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第四章

 季節は流れた。夏休みは学校もないのに、頻繁に部室へと通った。受験を控えた先輩は忙しかったからそう頻繁には会えなかったが、それでも彼女と顔を合わせる機会が得られるだけで満足だった。しかし夏らしい思い出が出来なかったのは僕の勇気が足りなかったからなのか、それとも彼女を包む薄いベールのような空気のせいなのか、それは良く分からない。もしかしたら、両方かもしれなかった。

 そうして夏休みは終わり、新学期が始まった。その頃には僕もすっかり天文部員として馴染んでおり、みんなで十月に開催される文化祭に向けて準備を始めていた。天文部は例年部員による記事を掲載した部誌の発行と、撮影した天体の写真や望遠鏡などの展示だ。晴れていれば投影板と望遠鏡を利用した黒点観察のデモンストレーションも予定していた。そう大がかりな催しではなかったが、部誌の編集などにはそれなりの時間を必要とした。各々がクラスの出し物の準備へと参加しながら、少しずつ作業は進んでいた。

 先輩がプラネタリウムを作っていることを知ったのは、ちょうどその頃だった。彼女は真剣な表情で、方眼紙の上に置いた透明なプラスチックのようなものに、慎重に点を書き込んでいた。

「何してるんですか」

 僕が声をかけると彼女はそれを身振りで制し、作業にひと段落をつけるとようやく顔を上げた。

「君は何だと思う?」

 そう言われて僕は、彼女の手元を覗き込んだ。

「その点、星ですか?」

 透明な背景に書き込まれた点は初めは何かわからなかったが、大小様々な点の集合は、頭の中で星空の姿と重なった。天文部員になって頻繁に星を見ていたからこそ、そう言う発想に至れたのだろう。

「そう。これは星空だ。良く分かったね」

 先輩は満足そうに言ったが、僕の疑問は半分ほどしか解決していなかった。そんな僕の表情を見て、彼女は言葉を続けた。

「こいつはね、プラネタリウムの部品なんだ。正確には、部品の材料、かな」

「プラネタリウム、ですか」

「そう。まあそう本格的なものじゃあないんだけどね。それでも、この方法ならそれなりに綺麗なものが作れるはずだ」

 真剣なまなざしで星空の素材を見つめて、彼女は言った。

「文化祭の出し物ですか」

「いいや、違うよ。ほんの個人的な趣味さ」

 僕の問いに、彼女は首を横に振った。

「ちまちま作ってたんだけど、いよいよ作業も大詰めだ。原板の作業もこれで最後の一枚だ」

 彼女の指し示す透明のフィルムには、既にそれなりの数の星が書き込まれているように見えた。

「大変そうですね」

「うん、滅茶苦茶大変なんだよね、この作業。ここまで来るのにも三か月くらいはかかった」

「三か月ですか!?」

「うん。これの前にも同じようなのを八枚作ってるからね。作業もちまちま進めてたし。いつか完成すれば良いなあってくらいの気持ちでね」

 そう言って彼女は簡単そうに笑ったが、三か月もの間こんな肩の凝りそうな作業をひたすらに続けることは、僕には到底不可能に思えた。

「あの……僕にも何か手伝えることはありませんか」

 僕は彼女のその密かな企てに、一枚噛みたいと思った。隠していたというほどではないのだろうが、今まで彼女は誰にも知られずに、この作業をコツコツと続けていたのだ。そこに僕も加わることが出来れば、それは図書館で過ごすひと時のように、特別な充実感を僕に与えてくれるように思われた。

