八
「ここは両世界連合が持っているセーフハウスの一つだった所だ。今は放棄されているら
しいから誰かが来るという心配もないはずだ」
「加耶音がこの場所を知ってて良かった。外に出たらすぐに雨が降って来たからな」
「そうだな。だが、既にお互い濡れ鼠だ。着替えと体を拭く物があると良いのだが」
柿郎と加耶音は昨日出会った場所の近くにあった廃屋のような一軒家に併設されている
ガレージの中にいた。
「外から見た時は今にも壊れそうだったけど、中は意外と綺麗だ。これなら着替えとかも
あるんじゃないかな」
柿郎はガレージの右の壁にあった扉を開け、そこから入って行けるようになっていた家
の中を見た。
「柿郎。人の姿に戻るが、あまりこっちを見ないで欲しい」
柿郎はフェンリーの方に顔を向けた。
「どうしてだ?」
「まだ服がないからだ。毛を利用して、ある程度は隠す事ができるが、それでも破廉恥な
格好になる」
「なら、服が見付かるまで今の姿でいれば良いじゃないか」
「ここは狭い。少しでも動いてしまったら建物が壊れそうだ」
柿郎は家の中に顔を向けた。
「分かった。じゃあ、加耶音は人の姿に戻ってここで待ってて。俺が家の中に行って来る」
「いや。一緒に行く」
加耶音のいた方から小さな足音が聞こえて来る。
「加耶音。もう人の姿に戻ったのか?」
思わず顔を向けつつ柿郎が言うと、フェンリーがくるりと回って背中を向けて来た。
「あまり見るなと言ったばかりだぞ」
「ごめん」
柿郎は慌てて顔を前に向けた。
「そこまで露骨に顔の向きを変えなくても良い」
柿郎は顔を前に向けたまま口を開く。
「でも見るとまた怒られそうだからこのままでいるよ」
「見たくはないのか?」
「見せたいのか?」
「見せたくなどはないっ。だが、少しくらいなら見られても良い」
「何だよそれ」
「……。何なのだろうな。私にも良く分からない」
「加耶音が分からないのなら俺なんてもっと分からないぞ」
「確かにそうだな」
「そうだよ」
お互いに言葉を出さなくなり、沈黙が帳を下ろす。
「家の中行くんだったよな。行こ」
柿郎はわざと大きな声で言いながら歩き出す。
「そうだったな」
フェンリーの足音がついて来る。
「私はフェンリーだが、加耶音でもある。お前は私を加耶音と呼ぶが、私は自分をフェン
リーだと思っている。不思議な感じだ」
背後からフェンリーが語り掛けて来る。
「加耶音って呼ばれるのは嫌か?」
「嫌ではない。これからも加耶音と呼んでくれて構わない」
「ありがとな。耳とか尻尾とか、見た目は少し変わってるけど、やっぱり俺にとっては加耶音なんだ。どこをどう見ても、言葉遣いは違うけど、その声だって。どうしてこんな事になっちゃったんだろう。俺があの時もっとしっかりしてれば。俺が加耶音を守れば良かったんだ」
「柿郎。過去の事をあれこれ言っても何も変わらない。これからの事を考えろ。私とお前
はこうして一緒にいるんだ。また会えたんだぞ」
「そうだな。加耶音がいなくなった時は本当にショックだった。こうやって再会できただ
けでも幸せなんだよな」
「すまないな。柿郎。私が記憶を消すなどという事をしてさえいなければ。こうしていて
も本当はお前は辛いのではないか?」
会話をしながら歩き回ったが、服やタオルなどを見付ける事はできなかった。
「さっき上に行く階段あったよな。上の階に行ってみよう」
「ああ」
階段の場所まで行き、階段を上って行く。
「加耶音はどうなんだ? 思い出さなきゃって思って辛くなってないか?」
「柿郎は優しいな」
「前はこうじゃなかったんだ。加耶音に良く辛く当たってた。俺をいじめとかから守って
くれてたって話ししたろ。加耶音の立場まで悪くなってたからな。好きだったけど、遠ざ
けなきゃいけないって思ってた」
「表世界か。酷い所なんだな」
「そうでもないよ。俺が、俺の生まれが良くなかっただけだ」
「今は私も同じ立場だ。お前は向こうに帰りたいのか?」
「どっちでも良い。加耶音がいたい方にいる」
