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第三章

 高校生の頃、僕はサッカー部に入っていた。小さいころからみんなでボールを持ち寄って遊んでいたし、その中でもサッカーをするのが一番好きだった、それだけの理由だ。だからちょっとしたきっかけで、簡単にそれを捨てられたのかもしれない。

 僕が二年生だったある日、三年生と二年生との間で対立が起こった。どちらにも利はあると思ったし、部員の意見も大体二つに割れていた。顧問だった教師も「自分たちで決めるべきだろう」と言って判断を僕らにゆだねた。だからこそ僕は、とことん話し合うことが正しいと思った。部活を良くしたいと言う気持ちは同じなのだから、きっと話し合えば最善の道に辿り着けるのだと。しかし三年生はそうは思わなっていなかったらしい。

 ある日僕は、一人で三年生の中に呼び出された。僕が二年生の主張を率いているからと言う理由だった。先輩たちは僕を取り囲み、方針を撤回しろと迫った。そのやり方が、僕には気に入らなかった。僕たちが部活を良くしようと毎日遅くまで話し合い、知恵を絞って考えたことを、彼らはただただ踏みつぶそうとしていた。彼らにとっては、自分たちのやり方を押し通すことの方が、部活を良くすることよりもずっと大事なのだ。そのためにはこんなにも姑息なやり方だってするのか。彼らのその態度が、心から気に食わなかった。血気盛んだった僕は、思わず手を出した。そして当然ながら手酷い返り討ちに遭い、そして部活を辞めた。どうせ怪我でしばらくは練習に出られなかったから、そのまま部活に戻らないことを選んだのだ。驚くほど未練がなくて、その時初めて僕は、自分がサッカーが特に好きではなったことに気づいた。サッカーそれ自体よりも、みんなで部活を作り上げるということが好きだったのだ。それが失われた部活に、僕の求めるものは何も残っていなかった。

 それからは全く面白くもない日々だった。授業以外の時間をせっせと部活につぎ込んでいた僕には、暇つぶしのノウハウが欠けていた。田舎だったから近くにちょうど良い娯楽施設もなかったし、何より仲の良い奴はみんな部活をやっていたから帰宅部の僕には遊ぶ相手がいなかった。僕は毎日早い時間に家に帰っては、もう読み飽きた漫画のページをただただめくり続けた。何度も読み返せば新しいページが現れるのではないかと、そう信じているかのように、読みつくしたページを再びめくった。

 そんな風に過ごしていたから、多分何でも良かったのだろう。サッカーしか知らなかった僕の、まだ知らない世界が見られるものだったら、どんなものでも。そしてそれは、恋だった。

 気温が上がって来るに従って、日の高いうちから冷房のない自室に引きこもるのは苦痛になり始めた。汗を流して走り回っていた頃には気にならなかった暑さが、部活を引退してからは最大の悩みの種になっていた。そして僕は、冷房のある図書室に通うことを思いついた。積極的に本なんて読む方ではなかったが、たいてい適当な本を手に取って席に座ると、とりあえずパラパラとめくっては涼しい中で昼寝をした。そうして日が落ちてから家に帰れば、少しは涼しく生活することが出来たのだ。

 そんな日々を過ごしているうちに、僕は彼女に出会った。背が高く髪の長い彼女を見た時、ただただ綺麗だと思った。顔立ちが整っていることも確かに大きかった。だけど僕はそれ以上に、彼女の纏う凛とした、他の高校生とは明らかに違う空気に強く惹き付けられた。彼女は一人だけ、同年代の子供たちとは生きている世界が違うように思われた。