「うーんそうだなあ……でも分業できそうな作業、ほとんど終わっちゃってるんだよね」

 彼女は少し考えたようだったが、残念そうにそう言った。それを聞いて僕はがっくりと肩を落とした。

「あ、そうだ」

 少しの間をおいて、彼女は何かに思い至ったかのように言った。

「一個だけ残ってるな。助手が必要そうな作業」

「ホントですか」

 僕は思わずそれに食いつく。彼女の助手を努められるというのなら、どんなことでも喜んでやろうと思った。彼女はゆっくり頷くと、僕にたずねた。

「君さ、フィルムの現像、やったことある?」

「えっ」

 予想していたのとは幾分か違う言葉に、僕は戸惑った。

「暗室の中で、フィルムを現像液につけるようなやつさ。やったことない?」

「ないですね……というか、やったことある人の方が少ないでしょう」

「そうだよね。私もないんだ」

 先輩はあっけらかんと笑った。

「それとプラネタリウムと、何か関係あるんですか」

「ああ、うん。こいつが完成したらね」

 こいつと言いながら、先輩は手元のフィルムを示した。

「リスフィルムっていう特殊なフィルムに、これを焼き付けるんだよ。この点を打った部分を残して、それ以外が真っ黒なフィルムを作るんだ。それでそのフィルムを張り合わせて、内側から照らしてやればプラネタリウムの完成だ」

 先輩はそう説明したが、僕にはよくイメージが湧いてこなかった。

「まあやってみればわかるよ」

 狐につままれたような顔をしていた僕に、彼女は笑って言った。かくして僕は、現像作業の助手を務めることになった。


 実際に作業をすることになったのは、それから数週間後だった。僕は部室にいたところを先輩に捕まって、二人で写真部の部室までやってきていた。

「話は通しておいたから、今日は暗室を自由に使えるんだ。今日中に九枚全部終わらせないといけないから、時間は無駄には出来ないよ」

 小脇に必要な道具を抱えた彼女は何だか楽しそうで、僕も胸が躍った。写真部の部室に入ると、写真部員たちは丁寧に暗室の機材について説明をしてくれた。見たことのない機材や薬品、作業台、流し台などがびっしりと並ぶ暗室は少しひんやりとしていて、それから薬品の独特の臭気に満たされていた。

 写真部員たちが去ると、先輩は長い髪を後ろで一つに束ね、「早速作業に入ろう」と僕にビニール手袋を手渡した。

「一応赤色灯はつけるけど、明るいうちに物の配置とか、きちんと頭に入れておくようにね。じゃないと、妙なところに身体ぶつけたりするから」

「あ、はい。分かりました」

 先輩に言われてぐるりと周囲を見回したが、薬品や機材のほとんどは用途の想像もつかないもので、上手く覚えられそうになかった。とりあえず手足をぶつけてしまいそうなものにだけ目星をつけて、注意深く記憶した。そうして僕らの現像作業が始まった。

 電気を消してしまうと、暗室と言うだけあって本当に真っ暗になってしまった。目を開けているのか、開けていないのかも分からないような本当の暗闇。それに包まれて、僕は唐突に現実感を失った。まるで何もない空間に、心だけがぽっかりと浮かんでいるような感覚。暗闇は質量を持つように、分厚くて表面が毛羽立った毛布の様に目の前に迫っていた。

 やがて先輩が赤色灯を灯し、周囲がうす暗く照らし出された。赤色灯の灯りは本当に小さく、手元を見るのがやっとというところだった。全てが薄い赤で照らし出されていることもあって、その光景は先ほどまでの暗室と、いや、先ほどまで生活していた世界と同じものだとは思えなかった。まるで何も見えなかった少しの間に、僕らはすっかり別の世界に連れて来られていて、そこは今までとは何もかもが違う奇妙な世界……そういう風にすら感じられた。

「作業、出来そう?」

 先輩の声は何だか、明るい場所で聞くのとは違うもののように耳に響いた。暗室独特の反響の具合もあったのかもしれない。小さな光源に照らされて、彼女の顔の凹凸は大袈裟な程に影を作っていた。

「はい」

 と言う自分の声が喉から発せられる感覚が、少しだけ不思議だった。

 僕の仕事は、先輩がフィルムを焼き付けたり、溶液に浸す時間を測ること、それから出来上がったフィルムを流水で洗い、水分を拭き取ってからクリップに挟んで乾燥させることだった。それらは本当に簡単な作業で、薬品を扱うような複雑な作業はほとんど先輩が担当した。

 彼女はまず、ライトのついた機械に、点を打った透明なフィルムと新しいリスフィルムを重ねて固定する。埃などが乗っていないことをきちんと確認すると、短い時間ライトで照らして焼き付けを行った。それからいくつかの溶液に順番に、決められた時間フィルムを浸していく。それらが全て終わると、出来上がったリスフィルムを僕に手渡した。僕は少し震える手でそれを受け取ると、丁寧に長い時間をかけて、流水でそれらを洗った。出来上がったフィルムの感触はとても頼りなくて、取り扱いには非常に神経を使う必要があった。

