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地震学者

「なんか、慌しい一日だったねぇ。お前たちにも手伝ってもらうって言ったのいつよ。一昨日だよ、一昨日。こんなことってある?」

 雅が盛んにぼやいている。酒を少し飲んだせいか、饒舌になっていた。とはいっても決して嫌がってはいない。むしろ入籍をすますことができて事実上の夫婦となったのだし、当然のように一室を与えられたのだ。これまでのようにコソコソと慌しい営みをしなくてすむのだ。雅の言葉の端々にそれをうかがわせる種が撒き散らされている。

「けどさ、公務員の日当っていいんだねぇ、びっくりした」

 雅は、源太のグラスにビールを注ぎながら目をキョロキョロさせる。

「雅ぃ、声が大きいよ。周りに聞かれるよ」

 琴音にたしなめられてペロッと舌を出した。


 庁舎を退出した時、既に九時をすぎていた。今村が差し向けてくれたタクシーがホテルに配んでくれて、チェックインを済ますと同時に遅い食事にありついたのだ。馴染みのない料理を避けて、俺たちはトンカツで腹を満たしていた。


「けどさ、何をさせられるんだろうね。どう考えてもさ、私たちって浮いてるよね」

 琴音が不安げに呟いても、誰もフォローできない。


「とにかくさ、取り越し苦労しても始まらないのだし、今夜は早く寝るしかないだろう」

 雅の皿から一切れ失敬して、たっぷりソースをつけたのを頬張っていた源太は、ソースまみれになったまま皆を見回した。

「明日の夕方までは方針が決まらないようなこと言ってたよね。ねぇ琴音、時間があったら着替えを買いに行こうか」

 早速に買い物の算段をしているが、話の要点は押さえていた。そして、源太のグラスにビールを注ぐ。

「雅ぃ、あまり飲ませないほうがいいよ。明日があるんだからさぁ」

「わかってるって。だけどね琴音、少し飲ませたほうがいいらしいよ。長持ちするんだって」

 テーブルに身をのりだして雅が囁くと、琴音の箸が止まった。

「わるいけどさ、俺、家に電話しておくわ。突然だったから心配してるだろうし」

 琴音も食事を終えたようなので、俺は伝票を取って席を立った。



 一夜明けて、俺たちが登庁したときにはすでに今枝と木下がコーヒーを飲んでいた。始業までにまだ三十分も余している。今日からは客ではないので、飲みたければ自分で煎れろと素っ気ない態度だった。

「なぁ木下、新婚さんは大丈夫だろうなぁ、新婚のしすぎで使いものにならんでは困るぞ」

 ぽわぁっと煙を吐き出してクソ面白くなさそうに今枝が呟く。

「おい、まさか手取り足取り教える歳じゃないんだぞ。心得てるだろうよ、それくらい」

 目の玉だけ動かして俺たちを見やった木下も、プイと視線をはずして煙を吐いた。

「なあ、お前、新婚のときはどうだった?」

 とても仲の良い者同士の何気ない話。今枝の言い方は、まさにそれだ。カップのコーヒーを啜るようにしごく自然な言い方だ。しかし、えっというように琴音と雅が顔を見合わせた。

「どうって、寝る前、寝てる間、出勤前だったけど」

 それに応じる木下もするりと言ってのける。話している内容はえげつないというのに、恥ずかしがる様子などない。琴音が俺の膝を突いた。赤い顔をしてじっとコーヒーを見てはいるが、恥ずかしそうにしている。

「なんだ、そうだったのか。それで楽させてもらったんだな。俺なんかな、理性でできてる人間だろう、出勤前は遠慮しなきゃって理性が働いたからなぁ。……そうか、そりゃあやつれ方が違うわ。元気が残ってると勘違いされるわな」

 なんのことを言っているのかはかり知れない。ただ、今枝はそう言った後で額を指で掻いた。

「お前、先輩の忠告を無視したのか? だから本部長を転々とさせられるんだ。自業自得ってやつだな」

 木下は面白そうに相槌を打った。ところで、本部長を転々とはどういうことだろう。二人とも警察庁の職員のようだから、ひょっとすると県警のトップだったのだろうか。それを転々と。俺たちが相手をしているのは、そんな偉い人なのだろうか。