 彼女は毎日というわけではなかったが、かなりの頻度で図書室に通っていた。本を借りていくこともあれば、その場で読むこともあった。時には図書室で勉強をしていることもあった。僕はいつしか、彼女の姿を探すのが楽しみになっていた。時にはすぐ近くの席に座ってみたりもした。見ていることに気付かれそうで、彼女の読んでいる本を盗み見ることは出来なかった。少しでも知的に見られたくて、なるべく古い文学作品を選んで席につくようになった。眉間に皺を寄せてページをめくってみたが、内容はさっぱり頭に入らなかった。彼女の前ではあまり昼寝をしないように心掛けた。しかしその為には文学作品を諦める必要があるというジレンマに悩まされた。やがて僕は、名前も知らない彼女のことで頭がいっぱいになっていった。

 ある日僕は、彼女が返した本のタイトルを盗み見ることに成功した。それは宇宙科学の本だった。てっきり文学少女だと思っていた彼女の意外な趣味は、僕を少し驚かせた。その後、僕は本棚からその本を探し出し、貸出カードを確かめてみた。彼女の名前は笹川美鈴、三年生だった。それから僕は、図書館の貸し出し記録を片っ端から調べ、彼女がどんな本を読んでいたのかを少しずつ明らかにしていった。その内容は多岐にわたった。小説も少なくなかった。芥河龍之介、太宰治、三島由紀夫……日本人の作家は、名前くらいは分かるものも多かった。海外の作家は、ほとんど知らないものばかりだった。しかしどちらかと言うと、彼女の借りていたものは科学や工学の本が多かった。そして特に多かったのが、宇宙や天文学に関する本だった。

 僕の行為は、ほとんどストーカーだったと思う。しかし僕にそうさせてしまうくらい、若いエネルギーは有り余っていた。部活を辞めて行き場を失ったエネルギーは、僕を恋をすることに関して非常に熱心な部類の人間にした。僕は天文部に入っているクラスメイトにそれとなく確かめ、彼女が天文部員であることを突き止めた。僕は迷わず、彼女を追って天文部に入った。

 初めて天文部に足を踏み入れたときのことは良く覚えている。前もって聞いた話では、天文部の活動は非常に自由だった。好きなときに部室に来て好きなときに帰ることが許されていた。ただ、毎週金曜日の放課後には部員全員が部室に集まり、週末の活動について話し合うことになっているらしい。その時に週末を利用した天体観測などの予定を立てるのだそうだ。僕はクラスメイトの小野祥子に連れられて、屋上にある天文部の部室を訪れた。階段を登っている時から、心臓が早鐘を打って胃が締め付けられるようだった。

 僕らのクラスはホームルームが長引いたから、僕らが部室に着いたときには他の部員は全員揃っていた。部員は僕ら二人を除くと五人で、三年生が三人と一年生が二人。二年生は、僕が入るまで小野ただ一人だったらしい。ようやく同級生の仲間が出来たと、彼女は喜んでいた。部室の隅でパイプ椅子に腰掛け、本を読んでいる長い黒髪の後ろ姿に、僕の心臓が一際大きくトクンと跳ねた。しかし僕はなるべく不自然にならないよう、出来る限り丁寧に彼女以外への自己紹介をこなしていった。一年生の二人はどちらも女の子だった。二人とも眼鏡をかけ、同じような髪型で、同じくらいに無口だったから、僕はとうとう最後まで彼女達の名前を覚える事が出来なかった。残りの二人の三年生は両方男で、青木と吉里と名乗った。彼らは自分らの代で途絶えようとしていた男子部員が確保された事を大いに喜んだ。それから僕を週末の天体観測に誘い、色々な話をしてくれた。しかしそのどれもが、僕の耳をすり抜けていくように全く頭には入らなかった。へえ、とか、凄いですね、と返事をしながらも、僕の心はひたすらに、部室の隅でページをめくる彼女にばかり向けられていた。

