二
表世界政府が用意したバスの車窓から、柿郎はぼんやりと流れて行く外の景色を眺めて
いた。高校に一度集まってこのバスに乗るまで、加耶音とは一言も言葉を交わしてはいな
い。いつものように加耶音が家まで迎えに来てくれて、登校し、教室に入ったが、挨拶す
らお互いに口にする事はなかった。加耶音もこのバスに乗っているが、男子と女子は別々
に離れて座っている。柿郎の座っている場所からでは加耶音の顔すら見る事はできなかっ
た。
「皆、静かに。聞いて下さい。もうすぐ成就の日の式会場に到着します」
引率の教師の声がスピーカーを通して聞こえて来た。
「式の流れはもう説明してあるので話しません。会場に着いたら、速やかに指示に従って
行動するように。何度も何度も言っているけれど、皆にかけられている願いを叶える力を封印している暗示を解く時だけはくれぐれも、くれぐれも、注意をして下さい。何を願うかは皆の意志に任されていますが、その事で他の人に何かあったら大変です。場合によっては罪に問われる場合もあります。皆、良いですね? 暗示を解く鍵をもらってもすぐには暗示を解かない。解いてしまってもすぐには願を使わない。くれぐれも、くれぐれも気を付けて下さい」
今まで騒々しかった車内が水を打ったように静まり返る。誰もが、目前に迫った願を叶える時に向け、今までよりも緊張し始めているようだった。
「先生。質問。暗示を解くのって、ずっと後でも良いんですよね? 何年とか経っても良
いんですねよ?」
女子生徒の一人が声を上げた。
「前に説明があったはずですよ。でも、気持ちは分かります。先生も君達と同じ時にはいろいろ心配になりましたからね。もちろんです。必要が生じた時に使う権利が皆にはあります。ですから、いつ使うかは基本的には皆次第です。けれど、願は私達人類にとって貴重な物です。この世界の為に使うというのが一般的です。個人的な理由で使う場合は叶わない願や叶えてはいけない願もありますからね。良く考えて来ているとは思うけれど、何を願えば良いのかをちゃんと考えてから使って下さい」
「はい。先生。分かりました」
引率の教師が話しを終えると、質問した女子生徒が再び声を上げた。バスが今まで並走していたコンクリート製の巨大な壁の方に向かって右折する。右折して真っ直ぐに進んで行く先には壁と緩衝地帯と呼ばれる場所とを繋いでいる門があった。門の手前に設けられている駐車場にバスが止まり、柿郎達生徒はバスから降りる。
「はーい。皆。早く整列して下さい。ちゃんと並ぶまでは会場に入れませんよ」
列を作っている最中に何気なさを装いつつ加耶音を探し、見付ける事のできた柿郎だった
が近付く事も声を掛ける事もできなかった。整列し終えると、引率の教師の声が再び聞こ
えて来る。
「はい。では、出発します」
整列した柿郎達生徒は門に向かって歩き出した。門の所まで来ると、順番に一人ずつ持
ち物検査を受けさせられる。金属探知機ゲートやエックス線検査などを経て検査が終わり、
柿郎達生徒は門を通り抜け緩衝地帯に入った。入るとすぐに屋外に設営されている成就の
日の式会場へと誘導されて行く。
「はい。では皆。列を崩して良いですよ。仲の良いお友達と一緒にこの式に臨んで下さい」
引率の教師が言うと生徒達が一斉にばらけ、仲の良い者同士でグループを形成し始める。
柿郎は加耶音の姿を探した。皆が整然と並んでいるパイプ椅子に次々と座り出して行く中を柿郎は加耶音の姿を求めて歩く。ほとんどの生徒達が座ってしまっても柿郎は加耶音を見付ける事ができずにいた。
「十時君。どうしましたか?」
引率の教師が近寄って来た。
「何でもないです」
柿郎は加耶音の事を一旦諦め、引率の教師をやり過ごす為に早く座ってしまおうと周囲
を改めて見回し誰も座っていないパイプ椅子を探した。
「こっちが空いていますけど、どうしますか?」
引率の教師が柿郎が座る場所を探していると察したらしく、そんな言葉を掛けてくれる。
「すいません」
柿郎が引率の教師がいる方に顔を向けると教師の右手が空いているパイプ椅子を指差していた。
「ありがとうございます」
柿郎は空いているパイプ椅子の所まで行った。列の最後尾の一番端で、その横も一つ空いていた。柿郎は一番端を空けるように一つ中に座った。座ってからまた立ち上がると顔を巡らせて加耶音を探す。
「柿郎。おい。十時柿郎。聞こえないか?」
どこかで聞いた事のあるような男の声がした。柿郎は声のした方に顔を向ける。
「よお。元気にしてたか?」
会場を警備している表世界政府の警備組織イェーガーの隊服を着た男が笑顔を見せなが
ら近付いて来た。
「えっと」
誰なのか分からずに柿郎が言葉に詰まると、間近まで来た男が柿郎の肩に手を置いた。
「忘れてるな。俺だよ。加耶音の従兄の勝之助だ」
名前を聞くと、すぐに柿郎の脳裏に幼い頃の日々の思い出が蘇った。
「勝之助君? 嘘。凄い懐かしい。そっか。勝之助君はイェーガーだったんだっけ。うわ
ー。凄い久し振り」
「本当だよな。忙しくてな。家族にすらたまにしか会えないんだ。今日、お前と加耶音が
来るって知ってたから、こっちの警備に回してもらったんだ」
「そうなんだ」
「ほら。加耶音。切欠を作ってやったぞ」
勝之助が後ろを向く。
「もう。余計な事しないでよ」
勝之助の背後から、加耶音が遠慮がちに姿を見せた。
「喧嘩してるんだって?」
勝之助が加耶音を押して柿郎の側に追いやる。
「ああ。まあ、うん」
柿郎は曖昧に応じる。
「勝にい」
加耶音が声を荒げる。