「お前は、本当に加耶音が好きなんだな。自分の事なのだがな。本当にすまない」
「気にしないでくれ。案外こうしているだけでも幸せなんだ。いなくなった時の事が相当
にショックだったらしい」
「そうか。では、お前をこらしめたいと思ったら、ふっといなくなれば良いのだな」
「それだけは絶対にやめてくれ。今度いなくなられたら、立ち上がれる自信がない」
不意に柿郎の脳裏に別れ際に聞いたコッドの声が蘇った。
「分かった。ではいなくならないようにする」
柿郎は心の中でコッドに謝りながら口を開いた。
「頼むな」
「ああ」
階段を上り終え廊下を進んで行っていた柿郎はドアを見付けたのでその前で足を止めた。
ドアを開けて部屋の中に入ると、壁際に階下には置かれていなかったベッドと洋服箪笥が
置かれていた。
「タオルも着替えもある。柿郎。早くその濡れている服を脱げ。体を拭いてやろう」
箪笥に飛び付いたフェンリーが引き出しを開けると嬉しそうに声を上げた。
「恥ずかしいから自分でやる」
「遠慮をするな。加耶音はこういう事をしたがったのではないのか?」
柿郎は思わずフェンリーの顔をじっと見つめた。フェンリーが柿郎の顔を見て、すまな
そうな表情を見せた。
「余計な事を言ったな」
「気を使わせてるのこっちこだ。ごめん」
柿郎はフェンリーに向かって手を伸ばした。
「ん? 何だ?」
「そのタオル貸してくれないか?」
フェンリーが小さく微笑んだ。
「私に拭かせろ。これは、フェンリーであり、加耶音でもある私が心からやりたいと思っ
て言ってるんだ。これでどうだ?」
柿郎は顔が自然に綻ぶのを感じた。
「加耶音は大雑把な性格だった。今のその言葉の感じ、本物の加耶音みたいだ」
フェンリーが立ち上がりタオルをバサッと柿郎の頭の上にのせる。
「私は本物の加耶音でもあるのだぞ」
「そうだったな。じゃあ、頼む。けど、服を脱ぐのはちょっと。それと先に自分の方を拭
いてくれ」
「黙って脱げ。自分を拭きながらお前の事も拭くつもりだ。それに、お前の裸など見ても
何とも思わない。もちろん、見えてはいけない部分は隠すのだぞ。ほら。このタオルを使え」
柿郎はタオルを受け取る。
「じゃあ、脱ぐ」
「ああ。そうしろ」
「こういう言い方は良くないとは思うんだ。けど、本当に加耶音が戻って来たみたいだ」
「そうか。それなら私は今のままでいても良いのかも知れないな」
柿郎はタオルを腰に巻き、濡れた服をすべて脱いだ。
「その事なんだけど、俺はまだ願を使ってないんだ。願を使って加耶音の記憶を戻す事も
考えてる。加耶音はどう思う?」
「願を使う、か。今の私を残したまま加耶音の記憶を戻すという事もできるな。それでも
良いか?」
「もちろんだ」
「よし。拭き終わった。着替えだ」
「ありがとう」
柿郎はフェンリーから受け取った着替えを着ると、濡れた服を拾い上げた。
「だが、本当にお前はそれで良いのか? 他に願を使いたい事はないのか?」
顔を巡らせて濡れた服を干す場所を探していた柿郎は少し俯くと口を開いた。
「加耶音が側にいてくれれば、それで良いんだ」
「そうか。私は幸せ者だ。柿郎。その気持ちはとてもありがたい。だが、願を使うのはや
めろ」
柿郎は加耶音の方に顔を向けた。
「どうしてだ? 願を使う事に賛成してくれるんじゃないのか?」
「私はここにいる。お前はそれじゃ不満か?」
「それは」
「こんな事に願を使っては駄目だ。お前の願はお前自身の為に使え。私は思い出す。必ず
加耶音であった時の記憶を取り戻す。だから、柿郎。いつになるかは分からないが、それ
まで我慢してくれないか?」
柿郎は脱力してその場に腰を下ろした。
「まいった。加耶音だ。記憶がなくっても加耶音なんだな。加耶音は言ってたんだ。自分
の為に願を使うなって。まいったな、ほんと」
柿郎は顔を俯けると、静かに泣いた。
「すまない。お前の気持ちは分かっているつもりだ。だが、お前の願を大切にして欲しい」
「違うんだ。加耶音が願を使う事に反対したから泣いてるんじゃない。加耶音だって心か
