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逆転

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 白波が音もなく近づいてくる。横一線に広がったまま、どこかが先になることもなく、整然と線を保ったまま近づいてくる。しかも猛烈な速さだ。その意味するところを俺は悟った。これは津波なのだ。外が明るければその高さを目の当たりにできたのだろうが、こんな暗闇では白い線しかわからない。

 何本かの帯を引いた波頭が岬に噛み付いた。そこから続く砂浜が消しゴムで消されるように存在を失ってゆく。そしてホテルの足元にも大波が打ち寄せていた。

 ドッシャーンと打ち付けた波が行き場を失って、上へ上へとしぶきをあげた。三階にある部屋の窓がしぶきに濡れたとみるや、滝のような壁がせり上がってきた。

 逃げなければという気持ちなど、大波に呑み込まれてしまったようで、足が竦んで動けない。琴音の肩を引き寄せ、指が白くなるくらい抱かかえるばかりだった。


 と、そこで奇妙なことがおきた。


 コップの汗のように細かくなっていた波しぶきが集まって塊となり、窓の下へ降りてゆく。壁のように立ち上がった大波がそのままズルズルと海に沈んでゆく。波が崩れるのとは違い、ズボーッと沈んでゆくのだ。岸に打ちよせた波が拳骨を振り上げたかっこうで沖へ戻り、岸辺に白い線を引いた。その線は岬にむけて延びてゆく。その後には砂浜らしきものが現れた。線はやがて岬を吐き出すと、凄い速度で沖へ退いてゆくのである。と同時に、どうしたことか俺は後ろ向きに歩いて遠山と雅の前に立った。なにを叫んだのか、意味のわからない声が喉をついて出た。いや、声が喉に逆流した。部屋を出るときも、閉じたドアを何度も蹴った……、いや、そうではない。ドアに貼りついた足を引き剥がすようにした。あれっと思うのだが、俺は動きを止めない。

 自分の部屋に戻るなり、着ているものを全部ぬいでしまった。


 いきなり琴音に覆いかぶさったら、激しい地震に何度も見舞われた。そのあと、二人で海を眺め、琴音と抱き合ったのである。しかも、その後で二人してシャワーを浴びた。

 ところが、水が排水口からわき上がってくる。それがからだを伝い、シャワーヘッドに吸い込まれてしまった。シャワーを浴びるのではなく、排水溝から湧き上がる水を蛇口に戻していたのだ。


 何もかもがこうなのである。映画を逆回ししているように、口から食べ物を吐き出し、箸できれいに盛り付けをする。

 いきなり波間に頭をつっこんだ俺は足から水面におどりあがり、そのまま岩へ飛び上がった。

 後ろ向きに乗り込んだ連絡船は、船尾の盛大なしぶきを吸い取るように速度を上げた。

 バシャンバシャンと上下に揺れるのを楽しそうに笑っている。そのくせ、髪の毛は進む方向になびいている。船はすごい勢いでウェーキをかき集めるように後退していた。


 これはいったいどういうことだろう、すべてが逆回しなのである。しかも、それが倍ほどの速さで戻ってゆくのだ。

 琴音と裸で抱き合っていると思えば、ご丁寧に一枚づつ服を着せ、救急車に追い越されながら公園を歩く。それもすべて後ろ向きにだ。そして、駅の出口で切符をもらい、なぜか一旦自動回収機にぶつかったあとでプラットホームへ。俺の靴から琴音が踵を抜き、車両に乗り込んだ。

 これまでの行動を寸分の狂いもなく逆戻りしているのである。


 いったいどうなるんだろう。いくら考えてもその動きはまったく止まらず、こうして時を遡っていることを観察している自分を不思議に思う余裕などなかった。


 そんな不安をよそに、どんどん過去へ逆戻りである。その間というもの、音も話し声も逆戻りだ。だから、何を話しているのかはまったくわからない。ただ、二日前の出来事も一週間前のできごとも、あらためて確認することになった。うろ覚えだったり、もう忘れてしまったことでさえ、鮮明に思い出したのである。