 彼女も初めての作業だとは言っていたが、その手つきはとても繊細で、どこか官能的だとすら感じられた。視界のおぼつかない暗室での作業では、他の感覚が嫌でも鋭くなる。彼女の息遣いや作業をする物音はいやに大きく感じられ、僕は自分の鼓動が彼女に聞こえているのではないかと気が気でなかった。

 九枚目のフィルムを受け取り、流水で洗っていたところで、暗室の電気がパッと灯った。うす暗い赤色灯に慣れていた視界が真っ白に染まって、僕は思わず目を細めた。

「もう点けて良いんですか」

「ああ、現像作業は終わっているからね。光が当たっても大丈夫だ。眩しかったかな」

「少し」

「ごめんごめん」

 そう言いながら先輩も、まだ明るさに慣れないように目を細めていた。僕は最後の一枚を流水で洗い続け、その間に先輩は僕の吊るしたリスフィルムの出来具合を一枚ずつ確認していった。それらは良い出来栄えだったようで、彼女が満足そうに頷いているのが見えた。真っ黒に染まったフィルムには、少しずつ大きさの違う透明な部分が、点々とちりばめられていた。


「それで、これがその土台。この九面それぞれに番号が振ってあって、そこに対応するフィルムを貼れば、完成って言うわけ」

 その日の放課後、僕は先輩からプラネタリウムの構造について説明を受けていた。その構造は、説明されてみればとても簡単なものだった。全体は大きく分けて三つの部分に分けられる。一つは光源となる電球の備え付けられた基盤。二つ目は今見せてもらった、九つの面を持つ角張ったドームのような形の土台。土台は透明なアクリル板か何かで出来ているようで、上面は正八角形、八つの側面はそれぞれ等しい形の台形で構成されていた。それから最後が、先輩と一緒に作ったリスフィルム。真っ黒な全体に、星として映し出される部分だけが透明になったフィルムをアクリルの土台に貼り付けていくことで、プラネタリウムは完成する。現在その三つの部分は既に出来上がっているから、あとは組み上げるだけだった。とは言え最後に残った作業、薄いフィルムをきれいに切りとり、アクリルの土台に貼り付けていくと言う作業は単純ながら繊細さを要求するものだ。ここまでの努力を無駄にしないためにも、焦らずじっくりと完成させることが肝要だと、彼女は言っていた。

「構造は単純なものだろう」

「そうですね。でも、それをここまで一から作るのは、凄いと思います」

「ありがとう」

 先輩は優しげな顔でそう言うと、傷つけないように丁寧に、プラネタリウムの部品をプラスチックのケースに仕舞っていった。はじめに大きな茶封筒。中には一枚ずつクリアファイルに保管されたリスフィルムが、合計九枚入っている。その上には赤でたくさんの書き込みがなされた手書きの設計図。それらの上に基盤を乗せて、土台を被せる。それから丁寧にプラスチックの蓋を閉めると、カチッと留め具で固定し、部室の端まで慎重に運んで行った。

「さて、私たちもそろそろ帰ろう。そろそろ屋上も施錠されてしまう」

「そうですね」

 僕はパイプ椅子から腰を上げると、床に置いていた鞄を持ち上げた。部室にはもう、僕と先輩しか残っていなかった。僕たちは部室の電気を消すと、誰もいない屋上から校舎の中へと階段を下って行った。

 本来の下校時間はとうに過ぎていたから、校舎の中にはほとんど生徒の姿はなく、薄暗くてしんと静まり返っていた。その静寂の中で声を発するのは躊躇われ、僕と先輩は言葉を交わすことなく、上履きが階段の表面に当たるパタパタと言う音だけを響かせながら昇降口を目指した。四つの音はリズミカルに、少しだけズレながら同じテンポを刻んだ。黙って並んで歩いていると、いつも以上に、色々な思いが頭を巡った。

