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第二章

 故郷に戻って数日が経った。これと言ってすることもなく無為に過ごす僕の元に、一本の電話が入った。電話の主は高校の頃の同級生、大島武司だった。

「お前今こっちに帰って来てるらしいじゃん?」

「ああ、そうだけど――」

「水臭いじゃねえか! そうならそうと言ってくれよ」

 電話で話すのも久々だったが、そんな時間の隔たりを感じさせないほど彼の声は陽気で、あの頃のままだった。

「ああ、ごめん。ちょっとばたばたしてたからさ」

「そうか、何か大変だったみたいだな。とりあえず飲みにでも行こうぜ。隆一も呼んでさ」

「そうだな」

 三人で飲みに行く、と言うのは本当に久しぶりだ。

「今週末空いてるか?」

「おう、俺はいつでも空いてるよ」

「よし、じゃあまた連絡するわ」

 そう言って武司は電話を切った。曜日感覚のなくなっていた僕は、週末と言うのが何日後なのか調べる必要があった。


 居酒屋に入ったとき、二人は既に揃っていた。本当は少し早めに到着するつもりで家を出たのだが、記憶の中よりも故郷の町はずっと広かった。何度も腕時計に目をやりながら、かつては毎日自転車で移動していたのだと言うことをぼんやりと思い出したりした。

「おう、遅いぞ健治!」

 入り口で立ち尽くす僕を見つけて、武司が大きな声で僕を呼んだ。電話口では昔のままだった武司は腕も肩幅も一回り大きくなっており、顔つきも大人の風格を備えているように感じた。電話越しに浮かんでいた姿とのギャップに僕は少し慌てながら、彼らの待つ隅のテーブルへと駆け寄った。

「久しぶりだな、健治」

「久しぶり」

 瀬川隆一は、落ち着きない武司とは対照的にゆったりと席に座り、お通しの落花生を手の中で弄びながら僕を待っていた。長く会わない間に、彼もそれなりに大人っぽい顔つきになっていたが、武司より昔の面影が強く残っていた。

「おめーが遅いからもう先に飲み始めちまったよ」

 武司が手元のビールを掲げて言うと、隆一は「俺は止めたんだけどね」と困ったように笑った。

「まあまあ、とりあえず飲もうぜ。お姉さん、生三つ追加で。あとからあげと砂肝」

 武司が店員を呼び止めて既にほとんど空だったジョッキを空けて注文すると、程なくして良く冷えたビールが三杯運ばれてきた。

「よしそれじゃあ仕切りなおしといたしまして、改めて乾杯!」

「乾杯」

「乾杯」

 ジョッキをぶつけるカチンと言う音が涼しげに響き、冷たく良く冷えたビールが喉を下っていく。暑い中歩いてカラカラになっていた喉に、炭酸と苦味が心地よかった。ここのところ会社の飲み会でしかビールなど飲んでいなかった僕は、長い間感じる事のなかったビールの美味しさを少し懐かしくさえ感じた。

「いやー久々だなあこんなの。こうやって三人集まるのも健治が東京行って以来だもんな」

「そうだな。あれから一度も帰ってこなかったから」

 僕たち三人は、僕が東京に出るまではこうしてよくつるんでいた。元々は高校のサッカー部での仲間だったが、僕が部活を辞めてからもこの二人だけは関係が続いていた。それぞれ全くタイプの違う三人だったが、妙に気が合ったからか、気付いたら三人でよくつるむようになっていた。その関係は高校を卒業してからも続いていたが、僕が一年の浪人を経て東京の大学に合格し、故郷を離れてからは直接顔を合わせる機会はなくなっていた。こうして三人で顔を合わせるのは、旅立つ前最後の祝勝会のとき以来だった。

