さあ、今からキスをしよう
*
ボクは恋人の亜衣と一緒に、新宿の街を歩いていた。
バレンタインデーとあってか、駅前の通りには手を繋いだり、腕を組んだりして歩くカップルが大勢いた。皆、一様に幸せそうにしている。
「裕樹」
「ん?」
「今日二月十四日って何の日か知ってる?」
「バレンタインデーだろ?」
「そうよ。覚えててくれたのね」
「当たり前じゃん。忘れるわけないさ」
「あたしね、昨日夜遅くまで掛けて、チョコ作ったの。今あげるから」
亜衣がそう言って、持っていたバッグから、手作りして自分なりにラッピングしたチョコレートを取り出し、ボクにくれた。
「ああ、ありがとう」
ボクは恋人手製のチョコを受け取り、自分の背負っていたリュックに入れて、
「後でアパートに帰って開けてみるから」
と言い、駅構内へと入っていった。
ボクはその日バイトがなく、亜衣も仕事が休みで、二人で都心をデートしていたのだった。
不意に亜衣が、
「今から裕樹のアパートに行ってもいい?」
と訊いてきた。
「まあいいけど、帰り大丈夫なのかい?」
ボクがそう訊ねると、亜衣が黙って頷く。
ボクは大学入学を機に広島から上京して、中野にあるボロアパートに住んでいた。
一方の亜衣は目黒にある実家から職場に通っていた。
“多分、亜衣は俺の部屋に入ると汚いって言うだろうな”
ボクはそう思いながら、
「俺の部屋でよかったら、来てもいいよ」
と言った。
亜衣が、
「実はね、あたし両親に言ってきたの。今日は帰らないって」
と言い、フフフと笑った。どうやら亜衣は、ボクの部屋でのお泊りデートを仄めかしているようだ。
ボクはセックスこそ経験があったが、年頃の女の子と一緒に眠るのが初めてだったの
で、心臓がドキンドキンと高まっていた。
「そうなんだ」
ボクは動揺するのを抑え込み、何気に頷くと、亜衣が、
「裕樹のアパートって狭いと思うけど、雑魚寝できるでしょ?」
と訊いてきた。
「ああ。シングルベッドだから狭いんだ。だから俺が床に寝て、君はベッドに横になればいい」
ボクがそう言って、
「券売機で中野までの切符買いなよ」
と重ねて言う。
亜衣が頷き、券売機に行くと、コイン挿入口に小銭を入れて、新宿から中野までの切符を一枚買った。
そして言う。
「今夜は二人で一緒に過ごそうね」
*
中央線で中野までものの数分だ。ボクと亜衣は手を繋いで、互いの体の熱を移し合いながら、ホームまでゆっくりと歩いた。
電車がやってくるまで少しだけ時間があった。
その待ち時間に、亜衣がボクに言う。
「キス……したくない?」
「急に何だよ?」
ボクは当惑していた。何せ、ホームのあちこちでは口付けを交わしているカップルもいるのに、ボクたちまで一緒にキスをすることになるとは思いもしなかったからだ。
ボクが、
「分かった。ちょっと恥ずかしいけど、キスしよう」
と言った。
亜衣が、
「じゃ、目瞑ってて」
と言い、ボクが目を閉じたのを確認すると、自分の幾分荒れた唇をボクのそれにそっと重ね合わせた。
ボクは一応二十代後半なので、年相応にキスするのには慣れているつもりだった。
亜衣が自分の舌をボクのそれに絡め合わせながら、ゆっくりと口付ける。互いの口の中にある潤いや熱を移し合った。
ボクたちは寒い駅構内でしばらくの間、キスを交わす。
そう、十分ほどだろうか、長く続く一際甘い口付けだった。
ボクはキスをしながら、カシミヤのコートを羽織っていた亜衣を強く抱きしめた。亜衣もそれに応えるように、抱く手を強くする。
やがてキスが終わり、亜衣がゆっくりと唇を離して、
「これがあたしたちにとって祝福のキスね」
と言い、思わず笑った。歯並びのいい真っ白な歯が見える。
ボクもキスに酔い痴れたせいか、胸中の動揺が収まり、笑顔が零れ出た。