「そう怒るなよ。たまにしか会えないんだ。会えた時くらい、お節介させろって」
勝之助が微笑む。
「もう。勝にいって昔っからそうやって余計な事ばっかりするんだから」
加耶音が頬を膨らませながら柿郎の顔を見て来る。目が合ったが、何も言わずにお互い
にすぐに視線を外す。
「何だ、お前ら。たく。柿郎。ちょっと来い」
勝之助が柿郎の肩を抱くと、加耶音から遠ざけるように少し歩いてから足を止める。
「お前の事でいろいろあるだろうけど、俺はお前の味方だぞ。何も知らない奴らには、あれこれ言われるだろうけど、気にするな。理解してくれてる人達だってたくさんいる。イェーガーの中にだってお前と同じ境遇の奴はいる。心配ない」
「勝之助君?」
勝之助がしまったというような顔をした。
「おっと。すまん。先走ったな。加耶音から相談されててさ。何か、最近もそんなような事があったんだろ?」
柿郎は笑顔になって頷いた。
「ありがと。勝之助君は本当に変わらないね。昔からそういう性格だったもんな。真っ直
ぐでお節介で。でも、凄いね。本当にイェーガーに入ったんだもんな。話は聞いてたけど、
こうやって隊服姿を見ると改めて凄いって思うよ」
「馬鹿。俺を褒めても何も出ないぞ。そんな事より、加耶音だ。あんな奴だけど頼むな。
お前がいないと何もできないんだから」
「違うよ。俺が何もできないんだよ。昔から加耶音には世話になってばっかりだ」
「たく。そう思うなら早くくっ付け。心配して損した」
「勝にい。仕事は? 戻らなくて良いの?」
いつの間にか加耶音が背後に立っていた。
「お前。酷いな。お前が、柿郎の事、むご、むぐ」
加耶音が勝之助の口を手で塞いだ。
「勝にい。何? また何か余計な事言おうとしてない?」
勝之助がブルブルと頭を左右に振る。
「ぷは。何も言おうとなんてしてないって。まあ。なんだ。喧嘩なんてすんな。今日は大
事な日だ。二人で仲良く過ごせ」
加耶音が手を放すと、勝之助が言いながら二人の頭を撫でて来た。
「もう。勝にい。そんな子供じゃないってば」
「勝之助君。くすぐったいってば」
「こうしてると本当に懐かしいな。さて。俺は任務に戻るとするか。じゃあ、な。お二人
さん」
ポンポンと二人の頭を優しく叩くと、勝之助が歩き出す。
「またね。勝之助君」
「勝にい。じゃあね」
二人が声を上げると、勝之助が振り向かずに右手を上げてヒラヒラと振った。
「何あれ。勝にい、格好良いつもりなのかしら」
「俺は格好良いと思うけど」
「柿郎って、勝にいと私とで接する時の態度が違うわよね」
柿郎は加耶音の方に顔を向ける。加耶音も同じようなタイミングで柿郎の方に顔を向け
て来た。
「別に同じだろ」
「違うわよ。私に対しては、何か、優しくない」
「何だよそれ。このタイミングでどうしてそういう事言うかな」
「このタイミングだから言ったんだけど。ふんっだ」
加耶音が顔を横に向ける。
「加耶音。とりあえず座ろ」
柿郎は勝之助と二人で先ほど話した事を意識し、押し黙った加耶音にそんな風に声を掛
けてみた。
「何よ。私はまだ昨日の事、怒ってるんだからね」
加耶音が唇を尖らせながら一番端のパイプ椅子に座る。
「何でそっち?」
「良いからこっちに座りなさいよ」
加耶音が柿郎が通れるようにと、膝を横にする。
「そんな事するならこっちに座れよ」
柿郎は加耶音の前を通り抜け、パイプ椅子に座った。
「全然反省してないよね」
「反省って」
柿郎は途中で言葉を飲み込んだ。
「お互い悪かったって事じゃ駄目か?」
柿郎は改めて言葉を出しながら加耶音の顔を見つめる。
「それって私と仲直りがしたいって事?」
加耶音と目が合った。柿郎は咄嗟に視線を横に外してしまう。だが、すぐに加耶音の目
を見直した。言葉を出そうと息を吸い込む。
「はい。皆。静かにして下さい。成就の日の式が始まります。良いですね」
柿郎が話す前に、引率の教師が声を張り上げた。
「柿郎。どうなのよ?」
引率の教師に邪魔され、機会を失い何も言えなくなっていた柿郎に加耶音が耳打ちして
来る。柿郎はしばらく間を空けて唾を飲み込んでから加耶音だけにしか聞こえないような小さな声を出した。
「仲直りしよ」
加耶音がびっくりしたような顔をして、それからすぐに俯いた。
「馬鹿。恥ずかしいでしょ。そういう事いきなり言わないでよ」
「俺だって、凄く恥ずかしい」
加耶音が手を握って来る。
「ちょっと」
柿郎は加耶音の手を避けるように手を引いた。
「何よ。折角仲直りしたのに、また喧嘩したいの?」
「したくないけど」
柿郎は手を元の位置に戻す。加耶音がまた手を握って来たが、今度は何もせずに加耶音
の手を受け入れた。
「何で手を握るんだよ。恥ずかしいだろ」
「誰も見てないわよ。それに周りを見て」
加耶音が顔を動かし、目顔で柿郎の視線を誘導する。
「ほら。あそことあそことここも。男女二人の所は皆、手繋いでる」
柿郎は加耶音の顔を見る。
「誰も見てないって俺達が見てるだろ」
「ふーん。まだそういう態度するんだ?」
柿郎は売り言葉に買い言葉にならないようにと口を閉じて顔を前に向けた。成就の日の
式は既に始まっており、司会が祝辞を述べる為に登壇した人物の紹介を終えたところだった。登壇者が話を始める。
「えー。おほん。本日は、誠におめでとうございます。表世界と裏世界から、これだけの
人数がこうしてここに集まった事を大変嬉しく思います。えー。この世界が二つに分かれ、
表と裏などと呼ばれるようになってからだいたい四百年。人類はその原因となった全滅戦