「松永さぁーん、おはようございまーす」

 耳に馴染んだ声に目が覚めた。あの夜以来、初めて理解できる言葉だ。大きく息を吐いて目をこすると、白いナースキャップを載せた顔が間近にあった。

「かぁーんたっ、早く起きないとご飯抜きにするよぉ」

 琴音がニコニコしながら見下ろしている。小柄でぽっちゃりしているくせに声はソフトで、夜勤明けのせいか少し掠れている。

「化膿したりしてませんよね」

 点検するふりをして毛布の下に手を差し入れてきた。なにが点検なものか、そうしてササッと急所に触れ、何事もなかったかのように毛布を掛け直す。そして、そっと唇を重ねてきた。

「おい、職場でそういうことをするなよな、淫乱看護婦って噂になるぞ」

 さすがにカーテンで隠してはいるが、俺がいるのは四人部屋だ。光の当たり具合で丸見えのはずである。ところが琴音はそんなことにはおかまいなく、朝の挨拶のつもりらしい。

 俺と琴音との関係は皆に知られてはいるが、それでも節度というものがあるはずだ。自然と俺は声を潜めていた。

「ばぁーか。生意気だよ、勘太のくせに。そんな噂になったって、無理やりされたって言い逃れができるんだから、女は強いんだよ。それとね、今は看護師っていうの。男性もいるんだから、ごっちゃになっちゃう」

 子供の頃から言われ続けてきた科白が返ってきた。顔をくっつけるようにして囁くと、よりハスキーだ。

「とにかく、今日は退院だからね、しゃきっとしてよ」

 もう一度ついばむように唇を重ねた琴音は、ニコッと笑って身を起こした。

「わかったよ、うるさいんだから。そのうち泣かせてやるからな、おぼえとけ。それで? もう退院していいのか?」

「まだまだ。先生の回診がすんでから。十一時頃じゃないかな。ちゃんと待っててあげるって」


 俺が、転げまわるほどの腹痛で唸っていたとき、いつものように遊びにきた琴音が血相を変え、自分の勤める病院に運び込んだのだ。そして簡単な検査を受け、緊急手術となった。急性虫垂炎だった。

 そのとき琴音は、自分の婚約者だからという口実で、みずから剃毛をした。見た目は幼いが、頼もしい相棒なのだ。



 そして病院から開放されたとき、一つのアクシデントがおきた。移動に利用したタクシーがパンクしてしまったのだ。それと、自宅の部屋には夢でみたのと同じ柄のカーテンが下がっていた。

 タクシーのパンクといい、カーテンの柄といい、どっちも夢でみた通りだ。


 しかし、ふと疑問に思ったのは、俺の車はパンクしてことがないという事実だ。俺のだけでなく、親父の車がパンクしたことも聞いたことがない。もちろん買った車についていたタイヤだから、特別パンクしにくいタイヤであるということはないはずだ。乗ったタクシーがパンクする夢をみた。そして実際にタクシーがパンクした。これはいったいどういうめぐり合わせだろう。夢で、そして現実で確率の低いことがおこってしまったのだ。

 カーテンもそうだ。煮しめたようなものでも平気でぶらさげておく性格の俺が、新しいカーテンと取り替えるはずがない。もっとはっきりいえば、カーテンなど不要だとさえ思っているくらいだ。とすると、取り替えたのはお袋か琴音に決まっている。だが、いつ取り替えたのか俺は知らない。なのに、色も柄も夢と寸分違わぬものが掛かっていた。

 これはいったいどういうことだろう。実際に自分が見た記憶のないものを夢の中で見た。そして現実に、こうして今目の前にしている。

 ひょっとすると、俺はこれから起こることを夢の中で見てきたのだろうか。そんな考えが頭をもたげたが、まさかと打ち消した。どこの世界にそんな奇跡が起こるのだ。

 漫画のようだが、もしこの先も夢で見たことが現実となるのなら、明日は東名高速で大事故がおきるのだろうか。まさかと笑い飛ばした反面、ひょっとしてという興味が湧いてくる。そこで俺は、軽い気持でそのことを琴音に話してやった。