「久々に見たけど、お前あんまり変わってないな」

 武司は笑いながらビールを流し込む。先ほど注文したばかりのビールがあっという間に半分ほどまで減っていた。

「そういうお前が変わりすぎなんだよ」

 隆一が笑いながら言う。

「もう娘も三歳だっけ?」

「そうなんだよ、あっという間に大きくなっちまうんだよなあ。ほらこの写真見てくれよ」

「あーまた始まった」

 隆一は呆れたように笑う。きっとこのようなやり取りは、僕のいない間に何度も行われていたのだろう。そこに自分がいなかったことは、少し寂しいかもしれない。

 数年前に武司に娘が生まれたことは聞いていた。子煩悩な彼から写真が送られてきたことも何度かあった。高校を出たらすぐに就職し、早く結婚していた武司だったから、子供が生まれたと言う報告にも僕はそこまで驚かなかった。ただ、自分と同い年の人間が父親になったのだという事実自体は、何となく上手に飲み下せていなかった。

「親バカ、って感じだな」

 つかみどころのない違和感のようなものをまぎらわそうと、僕は笑った。

「おう、親バカ上等よ。お前らもあれだぞ、子供なんて生まれた日にはぜってえこうなるから。賭けても良いぜ」

「そういうもんかねえ」

「そういうもんだよ」

 自信たっぷりと言う様子で、武司は言った。

「仕事でクタクタになって家に帰るとよ、こう、玄関までトコトコ出迎えにきたりするのよ。この笑顔がこれまた天使みたいに可愛くてな。仕事の疲れなんか一気に吹っ飛んじまう気がするよ」

 身振りを交えて語る武司は本当に嬉しそうで、そして父親の顔をしていた。昔より一回り太くなったその腕で小さな娘を抱き上げる武司の姿が脳裏に浮かび、眩しいような、少しヒリヒリするような気持ちが胸の底から湧きあがってきた。

「お前もさ、今度うちに遊びに来いよ。うちの由実は実物の方が写真より百万倍くらい可愛いからな」

「ああ、今度遊びに行くよ」

 どうせ毎日暇にしているのだ。気が向いたら遊びに行ってみようと思った。

「そういや隆一、あの話はどうなったんだよ」

「あの話?」

「決まってんだろ、プロポーズだよ。プロポーズ」

「プロポーズって、そんな話はなかっただろ」

 呆れた様子で隆一は答える。

「なあにビビってんだよ」

 武司は隆一の背中をドンと叩いた。酔って加減が分からなくなっているのか、隆一が手に持ったジョッキから中身が少しテーブルにこぼれた。

「向こうも待ってるに決まってるんだからよ、勢いでガーンとな」

 もうお互い良い歳なんだから、と言いながら自分のジョッキを空ける武司は、もう良い感じで出来上がっているようだった。

「へえ、そんな話があるのか」

「いやいや、こいつが勝手に色々言ってるだけだよ」

 テーブルにこぼれたビールを拭きながら、困ったように隆一は笑った。

「相手はどんな人なんだ?」

「凄く真面目な人だよ。同じ学校で働いてるんだけど――」

「こいつ職場で女教師に手え出しやがったんだぜ」

「あーもううるさいな。教師なんてやってるとね、それくらいしか出会いがないの」

 隆一は地元の大学を出て、教師になるという夢を叶えていた。なってみたら思ったほど良いものじゃないとか、予想以上の激務だという言葉は彼の口から何度か聞いていたが、それでもある種の誇りのようなものを持って仕事を出来ている彼が、僕には少し羨ましかった。

「俺のことよりさ、健治の方はどうなんだ?」

 武司を扱いあぐねた隆一が、僕に話を振った。

「東京に残してきた女がいるとかさ、そういうのないのかよ」

「お、そうなのか?」

「いや、ないよ。全然」

 僕は少し笑いながら肩をすくめて答える。本当にそういう話は、全くなかった。

「仕事も忙しかったし、これといった出会いもなかったからね」

「えー、マジかよ。東京になんて行くとさ、こう、素敵な出会いがいっぱいあって……みたいなもんじゃないのか?」

「いやいや、そういうのは幻想だよホントに。ただちょっと人が多いだけでこっちと全然変わらない。同じ人間なんだしね」

「そんなもんかー」

 と、ちょっぴり盛り上がりかけていた武司も少ししゅんとしてしまって、余計な事を言わなければ良かったかもしれないと少し後悔した。

「健治はさ、また東京に戻るのか?」

「どうだろうな……」

 躊躇いがちな隆一の問いに、僕は曖昧に答えた。今後のことは何も考えていなかった。考えようという気が、驚くほど湧いて来なかったのだ。

 もう一度働くのが、「社会復帰」するのが怖いなどと言うことは、少しもなかった。むしろそういう気持ちがないのは不自然だと言うくらいに、僕の中には不安のひとかけらも見つからなかった。生きていくためにはまた働いて、そしてお金を稼いで、生活しなければならないということははっきりと理解していたし、いずれはそうなるだろうということも良く分かっていた。失業手当だって、いつまでもあるわけではない。