ら思えた事が嬉しいんだ」
「泣くな。私まで泣きたくなって来る」
「ごめん。情けないよな。すぐに泣きやむから」
柿郎は濡れていた服と一緒に持っていたタオルを顔に当てた。
「こっちを使え」
フェンリーが柿郎の顔にまだ濡れてないタオルを押し当てながら座って抱き締めて来た。
「加耶音」
「温かいな。これが柿郎の温度なのだな」
「加耶音だって温かい。加耶音ってこんなに温かかったんだな」
フェンリーがタオルを持つ手を引いた。柿郎とフェンリーは見つめ合う。フェンリーが
すっと目を閉じた。
「加耶音」
「柿郎」
二人の顔が自然に近付いて行く。柿郎も目を閉じた。パチパチパチと軽薄な拍手の音が
ドアの方から聞こえた。柿郎は目を開け、顔をドアの方に向ける。
「フフェア!」
フェンリーが驚きの声を上げた。
「何で!?」
柿郎は愕然した。
「邪魔してすいません。中々感動的なラブシーンでしたよ。フェンリー。お疲れ様でした。
見事に柿郎君を連れて来てくれましたね」
「フフェア? 何を言っている?」
「そんなに驚かないで下さい。君をただの善意から柿郎君の所に行かせるはずないじゃな
いですか。我は悪者ですよ」
フェンリーが立ち上がる。柿郎も立ち上がった。
「私達は仲間だろう?」
フェンリーがすがるように問い掛ける。
「もちろんです。ですが、悪事を働く組織の仲間です。フェンリーもその辺りの事は理解
していますよね? 理解しているのならば、ここはひいて下さい」
「加耶音」
柿郎はフェンリーの顔を見た。フェンリーも柿郎の顔を見て来る。フェンリーが何も言
わずに動くと、柿郎を庇うように前に立った。
「フフェア。柿郎に何かする気ならやめておけ。手出しはさせない」
フェンリーが冷静に強い口調で言い放つ。
「おやおや。二人はそこまで気持ちを通わせましたか。まあ、そうですよね。たった今、
接吻をしようとしていたのですからね。だが、フェンリー。君の出番はここまでです。柿
郎君。君は私と一緒に来て下さい」
フフェアが部屋の中に入って来る。
「私を利用したのか?」
「難しい所ですね。きっとこうなるとは思っていましたけれどね。君達はこっちの世界に
不慣れです。更にフェンリー。君は大雑把な性格ですから。行く場所も大体見当はつきま
す」
「柿郎をどこに連れて行くつもりだ?」
「とりあえずはアジトです。その後は、オークション会場へ連れて行って売ります」
「心配するな、柿郎。私が何とかする」
「加耶音」
「我の力をお忘れですか?」
フフェアの目が赤く光る。
「柿郎逃げるぞ」
フェンリーが振り向くと、柿郎を抱き上げて走り出す。
「おおっ。どうするだ?」
「窓を突き破る」
フェンリーがドアの反対側の壁にあった窓に向かって行く。
「野蛮ですね。柿郎君に怪我をさせないで欲しいのですが」
フフェアの余裕のこもった声が背後から聞こえて来る。窓枠と窓ガラスを突き破り、フ
ェンリーとフェンリーに抱き上げられている柿郎は家の外に出る。ガレージの屋根に下り
ると、フェンリーが口を開いた。
「柿郎。ここから下りたら一人で逃げろ。私が残ってフフェア達を足止めする」
「フフェア達? フフェア一人じゃないのか?」
フェンリーが雨にけぶる周囲の家並みに目を向けた。
「リョーリョー」
「リョー」
フェンリーの言葉に呼応するように奇妙な声が聞こえて来た。
「あの声。あの変な奴らか?」
「両世界連合の戦闘員だ。一人一人の力は大した事ないが、数が多い。下りるぞ」
「うん」
柿郎を抱き上げたままフェンリーがガレージの屋根から飛び下りた。
「私が合図したら逃げるんだ」
着地すると、フェンリーが柿郎を地面の上に下ろす。
「加耶音。俺も一緒に戦う」
「何を言っている? 逃げろ」
「嫌だ。もう二度と離れたくない」
「駄目だ」
「俺は逃げない」
「足手まといだ。私一人ならどうにかなる」
「リョー。リョー」
「リョー」
戦闘員が集まって来た。
「加耶音。話をしてる場合じゃないみたいだ」