争と呼ばれる戦争の荒廃から見事に復興を成し遂げて来ました。そもそも、この世界を二
つにした現人神のお二方は現在もどこかでこの世界を見守っており」
「表世界政府の偉い人なんだって。この人の話、まだまだ続きそうだね。つまんないね。早く終わらないかな。そうだ。式が終わったら、どっか遊びに行こ?」
「願はどうするんだよ?」
「いつだって良いんだから後にしよ」
「何だよそれ。昨日はそれをどうするかで怒ってただろ」
「柿郎。だから、どうしてそういう態度するの? その、何ていうか、からむようなって
いうのかな。私の事嫌いなの?」
前を向いたままでいた柿郎の頬を加耶音が指で突いて来る。柿郎は加耶音の方に顔を向
けた。
「突くなってば」
「私の事嫌い?」
加耶音が瞳を潤ませ、何かを訴えるような目を向けて来る。
「それは」
「はい。では、これから、暗示を解く鍵を印刷したプリントを配ります。こっちの端の人
から順番に先生の所まで来て下さい」
引率の教師がまた絶妙なタイミングで声を張り上げた。
「うわ。私からだ」
加耶音が慌てて、引率の教師の所へと向かう。
「柿郎。次だよ次」
「うん」
加耶音に呼ばれ、柿郎も慌てて引率の教師の所へ行った。
「はい。受け取ったら同じ列の人が終わるまでここで待っていて下さい」
円筒形のケースをもらった柿郎は加耶音の横に並ぶ。
「何で、ワニ柄の卒業証書筒に入ってるんだろうね」
「うん。何か変だよな。中、見て良いのかな」
「先生。中見ても良い?」
加耶音が生徒達に筒を渡している引率の教師に声を掛ける。
「駄目ですよ。皆に行き渡ったら指示します。それまでは我慢です」
「はーい。柿郎。駄目だって」
「聞かなくていいって」
「何よ。柿郎が見たいって言ったから」
「分かったよ。ありがとな」
柿郎達の列にいた全員の授受が終わり席に戻る。
「柿郎。さっきの続き。私の事どう思ってる?」
柿郎は加耶音の言葉を聞いて、思わず手に持っていた卒業証書筒を落とした。落とした
筒は柿郎の足の爪先に当たって、前の生徒の座っているパイプ椅子の下に入ってしまう。
「何だよ。いきなり加耶音が変な事言うから筒落としただろ。それにさっきは、どう思っ
てる? なんて聞き方してなかった」
「細かい事は良いのよ。それに変な事じゃないわ。大事な事でしょ」
柿郎は体を傾けて手を伸ばす。
「届かない」
体を前のパイプ椅子と自分の座っているパイプ椅子との間に入れ、更に手を伸ばす。
「取れた」
加耶音が上から背中を押えて来る。
「何? どうした?」
「返事をくれるまで、手どけない」
「何でだよ」
「何でも」
「こんな格好で言えるか」
「どんな格好なら言えるのよ」
「それは、ちゃんとした、格好だよ」
「どんな事言うのよ?」
「それは、俺が、加耶音の事、ちゃんと」
「ちゃんと? ちゃんと何?」
加耶音が真剣に聞いて来る。柿郎は静かに深く呼吸した。加耶音の気持ちに応えよう。好きだと伝えよう。勝之助の言葉が背中を強く押してくれていた。
「加耶音。今から大事な事言う。だから、手をどけてくれ」
柿郎の声を聞いて加耶音が手をどける。
「急にそんな真面目な声出さないでよ」
「これから大事な事言うんだから真面目な声を出すに決まってるだろ」
柿郎は体を起こそうとした。突然、轟音が耳をつんざき体が大きく揺れる。
「何だ? 加耶音。何があった?」
柿郎は加耶音の方に顔を向けようとした。
「柿郎」
加耶音が上から覆い被さるようにして抱き付いて来た。地面が振動するような衝撃が襲
って来て、また体が大きく揺れる。
「何? どうした?」
「壁が、爆発した」
加耶音が震える声で言う。生徒達の悲鳴が上がっているのが聞こえて来る。
「加耶音。逃げよう」
「無理だよ。だって」
柿郎の頬に生暖かい液体が垂れて来た。
「何だ? 何これ?」
柿郎は手で液体に触れる。加耶音の柿郎を抱く手に力がこもる。
「動いちゃ駄目。柿郎。大丈夫だよ。私が守るからね。柿郎はじっとしてて」
「加耶音? 何言ってんだ? そこをどいてくれ。何も見えないんだ」
「良いから動かないで!」
加耶音が不意に叫んだ。
「どうしたんだよ?」
「願を使う」
「いきなり何言ってんだ?」
「時間がないの。柿郎は」
近くで何か複数の金属のような物が潰れた音がすると、加耶音の言葉が途切れ、加耶音の体が凄まじい力で柿郎の体に押し付けられて来る。
「くっ。な、なんだよ、これ。加耶音。大丈夫か?」
四肢を踏ん張って耐えようとしたが、すぐに体が地面に密着した。
「か、や、ね? へい、き、か?」
体が潰れてしまうのではないかと思うほどの圧力を受けながら柿郎は何とか言葉を絞り
出した。
「後、少し。か、きろう。絶対に、死、なせない、から」
加耶音の声が途切れ途切れに聞こえて来る。柿郎は加耶音の名を呼ぼうとする。けれど、声を作る分の息が既になく声を出す事ができなかった。
「か、ぎ。見、えた!!」
加耶音の声が再び聞こえた。一瞬にして、柿郎の体は強烈な圧力から解放された。両手
を地面に突いて体を起こし四つん這いの格好になると、思い切り息を吸い込み声を上げる。
「何だよ、今度は? 加耶音? 加耶音? どこにいる?」
ずっと感じていた加耶音の体の感触がなくなっていた。
「柿郎。もう平気だよ」
加耶音の声が返って来る。柿郎は顔を上げた。周囲が薄暗くなっていた。薄暗い闇の中
で漆黒の何かが体の上を覆うようにしているのが見えた。
「何がどうなったんだ? それに、これは?」
柿郎は上から垂れ下がっていた漆黒の何かの一部に手を伸ばした。
