僕の裏切り
「うるさいなぁ、近所迷惑だから静かにしてよ」
ナオミは不快そうに僕を見た。
僕はその場に膝をつき、エイコの右腕をだけを抱きかかえていた。
胸が苦しい。いくら酸素があっても足りない。心臓がバクバクと痛み、頭がズキズキと痛む。視界がくらみ、平衡感覚すら狂いかけていた。世界がグラグラ揺れている。
「ああ……あああ……!」
信じられなかった。鹿羽エイコが、無敵の少年ゼットが、今、たくさんの血を流して、敵の足もとに倒れている。
あの鹿羽エイコが――
「――てめぇ! ぶっ殺す!」
僕は立ち上がり、片手で拳銃を構えた。そして発砲する。放たれた弾丸は幸運にも陣内ナオミの体に全弾命中した。しかも一発は頭部に当たった。
ナオミがよろける。その姿を見て、僕は心の中で喜んだ。
(やった――)
だがそれだけだった。陣内ナオミは大きく上体を反らした、不自然な姿勢のまま停止すると、ゆっくりと体をもどした。頭部に当たった弾丸も、傷口の内側から盛り上がった肉に押し出され、落ちてエイコの背中に当たった。
僕はそれを見て、さらに銃を連射しようとした。だが引き金を引いても手応えはなく、スライドは上がったままだった。僕は弾切れだと気がつくのにしばらくかかった。
ナオミはそんな僕を冷ややかな目で眺めていたが、僕が空の銃を床に投げ捨てると、めんどくさそうにため息をつく。
「……終わり?」
僕は無力だった。
一緒に戦うだなんて息巻いておきながら、何もできなかった。
僕は涙をこらえながら、小さくうなずくしかできなかった。
「……そう。じゃあ、殺そうか」
ナオミはエイコをまたいで僕に歩み寄ろうとした。だがその歩みはすぐにとまった。見ると床に倒れたエイコが、まだくっついていた方の手を伸ばして、ナオミの足首を掴んでいたのだ。
「逃げろ……シグマ……!」
自分の血の中に沈みながら、苦しみに満ちた声でエイコが言う。彼女の表情は見えなかったが、その凄まじさは容易に想像できた。
「あ……あ……」
足は震えて力が入らない。逃げ出すだなんて、できるはずもない。
ナオミは不愉快な顔で自分の足首をつかむ手を見下ろすと、自由な方の足を振り上げ、振り返りつつエイコの腹を蹴り上げた。エイコの体はサッカーボールのように飛んで、壁の本棚に激突する。彼女が床に落ちる前に、ナオミは床を蹴って肉薄し、首を掴んで壁に磔にした。
ナオミは完全に僕に背を向けていた。ナオミは僕のことを毛ほども気にかけていないのだ。僕は悔しさと、エイコの痛々しさのあまり、視線を落とした。
『それ』が目に入ったのはそのときだった。
「皮肉ね。頑強な体が仇になって、なかなか死ねない」
ナオミは磔にしたままのエイコに語りかける。
「出血多量で頭はぼぅっとして、腕も上げられないくらいに力が入らない? ひどいね……死んだほうがマシかな?」
彼女はそう言うと、空いている方の手でエイコの腹を殴った。
エイコはうめき声もあげず、ただ吐血する。手足に力は無く、ぐったりとしていた。
「反応無しか……つまんないなぁ。ねぇ、鹿羽さん?」
ナオミは頭を傾ける。
「あなたがお願いするなら、これ以上苦しめずに殺してあげるけど、どうする?」
僕は息をのんだ。
まさかエイコがそんな申し出をうけるわけがない。しかし、断ればきっと想像を絶する苦痛が彼女を待っている。陣内ナオミは、エイコが断らないことをわかっていてあんなことを言い出したのだ。僕は背筋が寒くなり、同時に熱い溶岩のような衝動が全身をまわった。
「てめぇ、卑怯だぞッ!」
「二度も言わせないで」
ナオミはこちらに背を向けたまま冷たく言い放った。
「近所迷惑だから静かにしなさい」
「待って……」
エイコが、潰れた声で言った。
「お願い……殺して……」
「なに?」
僕とナオミは同時に声をあげた。
「あら意外。あなたなら粘ると思ってたけど」
ナオミが肩をすくめた。僕も信じられない気持ちだった。
「その代わり……」
「……その代わり?」
「彼だけは……助けて……」
「へぇ!」
ナオミは嬉しそうな声をあげて、エイコの首から手を離した。エイコはずるずると床にへたり込む。
「なるほど、そうきたか」
ナオミは僕を振り向いた。そして一瞬だけ眉をひそめる。
「あなた、穂村マコトくん?」
彼女は僕の名を呼んだ。僕は彼女がこちらに背中を向けているあいだに、顔を隠していた上着を剥ぎ、また着ていたのだった。そのことに気づいたエイコは、虚ろな目で僕を見る。
「……ばか……なんで……!?」
「そうかそうか、あなただったのね。単に巻き込まれただけかと思っていたけど、そうかそうか」
ナオミは嬉しそうに僕に近づいてくる。
「や、やめろ!」
僕は震える声で叫んだ。
ナオミはますます楽しそうに歩み寄る。
「僕は死にたくない! 死ぬくらいなら、いっそ――」
ナオミが、僕の目の前で足をとめた。彼女は僕の目の中を覗きこんで、嘲るような声で言った。
「いっそ、なに?」
「――いっそ、いっそ――!」
僕の喉はカラカラだった。呼吸が上手くできなかった。体がふるえて、立ちつくすのが精いっぱいだった。それでも僕は叫んだ。
「いっそ、この体を明け渡したほうがマシだ!」