「なあ、ひょっとすると、明日は東名高速で大事故がおきるぞ。トンネルの出口で玉突き衝突がおきるのだけど、悪いことに火が出るんだ。けっこうな火災になって、気の毒だけど、何人も死ぬ」

「またぁ、勘太は冗談ばっかりだから。とにかく、からだが完全じゃないんだから今日は寝るんだよ。私も早く寝ないと今夜の仕事に遅刻するから」

 持ち帰った荷物を整理していた琴音は、まるで本気にしていない。いずれにせよ、午後九時からの勤務に遅刻しないよう、すぐにでも帰って眠らねばならない時刻になっていた。

「ここで寝るか?」

 ベッドの片側を軽く叩くと、

「ばぁーか。お母さんに見つかっちゃうよ」

 琴音はまたしても唇に触れた。

 琴音は、高校を卒業する頃からお袋のことをおばさんとは呼ばずに、お母さんと呼んでいる。呼ぶ琴音も呼ばれるお袋もそれを当たり前のようにし、親父なんかはお父さんと呼ばれて上機嫌で応えている。


 翌日、まさかと思っていた東名高速の事故がおきてしまった。場所はトンネル出口で、何台もが炎に包まれたのだ。

 仕事帰りに立ち寄った琴音は、事故を告げるニュースを驚いたように見つめていた。


「勘太、当っちゃったね。なんで? ねぇ、どうしてわかったの?」

「……なんでって訊かれても、まさか当るとはなぁ」

 言った本人が信じてなどいなかったのだから、琴音の疑問に答えようがない。しかし、事は重大だった。高速道路での事故は珍しいことではないし、トンネル出口の事故も多いだろう。だが、そこで火災がおきて多くの犠牲者がでるとなると、めったに起きる事故ではない。全国にたくさんある高速道路から、東名高速だということを俺は教えた。発生時刻とトンネルの名前を覚えていれば良かった。

 が、琴音は事故を予見すること自体が奇妙だと言い張った。誰しも自分は平穏に一日を終えると信じて疑わないものだから、重大な事件や事故、火災などを予見しようなどと考えないものだと言ってきかない。そこでしかたなく俺は、昨日の出来事が夢で経験したのと同じであることを話した。


「そっかぁ、今はパンクなんて余程でなけりゃしないよねぇ。お父さんの車なんか、買い替えるまで一回もパンクしなかったくらいだもんね。だけど、カーテンの柄? 自分で買い換えたのじゃないの?」