 昇降口を出る頃に、ようやく僕らの間に言葉が帰ってきた。

「夜の学校ってさ、なんか、違うよね。空気が」

「それ、僕も思ってました」

 同じことを考えていたのだというだけで、少しだけ嬉しかった。

「そういえば、今夜ですね。流星群」

 そういえば、ではなかった。僕は実際、その話題を切り出すタイミングをずっとうかがっていたのだから。

「先輩は行きますか? いつもの河原」

 僕たち天文部には、天体観測でよく使う河原があった。周囲に明かりが少なく、環境も良いので天体観測には最適なのだ。今夜も流星群を見るために、都合の合う部員はその河原に集合することになっていた。しかし、先輩は部のイベントで天体観測をするとき、そこにいないことが多かった。今夜は来るのかどうか、僕はそれが気になっていた。

「いいや、私は行かないかな」

 彼女は少しそっけない感じで答え、僕は「そうですか」と答えた。先輩と一緒に流星群を見る、というのを密かに楽しみにしていたから、正直少し残念な気持ちだった。

 駐輪場でそれぞれ自転車を取って、それから正門までの短い距離を、先輩と二人で無言で歩いた。僕は気分が沈んでいたから、上手く話題を見つけられなかった。自転車の車輪が転がるカラカラと言う音だけが、少し寂しげに響いていた。

 正門までの距離は、恐らく今までで一番長かった。いつもあっという間に過ぎてしまう距離なのに、今日ばかりはちっとも前に進んでいない気さえした。僕は少しでも、自転車を押すのに集中しているように見せようと努めた。それは良く考えるととても滑稽だったかもしれないが、その時にはそんなことにも気付けなかった。

 間もなくして、僕らは正門に辿り着いた。いつも先輩と別れる場所。救われたような、でもやっぱり悲しいような、何とも言い辛い気持ちだった。僕は「それじゃあ、また」と言って、自転車にまたがる。今まさに走り出そうとしたとき、「ねえ」と先輩が、後ろから僕を呼び止めた。僕は慌てて立ち止まり、彼女の方を振り返った。

「君はさ、秘密、守れる?」

 彼女はいつかのように、少し悪戯っぽく笑っていた。彼女のその表情と、秘密と言う言葉に少しドキリとして、僕は一瞬反応が遅れてしまう。

「特等席があるんだ。秘密を守ってくれるなら、君も招待してあげよう」


 真夜中に、僕は自転車を飛ばして約束の場所へ向かった。それは先ほど先輩と別れたばかりの正門の前だった。僕が着いたときには先輩ももうやってきていて、壁にもたれて空を見上げていた。彼女はTシャツにカーディガンを羽織り、下はジーンズのシンプルな格好だった。シンプルが故に、スタイルの良さがより一層際立っていた。顔を合わせるのはいつも学校だったから、彼女の私服姿を見るのは初めてだった。僕の自転車のライトに気付いて、彼女はパッとこちらに顔を向けた。

「やあ、来たね」

 言いながら、彼女は壁から背中を離した。

「それじゃあ、早速向かおうか。自転車はここだと目立つから、そっちの茂みの辺りに停めておいて」

 先輩に言われた方を見ると、茂みの横にひっそりと、先輩の自転車が停められていた。

「自転車で行かないんですか?」

「ああ、自転車は入れないし、それにすぐそこだからね」

 そう言う先輩の目の先にあったのは、静まり返った校舎だった。僕はようやく、先輩の意図に思い至った。

「もしかして、忍び込むんですか?」

 先輩はコクンと、小さく頷く。優等生だと思っていた先輩の思わぬ大胆さに、僕は少し驚いた。

「大丈夫だよ。バレやしないから」

 先輩はそう言うと、正門を閉ざす柵に手を伸ばす。真ん中辺りに足をかけ、身体を持ち上げると、軽やかに反対側へと身体を移していた。そしてそのまま、音もなく地面に着地した。

「どうする?」

 彼女は正門の柵の隙間から、僕を見つめて言った。

「やめとく?」

 その表情はけしかけるようなものではなく、本当に、嫌ならやめても良いと僕に言っていた。でも僕は何も言わず、先輩がしたのと同じように柵に向かって手を伸ばしていた。柵の真ん中に足をかけ、身体を持ち上げる。先輩の前でヘマをしないよう、出来る限り慎重に、僕は柵を乗り越えた。