「毛?」
「くすぐったいよ。引っ張らないで」
加耶音の声がそんな事を言う。
「これ? 加耶音? なのか?」
柿郎は恐る恐る聞いた。
「うん。願を使ったの。こうでもしないと二人とも死んじゃったと思う」
柿郎は漆黒の毛の下から横に出た。
「これって、あの壁なのか?」
コンクリートの大きな破片が加耶音の上にのっているのが見えた。
「うん。爆発して、降って来たんだよ」
「体は平気なのかよ?」
「うん。平気。強くなったから」
加耶音がもぞもぞと動いた。
「どけたいんだけど、周りにも下敷きになってる人がいると思うから、救助の人が来るま
で我慢しないと駄目だね」
柿郎は加耶音の声がする方に顔を向けた。薄暗い闇の中に二つの丸い青い光が見え、そ
の下に真っ赤な炎のような物を出している穴らしき物が見えた。
「本当に、加耶音……なんだ、よな?」
「そんなに怯えないで。ちゃんと私だよ。咄嗟に強い物、柿郎を絶対に守る力がある物っ
て願ったら、これになってた」
「これって……。昔、図書館で一緒に調べた奴か?」
「うん。あの公園の野良犬の名前を考えようって話した時に調べた奴。フェンリル」
柿郎は青い光を放っている加耶音の両目を見つめた。
「どうしてこんな事したんだ。願は一度しか使えないんだぞ。これじゃ、もう、こっちの世界にはいられないんだぞ」
加耶音が目を伏せる。
「しょうがないよ。柿郎の為だもん。ごめん。嘘。私が死にたくなかったから」
「何言ってんだ。馬鹿。家族は? 友達は? 加耶音の、これからの人生は? 何もかも」
柿郎は自分の願の事を思い出した。
「加耶音。ごめん。忘れてた。俺の願を使おう。今すぐは、壁があるから無理だけど、ここから出られたらすぐに加耶音を元に戻す」
「駄目だよ。柿郎の願は自分の為に使って。自分の体。ずっとその所為で苦労してたでしょ。普通の人の体になるようにって願えば、これから嫌な思いはしないですむんだから」
「そんな事できるはずないだろ」
「私の事は気にしないで。私は裏世界に行く。フェンリルは強いのよ。どうにかなるわ」
加耶音が伏せていた目を上げる。青い光が柿郎に向けられる。
「加耶音が何を言おうと俺の気持ちは変わらないからな。ここから出られたら元に戻すか
ら」
「ちょっと待って。救助の人が来たみたいだわ」
「加耶音。じっとしてろ。絶対に動くなよ。その姿じゃ何をされるか分からない。俺が何
とか事情を説明してみる」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。この状況だよ。仕方なくこうなったって分かって
くれるよ」
「この状況だからこそだ。加耶音は分かってない。俺は裏世界人とのハーフで髪の色が金色だっていうだけで、あれだけからかわれたりいじめられたりしてたんだぞ。加耶音の今の姿を見られたら、何をされるか」
「姿だけならすぐにでも人の姿には戻れると思う。でも、これじゃちょっとね」
加耶音が言葉を切って目を上に向ける。
「柿郎。本当に駄目だよ。願は自分の為に使って。私が裏世界に行っても、ここで会えるよ。この緩衝地帯ってそういう場所でしょ」
加耶音が青い光を放つ目を向けて来る。
「加耶音。そういう事じゃないだろ。絶対に元に戻すからな」
「柿郎」
「加耶音。しっ。静かにして」
コンクリートの破片の上から人の声が聞こえて来た。
「誰かいますか? 声が聞こえたら返事をして下さい」
「加耶音。返事するからな」
「うん。柿郎に任せる」
「助けて下さい。ここに二人います。聞こえますか? 助けて下さい」
しばらく間があってから声が返って来た。
「聞こえていますよ。二人ですね。分かりました。すぐにコンクリートをどけます。二人とも無事ですか? 怪我などはないですか?」
「大丈夫です。ただ一人が」
大きな音が柿郎の言葉を途中で遮った。
「いったーい」
加耶音が大声を上げる。
「どうした?」
「上にのってるコンクリートを叩いたみたい。けど、割れたから、すぐに出れるよ」
「コンクリートどけますよ」
救助の人が言う。
「気を付けて下さい。一人がすぐその下いるんです」
「分かりました」
コンクリートの破片がどけられて行く。陽の光が射し込み加耶音を照らし、その姿がはっきりと見えた。
「何て事だ。化け物がいるぞ」
救助の人が周囲に向かって叫ぶように言う。
「待って下さい。これは、願を使った生徒です。この姿になって俺を助けてくれたんです」
「そんな事信じられるか。君もこの化け物の仲間なんじゃないか? 今回の出来事はこの
会場を爆破して、その混乱に乗じて願を使う前の生徒達を誘拐するというテロ行為らしいからな」
「信じて下さい。加耶音は、いや、ここにいるこいつは俺の大事な奴なんだ。何もしないでくれ。お願いだ」
「君の願は使ったのか?」
「まだです。後でこいつを元に戻す時に使うつもりで」
「そうですか。それは良い事を聞きました」
今まで姿が見えていなかった救助の人が、上から降って来るようにして柿郎の目の前に
現れた。その人物は金色の髪をして赤い綺麗な目をした二十代前半くらいの美しいという
印象を受ける青年だった。
「もう少し安っぽい芝居をしていたかったのですがね。誘拐する対象を見付けてしまって
は仕方がないです。一人でも多く商品を集めるようにと言われていましてね。君も誘拐さ
せてもらいましょう」
「何を、言ってるんだ?」
柿郎は目の前にいる青年の顔を呆然と見つめた。
「我が名はフフェア。両世界連合の一員にして、今日、この場のテロを仕切っている者で