「俺がそんなもの買うと思うか? 琴音かお袋が取り替えたものだとばかり思っていたぞ」

「あぁ……、それは納得。昔からだらしないもんね。それじゃあ、お母さんが買ってくれたんだ。それで事故か、不思議ねぇ。……ねえ、どこまで覚えてるの?」

 琴音は手をヒラヒラさせて自分がしたことではないと言い切った。そのあとで、妙に甘えてもたれかかってきた。

「何が?」

「夢だよ、どこまで続いてた?」

「夢か? 鹿児島旅行まで続いてたんだ」

 と、旅行までの記憶はあると明かしたのだが、津波に打ちかかられたことは言えない。

「鹿児島って、あれ八月だよ。まだ二ヶ月も先のことじゃない」

「そう……なんだけど、それまでの出来事をちゃんと覚えてるんだ」

 自分でもどういうことかさっぱりわからない。だから中味が正しく未来を予知しているとは思っていないが、出来事はしっかり覚えている。

「ちょっと待って」

 琴音はカレンダーを外してきた。たしかに今日は六月で、ペラペラめくったところに赤丸が並んでいる。たしかホテルの予約が取れているはずだ。

「じゃあさ、覚えていることを言ってみて、書くから」

 そう言って、今日のところに東名で大事故と書いた。

「明日は?」

「平和だ」

 これといって目を惹くような事故はなかったはずだ。

「明後日は?」

「何もない」




「ふうん、いろいろ覚えているんだね。ねえ勘太、思いつきじゃないよね?」

 俺が答えることを全部書いて、琴音はペン尻で頭を掻いた。


「じゃあさ、鹿児島旅行は?」

「覚えてるよ。大阪から鹿児島まで一息だった。大阪を出てすぐに車販が通ったんだ。それでコーヒーを買ったらチョコレートをくれたよ。なんでも、記念サービスだと言ってな。源太が食いしん坊でな、大阪で買った弁当をすぐに食べてしまったんだ。なのに、それだけでは足りないからって、小倉をすぎてかしわ飯を買った。たしか五両目の前よりだったなぁ。海側の席だったから進行方向の右側だな。向かい合わせにして、たしか俺は進行方向を向いていた。窓側に座ってた」

 まだ乗車券など手元にはない。まだ発売すらされていないし、面倒だから旅行社に頼んであるのだ。

「ふうん、それで?」

 八月四日のところに、五号車前より、右側の席と書き入れる。そして、記念チョコとも書いて先を促す。

「鹿児島に着いたとき、琴音がホームでコンタクトを落としたんだ。またかってさがしていたら、雅がしゃがんでな、黄色い下着が丸見えになって。おかげで琴音に足踏まれた」

「はぁ……、なんとも、良い夢だったんだね」

 雅、黄色の下着と書き、線で消した。そのかわり、ホームでコンタクトと書く。

「それでな、ようやくみつけたら琴音が洗浄セットを忘れてしまったのがわかって。雅に借りたのだけどさ、そそっかしい奴だなあ、間違えて避妊具をよこしたんだぞ。それも箱ごと。俺たちみたいに、正々堂々なま……」

「かぁーんたっ」

 上機嫌の声だった。遊園地ではしゃぐようにはずんでいる。こういう声で俺を遮るときは、必ず足を踏みつける。もっとも、それだけくっつくわけだから迷惑なことではない。

「踏まれたい?」

 最高レベルの笑顔がそこにあった。


「それから……、そうだ! 駅を出ようとしたら機械が壊れて、キンコン鳴っちゃったのさ。それも、隣を通ろうとした琴音もいっしょに。ほかは……、そうだ! 二人で城山公園を散歩してたら、熱中症の若者がいてさ、琴音が応急措置をしてやった。それで……、次の日は串木野の旅館で泊って。翌朝、そこから島へ渡ったんだ」

 琴音は、改札機が故障、熱中症の手当てと書き加えて、またしてもペン尻で頭を描いた。

「ふうん。……天気は?」

「ずっと晴れててさ、おかげで真っ赤に日焼けしたんだ。肌がピリピリしてそれどころじゃないのにさ、満天の星に魅せられてしまってな、琴音が夢中になる」

「かんたぁ、本当に踏むよ」

 呆れたとでも言いたげな表情だが、どういうわけかぽっと赤くなっている。きっとその場面を想像して恥ずかしくなったのだろう。嘘のつけない奴だ。


「しかたないだろ、夢の説明をしてるだけじゃないか。電気を消したらすごい星空でさ、つい二人とも興奮して頑張っちゃったのさ。終わって、ベッドで二人して海を眺めてたんだ。そうしたらな、グラグラッと、すごい地震だよ」

「地震?」

「ベッドサイドの飲み物がふっとぶくらいの地震だ。琴音をベッドに押し倒して、覆い被さってやったんだぞ。そうしたら海に白い線が現れて、すごいスピードで迫ってくるのさ。岬にそれがのみこまれた。それで、その線がどんどんこっちへ近づいてきた。盛り上がった海がホテルの土台に噛みついて水しぶきをあげた。するとな、見えてるものが突然逆廻りを始めたんだ」