「やめませんよ。連れてって下さい、特等席に」

「そうでなくっちゃ」

 先輩は満足そうに言うと、足音を忍ばせて歩き始めた。僕もその後ろを、遅れないように追いかけた。不安がなかったわけではない。見つかったとしたら、それなりに重い処分も覚悟しなければならないだろう。停学にだってなるかもしれない。でも今は、それでも良いかとすら思えた。先輩と一緒なら。夜中の学校に、好きな人と二人で忍び込む。そんな状況に、僕はすっかり舞い上がっていた。

 先輩の足の向いた方向は、僕の思っていたのと少し違っていた。彼女は昇降口の方向ではなく、校舎の端のほうに向かって歩いていた。しばらく後ろから彼女を追って、僕はようやく彼女の狙いが分かった。彼女は非常階段に向かっていたのだ。

「基本的にこの時間、全ての出入り口は施錠されているんだ」

 そう言いながら彼女は非常階段を登り始め、僕も後ろからそれに続いた。

「だから屋上に出るには、こっちを通るしかない」

 足元で薄い金属の踏み板がボーンボーンとくぐもった音を立てた。先輩の足音は僕のよりも幾分か小さく、僕も少しでも足音を忍ばせようと慎重に足を動かした。

「でも、こっちからじゃドアは開かないんじゃあ……」

「行けばわかるよ」

 それから僕らは黙って、非常階段を登り続けた。夜の暗闇の中、静寂に包まれながら足音を忍ばせて登っていると、この非常階段は無限に続いているのではないかとすら思われた。顔を上げると、前を登る先輩の形の良いお尻とすらりと長い脚が目に入り、何となく後ろめたくて僕は再び足元に視線を戻した。

 やがて階段は行き止まりになった。先輩が立ち止まり、僕もその後ろで立ち止まる。非常階段の、外側のドアノブが回らないドアが目の前にあった。柵状になった薄いドアの向こうに、見慣れた屋上がぼんやりと浮かび上がっていた。

「どうするんですか?」

「見てて」

 彼女はそう言うと、ドアノブに手をかけた。でもその姿は、普通にドアを開けるときとは違った。彼女はドアノブを、しっかり両手で握っていたのだ。それから小さく息を漏らし、彼女が一気に強い力をかけると、金属が軋むような音がしてドアは勢い良く開いた。

「ね?」

 先輩は振り返り、にっこりと笑った。

「えっ、開くんですかこのドア」

「うん、しっかり力を入れればね」

 そう言いながら、彼女はドアの側面を指差した。

「ここ、壊れてるんだ。ドアノブ回りっぱなしなのと同じ状態。閉じてるように見えるけど、実は錆びて引っかかってるだけなんだ」

 暗くて分かりにくかったが、確かにドアを閉じておくためのツメの部分は、引っ込んだまま固まってしまっていた。そしてドアの側面は、サビでボロボロになっていた。

「全然気付きませんでした」

「普通は気付かないよ。だからこそ、そのままになっているんだ」

 まず先輩がドアをくぐり、後ろから僕が屋上に入ったことを確認すると、彼女は体重をかけてドアを元のように閉じた。

 僕はぐるりと周囲を見回した。いつも訪れている屋上が、今はなんだか全く違う場所のように見えた。いつもとは違う入り口からやってきたことも、そんな気分に一役買っていたのかもしれない。足元を見て、いつもは校舎側から内履きでやってくる屋上に、土足で踏み入れてしまったことに気づいた。

「ほら、何で足元なんか見てるのさ」

 先輩が僕の背中をポンと叩き、人差し指をピンと立てた。

「上、見なよ」

 言われるままに上を向くと、満天の星空が目に飛び込んできた。息を飲むような、美しい星空だった。

 大小様々な光は広大な夜空に満遍なく散りばめられていて、視界を埋め尽くすその光景に、僕は一瞬平衡感覚を失いかけた。

「すげぇ」

「そうだろう」

 僕の反応を見て満足そうに言うと、彼女は屋上の真ん中のほうへ歩いて行って、そのままそこにごろんと横になった。彼女の長い髪の毛が屋上の白い床に散らばり、少しだけ色っぽかった。