 やがて青木と吉里の二人は、僕がまだ彼女にだけ挨拶を済ませていないことに気がついて、背中を押して彼女の元へと誘った。近づいてきた僕に気付いた彼女はページから視線を外し、そして僕の目をまっすぐ見つめた。そうして、初めて彼女と目が合った。鼓動はこれ以上ないほどに早まり、息を吸い込む事も許さないほどに胃のあたりが締め付けられる。彼女の茶色い瞳はどこまでも沈み込むように澄みきっていて、まるで心の中まで全て見透かされているような気持ちにさせられた。僕は思わずその瞳から目を逸らしたい衝動に駆られるが、視線が彼女の瞳に縫い付けられたかのように動かせなかった。「ほら、自己紹介」と青木に背中をポンと叩かれて、僕はようやく口を開くことができた。

「え、えっと、新入部員で二年の、水原健治です」

 彼女は特に感情の読み取れない表情で僕の顔見つめ、読んでいた本に栞を挟むと、ようやく口を開いた。

「ではみなさんは」

「えっ?」

 その言葉は、僕の頭の中で意味を結び損ねる。

「そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」

 なにやら少し演技がかった様子で、彼女は一息にそう言った。最後まで聞いてみても相変わらず言葉の意味は判らなかった。彼女の声は僕の予想していたよりも少しだけ高く、そして鈴の鳴るように綺麗だった。

 呆然とする僕の顔を見て、彼女はふっと表情を緩めた。彼女が笑った顔を見るのも、初めてだった。彼女の笑顔はとても優しく、そして大人びていた。

「やっぱり君は、本を読むのが好きではないね」

「え、えっと……どう言うことですか?」

「今のはね、銀河鉄道の夜の冒頭だ。君がこの前、図書室で開いていた本だよ」

 僕は顔から火が出るほど真っ赤になるのを感じた。彼女は僕に気付いていたのだ。そして、僕が本など好きではないことも、きっと頻繁に居眠りしていたことだって知っている。もしかしたら、僕が落ち着きなく彼女の様子を盗み見ていたことだって、貸し出し記録を漁ったことだって、全部バレているのかもしれない。僕はまるで丸裸にされたような気分だった。

「あれは私の大好きな話だ。とても綺麗な話だから、気が向いたら読んでみると良いよ。星が好きなら、尚更ね」

 星が好きなら、と言う言葉は、僕の胸にチクリと刺さった。それと同時に、僕の好きなのは星ではないということはまだバレていないのだと、そう思った。

「ごめんよ、自己紹介が遅れたね。私は笹川美鈴、ここの部長をしている。よろしく」

 そう言うと彼女は右手を差し出した。僕も慌てて右手を差し出しながら、自分の手が手汗でじっとりと湿っていることに気付いて少し焦った。初めて触れた彼女の手はほっそりとしていて、吸い付くように滑らかだった。

「ようこそ、天文部へ」

 僕の手をしっかりと握り、彼女はそう言った。

 その日の帰り道、僕は文庫本の『銀河鉄道の夜』と、星座の本を数冊、買って帰った。


 それからはめまぐるしい日々だった。小野が間を取り持ってくれたお陰で、僕は比較的すぐに部員と打ち解けることが出来た。当然ながら部員たちはみな星が好きで、彼らと会話するうちに僕にも少しずつ天文の知識が増えていった。今まではただ空に張り付いた飾りでしかなかった星空は、少しずつ積極的な意味を持ち始めた。週末の天体観測にも参加した。みんなと一緒に何かをすると言う楽しさは、サッカー部をやめて以来味わうことがなくなっていたものだった。その感覚は、僕の日常に活気を取り戻させた。

 それと同時に、少しずつ天文部の全容も見えてきた。一年生二人は口数は少なかったが、小野が彼女たちにせっせと世話を焼いており、彼女達も小野を姉のように慕っている様子だった。そんな小野はおそらく一年の頃からそうなのであろうが、青木と吉里の二人によくからかわれたりしながらも、上手に付き合っているようだった。その先輩二人はと言うと、現在最上級生であるのを良いことに好き勝手やっているように見えた。身勝手な行動で他の部員に迷惑をかけることはなかったが、彼らは部の中心としての自分達の立場を謳歌しているようだった。そして僕は、彼らに三人目の男子部員として可愛がられ、弟分として迎えられた。それが天文部のおおよその構造であって、そこに彼女は組み込まれていなかった。しかし、彼女は部員から疎まれていると言うようなことは全くなかった。部長としての職務も良く全うし、能力の高い彼女は、むしろ部員達から良く慕われてさえいた。ただ彼女が一人を好むこと、そして彼女の持つ「他とは違う」独特の雰囲気がどうしても彼女を別格視させ、他の部員が同じ目線で馴れ合うことを躊躇わせているようであった。