「逆廻り? なにそれ」

 琴音はポカンとして俺を見た。あの時、かなり苦しんでいたから、妄想でもみたのではないかとでも言いたげだが、俺は普段とまったく変わっていないはずだ。

「いや、何がどうなってるのか解らないよ。たださ、ビデオを逆に再生させてるみたいになって」

「それで?」

「見えるものだけじゃなくて、音も逆転したんだぞ。それが長ぁいこと続いて、琴音の声で目が覚めたということさ」

 順番が少し狂ったかもしれないが、およそそういう具合にいろいろ見てきたわけだ。

「長い夢ねぇ……。片道二ヶ月かぁ。それを戻ってきたの? 往復で四ヶ月も旅をしたんだ、ご苦労さんだったね。それだけ長かったら助平な要素は忘れてるだろうから、それもいいかもね」

「ちゃんと聞いてた? 琴音と頑張ったって言ったろ?」

「ばか、そんな夢みるな」

「いいじゃないかよ、夢なんだから。鹿児島なんか、三日連続だったんだぞ。俺の子供を産みたいって言ったくせに」

「勘太のばか!」

「だけど、そんなこと書いてどうするんだ?」

「別にどうもしないよ。どれだけ覚えているか整理しただけだから」

「だよな。でもさ、昨日のパンクとカーテンは実際に起こったことだし、今日も事故が。だから、……こうしようか」

 俺は現実となったところに赤丸をつけた。

「そっか。そうすれば夢の出来事が現実となったかわかるよね。へっ、アイディア出したのは私だからね」

 琴音の笑顔が花開いた。

「けどさぁ、最後のって、津波なの?」

 せっかく開いた花が色を失い、はらりと花弁が落ちる。それくらいめまぐるしく表情が変わる。

「見たことがないけど、きっとそうだ」

 俺はテレビドラマのワンシーンのように捉えている。つまり、あくまで夢の中の出来事にすぎないということだ。だから気楽に構えているのだが、琴音は夢の中とはいえ、楽しいはずの旅行にケチがついたことが気にかかるようだ。それに、偶然とはいえいくつかの夢が現実となっていることも気掛かりらしく、しばらく考え込んでいた。


「どうする?」

 テーブルに頬杖をついたまま大きな目をクルンと俺に向けた。そんなことをしなくても十分子供っぽいのに、そうして縋るように俺を見つめる姿はまるで高校生だ。それはともかく、どんどん表情が沈んでゆく。

「どうって?」

「もしもだよ、もし次からつぎへと現実になったら、……大地震がおきるの?」

 どうして女ってやつは物事を極端に捉えようとするのだろう。それに、元はといえば夢ではないか。

 まさかと、言下に否定してみせたのだが、まったくの絵空事ではなさそうだと自分も思い始めている。そして再び、二人して黙りこんだ。


「ねぇ、いろんなことが現実になったら?」

「だから、そんなことありえないって」

「……ありえたら? 私たち、結局そこへ行くの? 行かないようにすることってできる?」

「そんなこと、……だいたいが夢なんだからさ、そんな……心配……」

「ねぇ、……どうする?」

「心配するな。琴音のことは守ってやるから。とりあえず様子をみようぜ」

 どうやって琴音を護るかなど考えてはいないが、即答で安心させてやるくらいしか俺にはできない。あの日からずっと、それが俺の務めなのだから。

 それで納得したのか、琴音は俺の隣に腰掛けるなり強く唇を押し付けてきた。



 それから三日たった。つまり、東名の事故から四日目である。

 テレビで盛んに報じてるのが、長崎の豪雨だ。観測史上稀な豪雨が断続的に長崎一帯に集中し、市内を流れる川ですら氾濫の危険があるという。すでに周辺地域への避難指示が発令されていた。つい今しがたも、今にも溢れそうな濁流が川を駆け下るのをテレビでやっていた。

 長崎は以前にも大雨で甚大な被害を蒙っている土地である。だから、長崎の豪雨を予見したところでまぐれ当たりということもある。問題は日付だ。俺が話すのを書きつけたカレンダーになんと書いてあるかが問題だった。