 僕は彼女の後を追うように真ん中あたりに向かうと、同じように仰向けに寝転んだ。どのくらいの距離で並べば良いのか迷ったが、それを悟られないようになるべく自然に身体を横たえることを意識した。

「ようこそ、特等席へ」

 少し芝居がかった声だった。時折そう言う声で何かを言うのは、先輩の小さな癖だった。彼女のそう言うお茶目なところも、僕はとても好きだった。

「服、汚れますよ」

「良いんだよ。そんなこと気にしてたら、綺麗な星は見えないぞ」

 そう言って先輩は小さく笑った。彼女の横顔は思ったよりも少し遠くて、もっと近くに寄ればよかったと、少しだけ後悔した。

「そろそろ流れ始めてるかな」

 彼女がそう言うまで、僕は流星群のことを忘れかけていた。空に目を移すと、ちょうど流れ星が一つ、スッと線を引くように流れ、そして消えた。それは一瞬だった。恒星の輝き方とは少し違う。淡く、しかし確かな光。それは散りばめられた星たちの間で一際明るく輝き、そして儚く消えていった。

「流れたね」

 隣から先輩の声。彼女も今、同じ流星を見たのだ。先輩と二人、彼女の秘密の特等席で、一緒に流星群を見ている。そう思うと僕の胸は一杯になった。星空も、流星も、今までで見たこともないほど綺麗で尊いものに思えた。彼女にも、同じくらい綺麗に見えているのだろうか。

 僕たちの目の前で、もう一つ、それからもう一つ立て続けに流星が流れた。それらひとつひとつは大きさも、明るさも、長さも、流れる方向も、何もかもが違っていた。

 一際明るい星が流れた。短く光る他の流星と違って、その星は最後に力を振り絞り、精一杯燃え上がったように見えた。そして、燃え尽きた。あとにうっすらと、その軌道が残っていた。

「流れ星が消える前に、三回願いごとを言うと叶うって言うよね」

「はい」

「これだけ流れてるとさ、一回くらい、叶いそうな気がするよ」

 先輩がそういうことを言うのは意外だったから、僕はとっさに言葉を返すことが出来なかった。少しして、彼女は言葉を続けた。

「ほんの短い時間に、とっさに言えるくらいいつも強く願っていれば、その願いを叶えられるということだ、なんていう人がいるよね。私は、あれが嫌いなんだ」

「嫌い、なんですか?」

「ああ、嫌いだ。想いが強ければ願いは叶う、諦めなければ何でも出来る……そういう美談にしたいのかもしれないけどさ、ちょっと馬鹿げてる」

 先輩がそういう風に何かを話すのは、初めてだった。彼女はたいてい好きなものの話をしたし、その言葉はいつも優しげだったから。

「偉人の伝記とかもさ、そういう雰囲気があるから苦手だ。成功者にはみな、人並みならぬ努力と情熱があった、みたいなの。必要条件と十分条件も分かってないんじゃないかな。本当は思わぬ僥倖で成功者になった人も、その逆の人もたくさんいるだろうに……」

 僕は彼女の言葉に、上手く返事が出来なかった。僕だって、そういう雰囲気に飲み込まれている一人だった。そういう風潮に疑問を持たない一人だった。そして自分自身にだって、そういう「確実に成功できる道」が存在していて、いずれはそれなりの成功者になっていくのだという考えを漠然とながら持っていることに気付かされた。そういう物語を沢山聞かされていたから、いつしか自分とそれらの主人公との区別が曖昧になっていたのかもしれない。

「それにさ、何でもかんでも論理的に説明しようと言う態度が好きじゃないんだ。不思議な力が願いを叶えてくれるんじゃ、どうしていけないんだろうね。言い伝えにくらい夢を見たって良いとは思わない?」