一番近くまで来ていた戦闘員が二人に向かって駆け出した。
「リョー」
戦闘員が柿郎に向けて飛び掛かって来る。
「柿郎」
加耶音が叫び、柿郎を庇おうと動く。だが、先手を取っていた戦闘員の方が僅かに早かった。加耶音の横を通り抜け、柿郎に向かって腕を伸ばして来る。柿郎はそれをギリギリの所で避けると、その戦闘員の腹部に蹴りを入れた。
「危なかった。けど、俺だってやられてるばっかりじゃないんだ」
「リョ」
戦闘員が崩れ落ちるようにして倒れる。
「リョーリョー」
「リョリョー」
二人の戦闘員が倒れた戦闘員に駆け寄ると、助け起こしてどこかへ連れて行く。
「こいつらは仲間思いなんだ」
フェンリーが柿郎に体を寄せて来る。
「変な事言うなよ。これから戦おうって時に」
「大丈夫だ。私が皆を優しく倒す」
「何だよそれ。そんな事できるのか?」
「できないな。だが心の中ではそう思っている」
フェンリーがフェンリルに変身する。
「戦闘員の皆。私は本気でやるぞ。怪我をしたくなければ退け」
フェンリーが口から炎を吐き出しつつ咆哮した。
「リョー」
「リョー」
戦闘員達に動揺が走る。
「加耶音。戦わないで駆け抜けた方が良いんじゃないか?」
「そうしたいが、フフェアがいる。やはりここは私が残った方が良い」
「それさっき話しただろ」
「さっきは話の途中だった」
「じゃあ、今度も途中で終わりだ。加耶音。背中に乗せてくれ」
「おい。勝手に体に登るな。逃げろと言っている」
「もう乗ったからな。こうなったら一緒に逃げるしかないぞ」
「お前、結構強引な性格だったのだな。もっと大人しいと思っていた。まったく、困っ
た奴だ」
フェンリーが疾風のように走り出す。
「リョー」
「リョリョー」
戦闘員達がなす術もなく強風に吹かれる木の葉のように散り散りになってフェンリーから逃げて行く。フェンリーが大気を斬り裂く弾丸のごとくに加速する。路地を駆け抜け塀を飛び越え建物の屋根を蹴って高く飛んだフェンリーがそこここにある建物の屋根の上を八艘跳びのようにして渡って行き始める。
「加耶音。このまま」
柿郎は途中で言葉を切った。
「どうした? 舌でも噛んだか?」
「違う。逃げるのは良いけど、どこへ行く?」
「行きたくはないがお前のいたあの城へ戻ろうと思う。私はともかくお前の安全は保障さ
れるはずだ」
「加耶音だって大丈夫だ。何かされそうになったら俺が何とかする。けど……。あんな風
に出て来たんだ。今更戻るってのも何というか、気まずいというか」
「面倒臭い奴だな。さっきの強引さはどうした?」
「いや。でも、コッドの事があるし」
「……。そうだな。思えば酷い事をしてしまった」
「何だよ。戻ろうって言ったのは加耶音だぞ」
「そうだが。柿郎! 止まるぞ」
「どうした?」
フェンリーが屋根の上から地面の上に下り、足を止めた。
「やはり来たか」
「加耶音?」
「フェンリー。もう逃げるな。逃げたら殺す」
ウシーデラがヒラリと柿郎とフェンリーの眼前に舞い降りる。
「フェンリー。逃げる。駄目」
ロミアがドスドスと大きな足音を立てながら柿郎とフェンリーに向かって駆けて来る。
「私達を逃がしてくれないか?」
ウシーデラと駆け付けたばかりで息を荒くしているロミアに向けてフェンリーが声を掛
けた。
「逃がせだと? フェンリー。そんな事できると思ってるのか? 殺すぞ」
「フフェア。駄目。言ってた」
「私は二人とは戦いたくない」
フェンリーが重々しい口調で言う。
「ウシ達だって同じ気持ちだ。本当はお前と殺し合いはしたくねえ。そう思うのなら、逃
げるのをやめてそのガキを渡せ」
「フェンリー。それ。良い。一緒。帰ろう」
ロミアが気遣うように言う。
「すまないがそれはできない。フフェアは柿郎を売るつもりだ。私は柿郎と離れたくない」
フンっとウシーデラが鼻で笑う。
「随分と勝手じゃねえか。自分の男とは離れたくねえか。両世界連合が人身売買をしてる
事はお前も知ってるはずだ。それでもそんな事が言えんのか。お前、死んだ方が良いぞ」