「勘太! 雨のこと夢に出てた?」

 早番の仕事を終えた琴音がぶらっと姿をみせた。俺の言ったことが、ただの夢なのかどうか、外れることを見越したのだろうか、それとも外れることを願ってだろうか。。

「仕事、終わったのか?」

 早番が終わるのは午後三時。それから一時間もたっていないのだから、どこへも寄らずに来たのだろう。

「うん、今日も一人……、だった」

 琴音の言う一人とは、息を引き取った患者のことだ。慣れてしまったとはいえ、人が死ぬのに立ち会うのは負担のようで、それが嵩じてくると、琴音は積極的に肌を求める。どうやら今日もそういう気分でいるらしい。

「……そうか、辛かったな。こっち……来るか?」

 長く座っていると傷口が引き攣れたように傷むので、俺はベッドにころがっていた。シングルのベッドだが俺が壁にくっつけば二人で横になるくらいはできる。いつものように場所をあけて、ポンポンと叩いてやる。

「えっ? ……そういうつもりじゃないけど……、だけど……、傷、痛くない?」

 断るそぶりをしておきながら、ちゃっかり部屋のドアを閉じた琴音は、俺が空けた場所に腰をおろした。

「なんともないって。月曜から仕事に戻らなきゃいかんからな、準備運動しないと」

 躊躇うようにそよがせている手首をそっと引いてやった。

「……ばか。しらないから……」

 琴音は、憎まれ口をたたきながらもたれこんできた。

 何も言わずに頭を撫でてやるだけでいい、つまらない科白など必要ない。それで琴音は満足する……筈だったのに……



「ところでさぁ、どうだった? 雨のこと予言してた?」

 髪の乱れを気にしながら、琴音がコーヒーを炒れてきた。俺は、つけっぱなしにしておいたテレビの音量を小さくしながら、カレンダーを指した。


「どれど……、あたってる。勘太、当ってるよ……」

 どうせ作り話とでも思っていたのだろうか、カレンダーの前でじっとかたまってしまった。

「ということさ。どうやら本物みたいだ」

「いやだよ、そんな。そんなことなら鹿児島へなんか行かない」

 琴音の気持ちとしても、俺の夢は未来におきることと決めてしまったようで、それだけに八月の旅行が不安なのだろう。

「そうだな、そんなことしたら帰ってこれなくなっちゃうからな」

「ちがうよ、死にたくないよ」

 両手をぎゅっと握り締めて、声にも力がこもっていた。

「それなら大丈夫じゃないかな。ホテルは高台に建っていたし、泊った部屋は三階だったし」

「違うって! それより、その、地震があるのはいつ?」

 俺の返事が呑気に聞こえたのか、目を見開いて小さく叫んだ。

「鹿児島へ着いたのが四日。その次の次だから、六日だ」

「勘太、源太に電話。明日集まれって。場所はここ、時刻は午後三時。私は雅に電話する。

 それで、コピーとってよ」

「明日の三時って、遠山は仕事だろ?」

「なに言ってるの、明日は土曜日だよ。歯医者なんか二時くらいで終りだよ。雅だって銀行は休み。私、早番だから三時に終わる。ああぁーもうっ、集合は四時。今すぐ電話して!」

 きっと職場モードに切り替わったのだろう、琴音はきりっとした顔つきで俺に指図をした。

 連絡をとりおわると、琴音は車の鍵を掴んで表へ出た。そして、助手席におさまってしまった。

「早く! どこかのコンビニでコピーするの!」


 琴音が騒ぐ気持がわからないではないが、自分自身が腑に落ちないのだ。どうしてこんなにピッタリ現実になってしまったのだろう。考えてみたところで答などあるわけがない。だから傍観者になるしかないのだが、琴音の言うように、自分の身に危険があることを予想できるのなら、悪足掻きのひとつもしなければならないのだろうか。せめて琴音の不安を解消するくらいはしてやらねば男が廃る。そんなことを俺は考えていた。