 しかし今は、それ以上は少しも考える気にはならないのだ。倒れる前は、自分は無気力に、ルーチンワークとして生活をしているつもりだった。しかし実は、自分はその生活に必死でしがみついていたのだということが、少しずつ分かり始めていた。普通にやっていると思っていた生活には実はとてもエネルギーが必要で、今の僕はプツリと糸が切れてしまったかのように、それだけの気力を搾り出すことが出来なかった。

「こっちに残るのも、良いと思うぜえ、俺は。そしたらまたこうやって飲めるしな」

 大げさなくらい明るく、武司は声を上げて笑った。彼も彼なりに、気を揉んでいたのだろう。

「まあさ、これからのことはじっくり考えれば良いさ」

 自分で話を振っておきながら、適当に放り出すように隆一は言った。

「でもな、あんまり一人で悩みすぎるなよ。お前昔からそう言うところあるからさ。何も考えてないみたいに飄々としてるくせに、笑顔の下で妙にぐちゃぐちゃ考えてたりしてな」

 そういう風に見られていたのかと、少しばつが悪く感じながら、僕は割り箸で揚げ出し豆腐を解体した。太い箸先につままれて、ふやけた黄金色の衣が少しずつ取り外されると、中から白い豆腐が姿を現した。

「力になれるかは分からないけど、話くらいは聞いてやれるしな。今回も何も相談してくれなかったって言って、武司すげー怒ってたんだぜ」

「おいおい待てって、怒ってたのはお前の方だろ」

 武司が慌てたように否定すると、隆一は「そうだったか?」ととぼけるように言った。

「まあとにかくよ、なんかあったら相談すりゃあ良いって話だ。人間ってなあ助け合えるからこそ最強の動物なんだ。そんで百獣の王って訳よ」

 何杯目か分からないジョッキを空にすると、武司は豪快に笑う。そんな彼を見て、隆一はやれやれと肩をすくめていた。僕はそんな彼らの気遣いと優しさに、言いようのない温かいものを感じた。七年も顔すら見せなかった僕を、彼らは思った以上に気にかけてくれていたのだ。助けになりたいという彼らの気持が僕には喜ばしく、そして眩しく感じられた。でもなぜか心の端の方に、一抹の寂しさや切なさが顔を覗かせているのも感じた。

「よし、暗い話はここまでにして、とにかく今夜は飲もう! お姉さん、冷や持ってきて。お猪口は三つ」

 リセットボタンでも押すように隆一がパンと手を打つとそれでその話は終わりだった。日本酒を入れて本格的に飲み始めた僕たちは、いつしか学生時代のような馬鹿な三人に戻っていた。会話の内容が何か、ということはあまり関係なかった。僕らはしゃべることそれ自体を楽しんでいからだ。自動的で連鎖的に生まれる話題の数々は、かすかな連環を保ちながらもせわしなく跳躍し、移り変わる。アルコールは潤滑剤になり、僕らの舌の滑りを一層滑らかにした。最後の方では何を話しているかも良く分からない状態になりながら、ただひたすら、僕らは言葉を紡ぎ続けた。頭で考える事は出来なかったから、恐らくあれは、身体が勝手にしゃべっていたのだと思う。でもそれは笑ってしまうくらい心地よい時間で、そんな心地よさを感じるのは、本当に久々だった。


 目を覚ますと芝生の上だった。背中には柔らかい土の感触。一瞬記憶が繋がらず、何が起こっているのか分からなかった。ここが一体どこなのかも。

 身体を起こすと強烈な吐き気に襲われた。腹の奥から突き上げるような鈍い感覚を、ゆっくりと深呼吸して何とか押し戻す。落ち着いてからあたりを見回し、河原の土手で寝ていたことがようやく分かってきた。重い身体に鞭打って川沿いの道を歩きながら、僕は記憶の途切れる前のことを少しずつ思い出そうと試みた。