す」
柿郎は後ろに一歩下がった。
「逃げようとしても無駄ですよ。我もまた願を使った裏世界の住人です。このような姿になれます」
フフェアの背中から黒い大きな翼が生えた。
「堕天使ルシファーです。逆らわない方が君の為ですよ」
「な、なんだよそれ」
「良い反応です。そのままじっとしていてくれれば何もしません。我らは君のような商品
を拉致監禁して売るだけですからね」
フフェアが口角を吊り上げてにやりと笑う。美しい顔が邪悪な雰囲気を醸し出した。
「そーい」
加耶音が声を上げ、いきなりフフェアを獰猛なフェンリルの前足で薙ぐようにパンチし
た。
「ぶっほっ」
フフェアが吹き飛び、コンクリートの破片にぶつかって倒れ、口から血を吐き出す。
「突然何をしているのですか君は。危うく死ぬところだったではないですか」
フフェアが片手で口を押えつつ叫ぶ。
「当たり前でしょ。殺そうとしたんだもん」
フフェアが目を大きく見開いた。
「そんな。何て嘆かわしい事なのですか。君。君は、人を殺そうとしたのですよ。その
事がどういう事なのか分かっているのですか?」
「分かってるわよ。そっちこそ自分の言った事分かってるの? 柿郎は絶対に渡さない。
柿郎を守る為なら、人くらい殺しても構わないわ」
加耶音がフフェアに向かって牙を剥き出し威嚇するような顔をする。
「なるほど。君はこの柿郎という子を好いているという事ですか?」
「な、何よ。今はそんな事関係ないわ」
「加耶音。逃げよう。勝之助君を探して守ってもらおう」
「君は情けない男ですね。女の子に戦わせて、逃げようなどと。本来なら君が彼女を守る
為に戦うべきではないのですか? 男が女がなどという無粋な事は言いたくはないのですけれど、君を見ていたら言いたくなりましたよ」
「うるさいわね。黙りなさいよ。柿郎。背中に乗って。勝にいを探しに行こ」
「分かった。って、乗って良いのか?」
「良いわよ。早く」
加耶音が四肢を折り曲げて伏せの姿勢を取る。
「じゃあ、乗るな」
「うん」
柿郎は加耶音の背中によじ登る。
「毛、引っ張っちゃって平気か?」
「うん。くすぐったいけど我慢する」
「ごめんな」
「良いよ。後で返してもらうから」
「何をさせる気だよ」
「ひ・み・つ」
「ちょっと君達。何をイチャイチャしているのですか。自分達の立場が分かっていないよ
うですね」
柿郎が背中に乗ったのとほぼ同時にフフェアが加耶音の顔の前に立ちはだかった。
「また殴られたいの?」
加耶音が伏せの姿勢から起き上がり右前足を上げる。
「いや。それは御免こうむりたいですね。二人ともやっと来ましたか」
「こいつら殺して良いんだろ?」
「子供。相手。殺し。駄目」
フフェアの仲間と思しき二人がコンクリートの破片の陰から姿を現した。
「ウシーデラ。殺しては駄目です。誘拐が目的です」
フフェアがこいつら殺して良いんだろ? と言い放った長身痩躯で赤色の長髪をした女に向かって声を掛ける。
「はあ? ウシの仕事は殺す事だ。ウシはその為に生まれたんだぜ」
ウシーデラが両手に持っていた刃部分が波型に曲がっている大きなナイフを言動にそぐわない綺麗に整った顔の前で交差させる。
「相変わらず我ままですね。ではウシーデラは我らの護衛を。敵が来たら迎撃して下さい。
ロミア。君はこのフェンリルになっている子を少し痛め付けてあげて下さい」
「おいが? 少し。良い。分かった」
ロミアと呼ばれた西洋の甲冑風の鎧をまとった重戦車を思わせる巨漢が自分の顔を右手
の人差し指で指しながら加耶音と柿郎の方に向かって歩き出す。
「やばそうね」
「うん」
「柿郎。しっかり掴まってて」
「分かった」
加耶音が四肢を曲げたと思うと、空中に跳び上がった。
「うーん。これは見事な跳躍です。よほど強い願いを込めて変わったのでしょうね。さっきの一撃といい、良いですね。この子は強いですよ」
感心したように言いながら、フフェアが翼をはためかせ追い駆けて来る。
「おいが。相手」
ロミアが駆け出すが、その速度は非常に遅く、歩いているかのようだった。
「護衛も何もねえ。逃げられてるじゃねえか。これじゃ殺せねえ」
ウシーデラがあきれた顔をしてナイフの刃をペロリと舐める。
「君達。そんなに派手に動いて良いのですか? 表世界の人達が見ていますよ」
加耶音が着地すると、加耶音の目前にフフェアも着地した。
「そうだ。加耶音。願を使おう。元に戻るんだ」
「何言ってんの? 今は無理だよ。この人達がいるんだから」
「そうですよ。我は願を使う前の人間が必要なのです。使わせなどしません」
「あの二人が近付いて来てる。柿郎。また跳ぶよ」
柿郎は加耶音の背中から体表を滑るようにして降りた。
「柿郎? どうして降りるの?」
「すぐに願う」
柿郎はしっかりと握っていた鍵の入っている今は潰れてしまっている卒業証書筒の蓋を
開けようとした。
「鍵は使わせません」
フフェアが機敏な動きを見せて柿郎の腕を掴んで来た。
「何触ってんのよ」
加耶音が吠えるように声を上げ、右前足を振りかぶる。
「やめておいた方が良いですよ。君の意中の人まで怪我をしてしまう」
「卑怯よ」
加耶音が右前足を下ろす。
「そうですね。けれど、これが悪者の王道というものです」
「おいが。相手。する」
「早く敵が来ねえかな。殺したいぜ」
ロミアとウシーデラが追い付いて来て足を止める。
「柿郎から離れなさいよ。じゃないと、この二人を殺すわよ」
加耶音がロミアとウシーデラの方に鋭い視線を向けた。
「殺す。良くない」