 またしても琴音が膝を突いた。大丈夫だろうかと目が訴えている。

「なんでもいいけどよ、ちゃんと管理してくれよ。目眩でもおこされたら厭だぞ」

 ギロッと俺たちに目を向け、ブスッとして煙をふかす。

「無茶言うなよ、試合じゃないんだぞ。ハジメェ、ヤメェって叫ぶのか、ばかばかしい。直に訊ねたらどうだ。俺は、節度をもっていると信じたいが」

 木下は素っ気なく言ってカップを口に配んだ。


「おい、松永君」

 むっつりとしていた今枝が急に大きな声で呼んだ。

「はい」

「は……はい」

 びっくりして返事をすると、つられて琴音も返事をした。そうか、琴音は俺の女房になったのだと、ふと思う。その様子をじっと観察していた木下と今枝が腹を抱えて笑い出した。


「お、おい……うまくいったなぁ。あーっはっはっはっはっは」

 タバコを挟んだ指で俺を指し、今枝がさも愉快そうに笑った。

「ほ、ほんとだ。はっはっはっは……こんなに簡単に、はっはっはっはっはっは」

 木下も、コップを持ったまま俺を指している。そして今枝と同じように狂ったように笑いこけた。

「すまなかった、このとおり謝る」

 ようやく笑いを収めた二人は、ガマ蛙のように両肘を張って頭を机にこすりつけた。


「君たちの様子が心配でね、いや、昨日なんかびりびりに緊張していただろう。いくらなんでもあれじゃあなぁ。そこで、今枝と芝居をうったのさ。私たちはこんな男だ。気楽にしてくれないか」

 初めて出会ったときよりも一層親しみがわく、木下はそんな男だ。

「そうそう、仕事になったら切り替えるが、普段は君たちより子供っぽいのだよ。ところで、さっきは松永君を呼んだつもりだったのだけど、入籍したということなら同姓になったわけだな。昨夜のうちに気付くべきだったが、身分証を作り直さねばいかんな。それはそれとして、同じ苗字だと頼み事をするのに不便だから、呼び方を変えようか。普段はどう呼び合っているんだね?」

 襟元に指をこじ入れてネクタイを緩めながら、今枝は木下の後追いをする。


「勘太ぁ、この人たちセクハラだよ。大丈夫かなぁ」

 ぷっと頬を膨らませて琴音が囁いた。

「あー、そういうことね、下の名前で呼び合ってるのか。ふぅん……。案外そっちの二人も同じかな? では、我々も下の名前で呼ばせてもらおうかな」

 悪戯小僧のように厭らしい笑みを浮かべた今枝は、ちらっと時計に目をやると勢いよく立ち上がった。

「少し早いが、仕事にかかろう。といって、各省庁の対応はそれぞれ任せておくとして、時間を無駄にすることもないから、まずは地図で検討しよう。こっちへきてくれ」

 そして、忘れていたかのように受話器を取った。


 同じフロアに小会議室がいくつかある。ちょうどエレベーターホールの正面にあるドアもその一つだ。中は八畳ほどの広さで、中央に長机が並んでいる。並んでいるパイプ椅子を片付けていると、若い職員が資料を抱えてきた。

「紹介しておこう。いつも私……、いや、こういうことは最初が肝心だな。俺の補佐をしてくれている小林だ。あいにく独身でな、……いや、関係なかったな。同年代だから気心も通うだろう。仲良くしてやってくれ。ただし、切れ者だからな、女だと侮ったら痛い目をみるぞ」