 景気良く日本酒を飲んでいたところまでは覚えているのだが、そのあとの記憶はもう会計のときのものだった。「ここは俺がおごるから」と言って武司が会計を持ってくれた場面は何となく覚えている。僕も払おうとしたのだが割り算が面倒だから次回おごれと一蹴された。武司はそういう奴だった。

 それからふらふらだった僕に隆一がタクシーを呼ぶことを提案したが「夜風に当たりたいから」と言ってそれを断ったのだ。今思えば、大人しく従っておくべきだったかもしれない。それから家の方に向けて歩き始めたはずなのだが、何故それから河原で寝ることになったのかは結局思い出すことが出来ない。

 頭は相変わらず靄のかかったような状態だった。考えは上手くまとまらず、ただ単発的な思考の断片のようなものが浮かんでは消えていく。そのくせ意志だけはやたらと明確に感じられ、反対に身体の感覚はあまりにも遠かった。まっすぐ歩こうとしても視界が不安定に振られ、それに従い足元も右へ左へと流されていく。僕は出来る限りまっすぐ歩こうと思った。それはまるで、ゲームをやっているような感覚だった。右足をまっすぐに出し、それから左足をまっすぐに踏み出す。それだけのことでまっすぐ歩けるはずなのだ。それはとても簡単な話に思えた。しかし、それはいくらやっても上手くはいかなかった。いつもは考えなくても動かせる四肢は、今は必死で命令しなければ動こうとしない。それでも僕の強固な意志は、身勝手な四肢をねじ伏せようと躍起になる。まるでじゃじゃ馬な愛機を駆って空を翔けるパイロットの気分だった。

 そんな風にして歩いていたから、僕は後ろから近づいてくる車のヘッドライトに気付かなかった。ふらふらと歩く僕の横を掠めるように銀のセダンが通り抜け、そのままのスピードで走り去った。危うく跳ねられかけて飛び上がった僕は、早鐘を打つ胸を押さえながらよろよろと道の脇に寄り、壁にもたれかかった。車の走り去った方をきっと睨みつけてみるが、既にテールライトはほとんど見えないほど遠くに行ってしまっており、やがて姿を消した。行き場のない怒りを抱えたまま、僕は再び歩き出そうとし、その時になって初めて自分がどこにいるのかに気付いた。僕はいつの間にか、母校である高校の前を歩いていた。

 夜の闇の中に白い校舎がうっすらと浮かび上がっていた。その佇まいを見た瞬間、僕の身体が微かにこわばる。夜中の校舎は、死体のように静まり返っていた。

 僕はそのまましばらく校舎の壁を見つめていた。生ぬるい風が肌を撫で、校庭の木をさらさらと鳴かせる。僕は何も考えず、ただ呆然と、その場に立ち尽くした。

 突然、胸の奥からふつふつと、怒りにも似た感情が湧きあがってきた。それが何なのかは良く分からない。名前も付けられない。それは確かに怒りに似ている気がしたが、怒りと言うにはその対象を欠いていた。正体不明のそれは確かな熱量を持って、僕の胸の内に重苦しくわだかまり始める。

 酒に酔うと、しばしばそのような感覚を経験することはあった。そいつは大抵、もうすぐ家に着くと言う段になって姿を表す。そういうとき、僕はそいつを扱いあぐねて少し大またで歩いてみたり、持っているビニール傘を子供のように振り回してみたりするのだ。そして勢いよく玄関のドアを開け、乱暴に靴を脱ぎ捨てるとベッドに身体を投げ出し、そのまま眠ってしまう。翌朝目を覚ますとそいつはすっかり姿を消していて、大抵の場合僕はいつもより少しだけ調子の悪い一日を過ごすことになる。

 今感じているものは、それと同じ種類のものだった。しかし、その大きさはいつもと違っていた。いつもは少しだけ僕を後押しするようなその感覚は、今は僕の中で激しく暴れ回り、行き場を求めて手足をひりつかせた。量的な変化は、ある領域を超えると質的な変化をももたらすことがある。僕は叫び出したい衝動を押さえつけるように地面を踏みしめ、それから改めて、ぼんやりと浮かび上がった校舎の壁を睨みつけた。

