に行かないように、だれか貰い手を探さなくっちゃな」
そもそもは彼の友人が想像以上の維持費の高さに維持が出来なくなった上、免許も取り消しになり、手放なそうにも改造が祟って買い手も付かず、宙に浮いていたクルマ。
「解体屋巡りしてたときが一番楽しかったのかも、な」
そのタイミングで当時乗っていたクルマが致命的に故障し、修理には100万単位でかかると言われ頭を抱えた彼が、偶然格安で手に入れることになった元高級車のボンネットに手をかける。
「ただ愚痴りたかっただけなんて誰が思うよ。何が予言だ……」
そう呟くと彼はクルマに乗り込む。
いかにも高級車然とした重々しい音でドアが閉まる。
セルの甲高い音、そして静かに自己主張する重々しいエンジン音。
ウインカーをあげた元高級車は、うっすらと霧に煙る山道へと静かに滑り出していった。