ボクたちがゴトンゴトンと音を立ててやってきた中央線に乗り込む。皆が郊外のベッドタウンに帰る時間帯だったらしく、車内は込んでいて、座席は埋まっていた。
「……」
ボクたちは黙ったまま、ささやかな幸せを感じていた。
電車が中野駅に着くと、ボクが改札口で定期を通し、亜衣も切符を通す。
二人で手を繋いで中野の街を歩き、ボクは自分のアパートに亜衣を案内した。
二人でアパートの前まで来る。
「……古いアパートね」
亜衣がそう呟くと、ボクが、
「ああ。築二十年の格安物件だからな」
と言い、自分の部屋である二〇三号室に亜衣を入れた。
「お邪魔しまーす」
亜衣がそう言って、室内に足を踏み入れた。
部屋の中は幾分散らかっていたが、亜衣は別に気にならないらしかった。
ボクが、
「さっきのチョコ、開けてもいいかい?」
と訊くと、亜衣が頷く。
ボクが施されたラッピングを解いて、中にあるチョコを見た。
黒いチョコレートをベースに、上から白いチョコで<LOVE>の字が書いてあった。
「いいメッセージだね」
ボクがそう言うと、亜衣が再び、
「裕樹、もう一回キスしようよ」
と言って、自分の唇をボクのそれに重ね合わせようとしてきた。
ボクが亜衣を抱きしめ、ゆっくりと口付ける。
そして口付けが終わると、ボクは亜衣を抱きかかえて、自分のベッドまで運んでいった。
ボクたちはどちらからともなく交わり出した。バレンタインとあってか、燃え上がるように熱くなる。
ボクたちはその日の夕方、若さに任せてセックスを繰り返した。
夜はボクがラーメンを茹でて、訪問してくれた亜衣にご馳走した。
二人で温かいラーメンを啜りながら、楽しく食事する。
「たまにはこういうのもいいわね」
「ああ」
亜衣の言葉に、ボクが頷く。
食事後。
二人で一緒にお風呂に入り、互いの体を洗い合った。
すっかりリラックスしたところで、ボクは床に布団を敷き、亜衣がベッドに横になる。
二人とも朝まで一度も目覚めずに、ぐっすりと眠った。
日付が変わり、新しい朝が訪れる。
*
それからボクたちはずっと付き合い続けた。
やがて二月が終わり、三月になる。寒かった東京も徐々にではあるが、暖かくなり始めた。 ボクはホワイトデーに、亜衣にクッキーをプレゼントした。
手製ではないが、メッセージカードが付いたクッキーに亜衣は喜んだ。
それから四ヵ月後。
七月になり、暑い季節が到来した。
ボクは亜衣を車に乗せて、湘南海岸まで海を見に出かけた。
湘南の海は綺麗で、ボクたちは解放的な光景に思わず見惚れる。
二人でビーチに行き、一緒に海を眺めながら寛ぐ。
ボクも亜衣も履いてきた靴を脱いで、裸足になり、焼けるように熱い砂を踏みしめた。
そして夕方になり、はしゃぎ疲れて車に戻ると、亜衣が、
「キスしようよ」
と言って、ボクを誘う。
ボクたちは沈みゆく雄大な太陽に照らされながら、キスをした。
ボクの体からは男性用のシトラス系の制汗剤の香り、亜衣の体からは石鹸系のデオドラントの優しい香りが漂ってきた。
ボクたちはゆっくりと口付け、唇を離すと、亜衣が
「ずっとずっと一緒にいようね」
と、まるで永遠を誓い合うようなことを言った。
その言葉に愛おしさが込み上げたボクが笑顔で頷く。
その夜。
亜衣は事前に両親に友達と旅行に行ってくると言って家を出たらしく、ボクたちは夏の星座を見ながら、車中泊した。
星が瞬いている。
ボクたちは互いの肩を持たせあいながら眠った。
幸せな時が流れ、ボクたちは幸せを噛み締めながら、新しい朝が来るのを待つ。
やがて幾分早い夏の夜明けが訪れた。
二人きりで眠っているボクたちは、誰からも邪魔されることなく、何の束縛もない。
それは紛れもなく自由そのものだった。
それからボクたちが仲良くずっと付き合い続けたのは言うまでもない。
(了)