 そして、宣言したとおり俺たちのことを下の名前で紹介した。


 壁に日本全図が広げられた。今枝が色のついたマーカーで印をつける。瀬戸内沿岸にいくつも丸を描いた。

「今のは石油コンビナートだ。そして、石油基地があるのはここ、ここ、ここ……」

 真っ赤なマーカーでも印をつける。

「こいつは、原発の場所だ。火力発電所の位置はあとで書き込むとして、ホテルの場所はここでいいか?」

 木下に教えた位置にボールペンの先がピタッと載っていた。説明する側、される側、共に正確な記憶力だ。

「部屋の向きはどうだった?」

 定規をあてがったまま首を捻じ曲げて俺を見つめている。

「たぶん西向きだと思います。太陽が沈んだ位置からすると、きっと西向きです」

「なるほど……」

 今枝は、ボールペンをおいた場所から真っ直ぐに一本の線を引いた。

「あとは、津波発見から到達までの時間か。それと、地震発生から津波発見までの時間。その二つが判れば、おおよその震源が判るわけだ」


「津波が到達するまでに十五分はかかっていないだろう。どうかすると十分くらいかもしれん」

 俺の説明を元に、木下なりの予想をたてたのだろう。それが合っているかどうか、生憎なことに覚えてなどいない。とはいえ、そんなに大きな違いはないかもしれないし、それで凡その震源が特定できるのなら、後で役立つかもしれないと思う。言った木下は、太いペンで到達時間を書き込んでしまった。

「ふぅん、かなり近いのかな。ということはだ、九州西岸と奄美、沖縄も津波に襲われるということだな……。真北に済州島、ずっと西は上海か。まあ、警告したところで信じまい、国内だけを考えよう」

 今枝はあっさりと外国への警告をしないと決め、小林に九州各地の防災地図をさがすよう言いつけた。それとは別に、等高線の入った分県地図を別の職員に用意させた。


「東北を襲った津波の高さってどれぐらいだったっけ?」

 白地図をひとつに貼り合わせながら誰にともなく呟く。が、俺たちは顔を見合わせるだけで答えることができなかった。

「すごかったとしか覚えていません」

 琴音の顔が強張った。幾度となく放映された災害映像を思い出したのだろう。

「そうそう、早く逃げてとか、そっちは危ないとか」

 雅もしきりと相槌をうっている。俺は中継映像を見ることができなかったが、自然の猛威に声を失うだけで、どれくらいの波が押し寄せたかなんて全く覚えていない。

「なんかさぁ、映画を見てるようで、現実感がなかったよな」

 水に呑まれる自動車が、流される屋根につかまっている被災者が、目の奥に焼きついている。遠山も苦い表情になってボソッと呟いた。それが俺たちの記憶、俺たちは無責任な見物人だったのだ。


「なんだ、覚えていないのか、いかんなぁ。といっても、それが世間ってもんだ。自分に関係ないことなら、かえって面白いショーだからな」

 今枝は、物分りの良い笑顔をみせた。しかしと言って真顔に戻ると、つまらなそうに言葉を続ける。

「その世間に危機感をもたせにゃならん。退避させにゃならん。容易なことではないぞ、だが、それが俺たちの仕事だ。どうだ、血がたぎるだろうが」

 コロコロ表情を変える気楽な中年という印象を与えてはいるが、今枝は俺が考えていた官僚ではなく、格闘家の一面を隠しもっているようだ。自分の親父と同じような中年の挑発に、俺はこの人たちの本気さを感じた。

「だからこそ、君たちを引っ張ったのだよ。勘太、源太、琴音、雅。しっかり手伝ってくれよ」

 木下の声は穏やかだった。どうもこの二人は役割分担をしているようだ。俺たちをからかうのも、こうして仕事の大切さを教えるのも、暗黙の了解で協働しているようだ。


「俺も詳しくは知らん」

 あれだけの前口上だから、てっきり知っていると思っていたら、今枝はあっさりと知らないといった。そう、津波の高さを覚えている者は、そういうことばかりを研究している者だけのはずだと、負け惜しみを言いたくなる。

「ただ、十五メートルという数字を聞いたことがある。そこでだ、地図の等高線をたよりに浸水域を塗りつぶしてみよう。余裕をみて標高二十メートルまでのところを塗りつぶしてくれ」

 同じ縮尺の白地図を貼り合わせたら、思いのほか大きな地図になった。一面の壁はそれで埋まってしまう。海面から二十メートルのところを塗りつぶすと、元の地形とは全く形の違う地形が浮かび上がってきた。それに、たった二十メートル以下の土地のなんと広いこと。当たり前だが、道路や鉄道も寸断されることがはっきり判る。

 そんな作業をしながら、時間はすぎていった。





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