千代田サヤコと少年ゼット
「きゃああああああああッ!」
サヤコが大きな悲鳴をあげた。怪人は素早く彼女を振り向き、机の上から彼女に飛びかかった。
「ひいっ!?」
怪人が床に着地すると同時に、ナイフで彼女を斬りつけた。サヤコの右腕が大きく切り裂かれ、信じられないくらいの血が周囲に飛び散った。
「いだぁあッ!?」
サヤコが苦痛にうめいた。
「てめぇっ!」
僕は立ち上がり、相手がナイフを持っていることも忘れて殴りかかった。怪人は真正面から僕を突き飛ばした。
一瞬の浮遊感があり、僕は背中から床に倒れた。後頭部が床にぶつかり、視界がくらむ。ぐえっ、と変な声が出た。
怪人はうずくまったままのサヤコに背を向け、僕の方ににじり寄ってきた。赤い液体に濡れたナイフの刃が不吉にきらめく。僕は後ずさる。
「や……やめろ……やめて……」
僕の体は恐怖に支配されていた。見えないワイヤーで縛られたかのように手足が動かず、氷塊をぶちこまれたかのように胃が縮み上がった。声は出ず、喉がべたついた。
怪人は僕を見下ろしながらナイフを振りあげた。そのとき、僕はアッと声をあげた。
「おまえ、『ゼット』……?」
怪人の動きが止まった。彼は値踏みするような視線で僕を眺め回した。僕も彼を見た。黒いレザーのライダースーツに、顔を隠すゾンビのマスク。紛れもなくそれは『週刊少年Z』に載っている唯一の漫画の主人公『ゼット』のコスプレだった。
ゼットは小さく首をかしげると、僕にナイフを突きつけた。
「おまえ、俺を知ってるな?」
ゼットの言葉に、僕は震えながらうなずいた。みょうにしわがれた、太く恐ろしい声だった。
「じゃあ答えろ。俺は何だ?」
ゼットはそうして腕を広げた。
「あ、あんたは――」
僕には彼の質問の意図がわからなかった。しかし、ここで答えを間違えたら殺されるという確信もあった。だがそれよりも、血を流してうずくまっている千代田サヤコのことが心配だった。彼女を一刻でもはやく病院に連れて行かなくてはならない。時間が無かった。
「――あんたは、マンガのキャラクターだ! いるわけがない、化物だ!」
僕はほとんど考えずにそう答えた。しかしゼットは無言のまま、なんの反応も示さない。
(答えを間違った……?)
そんな考えが頭をよぎったとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえ、強い光が近づいてきているのが見えた。その主は廊下から部室を覗きこんだ。
「誰だ! こんな夜中に――」
さすまたを持った警備員だった。彼は懐中電灯で僕たちを照らした。そしてナイフを持ったゼットの姿をみとめると、うわぁっ! と驚いた。
「お、おまえ、なんだ!」
警備員が懐中電灯を床に落とし、慣れない手つきでさすまたを構える。ゼットは彼を見ると、僕の前から立ち去り、警備員につめよる。
「ナイフを捨てろ!」
警備員が怒鳴るが、ゼットは聞かずにズカズカと廊下に出ると、さすまたを手で払う。警備員の表情が恐怖にこわばった。
「ひ、ひぃ……!?」
僕はチャンスだ、と思った。視線をそらした僕はこっそり立ち上がり、素早くサヤコに近づいた。
「走れるよね?」
サヤコはうなずく。
「じゃあ、逃げよう!」
僕とサヤコは立ち上がり、ゼットを後ろから突き飛ばした。ゼットは不意の一撃によろけ、警備員ともども廊下に倒れる。その隙に僕らは駆け出した。
「走れ!」
僕たちは夜の学校を疾走する。
後ろは決して振り返らず、全力で、しかしサヤコを置いていかないように僕は走った。まっしぐらに昇降口に向かい、上履きのまま外に出て、校門へと走る。守衛所に警備員はいない。僕は急いで校門を這い上がった。
そのとき、サヤコが腕に大怪我をしていることを思い出して、僕は門の上にまたがったまま下を見た。だがすでにサヤコはそこにいなかった。彼女ははたしてどうやったのか、僕とほぼ同じ素早さで校門を乗り越え、外側から僕を呼んでいたのだ。
「はやく!」
「あ、ああ!」
僕はほんの少し疑問に思いつつも、そんなことを考えるまもなく走った。サヤコは足がはやく、見失わないだけで精いっぱいだった。僕はとにかく走った。
気がつくと、僕とサヤコは照明で照らされた、大きな公園の原っぱにいた。サヤコはその真ん中で立ち止まった。僕は彼女のやや後ろで、ゼェゼェ息をしながら足をとめた。