「大事な話って、そんなことかよ。偶然が重なっただけだろ?」

 琴音から説明を受けた遠山は、ばかばかしいとでも言いたげに笑い、そして呆れてみせた。

「これだから源太は……、想像力がなさすぎだよ。あんたの自動車って、パンクしたことある?」

 ポコポコと泡を立てていたサイフォンに濃い液体が満たされた。蓋をとってクルクルっとかきまぜていた琴音は、源太が常識人すぎることに呆れたようだ。

「えっ、あぁそうか、パンクねえ……。いまどきパンクなんて、道端でタイヤ交換してるのなんか見ないよねぇ。ちょっと不思議だよね、たしかに。東名の事故も予言したの? トンネルの出口で、火災になるって? ……そんなこと、簡単に思いつかないよねぇ。それで豪雨? そりゃあ琴音が騒ぐの、無理ないわ」

 雅は、琴音の言い分に耳を貸している。というより、否定する材料を思いつかないのだろう。

「だけどさ、これって勘太の夢なんだろ? たまたま現実のものになったかもしれないけど、なんだかなぁ」

 源太はそれでも納得できないらしく、首をひねったままだった。


「琴音ぇ、これなんだけどさぁ、どうして何もない日があるの?」

 ミルクをたっぷりかきまぜたカップを源太に渡した雅が、カレンダーの所々にある空白を指した。

「その日は、特に大事件はないんだって。まあ、単に忘れただけかもしれないけど」

 琴音はカップを俺によこして、こともなげに言った。

「ちょっと琴音ぇ、勘太のお世話しないの? 愛想のないお給仕ねぇ」

「いいの。勘太はブラックしか飲まないんだから。大人なんだからね。それに、他人の前でイチャイチャしてはいけないってのが前田家の家訓なの」

「あー、反撃しようとしてるよ、生意気な。……まあ、それはいいとして、この次にあるのは……、月曜日の昼? 銀行強盗……、札幌でたてこもり? これ、本当なの?」

 雅の声が裏返った。カップを持ったまま俺をじっと見つめている。

「うん。そう覚えてる」

 しばらくして雅は、空いた手をヒラヒラさせて小ばかにしたように笑った。

「そんな、銀行強盗だよ。そんなこと、めったにあるわけないじゃない。だってさ、私の店が狙われたら、嫌だよ、そんな。だからね、これはないよ」

「そう……なんだけど……、そう覚えているから……」


「じゃあさ、もし事件がおきたら信じることにする。今はそうとしか言えないよ」

 源太は、そんな大事件なら簡単に発生しないと考えたのか、顔が完全に笑っていた。

「そ、そうだよね。実際にそうなったら信じるしかなさそうね。それでさぁ、その銀行の名前ってどこ? 覚えてない?」

 雅は銀行員である。それだけに他人事ではないのだろう。それにしては、半信半疑だと自分で言ったばかりではないか。


「いや、覚えてるよ。だけど、連絡してやっても信用するだろうか。性質の悪いいたずらだと受け止めるのが自然だろう? 好意を悪意と勘違いされて腹を立てるだけさ。本当に事件がおきたらどうなると思う? あの電話は油断させるためだったんだって考えるかもしれない。どうして予想できたんだって怪しまれるだけさ。それが問題なんだ」

 幼馴染の雅でさえ俺の話を疑っているくらいだから、どこの誰ともわからない者が発する警告を誰が信じるだろう。


「なあ勘太、ちょっと聞くけど、こうしてお前が未来を予想していることは夢でみたか?」

 源太が突然割り込んできた。

「いや、それは覚えていない」

 ちょっと考えてみたが、こうして話し合っている光景など夢の中には登場しなかったように思う。

「源太、どういうこと?」

 顔をあっちやこっちに忙しなく向けていた琴音が、カップを持ったまま眉間に皺を寄せて問うた。

「うん。こういう話をするとな、雅みたいに事件がおきることを通報しようとする者が現れるだろ? もし相手が信用したら、事件を防げるだろう。それはそれで良いのだけど、つまりは事件がおきないということだろう? つまり、未来を変えてしまうことだよな」