「……そうかもしれないですね」

 急に尋ねられて、僕は少し慌てながらもそう答えた。

「でも意外です。先輩って意外とロマンチストなんですね。もっと徹底したリアリストかと思っていました」

「リアリストか……」

 先輩がその言葉を小さく繰り返し、僕はまずいことを言ったかなと少し不安になった。今夜の先輩との会話は少し難しく、不安定で、なんだか綱渡りのようだった。

「徹底したリアリスト、なんて人がいるのなら、多分その人は本当に幸せな人なんだと思う」

 先輩は少しだけ寂しそうに、そう言った。「先輩は幸せではないんですか?」と訊ねることは、僕には出来なかった。

「けれどもほんとうのさいわいは、一体何だろう」

 彼女はいつもの、少し芝居がかった声で言った。その言葉は目の前の星空と結びつき、僕の中に一つの情景を喚起した。

「銀河鉄道の夜、ですね」

「うん。読んだんだ、君も」

「はい、何度も」

 何度も、は余計だったかもしれないと思った。僕は慌てて言葉をつなぐ。

「とても綺麗な話ですよね」

「うん」

 彼女の返事は短かったが、なんだかとても温かいように感じられた。それから流れた沈黙も、決して居心地の悪いものではなかった。僕らはそれから言葉を交わさず、ただただ夜空に星が流れるのを見つめていた。

 吸い込まれそうな星空を眺めていると、どんどん現実感が薄れていく。まるで自分が、先輩と二人で、この夜空にぽっかりと浮かんでいるように思えた。もしかしたら、ここは銀河鉄道の中なのかもしれない。僕と彼女は二人で長い長い旅をしていて、この星空は窓から見える景色。多分僕は、どちらかと言うとジョバンニだ。

 唐突に、先輩が消えてしまっているような気がして、僕は慌てて彼女の方を見た。彼女は消えてはおらず、僕の隣で星空を見ていた。彼女の目尻からは、一筋の涙が流れていた。

「先輩……?」

 僕が声をかけると、先輩は慌てたように手の甲でその涙を拭った。

「ああ、あんまり綺麗でね」

 そう言うと彼女は笑って、僕は少し安心した。

「本当に、綺麗ですよね」

 僕は、もう少し先輩の近くに行かなかったことを少し後悔した。もっと彼女に、近づきたかった。でも、今この瞬間を壊したくなかったから、それを行動に移す勇気はなかった。

「ありがとうございます。こんな場所、教えてくれて」

 僕はまた一つ、流星が流れるのを見ながら言った。

「本当は、ちょっと不安だったんです。先輩に迷惑だと思われてるんじゃないかって」

「迷惑?」

「先輩は本当は一人でいたいのに、それを僕が邪魔してるんじゃないかって。だから今日、こうして誘ってもらえて、少し安心しました」

「そうか」

 そういう先輩がどんな表情をしていたか、僕にはよく見えなかった。

「君はさ、私に壁を感じる?」

「え、壁……ですか?」

 僕は少したじろいだ。

「壁と言うほどは……でも、やっぱり少し気おくれはする気がします。先輩はやっぱり凄くて、僕なんかが近づいてはいけないんじゃないかって」

 普段は多分、超えないようにしているラインの向こう側にある言葉を、僕は慎重に選び、少しずつ紡いだ。

「もしかしたらそういう気持ちがみんなにもあって、それを壁だって感じる人も、いるのかもしれないとは思います」

「君は、正直だね」

「いえ、そんな……」

 先輩の言葉の意図が良く分からず、僕はどう反応すれば良いか少し迷った。

「みんなが私に壁を感じてるっていうのは、なんとなく分かってるんだ。それはもしかしたら、君が今言ったようなものかもしれない。でも違うかもしれない。どっちにせよ、私は壁のこっち側にいるからその正体は良く分からない」

 先輩の声は、どこか寂しげで、少し痛々しかった。それは澄み切った屋上の空気に溶けて、染み込んでいくようだった。

「でも逆にさ、その壁の外からは、壁のこっち側がどう見えるのかはわからないんだろうとも思う。物事は大体、両面とも見えるようには出来ていないからね」

 それはぼんやりとはわかるような気はした。でも、先輩が何を言おうとしているのかを、具体的な状況に当てはめて考えてみようとしても、なんとなく靄がかかったようで上手くいかなかった。