「はぁ……! はぁ……! こ、ここまで逃げれば……大丈夫、かな……?」
「いや、まだ安心できないよ」
事も無げにサヤコは言った。あれだけ走ったのに、なぜか彼女は息一つ乱れていないようだった。彼女はゆっくり振り向いた。
「疲れてるね、大丈夫?」
「はぁっ……はぁ……先輩は?」
僕は額の汗を拭う。
「私は大丈夫」
そう言うと、彼女はいきなり僕に歩みより、目の前に立った。胸がふれあいそうな距離だ。突然の行動に僕はたじろぐ。
「ねぇ……穂村、いや、マコトくん……」
彼女は僕の目を見上げて言った。
「キス、しよっか」
「……え?」
僕は彼女が何を言ってるかわからなかった。返事をする前にサヤコは僕の首に手を回し、体をくっつけてきた。
「え? ちょ――」
サヤコが背伸びし、僕と唇を重ねた。それは甘酸っぱい恋のキスではなく、貪るようなキスだった。僕は混乱し、恐怖し、反射的に彼女を突き飛ばしてしまった。
千代田サヤコは芝生の上に倒れた。
僕は手の甲で口もとを拭いながら、信じられない気持ちで彼女を見た。
「何やってるんだ! こんなときに……大丈夫かよ!?」
「そうか……やっぱり、むりやりいくしか無さそうだね……」
サヤコはゆらりと立ち上がり、非人間な無表情で僕を見た。その瞳に活力は無く、まるで死体のような目だ。視線に射止められて、僕の足はすくんだ。
「ち、千代田先輩……?」
僕の声は震えていた。
名前を呼ばれた千代田サヤコは、にぃっ、と笑った。口もとの筋肉だけを使った不自然な笑顔だ。かと思うと、彼女は口を大きく開けた。ごきり、という音がして彼女の下顎が通常ありえない位置まで下がった。彼女の口は大穴と化した。
大穴の奥の闇から、何かが這い出てきた。
それは巨大な芋虫に似ていた。何本もの細い触手を生やした、生き物とは思えない何かだ。芋虫の頭らしき部分には小さな穴が空いていて、そこから、聞き慣れた千代田サヤコの声がした。
「マコトくぅ〜ん……」
あまりにも現実離れした光景に、僕は悲鳴もあげられなかった。ただその場に立ったまま、目の前のできごとを理解しようと必死だった。だが無駄だった。
千代田サヤコの声をした何かは、あやつり人形のようにむりやり僕の前に立ち、僕の肩を掴んだ。その力はあまりにも強く、指先が食い込んで、強い痛みが走った。その痛みで僕はわれにかえった。
「う……うわあああああああああッ!」
僕は逃れようともがいた。サヤコの腕を引き剥がそうとしたり、腹や頭を殴りつけたが、サヤコの体から這い出した芋虫はなにも感じていないようだった。芋虫はするすると触手をのばし、僕の唇に触れた。その感触のおぞましさに、僕は口を開けると触手が入りこんでくる気がして、力いっぱい口を閉じた。触手が僕の唇をめくり、前歯に触った。全身を悪寒が走った。
(殺される――!)
そのとき、僕の耳に異質な音が届いた。それは爆発音のようにも、金属音のようにも聞こえた。そして実際、その両方だった。
バイクの排気音とエンジン音だった。それは猛スピードで、僕の後方からこちらに近づいてきていた。
サヤコだった芋虫も気づいて顔を上げる。爆音が周囲を席巻した直後、僕の後ろで重いものが地面を跳ねる音がした。直後、僕の頭上をオートバイが飛び越え、その重たい後輪でサヤコの顔面を叩き潰した。
彼女の頭が目の前で砕けた。
いつも明るい笑顔を振りまいてくれていたあの顔が、いきなり突っ込んできたバイクの後輪に削り取られ、塊の多い赤黒い血をふりまく。
後方から僕の頭上を飛び越えてきたバイクはそのまま彼女の頭をつぶしながら目の前に横転した。サヤコの華奢な体はその下敷きになり、硬いものが折れる音と水気の多いものが潰れる音を次々と立てる。
僕は腰を抜かして地面にへたりこみ、ただその光景を見ていた。
横転したバイクの上にひとつの影が着地する。黒いレザーのライダースーツを着て、ゾンビをかたどった仮面で顔を隠した怪人は、バイク越しにサヤコの死体をふみつけていた。
「ぜ……『ゼット』……?」
僕の口から言葉が漏れた。名前を呼ばれた怪人は、僕をゆっくりを振り返り、紅い大きな月を背に、無言で僕を見下ろしていた――