ロミアが加耶音の方に顔を向ける。
「はあ? 誰が誰を殺すって? おい。フフェア。こいつ、殺して良いだろ?」
ウシーデラが両手を前に突き出し、ナイフの刃先を加耶音に向ける。
「残念ですが。お楽しみはこれまでのようですね。さっきの跳躍で目立ち過ぎたようです。
イェーガーとリベレーターの人達が集まって来ています。二人とも、逃げますよ」
「おい達。逃げる」
「ちょっと待てよ。ウシはまだ全然暴れてねえ。殺させろ」
「別働隊の方は順調にやっているようですし、引き際は大事ですよ。二人ともさっさと我に掴まって下さい」
「分かった」
ロミアがフフェアの腰に抱き付く。
「ちぇっ。つまんねえ。殺せないとストレスがたまるぜ」
ウシーデラがロミアの肩の上に座る。
「君は我らと一緒に来るのです」
フフェアが柿郎の首に腕を回す。
「何してんだ。放せ。放せよ」
柿郎はフフェアの腕から抜け出ようと全身を使って暴れたが逃れる事はできなかった。
「行かせないわ。少しでも動いたら柿郎ごとぶっ飛ばすわよ」
加耶音が右前足を振りかぶる。
「本気ですか?」
「本気よ。誘拐されて、会えなくなるくらいならそうするわ」
柿郎の首に巻き付くように回っていたフフェアの腕が解かれる。
「君の決意に免じて、この子は置いて行きます。けれど。どうですか? 代わりに君が我らと一緒に来るというのは?」
「何言ってるの? 行くはずないでしょ」
「ここにいられると思うのですか?」
「いられるに決まってるでしょ」
「さてどうでしょうか。ロミアにウシーデラ。気が変わりました。もう少し、ここにいましょう」
「分かった」
「殺せるなら良いぜ」
「じっとして見ているだけです。ウシーデラ。我慢ですよ」
「ちぇっ。殺せねえのかよ」
「そこを動くな。その生徒からすぐに離れろ」
イェーガーの隊員数名がアサルトライフルを構えながら近付いて来た。
「勝之助君」
柿郎はその中に勝之助の姿を見付けると名を呼んだ。
「柿郎。加耶音は?」
勝之助がすぐに気付き言葉を返して来る。
「加耶音は」
柿郎は説明しようとしたが、途中で声が出なくなった。
「沈黙は美徳なり。余計な事は言わない事です」
フフェアが赤い目を光らせながら、にんまりと微笑む。
「柿郎に何したのよ」
「ちょっと、我の力を使っただけです」
「やめなさいよ。やめないと本当にぶっ飛ばすわよ」
「仲間割れか? 犬の化け物が何かする気だぞ」
イェーガーの隊員の一人が叫ぶ。
「やめろ。柿郎に手を出すな」
勝之助が持っているアサルトライフルの銃口を加耶音に向けた。柿郎は勝之助の名を叫んだ。けれど、それは声にはならない。
「勝にい」
加耶音が叫ぶ。
「加耶音? どこだ?」
「君も沈黙していてもらいましょう」
フフェアの赤い目の光が強くなる。加耶音が口を動かすが、その声は音にはならなかった。
「加耶音? 声が確かにしたんだが。柿郎。こっちに来るんだ」
柿郎は両手を広げると、勝之助の持つアサルトライフルの銃口と加耶音の間に入った。
「柿郎。何をしてる。こっちに来い」
柿郎は声が出ないので首を横に振った。
「これはこれは。やりますね。けれど。こうなったらどうしますか?」
フフェアが嬉しそうに言うと、加耶音の右前足が動き、柿郎の体を軽く弾いた。
「柿郎」
勝之助が大きな声を出す。地面の上に倒れた柿郎はすぐに立ち上がった。加耶音の方に顔を向けると、加耶音が私じゃないと訴えるように激しく首を左右に振った。柿郎は頷くと再度両手広げ、同じ場所に立つ。
「柿郎。何だ? 何かあるのか?」
勝之助が銃を下ろす。
「ほう。中々に勘が良いようです。仕方がないですね」
フフェアが至極残念そうに言う。
「体が勝手に動くんだ。助けて勝之助君」
柿郎の口がいきなり動き出し、そんな言葉を口走った。
「そういう事か」
勝之助が下ろしていた銃を持ち上げる。銃口が再び加耶音の方を向いた。
「ロミア。ウシーデラ。少し撃たれますよ。フェンリルの君も一緒に撃たれてもらいます。まあ。その体ですから簡単には死にはしません。けれど。体と心には深い傷ができます。これでも、我らと一緒には来れませんか?」
フフェアが静かな声で告げる。
「柿郎。その場でじっとしてろ」
「分かった。頼むよ勝之助君」
勝之助の言葉に応じるように柿郎の口が言葉を勝手に作り出す。
「願を使って力を得ているとはいえ銃で撃たれればお前達だってただではすまないはずだ。俺達は全員、願を使って銃器の扱いに関する特殊能力を獲得している。ただ撃たれるよりも辛い事になるぞ。今ならまだ間に合う。柿郎を解放し投降しろ」
勝之助がフフェア達に向かって呼び掛ける。
「困ったものです。表世界人だとか、普通の人類だとか言っていても、これですから。銃
器の扱いに関する特殊能力? そんな物を持っている普通の人間なんていますかね」
フフェアがあきれたというように両手を広げるポーズを作った。
「早く柿郎を解放しろ。射撃準備。対象四体に対し、一斉射撃を行う。弾丸操作を使用し、人質の安全確保を最優先に」
勝之助が声を張り上げる。勝之助の周囲にいたイェーガーの隊員達が勝之助を中心に一列横隊を作る。
「どうぞお撃ちなさい。我らはこの任務に命を賭けています。ここで死ねれば本望です」
フフェアが声高に言い、にんまりと笑う。
「そうか。ならば仕方がない。撃てえええ」
勝之助が叫び、隊員達の持つアサルトライフルの銃口から一斉に弾丸が発射される。柿郎は目を閉じようとした。だが、これから起こる出来事すべて見せようとするかのように