 やってやる。やってやるぞ。見てろよ。

 上手く回らない頭から筋の通らない思考が溢れ、僕の両腕は突き動かされるように固く閉ざされた正門の柵を掴んでいた。両手を門の上端にかけ、右足を金属の柵の真ん中辺りに引っ掛ける。身体を持ち上げようと体重をかけた所で、右足が滑ってバランスを崩した。膝の辺りを柵にぶつけ、ガシャンと大きな音が鳴った。鋭い痛みが右ひざに走る。しかし僕は歯を食いしばり、もう一度右足を柵の隙間にねじ込むと、飛び上がるようにして思い切り踏ん張った。今度は上手く身体を持ち上げる事が出来た。そのまま跨ぐように門の反対側に身体を移すと、思い切って校庭に飛び降りる。足元の定まらない僕は足をもつれさせて地面に倒れそうになるが、二、三歩よろめいたところで何とか踏みとどまった。顔を上げると、青白い校舎が先ほどよりも存在感を増していた。距離が縮まったと言うのもあるのだろう。しかし、そんなのは高々数メートルの話だ。今や僕は学校の中に立っていて、それは門の外から中を眺めているのとは何もかもが違うのだ。

 校庭の砂を踏みしめた僕の足は、そのまま自然と校舎の方へと歩き始めていた。痺れてぼんやりとした頭には明確な目的など存在しなかったが、ただただ身体がどこへ向かうかを知っていた。僕の足が向いたのは校舎の端で、そこには壁にべったりと張り付くように、金属の非常階段が備え付けられていた。この非常階段は各階に一つずつ、金属の扉を持っている。しかしそれらは、内側からしかドアノブが回らないように出来ていて、そこから校舎内に入ることは出来ない。それゆえ学生が登ることはまずないその階段を、僕はかつて登ったことがあった。僕にはそこに登る意味があったのだ。

 薄い金属の階段に足をかけると、ボーンと言う鈍い音が階段全体に広がる。その音は夜闇の中で、やけに大きく感じられた。錆びて砂の載った金属の踏み板が、靴底を通してじゃりついた感触を足に返す。もう一歩踏み出すと、再び同じ音、同じ感触。何もかもが変わっていない。あの頃から、何も。

 ボーンボーンとリズミカルに音を立てて数段登ったが、やがて僕はもどかしくなり、次第にそのペースを上げていった。最後にはほとんど走るようにして、金属の階段をひたすら登った。折り返すたびに錆び付いた手すりを握ると、剥げかかった塗装が掌で砕けた。最上部まで辿り着いた僕は、呼吸を乱し、汗を流しながら屋上へと続くドアに手をかけた。

 もちろんこのドアも、外側からはドアノブが回らない。しかし、そのことはあまり大きな問題ではない。

 屋上の周囲は鉄の柵で囲われており、その一部が切り取られたようにしてこのドアは作られていた。ドア自体も柵にドアノブがついたような形になっており、外側からドアノブに手が届かないように中央には透明な仕切りが備え付けてある。そう言う配慮はあるものの、ドア自体は他の階と比べて随分と粗末な代物だ。それに加えて容赦なく雨風に晒されるこのドアは、実はドアノブを捻ると内側に引っ込むツメの部分が固着している。つまり常にドアノブを捻ったのと同じ状態になってしまっているのだ。蝶番やドアと枠との接触面まで激しく錆びつき、押しても簡単に開かないため誰も気付いていないが、勢い良く力を込めるとドアノブを捻らずとも開くことができる。このことを僕は、先輩に教わった。

 僕は覚悟を決めると、動かないドアノブを握ってそれを強く引いた。ドアは鈍く、重い感触を腕に返したかと思うと、さび付いた蝶番から唸るような金属音を響かせ、ゆっくりと開いた。


 屋上は、あの頃から何も変わっていなかった。だだっ広い空間に、校舎内から階段の続く部分が小さくせり出し、頑丈そうな扉が一つだけついている。その上には給水塔。そしてそれ以外に存在するものは一つだけ。コンクリートで作られた、小さな倉庫のような建物……