「ウシーデラ。酷い。フェンリー。考え。直せ」
フェンリーが目を伏せる。
「理不尽で手前勝手な事を言っている事は分かっている。だが、それでも私は柿郎と離れ
たくない」
ウシーデラが舌打ちする。
「最悪だな。情けねえ。殺す価値もねえ。この馬鹿野郎。ロミア。やめだ。フフェアには
ウシが適当に言い訳する。お前は何も言うんじゃねえ。おかしな事言ったら殺すぞ」
ロミアが巨体を揺るがして飛び上がる。
「ウシーデラ。良い。良い。考え。おい。何も。言わない。全部。任せる」
「ウシーデラ。ロミア」
フェンリーが声を震わせながら二人の名を呼んだ。
「早く行かねえと殺すぞ。フフェアが来たら面倒くせえ」
「早く。行く。また。どこかで。会う」
ロミアが嬉しそうに言う。
「加耶音。行こう。二人ともありがとう」
今まで黙って三人のやり取りを見守っていた柿郎は言葉を出した。
「おいガキ。フェンリーを頼むぜ。泣かしたら殺す」
ウシーデラが凄んで来る。
「二人。幸せ。なる。おい。願ってる」
ロミアがまた飛び上がった。
「二人ともすまない。また会おう。柿郎。行くぞ」
「うん」
フェンリーが駆け出そうとする。
「おっと。何をしているかと思えば、君達はまったく。友情ごっこも良いですが、今は組
織の仕事を優先して欲しいですね」
フフェアがフェンリーの前に翼をはばたかせつつ下りて来た。
「フフェア」
「フェンリー。逃げろ。早く行かねえと殺すぞ」
「フフェア。フェンリー。見逃す」
「やれやれですね。では。こうしましょう」
フフェアの目が不気味に赤く光った。
「フェンリー。殺す」
「フェンリー。倒す」
ウシーデラとロミアがフェンリーに向かってゆっくりと歩き出す。
「フフェア。やる事が汚いぞ」
フェンリーが咆哮した。
「こうした方が面白いではないですか。それとも。柿郎君と戦いたいですか?」
「加耶音。落ち着け。さっきみたいに走って逃げよう」
「ウシーデラは私よりも早い。逃げ切れない」
言葉を返そうと柿郎は口を開いたが、言葉が出て来なかった。
「柿郎君には少し黙っていてもらいましょうか。さあ、フェンリー。ウシーデラとロミア
と戦って下さい。君が勝ったら柿郎君を解放してあげましょう」
柿郎の体が勝手に動き出し、フェンリーの背中から降りてしまう。
「柿郎」
「柿郎君も我の手の中です。フェンリー。今、君にできる事はウシーデラとロミア、この
二人と戦うという事だけですよ」
フフェアがにんまりと微笑んだ。
「フフェア。こんな事はやめてくれ。私は仲間とは戦いたくない」
「本当に勝手な人ですね。戦いたくないのは結構ですけれど、どうします? こちらの二
人はやる気のようですよ」
フェンリーの側まで来たウシーデラが歩みを止める。ナイフを二本抜き放つと、刃先を
フェンリーに向けた。ウシーデラと並んで立っているロミアが両手を体の前に出す。大き
な手を握り拳を作る。
「二人とも正気に戻ってくれ」
「何を言っても無駄です。分かっているはずですよ。けれど。そういう反応は悪くはないですよ。精々頑張って下さい」
フフェアが嬉しそうな声を出す。
「フェンリー、死ね」
「フェンリー。倒す」
ウシーデラとロミアがフェンリーに襲い掛かる。フェンリーが後ろに飛びさがり、二人
から距離を取った。
「逃げても良いですが、柿郎君がどうなりますかね」
「フフェア。頼む。やめてくれ」
フェンリーが悲痛な声を上げた。フェンリーの言葉に応えるかのように、ウシー
デラとロミアが再度襲い掛かる。
「二人とも。やめてくれ」
ウシーデラのナイフがその場から動かなかったフェンリーの体に突き立てられる。ロミアの重々しい拳がフェンリーの体を打ち据える。
「いやはや。君は恐ろしいですね。ウシーデラのナイフもロミアの拳もまったく効いては
いないのでしょう?」
ウシーデラのナイフもロミアの拳もフェンリーの体を覆う獣毛に遮られその真価を発揮
するには至っていなかった。
「それではこうしましょうか。ロミア。その邪魔な毛を掻き分けて皮膚を露出させなさい。