体が勝手に振り向き、加耶音とフフェア達の方に顔が向けられ、瞼も下ろす事ができなか
った。
「ウルフィー。ジェシータ」
連続して鳴り響く発砲音の狭間に若い男の声が混じる。
「御意。ふんふんふんふんふぬぬー」
「しょうがないミャオ。ニャン。ニャンニャニャンニャン」
渋い男の声と艶っぽい女の声が応じ、次いで何かの掛け声のような言葉を紡いだ。
「撃ち方やめえ」
勝之助の声が響き、発砲音がやむ。
「リベレーターか? なぜ邪魔をする?」
勝之助が厳しい口調で問う。柿郎の見開かれた目は銃弾が一発として加耶音やフフェア達に命中してはいないという事実をじっと見つめていた。
「なぜ? こいつらは小生の同族だからな。面倒をみるのは小生達だ」
「今回はイェーガーとリベレーターが共同で警備任務に当たってるはずだ。そんな区切りはない」
「主様。この生意気な糞ガキめをやってしまって良いでしょうか?」
「待てウルフィー。ここは小生に任せろ」
「ドッグ。無視するニャン。所詮、表のお子ちゃまミャ。何もできないニャ」
「ジェシータも待て。話し合いも大事だ」
「イェーガーとリベレーターの方々。我らの事をお忘れなく。そんな事をしている間に逃げてしまいますよ」
イェーガーとリベレーターと両世界連合の面々が口論をし始める。
「加耶音。大丈夫か?」
柿郎の体に自由が戻る。
「うん。柿郎は?」
加耶音も言葉を出せるようになっていた。
「声が出てる」
「私もだわ」
「加耶音。逃げよう。ここにいたらまた巻き込まれる」
「でも、どこへ?」
「裏世界に行こう。それなら加耶音がその格好でも目立たないはずだ」
「私は良いけど、柿郎は駄目だよ」
「一緒に行く。行ってすぐに願を使う。それで戻って来れば良い」
「駄目だよ。柿郎は残って。私だけで行く。鞄なくしちゃったから、しばらくは携帯電話で連絡できないから、手紙書くね。返事絶対ちょうだい」
加耶音が裏世界側の破壊された壁の方に顔を向ける。柿郎は加耶音に近付き、加耶音の顔に手を当てた。
「加耶音。駄目だ。俺も行く」
「柿郎。ありがとう」
加耶音の左前足が柿郎に向かって伸びる。
「おい。お前、何してる」
イェーガー隊員の鋭い声が上がった。
「化け物め。その生徒から離れろ」
別のイェーガー隊員が叫び、発砲音が鳴った。アサルトライフルの銃口から放たれた数発の弾丸が、加耶音の胴体に命中し、柿郎の頬をかすめる。
「何してるんだ」
勝之助がアサルトライフルを撃っているイェーガー隊員の体を抑え込むようにして発砲をやめさせた。
「柿郎」
「加耶音」
二人は血を流しながらお互いの安否を確認する。
「俺は大丈夫だ。加耶音は? 大丈夫なのか?」
「私も平気。ちょっと痛かっただけ」
「本当か?」
「そんな事より。許せない。柿郎を傷付けるなんて」
加耶音が発砲したイェーガー隊員の方に顔を向け、威嚇するように唸り声を上げた。
「加耶音。やめろ」
柿郎は加耶音を止めようと顔の正面に行く。
「化け物がこっちを狙ってる」
「発砲許可を。あの生徒が危ない」
イェーガー隊員達が口々に言う。
「許せない。許せない。よくもよくもよくも。柿郎を」
加耶音の目が細められ爛々と光り始める。
「加耶音? どうした?」
「少年。離れろ」
柿郎の体が不意に抱き上げられた。
「何だよ。何するんだ」
「驚かせて悪いな。小生はリベレーターに所属するドッグという者だ。あれは君の知り合いなのか?」
腕の中にいる柿郎に話し掛けながらドッグが柿郎を加耶音から遠ざけるように後ろに飛びさがって行く。
「知り合いなんてもんじゃない。大事な人なんだ。どうして俺を加耶音から離したんだ。このままじゃ加耶音が危ない」
「あれは今恐慌状態に陥りつつある。落ち着かせないと危険だ。誰彼かまわず攻撃する」
「そんな。加耶音なんだ。そんな事するはずがない」
「最初はほとんどの者がああなる。願を使い、新しい体を得た者はな。己の中に新たに生
まれた力や衝動を抑える事に慣れるのに時間が掛かるんだ。それに。この状況がまたまず
い。こんな精神衛生的に悪い状況じゃ余計に恐慌状態を悪化させる」
柿郎はドッグの顔を見上げた。
「あんた、裏世界の人なのか?」
「そうだ。こう見えても小生は人狼だ」
ドッグは頭から突き出ているように見えるリーゼントの突起部分を切れ長の目で見上げ
ながら片手で撫で上げた。
「いえいえ。主様は人犬でございます。人狼ではございません」
いつの間にかドッグの横に白髪巻き髪でカイゼル髭を蓄えた執事らしき格好をした年老
いた男が立っていた。
「ウルフィー。黙ってろ」
「いえいえ。主様。嘘はいけません」
「そうだニャン。けど、今はこんな事してる場合じゃないニャン。あの子ヤバいミャ」
猫耳を生やし、フカフカそうな毛がブラとショーツのように見えてはいけない部分だけ
を覆っている露出狂のような格好をした女がウルフィーの横まで歩いて来て足を止めた。
「誰が露出狂だミャ」
「どうしたジェシータ? 誰も何も言ってないぞ」
ドッグが不思議そうに言う。
「そうだニャ。どうしてか急に言いたくなったミャ」
「主様に露出狂。今はあのフェンリルらしき者の事を考えた方がよろしいかと」
「クソジジー。余計な事言ってんじゃないミャー」
「何のんびりしてんだよ。下ろしてくれ。加耶音を止めないと」
「そうだったな。ウルフィー。ジェシータ」
「少々痛め付けないと駄目だと思うのでございますが?」
「クソジジーは野蛮なのニャ」
「少年。君の大切な人は必ず助ける。だから、ここでじっとしていてくれ」