 僕は肩で息をしながら、その建物へと近づいた。心臓が暴れまわるのは、階段を駆け上がったからだけではない。ひとつひとつの鼓動は重く、強く、身体全体に響くようだった。トクン、トクンとそれが跳ねるたび、全身の血液がざわつき、こめかみの辺りがぎゅっと締め付けられる。

 建物のドアに手を伸ばす。ドアノブは冷たい。掌に吸い付くような冷たさ。鼓動は早まる。僕は覚悟を決めて、ゆっくりとドアノブを回す。いや、違うかもしれない。覚悟なんて本当はなかったのかもしれない。僕の頭はアルコールで痺れていたし、階段を駆け上がっただけでも身体はボロボロで、頭の中は靄がかかったように不明瞭だった。それでも僕を突き動かしたのは正体不明のあの「衝動」だけであって、僕には覚悟どころかはっきりとした意志さえもあったかどうかは分からない。

 でもとにかく、僕は力をこめてドアノブを引いた。それはまるで高い場所から飛び降りる瞬間のように僕にとっては一つの大きな分水嶺で、もう引き返すことは許されない。そのはずだった。

 ガシャン

 開きかけた扉が引っかかった。この扉には鍵はなかった。だからいつでもここにくれば、この建物には入れたはずだ。それが今は、開かない。僕は手元に目をやり、暗闇の中で目を凝らす。そこには古びた、でも周りよりは幾分か新しい、大きな南京錠がかかっていた。いつの間にかここには、鍵が取り付けられていた。

 こわばっていた身体から力が抜ける。ああ、なんだ。そっか。自分で自分が馬鹿らしくて、惨めで、少し笑えてくる。全身を支配していた熱や、あの衝動は急速に冷めていき、右手がドアノブからずり落ちる。熱が冷めると身体も冷めてしまったようで、夜風がやけに冷たい。噴出していた汗でシャツが肌に張り付き、全身が不快だった。緊張の糸が切れた途端、僕の身体は疲労と、それから吐き気に襲われた。無茶をして上がった息が、酒に荒らし尽くされた胃の中身を押し上げ、逆流させようとする。何度も唾液を飲み込んでそれを抑え込もうとするが、吐き気は一向に収まる気配はなかった。僕はよろよろと屋上の隅へと向かい、前かがみになって排水溝に胃の中身をぶちまけた。喉を熱い液体が逆流する感覚。何度吐いても慣れない。そして勢い良く戻したときには大抵そうであるように、胃袋がひっくり返ろうとするような、刺すような痛みが襲ってくる。僕は痛みと不快感に耐えるように、柵に手をついて目をつぶった。消化途中の食べ物と胃液の混じった酸っぱい臭いに顔をしかめる。しばらくそうして呼吸を整えると、吐瀉物を見ないように気をつけ、顔を上げてから目を開けると、ふらふらと屋上の中心あたりに戻って仰向けに寝転がった。長年掃除もされていない屋上の床は酷くざらついて汚れていたが、河原で寝て、汗まみれになって、嘔吐まで済ませた僕にはもはやそんなことは気にならなかった。


 勢い良く寝転がったせいで、頭を強く地面にぶつけた。背中にはコンクリートの固い感触。そして目の前には、今にも落ちてきそうな星の海が広がっていた。

 綺麗だとか、凄いだとか、そんな言葉は出てこない。圧倒的な規模で敷き詰められた暗闇と瞬く光の絨毯は、ポツンと取り残された僕に畏怖さえ感じさせた。星が落ちてきそうだというよりは、自分が星空に落ちていきそうな感覚。こんな星空がずっと頭上に広がっていたのに、僕は帰ってきてから一度も、顔を上げようとすらしなかったのだ。さっきなんか河原の土手で目を覚まして、その時目の前には今と同じ星空があったはずなのに、それでも、僕の目には映っていなかった。人間の目には、見たいと思ったものしか映らない。