ウシーデラ。君はそこをぐっさりと刺すのです」
ロミアが右手を開く。開いた右手が拳を握っている左手の手首を掴んだ。
「おや? ロミア? どうしたのです?」
ロミアは何も言わない。ロミアの体がガクガクと震え始める。
「何と!? これは凄いです。我の力に抵抗しているとは。ロミア。君は素晴らしい」
ロミアが両膝を地面に突く。
「面白いですね。どこまで抵抗できるのか、見てみたくなりましたよ」
フフェアの目の光が強くなる。
「おおお。おおおお。おおおおおおおおお」
ロミアが吠えた。体の震えが激しくなり、膝が地面にめり込んで行く。
「そこまで抵抗しますか。我は人望がないのですかね。もっと力を強くしても良いのです
が、そうすると、柿郎君とウシーデラを自由にする事になってしまいそうです。ウシーデ
ラ。我に逆らうロミアにお仕置きをして下さい」
ウシーデラがロミアの首筋に向けてナイフを振り下ろす。だが、ナイフは微妙に首筋か
ら外れ、ロミアの身に付けている甲冑に当たって弾かれた。
「何と?! 君もですか。我に逆らうとは。我は本気で怒りたくなって来ましたよ」
フェンリーが咆哮する。
「ウシーデラ。ロミア」
「フェンリー。逃げろ。殺すぞ」
「フェンリー。逃げる」
ウシーデラとロミアが絞り出すように声を上げ、同時に倒れた。
「気を失いましたか。まったく。我の支配に逆らったりするからですよ。ですが、これは
困りました。駒がいきなりなくなるとは」
フフェアが柿郎の方に顔を向ける。
「そうでした。もう一つ駒がありましたね。フェンリー。すいませんね。やっぱり柿郎君
と戦って下さい。けれど。君も悪いのですよ。早く二人と戦わないから」
柿郎の体が勝手にフェンリーに向かって走り出す。
「柿郎」
「柿郎君には何ができますかね。おっと。良い事を思い付きました」
フェンリーの方に向かっていた柿郎の足が突然止まる。柿郎の目の前にはウシーデラが
倒れていた。柿郎の目にウシーデラのナイフが映る。
「拾ってもらいましょうか」
体が勝手にしゃがみ、手がウシーデラのナイフを一本掴み上げた。
「何をさせる気だ」
フェンリーが柿郎の元に向かおうとする。
「まだ何もさせていませんよ。動かないで下さい」
「私を操れ。柿郎に手を出すな」
「それでは、気がすまないのですよ。君が悪いのですから。君にはたっぷりと苦しんでもらわないと」
柿郎は立ち上がると、ナイフの刃先を自分の喉に向ける。
「柿郎を殺す気か?!」
「柿郎君。サクッと、どうぞ」
ナイフを持つ柿郎の手が、上に向かって動く。ナイフの刃先が柿郎の首をかすめ、一筋の傷ができあがった。
「わざとずらしてあげたのですよ。次はどうしましょうか」
フェンリーが人の姿に戻る。
「やめろ。手を出すなら私にしろ」
「なるほど。良い考えです。その姿なら、柿郎君にでも傷付けられそうですね。柿郎君」
柿郎は加耶音に向かって歩き出す。
「まずは、フェンリーの両腕を切り落としましょうか。こうした方が、君達二人がより苦しむ事になりますからね。実に喜ばしい事です」
「加耶音。逃げろ」
柿郎の喉に声が戻った。
「サービスです。好きな人の腕を切る時、柿郎君が何を思うのか、聞かせてもらいましょ
う」
「私の腕を切ったら、柿郎を解放しろ」
フェンリーが両腕を前に向かって伸ばした。
「自己犠牲ですか。どうしましょう。腕を切るだけで満足できますかね」
柿郎はフェンリーの横に立つとナイフを振り上げた。
「逃げろ加耶音。逃げてくれ」
柿郎は叫んだ。
「柿郎。大丈夫だ。お前を守ると言ったはずだ。私を信じろ」
「つまらない反応ですね。泣き喚いて良いのですよ」
キュイーンというどこかで聞いた事のあるような音が柿郎の耳に入って来る。柿郎の目
前の空気が不意に歪んだ気がした。
「柿郎。もう大丈夫なのです」
コッドの囁くような声が聞こえ、柿郎のナイフを振り上げている手が下からそっと押え
られる。
「コッド?」
「消えるのです」