 そのような雰囲気をに初めは戸惑ったが、むしろチャンスだと思うようになった。新入部員の僕は、鈍感が故にそうした空気に気付けない人を演じた。そうすることで誰よりも頻繁に、彼女と言葉を交わすようになった。彼女は他人を拒絶するわけではなかった。適度な距離感を好むような傾向はあったが、その態度は概ね友好的だったし、そのことが彼女を部から孤立させずにつなぎとめているようでもあった。

 僕は彼女から沢山の話を聞いた。彼女は本当に博識だった。部活動の最中だったから、星の話が多かった。宇宙の仕組みや最先端の宇宙工学の話なども聞いた。彼女の知識はときとして、高校生のレベルを超えているように思われた。それからその次に多かったのは本の話だった。彼女は宮沢賢治が好きだった。僕にとって、宮沢賢治といえば「雨ニモマケズ」のイメージだったから、彼女の語る宮沢賢治と科学の話は、少し意外な印象を僕に与えた。僕は「銀河鉄道の夜」を、何度も何度も繰り返し読んだ。後にも先にも、漫画以外の同じ本を、繰り返し読んだのはあのときくらいのものだった。

 部室へ行くのは自由だったから、僕は今までと同様に図書室にも通った。先輩は部室でなく、そちらにいることも多かった。静かな環境の方が読書にも勉強にも集中できるからだそうだった。僕は図書室で彼女を見つけると、静かに隣の席に座った。かつては勇気を振り絞ってもせいぜい二、三個離れた席しか選べなかったことを考えると、それは大きな進歩だった。先輩は真面目な人だったから、話しかけようとしても「しーっ」と自分の薄い唇に人差し指を当ててそれを制した。その姿は妙に艶っぽくて、どちらにせよ僕は言葉を発することが出来なかったと思う。会話をすることは出来なかったが、僕は先輩と肩を並べて本を読んでいるだけでも、妙に満ち足りた気持ちにさせられたものだった。

 下校時刻までそうして過ごすと、僕は先輩と一緒に図書室を出た。残念ながら僕らの家は全くの反対方向で、正門ですぐに別れてしまうのが常だったが、それでもそこまでの短い距離を一緒に歩けることはひとつの楽しみだった。

「君はやっぱり、変わってるね」

 先輩はいつも僕の事を君と呼んだ。

「そうですか?」

「そうだよ。本を読むのは好きではないのに、図書室に通っているんだから」

「それは、まあ」

 僕は少しだけ言葉に詰まる。

「部活やめてから暇でしたし、それに、あの場所は好きなので」

 誤魔化すように出てきたのは、そういう言葉だった。

「その気持ちは、私も少しわかる気がするよ」

「本当ですか」

「ああ」

 彼女は優しげににっこりと笑い、その笑顔は西日に照らされて、とても綺麗だった。

「図書室の空気は独特だからね。古い本の優しい匂いがする。とても静かで落ち着くし、手を伸ばせばすぐそこに、たくさんの知識や物語が眠っているんだ。私はあそこにいると、なんだか満ち足りた気持ちになる」

 そんな言葉を聞いて、僕は図書室を昼寝のために利用していたことを少し恥ずかしく思った。

「それに、冷房も効いてる」

 先輩はそう言うと、「そうだろう?」とでも言うように、僕の顔を悪戯っぽく覗き込んだ。

「あ、バレました?」

 僕は笑った。

「やっぱりね」

 先輩も、笑った。

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