 帰ってきてからだけではない。東京にいた七年間、おそらく僕は一度も夜空を見上げようともしなかったのではないだろうか。顔を上げれば星がある、そう思って見上げていたら、東京の星の見えない夜空を寂しいと感じたのかもしれない。もしかしたらここほどではなくとも、意外に星は見えたのかもしれない。どちらかは分からない。確かめずに過ぎ去った事実は、遡って確かめることを許してはくれない。取りこぼした過去を、僕たちは諦めるしかない。

 星空を眺めていると、やがてそれが記憶の断片と重なる。ちょうどこの場所だった。こうして屋上に寝転んで、星空を見上げていた。僕はまだ十七歳の少年で、満天の星空は輝かしい未来を暗示しているように思われた。世界はとても優しくて、僕はこの星空の様に満ち足りていた。信じることは美徳で、疑うことは悪徳だった。喜ぶことは美徳で、悲しむことは悪徳だった。幸福は美徳で、不幸はこの上ない悪徳だった。そういうどこにでもいる、十七歳の少年だった。

 どれだけの時間そうしていたかは分からない。一筋の白い光が、僕を横切って屋上の柵を照らして、僕の意識は星空から引き戻された。とっさに光源へと顔を向ける。それと同時に、正方形の窓を通して懐中電灯が僕を照らした。光量の大きな懐中電灯だった。眩しさで目がくらみ、とっさに右手で光を遮る。光の主はがちゃがちゃと騒がしい音を立てて鍵を開けると、乱暴にドアを跳ね開けて屋上へと姿を現した。

「おい、ここで何してる!」

 低く荒っぽい声だった。髭面で恰幅の良い、くたびれたワイシャツをだらしなく着崩した男が、のそのそと効果音の聞こえそうな独特の動きで、こちらに近づいてきていた。急いで逃げようかとも思った。だが、身体を起こそうとして自分にそんな体力が残っていないことが分かった。初めは上手く頭が回らなかったが、ジャラジャラと音を立てる鍵束を見て、彼はここの用務員なのだろうということに思い至った。

「あ、あの、すみません」

「すみませんじゃなかろうが。あんたいったいどうやって……」

 男は僕のすぐ近くまで来た所で、閉め忘れた非常階段の扉が風に揺られて軋んでいるのに気付き、小さく「ああ」と漏らした。

「あんた、ここの卒業生か」

「はい、一応……」

「こんなところで何しとんじゃ」

「……」

 何をしているのか、その問いには答えられそうになかった。ただ「衝動」に突き動かされるようにしてここまでやってきた僕は、別段何をしていたというわけではなかったのだ。

「星を……見てました」

「はあ」

 男は困ったように顎鬚を撫でる。

「星なんぞどこでも見れるだろうもん。あんた、不法侵入じゃってわかっとんのか」

「深く考えてませんでした。すみません」

 素直に謝る僕を見て、男はふむ、と腕組をして唸った。

「どうしたもんかなあ」


 僕はその男、用務員の田浦三郎に連れられて用務員室でコーヒーを飲んだ。彼もここの卒業生で、つまり僕の先輩にあたるらしい。酒でカラカラに乾いた上、派手に戻したせいで気持ちの悪かった口の中に、ブラックコーヒーの苦みが心地良く染みるようだった。それから田浦に訊ねられ、たどたどしいながら事情を説明した。まだアルコールは抜けきらずふらふらしていたが、どうにか頭は回る程度までは酔いも冷め始めていた。

 色々なことを話した。今日あの場所に至るまでの経緯に始まり、僕がこの学校の卒業生であること。卒業後に東京に出ていたが、仕事を辞めて帰ってきたこと。まだ次の就職は決まっておらず、東京に戻るかも決めていないこと……そこまで話す必要があるのかは分からなかったが、まだぼんやりとした頭では話を簡潔にまとめられなかった。田浦はうんうんと相槌を打ちながらその話を聞いてくれた。もしかしたら僕は、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。