キュウーンという甲高い音が鳴り響き、一筋の黄金色の閃光が柿郎の眼前からフフェア
に向かって伸びた。
「?!」
フフェアが光に気付いた瞬間、フフェアの姿が消滅した。
「間一髪なのです。柿郎。無事で良かったです」
ジジジジという音とともに、コッドの姿が柿郎の目前に現れた。
「コッド」
「私達を助けに来てくれたのか?」
「ドッグ達がうるさいから仕方なく来たです」
コッドが後ろに顔を向ける。
「小生達では、フフェアに近付けないからな」
「コッド。見事でございます」
「フフェア、消滅しちゃったすな」
ドッグ、ウルフィー、カイが建物の陰から現れた。
「皆……。ありがとう」
ナイフを捨てながら言った柿郎の言葉を聞き、ドッグが優しい笑みを見せた。
「フフェアを追っていたのは仕事の一環だ。当たり前の事をしたまでだ」
ウルフィーがウッホンと咳払いをする。
「その昔、主様が何度目かは忘れましたが、家出をされた事がございまして。理由は、確
か、自分探しでございましたか。その時に、表世界で幼い男の子と女の子に拾われたそうなのでございます」
「おい。ウルフィー。何を言い出すんだ」
「今がこの話をする絶好の機会と思いまして。さあ、主様。犬の姿になって下さいまし」
「今か?」
「今でございます」
「嫌だ。大体、小生は犬ではない。狼だ」
「またそんな嘘をおっしゃる。犬でも良いではございませんか」
「どういう事なんだ?」
「何の話をしている?」
柿郎とフェンリーが言うと、コッドが絶対消滅光線砲の砲口をドッグに向ける。
「これも言う事を聞いたです。ドッグも言う事を聞くです」
「コッド。それとこれとは話が違うぞ」
「違わないのです。早くするです」
「主様」
「久し振りっすね。早くなるっす」
ドッグがその場に座り込む。
「分かった。なれば良いのだろう。なれば」
ドッグの体が黒色の獣毛に包まれる。
「うわっ。かわいい」
「これは」
「少年。主様のこの姿を見て、何か思い出す事はございませんか?」
ウルフィーの言葉を聞き、ドッグの変身した黒色のポメラニアンをまじまじと見つめた
柿郎ははっとする。
「ああ。この犬。フェンリル?」
「フェンリル……。柿郎。記憶が、加耶音であった頃の記憶が」
フェンリーがその場に崩れるようにして座り込む。
「加耶音?」
「大丈夫か?」
「すぐに家の方に戻った方がよろしいかと」
「これが運んでやるです」
「そこに倒れてる両世界連合の二人はどうするんすか?」
「私なら大丈夫だ。少し、頭が痛くなっているだけだ」
フェンリーが顔を上げる。
「加耶音。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。そんな事より、記憶が戻って来ている。不思議な感じだ。柿郎が今までの柿
郎ではない感じがする」
「奇跡だ。やった。やったな加耶音」
柿郎は加耶音を抱き締めた。
「柿郎」
加耶音が柿郎を抱き締め返して来る。
「フフェアが消えたからだ。お前ら、一人くらい殺させろ」
ウシーデラの声がする。
「フェンリー。悪かった。おい達。嘘。ついてた」
ロミアの声もする。
「フフェアが消えたから? 嘘? 何を言ってるんだ?」
柿郎は加耶音を抱き締めたまま、ウシーデラとロミアの方に顔を向けた。既に立ち上が
っていた二人が、柿郎の方に顔を向けて来る。
「願を使ったと聞かされていただろ。あれは嘘だ。ウシ達がフェンリーを見付けた時、フ
ェンリーは眠っていた。フフェアが自分の力と催眠術を組み合わせて、フェンリーの記憶
を塗り替えたんだ。ウシは殺させろって言ったんだけどよ」
「フェンリー。記憶。消す。願って。ない」
柿郎は加耶音の方に向き直る。
「やっぱり。俺は加耶音が記憶を消すなんて絶対にしないって信じてた」
「柿郎」
二人は見つめ合う。
「何見つめ合ってるです? 面白くないのです。きいぃーなのです」
コッドが荒んだ目を向けて来る。
「ウシーデラにロミア。悪いが、小生達と一緒に来てもらおう」
いつの間にか人の姿に戻っていたドッグがウシーデラとロミアに近付いて行く。