ドッグが柿郎を地面の上に立たせたる。
「俺も行く」
「駄目だ」
「邪魔しないでくれ」
柿郎は走り出した。
「こらミャ。ドッグの言う事を聞くニャ」
目の前にジェシーターが素早い動きで回り込んで来ると、柿郎を正面から抱きすくめる。
「仕方がない。ジェシータ。そのままここにいてくれ」
「ええミャー。嫌だニャ」
「放せ。加耶音の所に行くんだ」
「今度はショタでございますか」
ウルフィーが柿郎達の側に来て嬉しそうに微笑む。
「クソジジー。シャアアアー」
ジェシータが威嚇する。
「ウルフィー。行くぞ」
「御意。主様との二人きりの闘争。実に甘美な言葉の響き。今日のブログの内容はこれで決まりでございます」
ドッグとウルフィーが加耶音に向かって駆けて行く。
「少年ニャ。名前は何というミャ?」
ジェシータが聞いて来た。
「そんな事より放してくれ」
「名前は何ニャ?」
ジェシータが柿郎の顔を覗き込むようにして見て来た。ギロリと大きな目が睨み付けて
来る。
「……柿郎」
ジェシータが目を細め、にやりと笑う。
「柿郎ニャ。大切な人って、あの大きな犬みたいなのは、恋人か何かなのかミャ?」
「今はそんな事関係ないだろ。放してくれ。行かせてくれよ」
「内容によっては一緒にあっちに行ってやっても良いニャ」
「何だよそれ」
「早く教えるニャ。教えないと梃子でも動ないニャ。それに。絶対に放さないミャ」
柿郎は目を伏せた。
「まだ好きだって伝えてないんだ。けど、付き合いたいと思ってる。これで良いだろ」
「相手は男かミャ? それとも女なのかミャ?」
「女に決まってるだろ」
「そうかミャ。それなら良いニャ。男同士とかだったら絶対に行かないところだったニャ。
行くニャよ」
「お、おい。いきなり跳ぶなって」
「こうしてしっかりと抱いておけば大丈夫ニャ」
柿郎の背中に回る両腕に力が込められ、柿郎の顔はジェシータの加耶音よりも大きなサイズの胸に埋もれた。
「フガ、モガ、フフガ」
このままでは窒息すると思い、声を上げるが言葉にならない。
「何だミャ? くすぐったいからやめるニャ」
いよいよ苦しくなって来たので柿郎は両手を必死に動かしてもがいた。
「ちょっとやめるニャ。そんな所を触っちゃ駄目ミャ。もう着くミャ。こんな事してる場合じゃないミャ」
なぜか嬉しそうにジェシータが言う。
「フガガー。モガモガー」
柿郎は窮状を訴えつつ、更にもがいた。
「柿郎? 何をしてるの?」
加耶音の驚き震える声が聞こえて来る。
「フガガ? フガモガ」
「何ニャ? もっとギュッとした方が良いのかミャ?」
「そこの女。何してんのよ。柿郎から離れなさいよ」
「嫌ミャ。柿郎がやめてって言うまではやめないミャ」
「ジェシータ。何をしてるんだ。その少年と一緒にすぐに向こうへ行け」
「今がチャンスニャ。その子、素に戻ったミャよ」
柿郎を抱くジェシータの腕が緩む。
「ぶっは。死ぬかと思った」
「失礼ニャ。こんな事ぐらいでは死なないミャ。良い思いができて良かったのミャ。感謝
して欲しいくらいニャ」
ジェシータが無邪気な笑みを顔に浮かべる。柿郎は緩んでいるジェシータの腕の中から抜け出した。
「待つニャ。行っちゃ駄目ニャ」
「加耶音どこだ?」
柿郎は加耶音の姿を探しながらジェシータから逃げるように遠ざかる。
「柿郎……」
加耶音の声が聞こえたので、柿郎は足を止めて顔を声のした方に向けた。
「動いては駄目だ。じっとして黙っていろ。そうしないと、また撃たれるぞ」
「主様の言う通りでございます。ここはどうか堪えて下さい」
ドッグとウルフィーに口を両側から抑え込まれている加耶音の姿が視界の中に入って来
た。
「やめろ。加耶音。大丈夫か」
柿郎は加耶音に向かって走り出す。
「良い展開ですね。けれど、もう少しスパイスを効かせましょうか。イェーガーの隊員さ
ん。あの子とあの犬男達に向かって発砲しちゃって下さい」
愉悦に満ちた声をフフェアが上げた。
「くっそう。体が、体が勝手に」
「何だこれは?」
勝之助や他のイェーガーの隊員達が、持っているアサルトライフルの銃口を加耶音とドッグ達に向ける。
「撃てえ」
勝之助の声が響き、発砲音が鳴り始めた。
「勝之助君。やめて。あれは加耶音なんだ」
柿郎は射線の中に入ろうとした。
「やめるニャ。死ぬ気かミャ」
背後からジェシータに腕を掴まれ止められる。
「でも、加耶音が」
自分達に向かって来る銃弾を手で弾きながらドッグとウルフィーが加耶音を守るように
銃口と銃弾が命中しても声一つ上げずに堪えている加耶音の間に立った。
「フフェアか」
「主様。ここはフフェアよりもこの子でございます」
「分かってる。守るぞ」
「御意」
自分達の体に当たる銃弾を無視し、体中から血や肉片を飛ばしながら、ドッグとウルフ
ィーが加耶音に向かう銃弾を手で弾いて止め始める。柿郎は二人の行動を見て呆然とその
場に立ち尽くした。
「まずいミャ。あの子が」
「何よ。どうして撃つのよ。こんな姿だって撃たれれば痛いんだよ。やめてよ。勝にい。
柿郎。助けて」
加耶音が叫ぶ。
「加耶音。行かせてくれ」
柿郎は我に返って叫んだ。
「駄目ニャ」
「柿郎―!」
吠えるように一際大きな声を加耶音が発したと思うと、その体が大きく跳躍した。
「加耶音!」
加耶音の目と目が合った。加耶音の青色になっている瞳はとても悲しそう見えた。加耶音の姿が裏世界の壁の向こう側に消えて行く。
「加耶音」
柿郎は壁に向かって走ろうとした。
「無理ニャ。柿郎じゃ行っても何もできないミャ」
ジェシータが静かな声で告げた。