「話は大体わかった。兄ちゃんも苦労しとんなあ」

「いえ、自分の責任ですから……」

「まあまあ、そう言わんでもな。人間誰しも完璧じゃあない。みんな失敗やら大ボカやらやらかすんだ。そのでかさが人によって違うだけの話よ。コーヒー、もう一杯飲むか」

「いただきます」

 僕は空になったカップを差し出した。田浦は自分のカップと一緒にそれを持って立ち上がり、コーヒーサーバーに残っていた分を半分ずつ、カップに注ぐ。

「俺もなあ、若けえ頃には随分荒れてな、あんときゃあ誰彼かまわず当り散らしてたな。誰も分かっちゃくんねえっつって、分かってもらおうともしてねえのにな。世界中がみんな敵になっちまったなんて思って、一人で戦ってる気になっちまってたんだ。若かったなああん頃らあ」

 田浦はコーヒーの湯気を見つめ、懐かしむように目を細めた。

「その点兄ちゃんは利口だ。誰かに当たるんじゃあなくて、自分でそいつを片付けようとしてんだからよ。誰かに迷惑かけて回るよりずっとマシだあ。んま、不法侵入はちょいといただけねえがな」

 そう言って田浦は豪快に笑った。恐らく田浦は、僕の話を自分と重ねて解釈したのだろう。少しズレたような形で受け取られたのを感じたが、僕はそれを指摘しようとはせずに二杯目のコーヒーに口をつけた。

「でもな、それが正解たあ限らねえ。実はあ誰かに迷惑かけたり、頼ったりすっことも意外と大事だったりすんだよな。そういうのを上手に避けてきたことが、あとから痛手になることもある」

 田浦の声のトーンは少し沈んだような気がして、僕は少し居心地が悪くなった。彼は僕のことを誤解したうえで、この言葉を発している。そういう風に考えてみても、彼のその言葉をなんとなく無視しきれないような、そんな気分にさせられた。

「まあ、そんなこと言われてもちっとも耳傾ける気になんてなんねえよな。兄ちゃんもどうせ聞く気ねえだろ?」

「いえ、そんなことは……」

 急に図星を突かれて、僕は少し慌てて答えた。

「ああええんだよ。若者はそんぐらい元気があった方が良い。大事なこと学ぶにゃあ身銭を切らなきゃなんねえんだ。おらあ兄ちゃんが気に入ったよ」

 田浦はそう言って笑い、僕は何と返していいか分からなかった。多分この人の方こそ、僕の話を聞く気がないような気がした。

「本当はよう、今回みたいなことがあった時はきっちり報告しなきゃいけねえことになってんだ」

 話が戻って来て、僕は思わず身構えた。

「んだけど、おらあ兄ちゃんが気に入ったし、何よりここの卒業生で俺の後輩だかんな。特別に見逃してやっても良い」

「本当ですか?」

「ああ、だがあ一つだけ条件がある」

 もったいぶったようにそういうと、田浦は人差し指を一本立てて差し出した。条件と聞いて、僕は少しだけ身構える。

「三日間だけ、この仕事代わってくんねえか? どうせ暇してるんだろ? 息子たちを旅行に連れて行ってやりたくてよ」

 間の抜けた顔で田浦は笑い、僕は思わず肩の力が抜けてしまった。

「仕事を代わるって言っても、僕には何をすればいいかも……」

「ああ、そんなん簡単だから心配せんでええ。夕方に戸締り、夜に見回り、朝になったら鍵開けて回る。それだけだ。チェックリストもそこに入っとる。サルでもできる仕事だ」

 田浦が顎で示した引き出しを開けると、チェックリストが印刷された紙が束になって入っていた。

「毎晩そいつに書き込んで、あとで事務室に持っていくだけだ。簡単だろう」

「まあ確かに、簡単ですけど……」

「そいじゃあ頼まれてくれねえかなあ。来週末の三連休だ。息子たちを旅行に連れてってやる約束してたのに、仕事代わってくれるはずの奴がぶっ倒れて入院しちまったからよ。困ってんだ」

 そう言って田浦は手を合わせた。旅行を楽しみにしていた子供たちの事を考えると、どうにも断りづらかった。

「まあ今すぐに決めてくれとは言わねえや。兄ちゃんにも事情があんだろうしな。仕事を頼まれてくれるなら、木曜までにここに連絡してくれ」

 田浦は近くにあったメモ帳に電話番号を走り書きすると、それを破って僕に差し出した。僕は少しためらいながらも、その紙片を受け取った。

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