「ねえ、君はさ……どうして壁を越えようと思ったの?」

「え、えっと……」

 急に水を向けられて、僕は焦った。言ってしまおうかとも思った。あなたに一目惚れしたからです、と。でもそれはやめておいた。今先輩が聞きたいのは、多分そういうことではないと思ったから。もしかしたらただ、伝える勇気がなかっただけかもしれない。

「先輩と話してると、面白いんです。色んなことを知ってて、色んなことを教えてくれて……でもそれだけじゃない。先輩は他の人たちと、どこか違うんです」

「どこか違う?」

「大人っぽいと言うかなんというか……他の人の見ていないことをちゃんと見ていて、考えていないことを考えて、自分をきちんと持っていて……」

 言いながら、だんだん僕は恥ずかしくなってきた。

「そういう人だから、先輩と話していると本当に楽しいんですよ。この人が見ている景色を、自分も見たいなって思う。僕は先輩を、その、凄く尊敬しています」

 最後の言葉に迷ったが、でもそれは、むしろ恋心よりもずっと本心なんだろうと思った。確かに一目惚れから始まったかもしれない。ありふれた恋心だったのかもしれない。でも彼女と過ごすうちに、僕の中の単純な感情が少しずつ変質し、いつの間にかもっと心の奥底から彼女を慕うようになっていた。

 僕は自分の顔が真っ赤に染まっているのを感じた。暗闇に紛れて、それが彼女にバレないことを祈った。彼女の様子が気になって、僕はチラリと、さりげなく彼女の方に視線を投じた。彼女はその深く澄んだ瞳で、僕の事を見ていた。視線がぶつかる。その瞬間、時間が止まった。僕は思わず、視線を戻すことを忘れてしまった。

 彼女は僕の目を見つめたまま「ありがとう」と言った。包み込むように、優しい声だった。僕の心臓は、ほとんど爆発しそうな程に激しく暴れ回っていた。

 それから僕らはまた、黙って星空を見上げていた。いくつもの流星が流れた。しばらく数えてみたりもしたが、十個を超えたあたりで、数えるのをやめてしまった。僕も一つくらい、願いをかけてみようかなんて思った。隣の先輩のことを考える。でも願いは、実際よく分からなかった。僕はどうしたいんだろう。先輩と付き合いたいのだろうか。キスがしたい。それ以上のことがしたい……どれも間違ってはいないとは思いながらも、何だかピントがずれたように、核心をついていない気がした。もしかしたら、こうして先輩と二人で流星群を見上げていることが、僕の願いに一番近かったのかもしれない。だからもう満ち足りて、何も出てこないのではないだろうか。僕はきっと、本当の幸せを感じているんだ。それは、随分と核心にも近いものだと思われた。

「そろそろ引き上げようか。冷え込んできたしね」

「そうですね」

 実際彼女に言われるまで、僕は寒さに気付いていなかった。でも一度言われてみると、確かに星を見続けるのには少し寒すぎる気がした。先輩は身体を起こし、ゆっくりと立ち上がると、僕に向かって手を伸ばした。僕はそのほっそりとした手を握り、引き起こされるようにして立ち上がった。それから少し名残惜しく感じながらも、僕らは屋上を後にした。


 自転車を漕いでいる間も、僕は相変わらず幸福感に包まれていた。脳裏にはまだ、先輩と見た美しい星空が焼き付いていた。流れる星のひとつひとつまで鮮明に思い出せる気さえした。彼女と過ごした時間の余韻のようなものが、未だに僕の身体を包んでいた。

 それから先輩のことを沢山考えた。先輩が、自分だけの秘密の場所に招待してくれただけでも踊り出したくなるほど嬉しかった。そしてそれだけではなく、先輩は今までと違う一面も見せてくれた。僕も、今までにないくらい真摯に先輩に想いを伝えることが出来た。好きだとは言えなかったけれども、その程度のことはもういつでも言える気がした。僕と先輩はもっと、深い部分でしっかりと繋がることが出来たのだから。先輩の「ありがとう」と言う優しい声が、何度も頭によみがえっては、僕の心を幸福感で一杯にした。彼女の澄み切った瞳は、本当に綺麗だった。この夜のことは一生忘れないだろうと、僕は思った。


 その夜、笹川美鈴は自殺した。

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