「ウシ達を捕まえる気か? 殺すぞ」
「戦えるんすか? フフェアの力に逆らったから、相当弱ってるはずっすよ」
「リョーリョー」
「リョー」
奇怪な声が聞こえ、戦闘員達がそこかしこから現れた。
「たまには役に立つじゃねえか。ロミア。今のうちだ。逃げるぞ。早く来ねえと殺すから
な」
「分かった。おい。走る」
「待て」
「お待ちなさい。でないと」
「逃げ切れないっすよ」
「柿郎。すまない」
「加耶音?」
加耶音が柿郎の腕の中から飛び出して行く。追おうとするドッグ達三人の前に加耶音と戦闘員達が立ちはだかる。
「見逃してやってくれ。あの二人は私の仲間だ。私を助けてくれたんだ。頼む」
「リョーリョー」
「リョリョー」
「そこをどくです。どかないと撃つのです」
コッドが三人と加耶音の間に割り込んで来て、加耶音に砲口を向ける。
「コッド。やめろ」
柿郎はコッドの側に駆け寄ると砲口の前に立った。
「そう来ると思ったです!」
コッドが飛び付いて来る。
「コッド?」
「もう放さないのです」
コッドがギュッと抱き締めて来る。
「あっ。柿郎。何してんの?」
加耶音がフェンリーらしからぬ加耶音らしい声と口調で叫んだ。
「ロミア。とっとと行くぞ。お前ら、ウシ達に殺されるまで生きてろ」
「また。会う。それまで。元気で」
「リョーリョー」
「リョー」
ウシーデラ、ロミア、戦闘員達が逃げ去って行く。
「カイ。あの二人、あれだけの速度で走って行ったが本当に弱っていたのか?」
ドッグが逃げて行くウシーデラ達を見送りながら口を開く。
「おかしいっすな。とりあえず、尾行しとくっす」
カイの体が数十匹の蝙蝠になり四散した。
「主様。どう致しましょう?」
ドッグが柿郎達の方に顔を向ける。
「仕方がない。今は帰ろう。追おうとすると、きっとまた、少女が怒る」
「御意。フフェア亡き今、両世界連合の動きも多少は鈍るはずでございますからな」
「そうだと良いがな。皆。帰るぞ」
「ちょっと。柿郎。いつまで抱き合ってるのよ。離れなさいよ」
「俺は何もしてない。コッドが勝手に」
「勝手にです?! 柿郎。どういう意味なのです?」
「主様。若いという事はそれだけで宝でございますな」
「うん? 急にどうした?」
「主様。いざ」
ウルフィーがドッグに飛び付く。
「おい。ウルフィー。何をしているんだ」
「たまには良いではないではございませんか」
「やめろ。気持ち悪い」
「酷いお言葉ございます。ですが。そう無碍に言われると余計に燃え上がるという物でございます~」
ドッグがウルフィーから走って逃げ始める。柿郎達三人は逃げ回るドッグとそれを追い
回すウルフィーを目で追い始める。
「あの二人、どうしたんだ?」
「ウルフィーはガチなのです。ドッグの事が好きなのです」
「ええ! そうなの? けど、ちょっと、そういうの、興味あるかも」
「分かるです。コッドも何か気になるです」
「おいおい。二人とも。ドッグを助けよう」
「放っておくです。いつもの事なのです。そんな事より帰るのです」
「でも」
「私はコッドに賛成かな。他人の恋路に口を出すのは良くないよ」
「そういうもんかな?」
「そういうもんなのです。ささっ柿郎。帰るです」
「ちょっと、早く離れなさいよ。いつまで抱き付いてるのよ」
「加耶音。すっかり加耶音に戻ったな」
「そう? そうかな?」
加耶音が小首を傾げる。
「うん。嬉しいよ」
「柿郎」
二人は見つめ合う。
「柿郎。これを見るです」
柿郎の首が強引に方向を変えられる。
「うがっ」
「大変なのです。柿郎が白目になったのです」
「何してんのよ。首をゴキッてやったからでしょ」
「軽くやっただけなのです。これの所為じゃないのです」
ウルフィーから逃げ回るドッグや気を失った柿郎を囲んでもめる加耶音とコッドの姿を
遠くから密かに見つめる双眸があった。
「出損なったミャ。これじゃもう出て行っても意味ないニャ」
意気消沈したジェシータはとぼとぼと城に向かって歩き出した。