 物事を理詰めで解釈しようとするのは源太の癖だ。つまり、もし通報をした結果事件を未然に防いだとすれば、俺の見た夢とは違う線路に乗り入れてしまうということになり、夢は夢でしかなくなると言いたいのだろう。

「あっ、そうか」

 俺は素直に納得した。だが、それに疑問をなげかけた者がいた。雅だ。

「どうしてよ。源太の考えは、最終的な結果だけが大事というように聞こえるよ。通報を信じたから未然に防げたわけじゃない。信じなかったら事件がおきるわけでしょう? ということは、通報するしないと同じように、信じるか信じないかも問題だと思うけど」

 最初は鼻の先で笑っていた雅が意を唱えた。それは次の事件が他人事ではないと思ったからだろうか。しかし、雅の考えも正解のような気がする。俺も源太も結果に囚われているのかもしれない。雅は、転ばぬ先の杖と言いたいのだろうか。

「確かにそうかもしれないけど、じゃあ、誰が信じるかが問題だろう? なのに騒ぎたてたら勘太が嘘つき……」

「源太! どうしてそんな酷いこと言うのよ。それでも友達?」

 遠山の不用意な一言が琴音を苛立たせた。

「違うって。だけど、それが世間じゃないかな」

「そうだよねぇ、勘太は役所勤めだから世間の目に晒されるし、公務員だと何を言われるかわからないよね」

 雅が相槌をうった。


「うわっ、二人とも冷たい言い方ねぇ。それが友達?」

「琴音ぇ、二人ともちゃんと心配してくれているよ。世間の見方を代弁しただけさ」

「……それなら許すけど……。ねぇ、問題なのは最後の日なのよ。もしこれが本当になったら……。どう思う?」

 なんだかんだと時間をとったが、琴音は肝心の鹿児島旅行をきりだした。


「もしそんなことになったら、きっと俺は身元確認にかりだされ、琴音は救護の手伝いだろうな。勘太だって、現地の役場に協力しなくちゃいけないかもしれない。雅だけだな、行動が読めないのは」

 源太は、冷静にそのときのことを予想している。実際、そういう事態になれば、彼の思い描くとおりになるだろう。

「そうじゃなくて、鹿児島へ行くの?」

 琴音は、計画の変更なり、中止なりで当日そこにいなければと考えたのだ。

「うーん、困ったなあ。まあ、式に出席するわけじゃないから早めても良いだろうが、仕事の都合をつけなきゃいかんし、だからって皆も自由に休みをとれないだろ? ホテルも予約しちゃったし……むつかしいかな」

 手帳を繰りながら、源太はしきりと首をかしげた。


「わかった! いいよ、行こうよ。そのかわり、翌日には帰る。ねっ、そうしよぅ?」

 それでも琴音は粘っていた。なにも鹿児島でなくても良いのだ。少なくとも鹿児島から離れ、できれば九州からも離れたいのだろう。


「でもさあ、これって大儲けのチャンスかもしれないよ。このカレンダーを持っていたら、株で一儲けをたくらむやつがきっといる。うちの銀行だってウハウハ喜ぶよ」

 雅は、カレンダーを追いながら呟いていた。それは、俺たちには縁のない業界の目が言わせたのだろう。

「なんでだよ、馬鹿言うなよ」

 源太が、困ったように雅をたしなめた。

「だって、何かおきると株価が上がったり下がったりするんだよ。それを先に知っていれば独り勝ちじゃない」

「そんなことは金持ちの話だろ?」

「だけど、突然に持ち株を全部売られたらどうなる? わけがわからないうちに株の値段が急落するかもしれないでしょ? そうすると業績に影響がでるわよ。絶対に景気に影響するよ」

 たしかに雅の言うとおりだ。そんな大災害がおきるというのなら、値のいい今のうちに電力会社の株を売ってしまったほうがいいだろうし、そうして得た資金を復興を担う会社にぶちこめばいい。株を買い占めてしまうこともいいだろう。すると、それを狙う奴が必ず現れる。どうすればいいのか、ますますわからなくなってきた。


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